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トンネル、標識、家
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トンネルはあの世とこの世の境界だから幽霊が出やすいとか、ビックリマークの標識は色々と曖昧だから曰くつきの都市伝説があるだとか、そんなことは知らなかった。いや、知識としてはあったけれど――たぶんネットのまとめサイトかなんかで見た――意識なんてしていなかった。トンネルなんてただ山やコンクリートに開いた通り道の穴でしかないし、標識を設置した理由など私にとっては至極どうでもいいことだった。
だからそれは偶然だった。そのトンネルを通ったことも、そこのそばにビックリマークの標識が設置されていたことも。少なくとも、何かが気になって来たとか、何かに導かれて来たとか、そんなことはなかった。――なかったはずだ。
そのトンネルは、周りに木ばかり生い茂り、車一台が通るのがやっとというような狭い道路の先の、岩の断面図のような切り立った崖に開いていた。すぐ脇には、黄色に黒字でビックリマークだけが描かれた標識が地面に突き刺さっている。トンネルも道路も標識も、もう何年も打ち捨てられ、忘れ去られたように古びていた。コンクリートのひび割れだとか、そこかしこに浮き出た錆だとか、そんな目に見える露骨なものだけではなく、もっと本質的で、そして根本的なところで、それらは枯れかけているように思えた。
そのトンネルに足を踏み入れると、湿気た生温い空気が頬を撫でた。青臭い苔の匂いがした。灯りになるようなものがなく、薄暗かった。薄暗がりの先に、もう一つの出入り口の光が見えた。やけに白々としていた。
そこで踵を返して、帰っても良かったのではないかと思う。私がここに来る意味はなかった。本当に偶然、辿り着いた。この先に行く意味はなかった。そもそもここにいること自体が何か変だった。でも、それは些細な違和感で、この先に行かない理由にもならなかった。
私はゆっくり進んだ。じゃりじゃりと小石や砂が踏まれる音がする。風なのか虫の羽音なのかよくわからない甲高い音が、耳のそばを通り過ぎていった。
トンネルを抜けると、そこは雪国――では当然なかった。そんなに寒くはないし、雪なんてもうかれこれ十年は見ていない。
トンネルを抜けた先は、トンネルを抜ける前と同じくただの雑木林だった。鬱陶しい木々も小汚い道路も、何も変わらなかった。ついでに、トンネルの脇に刺さっている標識も。何に注意を呼び掛けているかもわからないビックリマークがぼんやり私を見下ろしていた。
アホらしい、私はため息をついて、ようやくその重たい踵を返そうとした。しかし、背後から声をかけられて、また止まった。「やあ」とか「よお」とか、そんな声だった。
振り向くと、木と木、枝と枝の間に、ひとり老人が立っており、手招きしていた。老人は青いつなぎの作業服のようなものを着ていて、紺色の野球帽を被っており、口元には白い無精ひげが虱みたいに散らばっていた。野球帽には何かロゴのようなものが描かれていたようだけれど、掠れてしまっていて何のロゴなのかはわからなかった。
「お前さん、そのトンネルの向こうから来たのかい?」
「え? あ、はい」
私は反射的に間の抜けた返事を口にしていた。
老人は地面から浮き出る木の根っこを飛び越え、にやにやと口元に笑みを貼りつけながら近寄ってきた。赤黒い唇の間から、黄疸みたいな色の歯が見えた。
「いやはや珍しい。こんなわけわからんところに迷い込んでくるとはな。どこかに行く途中だったのかい?」
「え、え、あの、その――」
喉元がつっかえて、上手く言葉が出なかった。そもそも誰かから話しかけられたのが数か月ほど前だったことを思い出す。気管に唾が絡みついて、何度か咳き込んだ。
「あーあー、別に無理に言わんでもいい」
老人は私を宥めすかすように手を翳した。
「まあこんなじいさんに話しかけられて気分悪いだろ。すまないな。こんな辺鄙なところに来るやつが物珍しくてな。ここは随分と遠いだろ? 近場の国道からもだいぶ離れてる。正直、あんたがどうやってこの場所に辿り着いたのかもわからんがね。どうだい? 足も疲れてるだろ? 喉は乾いてないかい? 俺んちがここらへんにあるんだがな、良かったらでいいんだが、うちで茶でも一杯飲んでいかないかい?」
老人の口はぺらぺらとよく動いた。決まった台詞を喋る役者のようだった。
「はあ、お茶、ですか――」
老人の申し出に、私はこれまた間抜けな返事をする。この老人とお茶をするのが嫌なのかどうか、よくわからなかった。
「何か用事があるのかい?」
「いえ、そういうわけでは――」
「だったらほんのちょっとだけでもいいんじゃないかい?」
そう言われると、何だか別にいいような気がした。ここでいう「いい」というのは、「どうでもいい」ということなのだけれど、大して変わるものでもない。それに先ほど老人が言っていた通り、足は圧迫されたようにじんじんと痛かったし、喉もひりひりと乾燥していた。
「はい、じゃあお言葉に甘えて――」
「おお、そうかそうか。じゃあこっちにおいで」
老人に連れられて、私は山のさらに奥地に入っていくかのようながたがたにひび割れた道路を歩き出した。ふと振り返ると、段々と遠ざかっていく岸壁にぽっかり開いたトンネルと、その横に生えるように刺さった標識の黄色が、緑ばかりの世界の中で嫌に目立った。
「あの標識――」
私は何気なく老人に訊ねた。
「あの黄色いビックリマークの標識は――」
「その他注意だよ」
私が質問を言い終わらないうちに、老人は食い気味に答えた。
「え?」
「知らないか? その他注意」
「えっと、動物だとか、落石だとか、そういうのに当て嵌まらない、その他の危険を示している標識――でしたっけ?」
「巷じゃ幽霊標識なんて言われたりもするらしいけどね。なに、そんなもんは出んよ」
老人は笑うように鼻を鳴らした。
「でも、何かしらの危険はあるんじゃないですか?」
「さあな、それは知らんよ。俺がここらへんに暮らし始めたときから、あの標識はトンネルの前に突き刺さってんのさ。危なかったことなんて一度もないね。こんな山ん中だってのに、熊の一頭も出やしないよ。俺は猟銃の一本も持ってないってのに――」
私が口を挟む隙間もないほどに、老人は饒舌に言葉を放ち続けた。よくもまあ歩きながらこんなにも舌が回るものだと、感心のような呆れのような感情を覚えた。
「着いたよ」
老人は唐突に足を止めた――ように思えた。じつをいうと、ぼんやり老人の後頭部ばかり見ていたため、注意力散漫になっていた。老人の背中にぶつかりそうになる直前に慌てて立ち止まり、ふと顔を上げると、いつの間にかそこに出現したように、一軒の家が建っていた。こんな山奥には不自然な、真新しい木造の一軒家だった。周りの木々はどいつもこいつも皮が所々剥げ、青緑色の苔が生い茂っているというのに、その一軒家だけはまるで時間を止めているかのように清潔に佇んでいた。
「ここが俺の家だよ」
老人は一軒家に近づくと、その出入り口らしき引き戸をがらっと開けた。
「さあ、入って」
老人は振り向き、私に入れと言うように、引き戸の奥を指すように手を向けた。その顔は何の裏もない、少なくとも私にはそう見えるような笑みを浮かべていた。
ここに来て私は怖気づくような気持ちになった。何か具体的な対象があるわけではない。ただ漠然と、変なところに紛れ込んでしまったという実感が今更になってふつふつと湧いてきた。こんなことなら茶の誘いなぞきっぱり断っておけば良かったなどと思ったけれども、それを言うなら、そもそもあんなトンネルなど通らなければ良かったのである。
私が躊躇してうじうじと立ち止まったままでいると、老人は不思議そうに眉根に皺を寄せ、すぐにまた笑顔に戻って、ひとり頻りに頷いた。
「大丈夫、大丈夫。獲って食おうってわけじゃない。ただ茶を飲みたいだけさ。俺は普通の人間だよ。といっても、こんな辺鄙なところに暮らしてるんじゃ怪しまれても仕方ないけどさ。でもそれを言うなら、あんただって十分怪しいさ。あんなトンネルを通ってくるやつなんて、滅多にいない。そりゃそうだろ。あそこはもう何十年も前に捨てられたのさ。あの標識と一緒に。あの標識は、本当に何のために設置されたんだろうね?」
私は何も言えなかった。脳裏に、あの標識のビックリマークがちらついている。
それから数十秒ほど、私と老人は睨み合っていただろうと思う。不自然なほどに、風の音も鳥の鳴き声も聞こえなかった。ふっと老人はため息をついた。
「わかったよ。嫌なんだね。それなら最初からそう言ってくれりゃ良かったのに。いいよ、元から無理に付き合わせようなんて気はなかったさ。あんたがあまりにもおどおどしているもんだから、ちょっとばかしからかってみたかっただけなんだよ」
すまなかったね、と老人は謝った。いえ、良いんですと、ようやく言葉が出た。
「どうだい、面白くもなかったろ? ここにあるのはあの標識とこの家と、あとは木だけさ。土産もない。玉手箱も茶碗もつづらもない。宝もないし、人を食う化け猫もいない。あのトンネルは、ただのトンネルだよ。あの標識は、ただの標識だよ。この家は、ただの家だよ。俺は、ただの老人だよ。早く帰りな。もうすぐ日が暮れちまうから」
老人はひとり家の中に入り、引き戸を閉じると、それっきり出てこなかった。数秒ほどしてから、私は踵を返し、元来た道を一目散に引き返した。あのトンネルも標識も、別に消えてなんかいなかった。何の変哲もない、おんぼろなトンネルと標識だった。トンネルを潜り、出て、そして速足で帰った。道中、何の異変もなかった。その晩、暖かい布団の中でぐっすりと眠った。夢も見なかった。
翌日、記憶の中にある道を辿って、またあのトンネルと標識があったところに訪れた。心のどこかで、消えていることを期待していたのだけれど、果たしてトンネルと標識は昨日と寸分違わずにそこにあって、私は落胆し、標識の支柱を軽く蹴飛ばした。支柱はかーんと甲高い音を立てながら、ぶるぶるとその身を震わせ、じきにまた微動だにしなくなった。
それから私は何か思い出すたびに、そこへと足を運ぶのだけれど、未だにトンネルも標識も消えることはない。しかし、またそのトンネルの先へ行ってみようとも、あの老人に再び会ってみようとも思わない。ただ明日こそは、跡形もなく消えていてくれと願う。山の中、浅い靴底で小石を踏み鳴らす音を聞きながら。
だからそれは偶然だった。そのトンネルを通ったことも、そこのそばにビックリマークの標識が設置されていたことも。少なくとも、何かが気になって来たとか、何かに導かれて来たとか、そんなことはなかった。――なかったはずだ。
そのトンネルは、周りに木ばかり生い茂り、車一台が通るのがやっとというような狭い道路の先の、岩の断面図のような切り立った崖に開いていた。すぐ脇には、黄色に黒字でビックリマークだけが描かれた標識が地面に突き刺さっている。トンネルも道路も標識も、もう何年も打ち捨てられ、忘れ去られたように古びていた。コンクリートのひび割れだとか、そこかしこに浮き出た錆だとか、そんな目に見える露骨なものだけではなく、もっと本質的で、そして根本的なところで、それらは枯れかけているように思えた。
そのトンネルに足を踏み入れると、湿気た生温い空気が頬を撫でた。青臭い苔の匂いがした。灯りになるようなものがなく、薄暗かった。薄暗がりの先に、もう一つの出入り口の光が見えた。やけに白々としていた。
そこで踵を返して、帰っても良かったのではないかと思う。私がここに来る意味はなかった。本当に偶然、辿り着いた。この先に行く意味はなかった。そもそもここにいること自体が何か変だった。でも、それは些細な違和感で、この先に行かない理由にもならなかった。
私はゆっくり進んだ。じゃりじゃりと小石や砂が踏まれる音がする。風なのか虫の羽音なのかよくわからない甲高い音が、耳のそばを通り過ぎていった。
トンネルを抜けると、そこは雪国――では当然なかった。そんなに寒くはないし、雪なんてもうかれこれ十年は見ていない。
トンネルを抜けた先は、トンネルを抜ける前と同じくただの雑木林だった。鬱陶しい木々も小汚い道路も、何も変わらなかった。ついでに、トンネルの脇に刺さっている標識も。何に注意を呼び掛けているかもわからないビックリマークがぼんやり私を見下ろしていた。
アホらしい、私はため息をついて、ようやくその重たい踵を返そうとした。しかし、背後から声をかけられて、また止まった。「やあ」とか「よお」とか、そんな声だった。
振り向くと、木と木、枝と枝の間に、ひとり老人が立っており、手招きしていた。老人は青いつなぎの作業服のようなものを着ていて、紺色の野球帽を被っており、口元には白い無精ひげが虱みたいに散らばっていた。野球帽には何かロゴのようなものが描かれていたようだけれど、掠れてしまっていて何のロゴなのかはわからなかった。
「お前さん、そのトンネルの向こうから来たのかい?」
「え? あ、はい」
私は反射的に間の抜けた返事を口にしていた。
老人は地面から浮き出る木の根っこを飛び越え、にやにやと口元に笑みを貼りつけながら近寄ってきた。赤黒い唇の間から、黄疸みたいな色の歯が見えた。
「いやはや珍しい。こんなわけわからんところに迷い込んでくるとはな。どこかに行く途中だったのかい?」
「え、え、あの、その――」
喉元がつっかえて、上手く言葉が出なかった。そもそも誰かから話しかけられたのが数か月ほど前だったことを思い出す。気管に唾が絡みついて、何度か咳き込んだ。
「あーあー、別に無理に言わんでもいい」
老人は私を宥めすかすように手を翳した。
「まあこんなじいさんに話しかけられて気分悪いだろ。すまないな。こんな辺鄙なところに来るやつが物珍しくてな。ここは随分と遠いだろ? 近場の国道からもだいぶ離れてる。正直、あんたがどうやってこの場所に辿り着いたのかもわからんがね。どうだい? 足も疲れてるだろ? 喉は乾いてないかい? 俺んちがここらへんにあるんだがな、良かったらでいいんだが、うちで茶でも一杯飲んでいかないかい?」
老人の口はぺらぺらとよく動いた。決まった台詞を喋る役者のようだった。
「はあ、お茶、ですか――」
老人の申し出に、私はこれまた間抜けな返事をする。この老人とお茶をするのが嫌なのかどうか、よくわからなかった。
「何か用事があるのかい?」
「いえ、そういうわけでは――」
「だったらほんのちょっとだけでもいいんじゃないかい?」
そう言われると、何だか別にいいような気がした。ここでいう「いい」というのは、「どうでもいい」ということなのだけれど、大して変わるものでもない。それに先ほど老人が言っていた通り、足は圧迫されたようにじんじんと痛かったし、喉もひりひりと乾燥していた。
「はい、じゃあお言葉に甘えて――」
「おお、そうかそうか。じゃあこっちにおいで」
老人に連れられて、私は山のさらに奥地に入っていくかのようながたがたにひび割れた道路を歩き出した。ふと振り返ると、段々と遠ざかっていく岸壁にぽっかり開いたトンネルと、その横に生えるように刺さった標識の黄色が、緑ばかりの世界の中で嫌に目立った。
「あの標識――」
私は何気なく老人に訊ねた。
「あの黄色いビックリマークの標識は――」
「その他注意だよ」
私が質問を言い終わらないうちに、老人は食い気味に答えた。
「え?」
「知らないか? その他注意」
「えっと、動物だとか、落石だとか、そういうのに当て嵌まらない、その他の危険を示している標識――でしたっけ?」
「巷じゃ幽霊標識なんて言われたりもするらしいけどね。なに、そんなもんは出んよ」
老人は笑うように鼻を鳴らした。
「でも、何かしらの危険はあるんじゃないですか?」
「さあな、それは知らんよ。俺がここらへんに暮らし始めたときから、あの標識はトンネルの前に突き刺さってんのさ。危なかったことなんて一度もないね。こんな山ん中だってのに、熊の一頭も出やしないよ。俺は猟銃の一本も持ってないってのに――」
私が口を挟む隙間もないほどに、老人は饒舌に言葉を放ち続けた。よくもまあ歩きながらこんなにも舌が回るものだと、感心のような呆れのような感情を覚えた。
「着いたよ」
老人は唐突に足を止めた――ように思えた。じつをいうと、ぼんやり老人の後頭部ばかり見ていたため、注意力散漫になっていた。老人の背中にぶつかりそうになる直前に慌てて立ち止まり、ふと顔を上げると、いつの間にかそこに出現したように、一軒の家が建っていた。こんな山奥には不自然な、真新しい木造の一軒家だった。周りの木々はどいつもこいつも皮が所々剥げ、青緑色の苔が生い茂っているというのに、その一軒家だけはまるで時間を止めているかのように清潔に佇んでいた。
「ここが俺の家だよ」
老人は一軒家に近づくと、その出入り口らしき引き戸をがらっと開けた。
「さあ、入って」
老人は振り向き、私に入れと言うように、引き戸の奥を指すように手を向けた。その顔は何の裏もない、少なくとも私にはそう見えるような笑みを浮かべていた。
ここに来て私は怖気づくような気持ちになった。何か具体的な対象があるわけではない。ただ漠然と、変なところに紛れ込んでしまったという実感が今更になってふつふつと湧いてきた。こんなことなら茶の誘いなぞきっぱり断っておけば良かったなどと思ったけれども、それを言うなら、そもそもあんなトンネルなど通らなければ良かったのである。
私が躊躇してうじうじと立ち止まったままでいると、老人は不思議そうに眉根に皺を寄せ、すぐにまた笑顔に戻って、ひとり頻りに頷いた。
「大丈夫、大丈夫。獲って食おうってわけじゃない。ただ茶を飲みたいだけさ。俺は普通の人間だよ。といっても、こんな辺鄙なところに暮らしてるんじゃ怪しまれても仕方ないけどさ。でもそれを言うなら、あんただって十分怪しいさ。あんなトンネルを通ってくるやつなんて、滅多にいない。そりゃそうだろ。あそこはもう何十年も前に捨てられたのさ。あの標識と一緒に。あの標識は、本当に何のために設置されたんだろうね?」
私は何も言えなかった。脳裏に、あの標識のビックリマークがちらついている。
それから数十秒ほど、私と老人は睨み合っていただろうと思う。不自然なほどに、風の音も鳥の鳴き声も聞こえなかった。ふっと老人はため息をついた。
「わかったよ。嫌なんだね。それなら最初からそう言ってくれりゃ良かったのに。いいよ、元から無理に付き合わせようなんて気はなかったさ。あんたがあまりにもおどおどしているもんだから、ちょっとばかしからかってみたかっただけなんだよ」
すまなかったね、と老人は謝った。いえ、良いんですと、ようやく言葉が出た。
「どうだい、面白くもなかったろ? ここにあるのはあの標識とこの家と、あとは木だけさ。土産もない。玉手箱も茶碗もつづらもない。宝もないし、人を食う化け猫もいない。あのトンネルは、ただのトンネルだよ。あの標識は、ただの標識だよ。この家は、ただの家だよ。俺は、ただの老人だよ。早く帰りな。もうすぐ日が暮れちまうから」
老人はひとり家の中に入り、引き戸を閉じると、それっきり出てこなかった。数秒ほどしてから、私は踵を返し、元来た道を一目散に引き返した。あのトンネルも標識も、別に消えてなんかいなかった。何の変哲もない、おんぼろなトンネルと標識だった。トンネルを潜り、出て、そして速足で帰った。道中、何の異変もなかった。その晩、暖かい布団の中でぐっすりと眠った。夢も見なかった。
翌日、記憶の中にある道を辿って、またあのトンネルと標識があったところに訪れた。心のどこかで、消えていることを期待していたのだけれど、果たしてトンネルと標識は昨日と寸分違わずにそこにあって、私は落胆し、標識の支柱を軽く蹴飛ばした。支柱はかーんと甲高い音を立てながら、ぶるぶるとその身を震わせ、じきにまた微動だにしなくなった。
それから私は何か思い出すたびに、そこへと足を運ぶのだけれど、未だにトンネルも標識も消えることはない。しかし、またそのトンネルの先へ行ってみようとも、あの老人に再び会ってみようとも思わない。ただ明日こそは、跡形もなく消えていてくれと願う。山の中、浅い靴底で小石を踏み鳴らす音を聞きながら。
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