人の身にして精霊王

山外大河

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六章 君ガ為のカタストロフィ

ex その先の未来の為に

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 時間は少し遡る。

「さて、最後に一本注射しておこうか」

 午前十一時。訪れた霞の研究室にて、手に注射器を持った霞がエルに微笑を浮かべながらそう言った。

「そんな軽く言わないでくださいよ。痛いんですよ、毎回あまり痛くない痛くないって言いますけど、例外無くすごく痛いんですよ!」

「私にとっては全然痛くない部類なのだよ。でもまあ今回は例外だ。痛くない、今回こそ痛くない。大丈夫だ、私を信じろ」

「じゃ。じゃあ今回こそ信じますからね。絶対ですよ!」

「よしきた。じゃあ動くなよ、すぐ終わる」

「わ、わかりました。お願いします」

 言いながら目をぎゅっと瞑るエルの腕に、霞は注射針を射し込む。

「いったぁ……ッ」

「ほら、痛くないだろう?」

「何をどう聞いたらそうなるんですか!」

「聞くんじゃない。感じるんだ感じたんだ。心眼だよ。キミの心の声を読み取ったんだ」

「随分と節穴な心眼ですね」

「当たり前だ。心なんてそう簡単に読めてたまるか……っと、終わりだよ」

 いいながらゆっくりと注射針を引き抜かれる。

「……どうした。終わったというのに不満そうな顔浮かべて。もしかしてもっと欲しかったか?」

「そんな危ない薬やってる様な感じじゃないです! 私は痛かった事に文句を言いたいんです!」

「分かってる分かってる。色々と冗談だよ。痛がってるのは分かってるさ。それにしてもまったく、以前にも言ったが、この程度の痛みはキミにとってはちっぽけなものだろうに」

「前にも言いましたけどそれとこれとは別なんです」

「そうか。ああ、そういえば貰い物の大福があるのだが……食べるかね?」

「いただきます」

 そう言ってエルは顔を綻ばせる。

「……単純だなキミは。いつも通りで何よりだ」

 少し安心するように霞はそう言って机の端に置かれていた箱から、包装された大福を取りだしエルに手渡す。
 それを受け取ったエルは少し不満そうに霞に言う。

「単純ってなんですか。前々から少し思ってたんですけど、なんだか馬鹿にされてる気がします」

「さあ、どうだろうな」

 霞はそれを誤魔化す様にそう言ってから、一拍空けてエルに言う。

「でもまあそれ位で機嫌が良くなるのなら、それに越したことは無いんだよ。そうやってキミは今までの苦労を取り戻していかなければならない。だからキミはそのままでいいんだ」

 そう言いながら霞は薄い笑みを浮かべる。
 そんな霞からは今更ながらも悪意は感じられない。
 普通に喜んでしまうのも、少し馬鹿にされているのも間違いなく事実ではあるのだが、そこにあるのは悪意ではなく好意だ。一種のイジリの様なものだろう。
 注射の件に関しても、彼女なりに気を紛らわしてくれようとしてくれているのは分かっている。
 目の前の霞という人間は、精霊である自分の事を本当に気に掛けてくれている。

「じゃあ私はこのままでいるようにします」

「そうであってくれると私も嬉しいよ」

 だからそんな彼女の研究の手伝いは基本良く分からない事でも自然と乗ることができた。
 例えばここ最近最後に打っている注射は別に採血の為の物ではない。霞曰く次回の為に何かしらの薬品を投薬しているらしい。
 はっきり言って得体の知れないもので、その詳細の説明通り本当に受け入れていいのかが少し不安になる。
 多分それは自分の担当が霞でなければ、そういう危険そうな事にまでは手を伸ばさせなかっただろう。

「しかしそれにしても」

 霞が話を切り替えるようにそう言葉を紡ぐ。

「もうキミがこの世界に辿り着いて一か月も経過したのか」

「そうなりますね。もう一か月です」

 自分の周囲の事情が劇的に変化したあの日から既に一か月。それだけの時間が経過している。

「この一か月、この世界で生活してみてどうだった」

「そうですね……」

 訪ねられてここ一ヶ月の事を思い返す。
 そうして思い浮かんだ事を全て話せばきっととても時間がかかってしまうだろう。
 そしてそれらを総括した言葉がなにかと考えれば少し難しい気がしたが、それでも自然と沸いてきた言葉を口にする。

「なんかこう……いいなぁって。うまくは言えないですけど、そう思うんです」

「いいなぁ……か。それはなんだ。幸せだったという事でいいのかね」

 その問いにエルはすぐに返答できない。
 それは別にこの世界での生活が不幸せだと言いたい訳ではない。それだけは絶対に違う。
 だけど幸せだと断言する事に、少しだけ抵抗がある。
 先の言葉が曖昧だったのもその為だ。

「いいんですかね、それでも」

「何故キミが聞き返す」

「……最近思うんです。本当にそういう風に思っていいのかなって」

 ずっと考えていた訳では無い。
 だけどふとした時に脳裏に過る。

「どういう事だ?」

「向こうの世界には私以外にも沢山の精霊が居て、みんな辛い思いをしているんです。それにエイジさんだって平気な顔して辛い思いをしているのも。そんな中で私だけ幸せだなんて事を思っていいのかなって、そう思うんです」

 エイジの事はともかくとして、この世界に辿り着く前の一カ月間の旅には他の精霊云々という事はあまり考えなかった。うまく目を背けられていた。
 それはもしかすると、あの旅を楽しみながらも、それでもその周囲の人間には少し恐怖心を抱いていて、身に着けていた枷が無くなるだけで、その周囲の人間から向けられる視線が変わる事を知っていたから。きっとどこかで不安を抱えていたから。自分が人間に狙われていた頃からあまりにも時間が経っていなかったから。
 そんな風に色々な理由が他の精霊の事を考える事を阻害していたのかもしれない。他の精霊と立ち位置が違う事をうまく本能的に理解できなかったのかもしれない。
 自分とエイジの事を考えるのが基本的には精一杯な事で、他の事からは目を背けるしかないと割り切れていたからかもしれない。

 だけど今は少し事情が変わってくる。
 自分に歪んだ視線を向けるような、そういう人間が居た世界そのものから隔離されている現状。枷なんかがなくてもまともな視線を向けてくれる人が多くいて、その中で友達だってできた。
 そしてエイジと一緒に居られる。エイジと平和に暮らせている。
 今いるこの世界はエルにとってはまさしく楽園の様な物だった。
 だからこそだ。
 だからこそ、他の精霊の現状を一歩離れた所から見る様になった。
 救われている立場でどうしようもなく救われない立場の精霊を見て考えることになるのだ。
 そうすると考えてしまう。
 本当に自分だけこんなに良い思いをしていいのかと。
 何度も何度も自分が辛い思いをしてきったから苦しさが分かる。だからなおさらだ。

「いいんじゃないか?」

 その疑問を霞はそういう風にあっさり一蹴する。

「どうして不幸な誰かがいたら、自分まで幸せじゃないと思わなければならなくなるんだ。そんな馬鹿げた話があるか。キミが歩んでいるのはキミの人生だ。そこに干渉するのは精々周囲の誰かぐらいでいい。そうでなければそれこそ誰も幸せにはなれんよ」

 そしてそれにと言葉を続ける。

「他の精霊はともかくキミの契約者はキミの幸せを願っている筈だ」

 そして霞は一拍空けてから、少しだけ真剣な眼差しでエルに言う。

「だからキミは胸を張って幸せだって言えばいいんだ。言っていいんだよ、幸せだって」

「……そう、ですか」

「そうだよ」

 エルの言葉にそう返した後、霞は一拍空けてからエルに問う。

「では問おうか。キミは今、幸せかね」

 他の言葉で紛らわす事が出来ない様な直接的な問い。
 はいかいいえか。それくらいしか答えようのない問いだ。
 その問にエルは促される様に口にする

「……幸せですよ」

 色々と深いことを考えなければそれが答えだ。
 この世界での生活はとても幸せな物なのだ。

「何もなく平和で、エイジさんともいられて……いろんな人に気にかけて貰えて。こんなに恵まれてるのってないなって思います。だから今、認めていいのなら本当に本当に幸せなんです」

「よく言った。それが聞けてお姉さんは安心したよ」

 霞は本当に安心したように笑みを浮かべ、軽く嘆息を漏らす。 

「この世界はキミにとっての楽園になり得たわけだ」

「……はい。なんだかその言葉がしっくりきます」

 本当に聞いていた以上の。予想以上の楽園だ。
 絶界の楽園あの噂は確かに大きな間違いではあったが、エル限定であれば確かに真実だった。
 真実になり得た、甘く優しい世界だ。

「ではでは、キミの楽園をよりよい所にするためにも今日も頑張らねばな」

 果たしてその頑張りが実る日は来るのだろうか。
 協力しているエルからすれば。いや、例え協力していなかったとしても実ってほしいと切に思う。
 他の精霊とは違い暴走する事がないエルの状態を調べ、他の精霊が暴走する原因を探る。
 それができれば本当に嘘偽りなく、この世界は絶界の楽園になり得るのだから。

「でもあんまり無理はしないでくださいよ」

「無理?」

「目のクマ、凄いですよ」

 最近あまり寝ていないのだろうか? 霞からは随分と疲労が溜まっている様な印象を覚える。

「心配してくれるのか、ありがとう。でも大丈夫だ。人間この程度でくたばったりはしない。私がくたばるのなら世の中の社会人は過労死祭りだ。残念な事に世界の人口が半分になる様な大事件があってもブラック企業の比率は減らなかった」

 言ってしまえば此処も中々ブラックだがね、と霞は自虐するような笑みを浮かべる。

「まあ私は大丈夫だ。こういう仕事なのだよ。それに無理強いでもない。私がやりたいからやっている事でもある。キミは何の心配もしなくてもいい。それでも何か気になるのだとすれば……そうだな。私が頑張れるよう応援してくれ」

「そうですか。えーっと、じゃあ……頑張ってください、霞さん。私でよければ色々協力しますから」

「うん、ストレートでいい激励だよ。少し頑張ろうって思えてくる」

 少し機嫌の良さそうな笑みを浮かべた霞は、余韻に浸る様に一拍空けた後、エルに言う。

「じゃあ改めて、今日はこの辺で終わりにしよう。とりあえず私はキミの助言に従って、少しだけ仮眠を取ることにするかな」

「それがいいです。仮眠といわずゆっくり眠ってください」

「では色々と一区切り付いたらそうしようか。っと、まあそういう事で今日は終わりだ。貴重な時間をこんな所であまり浪費するものじゃない」

「霞さん」

「なんだね」

「私は霞さんと話している時間を、無駄だなんて思ってませんよ」

「……そう言ってくれると嬉しいよ」

「じゃあ私はこれで」

 そんなやり取りをしてエルは霞の研究室を後にする。
 ……本当に無駄だとは思っていない。
 これもまた大切な時間だと、エルは思った。





 そしてエルが退室した研究室にて、霞は背もたれに体重を預けて天井を見上げる。
 仮眠を取る。アレは嘘だ。もしも取るとするならば、それは体が限界になって自然と眠りに落ちる時くらいだ。
 ああそうだ。もっと無理をしなくてはならない。こんな時におちおちと眠ってなんかいられない。
 眠っている場合ではないのだ。
 それでも弱音は自然と漏れ出してくる。
 様々な事に対する弱音が、一塊に一吐きに。

「……私はいつだって無力だ」

 その言葉に返答する者は誰もおらず、静かな部屋の中、ただ一人牧野霞だけが闇の中へと沈んでいく。
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