クズ箱日誌

すごろく

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ハシザワイサオ

ハシザワイサオ その1

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 社内に終業時刻のチャイムが鳴り、帰り支度をしていると、カンバラがこそこそと近づいて声をかけてきた。
「課長、今晩あたりどうです、一発」
 カンバラは左手で輪っかを作り、右手の人差し指をそこに抜き差しするような仕草をした。俺は顔を顰めつつ首を横に振った。
「俺はもういいよ。この前も言っただろ?」
「えー、もったいないですって。せっかく会員カード持ってるんですから。宝の持ち腐れですよ。心配いりませんって。俺なんて三十回は通ってますけど、未だに職務質問もされてないんですよ。安全に、しかも金を払わずに未成年を抱けるなんてそうそうあるもんじゃないですよ。楽しみましょうよ。楽しみがなきゃ仕事なんかやってられないでしょ?」
 カンバラはにやにやしながら俺の肩に手を置いてきたが、俺は腕をぶんぶんと振るってそれを振り解いた。
「いいって言ってるだろ。別にお前が何をしてようといいよ。そんなことに怒れるくらい出来た人間じゃないからさ、俺は。でも俺はいいって言ってるんだ。法律とか倫理とかを気にしてるんじゃない。気分が乗らないんだよ、それだけだ」
 俺が少し語気を強めて言うと、カンバラはその枯れ木みたいな細い身体をわざとらしく揺らしながら笑った。
「まあ、なーんか調子悪い日ってのは俺でもありますしね。気が向いたら声かけてくださいよ。いつでもお供しますよ」
「それも別にいいよ、行きたくなったら一人で行くから」
 このままカンバラに絡まれ続けていても鬱陶しくて堪らないから、俺はさっさと鞄を引っ掴んで、職場から出た。
 季節は夏と秋の間。残暑が嫌になるほど漂っている。街中には気が早いのか遅いのか去年から放置されているクリスマスツリーが中途半端な飾り付けをされて立っている。その下を、にこにこ笑う浮かれ顔の男女が通り過ぎていく。それを尻目に、俺は家路を歩き始める。
 ゴミ溜まりの路地、無関心そうな交差点、無機質な列車の窓、目がちかちかするコンビニの前、口に何かを咥えながら自転車を走らせる少年たち――見飽きたそれらを通り越して、何の感慨も安堵もなく、俺は自宅へと帰り着く。
 俺は玄関ドアの前で数秒ほどぼうっと呆けたあと、一つ溜息をついて鍵を開け、ドアノブを回した。電気は点いている。俺は後ろ手でドアと鍵を閉め、無言で靴を玄関先に脱ぎ捨てた。ここから「ただいま」を言う気力はこれっぽっちもなかった。
 居間では、妻がポテトチップスを齧りながらテレビの漫才番組を無表情で観ていた。俺の存在には気づいたらしくちらりとこちらを見たが、「おかえり」と咀嚼しながらくぐもった声を出すだけで、また無表情でテレビを鑑賞する作業に戻った。俺は一応「ただいま」と小声で返し、そのまま台所兼食卓に向かった。
 食卓の上には、ラップをかけられた皿が一つだけ置かれていた。中身はしおれた千切りのキャベツに、食べ応えのなさそうな薄いトンカツが一枚。俺の晩飯だ。妻はもう食ったか、あるいはあのポテチが晩飯なのだろう。いい歳こいて不健康極まりないが、俺が文句を言えた義理ではない。それで早死にしても本人の意志だ。俺の関知するところではない。
 俺は背広のジャケットを椅子の背にかけ、戸棚から適当に箸と茶碗を取り出して、そこに炊飯器の中に引っ付いていた米を盛り、皿のラップを外し、当然の如く「いただきます」も言わずに食べ始めた。黙々と冷めたトンカツとごわごわした米を箸で口の中に放り込んだ。
 半分ほど食べたところで、腰が曲がっているように猫背の若い男がそこに入ってきた。俺の息子で、名前はケイタといった。
 ケイタは俺を一瞥すると、「おかえり」と気だるげな声で言った。俺が「ただいま」と返すと、それには返事をせず、冷蔵庫から無造作に棒付きアイスを何本か取り出すと、さっさと出ていった。俺は気にせずに食事を続けた。いつも通りのことだった。
 食べ終わったら皿を流し台に置いて、俺は椅子の背にかけたジャケットを引っ掴んで自室へ行った。背広もワイシャツもベッドの上に脱ぎ捨てて、部屋の隅に放り出されている緩い半袖Tシャツとゴムの短パンを着た。背広はハンガーにかけ直し、ワイシャツは洗濯機の隣に置かれている洗濯ものかごに投げ捨てた。その後は一度トイレに入って、風呂に入った。腹の具合は下痢気味だった。風呂はシャワーだけで済ませた。
 風呂を出ると、いよいよ何もすることがないので、ベッドに仰向けで倒れ込み、シミだらけの天井から煌々と光を降り注がせる丸い電灯をぼんやり眺めた。
 ぽっかり空いた心の底から、何かヘドロのようなものがせり上がってくるので、俺は少しでも気を紛らわせようと、スマホを覗き込んだ。
 カンバラからのメッセージがラインに届いていた。
『課長! 今日も隣の課のイノウエと楽しんでますよ!』
 そのメッセージの下に、一枚の画像が送信されていた。そこには全裸のカンバラと、別の課のイノウエ、その二人の背後でギロチン台のようなものに拘束された少女が映っていた。カンバラとイノウエは満面の笑みだった。少女はそんな二人とは対照的だった。奇妙な黄色い衣装を着た少女の髪は酷く乱れており、その顔には白濁した液体がべったりと貼りついている。虚ろな目、半開きの口、はみ出した舌、弛緩した頬、生気を失った顔色――まるで死人のようだったし、本当に死人だとしても驚かなかった。しかし、その少女が死人ではないだろうことを俺は知ってしまっていた。
 返信しようかどうか数十秒ほど逡巡し、俺は『良かったな』とだけメッセージを返した。すぐに「既読」という文字がつき、カンバラからの返信が来た。
『課長も気が向いたらいつでもどうぞ! 本当に良い気晴らしになりますから!』
 だから俺はいいって言ってるだろ、という返信を返そうとして、やめた。頑なに同じことを繰り返すのも、なんだか意地を張っているようで馬鹿らしかった。
 スマホを身体の横に放り出して、再び電灯を見つめた。いい加減に眩しいので、ゆっくりと瞼を下ろした。瞼の裏には、光の残像が微生物みたいに蠢いている。このまま睡魔が丸呑みしてくれれば助かったのだけれど、こんなときに限ってやつはいつまで経っても現れなかった。寝返りを何度か打ってから、俺は渋々起き上がり、瞼を上げて身体を起こした。
 ベッドから降り、戸棚の一番下のところの、奥に手を突っ込み、一枚のカードを取り出した。そのカードの側面には、『裏アダルトビデオメーカークズ箱』という文字が印刷されていた。俺はそれを数秒じっと睨んでから、また戸棚の奥へと戻した。かと思ったら、もう一度取り出して、またしげしげとその珍妙な文字の羅列を凝視した。もう毎日のように、何度も何度も繰り返している動作だった。終わりようのない、無意味な行動だった。
 睡魔の足音が聞こえてくるまで、俺はカードを片手に戸棚の前に突っ立っていた。
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