クズ箱日誌

すごろく

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ハシザワイサオ

ハシザワイサオ その5

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 ケイタが産まれたとき、多くの親がそうであるように、俺は狂ったような喜びに打ち震えた。自分はこの瞬間のためにこの世に生まれ落ちてきたのだ、とすら思った。
 汗だくの妻を労い激励し、分娩室のベッドの上に眠る我が子の顔を覗き込んで頬をだらしなく緩ませた。人生における幸福とはこの瞬間なのだと信じて疑わなかった。
 ケイタは赤ん坊の頃から、一般的に大人しいとされる部類の子だった。泣き声は必要最低限しか上げず、夜泣きも少なかった。「楽だけれど、大人し過ぎて心配なくらいだ」と、妻はよく笑った。俺は手がかからないことはいいことなのだろうと勝手に思っていた。
 ケイタの穏やかな寝顔を見ると、不思議と心が安らいで、会社での心労も苛立ちもすべて溶け出していくようだった。明確に、俺はこの子のために働いているのだと確信していた。
 ケイタは幼稚園に通うようになっても、小学校に通うようになっても、まるで騒がしさを妻の腹の中に置いてきてしまったように大人しかった。保育士は卒園まで、ケイタのことを「手間のかからない良い子だ」と褒めていた。小学校の教師からの評価も上々だった。ケイタは成績も良かった。算数も国語も卒なく出来た。しかし運動はあまり出来ず、また社交性もないため、なかなか友達は出来ないようだった。それに関して、ケイタはさほど気にしているような素振りは見せなかった。妻によれば、ケイタは放課後になると毎日寄り道せずに一直線に帰宅してきて、誕生日やクリスマスに買ってもらったゲームで遊んでいるようだとのことだった。そのうちパソコンが欲しいとおずおずと遠慮がちに言ってきたので、買ってやった。妻には多少心配されたけれど、ケイタなら大丈夫だろうという根拠のない楽観的な思考があった。それに何より、ケイタが俺に頼み事をしてくれたことが嬉しくて、舞い上がっていたというのがある。ケイタは本当に手間のかからない良い子だったけれど、逆にそのせいで物足りなさというか――申し訳なさのような感情に苛まれた。俺は別に仕事一筋というわけではないけれど、この頃はまだ残業が多くて、ケイタと一緒に遊んだりどこかへ行ったりできるような時間はなかなか確保できなかった。生まれてきてくれたときはあんなに嬉しかったのに、その喜びに自分が応えられないことに、歯痒さすらあった。だからケイタが、パソコンが欲しいと申し出てきたときは、飛び上がるくらい感激して、二つ返事で承諾してしまったのだ。ケイタにようやく父親らしいことがしてやれる、と本気でそう思い、パソコンを買い与えたことによる満足感に浸っていた。浅はかだったと思う。何かを買ってやるなんてことは赤の他人にでもできる。なぜパソコンを買ってやっただけで、父親らしいことをしてやれた、なんて傲慢なことを思えたのだろう。
 俺が何も見えていないうちに、ケイタは中学生になった。成長期だか思春期だかの多感な時期に突入したはずだったけれど、ケイタの様子は小学生のときとあまり変わらなかった。身長は順調に伸び、顔の輪郭も日々大人びていったけれど、消極的な性格で、特に感情を表に出さず、放課後はすぐに帰宅してはゲームばかり遊んでいた。成績は相変わらず良かったけれど、友達らしきものができる気配はなかった。その頃になって、代わりのように妻の様子が少しおかしくなった。しないわけではないけれど家事をよく面倒臭がるようになり、簡単には終わらなさそうな面倒事は俺に押し付けるようになった。不健康そうな菓子の類を頻繁に食べるようになり、体重も増えてぶくぶくと太った。俺は妻の急激な変化に戸惑って、「何かあったか」と訊ねたが、妻は「飽きた」と答えるばかりで、意味がわからなかった。
 ケイタの反応も至って淡白で、「きっと疲れたんだよ」などと言って、自分の母親の自堕落っぷりを特に気にかけようとも咎めようともしなかった。俺にはやはり意味不明だった。
 その頃から、俺は妙な危機感というか焦燥感というか、そういういてもたってもいられなくなるような、かといって何をどうすればよいのかわからないような感情に急き立てられるようになった。それは変わった妻以上に、変わらないケイタに向けられていた。
 ケイタとの仲を縮めなければ――義務感のように、そう感じた。なぜかはわからない。とにかく俺の内部には漠然とした霧やら靄やらが立ち込めていて、自分の足元すら見えない状態に、得体の知れない恐怖を抱いていた。それを晴らすには、ケイタとの距離をどうにかするしかないと、何の因果があるかも不明なのに、俺はそう信じていた。
 俺はケイタが家にいるときは何かと理由もなく声をかけたけれど、ケイタの返事は今一つ芳しくなかった。俺を無視するわけでも、邪険にするわけでもない。話を聞かないということではなかった。相槌もするし、会話だってしっかり成立していた。しかし、ケイタと俺との言葉のやり取りには、必ず何か空白があった。ほんの狭い隙間なのに、どうやっても埋められないほど深い空白。ケイタと会話をしようとすればするほど、その空白を見つけ、俺の中の霧やら靄やらは晴れるどころか濃くなっていくばかりだった。それでも無理やり手探りで進もうとしたのは、単にその場に一瞬でも留まることを恐れていたに過ぎない。
 そうこうとひとり馬鹿みたいに彷徨っているうちに、ケイタは中学校を卒業して、近場の高校に通うようになった。中学の担任教師曰く、本来はもっと偏差値の高い高校を目指せる成績だったらしいが、ケイタは我が家から離れることを嫌がった。「一人暮らしは面倒臭いから」とケイタは言ったが、その頃にはもう妻はほとんど家事を自主的にやろうとはしなくなっていて、代わりにケイタがその役割を担っていた。俺がそれをやんわりと指摘しても、ケイタは誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
 高校生になってから、ケイタはすぐにバイトを始めた。しかも何件も掛け持ちし、休みの日までぎっしりとシフトを入れ込み、自然と家にいる時間も減った。それと同時に、ケイタは中学生の頃まで遊んでいたテレビゲームの類をすべて中古屋に売り払ってしまった。
 魔が差してケイタの部屋に忍び込んでしまったのは、ケイタのこういった行動を見てでのことでもあった。好奇心三割、下心七割。しかし、俺はそのどちらも満たすことはできなかった。残ったのは解消できない気まずさばかりで、もうその頃には手探りで彷徨うことも億劫になってしまった。
 俺はなるべく自宅にいる時間を減らすよう行動するようになった。残業できるときは他人の仕事を引き受けてでも残業した。世相により残業が厳禁になってからは、以前はあまり気の進まなかった宴会や飲み会に積極的に参加するようになった。酔いというのは本当に不思議なもので、そのときだけは霧も靄も消え去ったように思えた。酔いが醒めて、再び霧や靄が目の前を覆ったときの憂鬱を思えば、いわゆるアルコール依存症の人々の気持ちも、よくわかるような気がした。
 そうやって俺がぼんやりしているうちに、ケイタは大学生になった。
 高校の担任教師は中学のときの担任と同じく「もっと偏差値の高いところを目指せる」と太鼓判を押していたが、これまた同じくケイタはさほど偏差値の高くない近場の大学に進学した。ケイタはやはり我が家から離れることを嫌がった。ケイタなら一人暮らしなど造作もないだろうし、こんな家にいつまでもいるよりもよっぽど健全だろうとは思ったけれども、そう助言することはできなかった。俺は怖かったのだろうか。ケイタがいなくなったこの家で、テレビの前の置物と化した妻と二人きりになることが。それともまだ未練があったのだろうか。まだ父と息子になれると思っているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいけれども、それを振り切ることはできなかった。
 俺はもう妻ともケイタともまともに話さず、真剣に取り組むわけでもなくただ漫然と仕事をこなすだけの日々を過ごしていた。何もない。本当に何もない。このまま老いて死んでいくのだろうと思うけれど、その姿すら想像できなかった。
 そうやっていじけている最中の俺に、部下のカンバラは声をかけてきた。
「課長、ちょっと良いところがあるんですよ。一緒に遊びに行きません?」
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