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第九章 『親友』
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千景に言われた。和己にも、蒼にも言われた。
数日前からずっと感じていた体調不良、単純に疲労のせいだろうと考えていた喬久だったが、張り詰めた緊張の糸が切れた反動か翌朝ベッドから起き上がる事もままならず、体温計で熱を計ってみたところ三十八度後半を記録した。
「ああ、もうほんと……ツイてな」
連日駒場に任せきりとなってしまっている状態は非常に心苦しかったが、通話口で状況説明をしたところ、逆に不安が増すだけなので何も考えずに今日は養生して欲しいと伝えられた。全休ともなれば流石に連絡は部署内だけに留まらず上長にあたる山城や四條にも伝わる事になる。迷惑を掛けた事を思い悩むよりも今は身体を治す事が最優先事項であり、一連の出来事からも頭を切り離し、ただただ心と身体を休める事に決めた。
熱が下がる様子も無く、布団から出ようとしても頭と全身が鉛の様に重く動く事すらままならない。当然医者に行ける余裕も無く、自宅に薬を常備してある訳では無い。あったとしても薬を飲む前に何かを胃に入れなければならなかったが、元からあまり自炊をしない喬久の自宅には食材すら無い。ただこうして大人しく寝転がって少しでも熱が下がり外へ出られる体調になるまで待つ事しか出来なかった。
汗で全身に纏わりつく寝巻きが気持ち悪くて仕方無かったが身体を拭く事や着替える事も出来ず、ただ熱が下がる事だけを呆けた頭で待ち続けていた。一日でも早く体調を元に戻して解決しなければならない仕事は山程ある。第一に駒場や平町に任せきりにしてしまった仕事の対応や、八雲の傷病休暇の手続き。蒼とも再度ちゃんと話さなければならなかったし、和己にも確認しなければならない事がある。
高熱を出したのは子供の頃以来かもしれない、しかし今は看病をしてくれる親や同居人が居る訳でも無い。病床において人は心細くなりやすいものであり、このまま孤独死するのではないだろうかという荒唐無稽な考えさえ頭に浮かんでしまう。
たかが熱如きで遠方から親を呼びつけられる程若くはないし、幾ら親友であっても所帯を持っている和己に声を掛けるのも何かが違う。千景との仲は良好だったが自宅に呼び付ける程の仲でも無い。こういう時こそセフレを呼び付けて良いのかもしれないが、下手にうつしてしまえばその後の仕事に影響を及ぼしてしまう可能性もある。
熱に魘され夢現の中、喬久は無意識にスマートフォンを手にしていた。喬久の体調を気遣って職場からの連絡が入る事は無かったが、それでも気にしてしまうのは現代における依存症の一種ともいえる。
滅多に使う事の無い蒼とのトークルームを気付けば開いていた。送るつもりもなく一文字ずつ指を滑らせ文字を入力する。それはたった四文字――会いたい――言葉で伝える事が出来たならどれだけ楽な事だっただろう。いつだって蒼からの呼び出しに応じるばかりで、喬久が初めて蒼と会う事を自ら望んだのは件のストーカー疑惑を尋ねる時だった。
ただでさえ忙しい蒼の負担になりたくは無かった。忙しい時に連絡をしてしまい煩わせて嫌いになられる事が一番怖かった。突然会いたいと伝えたあの日も蒼は嫌な顔ひとつせずに自分の事を迎えてくれた。きっととても忙しかったに違いないのに。訪問した時点でも疲れた顔をしていたのに、そんな蒼を余計に困らせてしまった。聞く事はいつでも出来た筈なのに、蒼を気遣う余裕も無く真実を知りたいという自らの意志を優先してしまった。
後悔だけが気弱になった喬久の頭の中を駆け巡る。体調を治したらまず一番に蒼に謝ろう、また自宅に押し掛けては迷惑になるかもしれないし蒼の方からも会いたくないと思われているかもしれない。着信で告げる事も蒼の時間を拘束して消費してしまう、だからたった一言のメッセージでも良い、蒼がいつ見ても構わない、もしかしたらブロックされていてその言葉は蒼に伝わる事は無いかもしれない。それでも喬久は蒼に謝罪の言葉を伝えたかった。
「あおい、さん……」
夢と現実の境界が曖昧で、先程まで蒼にメッセージを送ろうとしていたのが夢だったのか、どこからが現実なのか。熱でぼやけた視界の中、映るのは見慣れた自室の天井。ぼんやりと誰かの人影が見えた。
自宅に自分以外の誰かが居る訳は無く、まだ夢の続きであるのかも定かでないまま目を細める喬久の耳に微かに声が届く。
――喬久。
「あおいさん……?」
あまりにも心細すぎて、都合の良すぎる夢を見ている事に喬久は口元を緩めた。蒼が此処に居る訳が無い――居てくれたのだとしたらどんなに嬉しい事だっただろうか。伸ばされた手が頬に触れ、ひんやりと冷たい。熱に浮かされた喬久にとってはそれがとても心地よく、伸ばされた腕に手を添え抱きかかえるようにして身を転がした。
「蒼さん、好きです……すき」
もし許してくれるなら、今度こそちゃんと自分の口で蒼に好きだと伝えたい。実際蒼の目の前でそれが言えるかは分からなかったが、夢ならばこうやって幾らでも口に出して伝えられる。この夢ならばいつまでも覚めないでいて欲しい。現実は――今の喬久にはもう辛すぎて、それも病の上で表面化した喬久の心の弱さだった。
苦しそうに寝入る喬久の姿、それを見下ろす男がひとり。
「喬久……」
寝顔は今も昔も変わらない。何も変わらないまま、こうして喬久との関係を続けていられればそれで良かった。――それなのに、どうして。
和己は喬久の身体を跨ぎ、薄くなった鬱血痕が残るその首に両手の指を絡ませる。
「……お前が、他の奴のものになるくらいなら」
確かに想いは通じ合っていたはずなのに、どこで道を違えてしまったのか。こうなる事が分かっていたならば、もっと早くに喬久を自分の物にしておけば良かった。そうすれば誰かに奪われる恐怖で怯える必要も無かった。
親指に力が入り喬久の頸動脈を締め付ける。苦しいのか、僅かに眠る喬久の表情が歪んだ。だけれどもうこれしか方法が残されていなかった。喬久だけを愛していた、子供の頃からずっと。零れ落ちる涙が喬久の頬を濡らす。
「――やめとけよ」
「ッ!?」
和己と喬久以外の誰も居る筈が無い室内。不意に届いた言葉に和己は心臓が跳ね上がるほど驚き、喬久の首から手を離すと同時に声がするリビングを振り返った。そこには知らない男がひとり――面識のある相手では無かったが、和己はたしかにその人物を知っていた。
肩に掛かる程度の長い髪と百八十センチを超える長身、ニットにジャケットというラフな格好でありながらその出で立ちには気品があり、初めて対峙した和己から見ても女性にモテる男である事が分かる。喬久から偽装恋人の話を聞いた翌日すぐに興信所に素行調査を依頼をした。喬久の元上司であり現在は独立して勢いのあるスタートアップ企業のCEO、三田蒼。
リビングから寝室に通じる扉の柱に背中を預けたまま、腕を組んで和己を見ていた。その立ち姿はさながらファッションモデルの様でもあり、男の和己であっても思わず見とれてしまいそうだった。
蒼が見つめる視線の先にあるのは、病床に伏し昏睡状態の喬久とその上に跨り今正に喬久の首を絞めていた人物。蒼はその人物については何も知らなかったが、少なくとも喬久に危害を加えようとしていた人物であるという事は知っていた。こうして対面するのはこれが初めてではあるが、その存在だけは喬久自身の口から何度も聞いた事があった。
「君が喬久の言ってた『親友』だろ?」
大切な親友であると喬久は言っていた。それも気軽に自宅へ入れるような――喬久の性格上、例え親友であっても自宅の鍵を預けている可能性は限りなく低く、何度も招かれた事があるとするならば合鍵を作っていたとしても不思議では無い。蒼にはその仮説を裏付ける明確な証拠があった。
「アンタっ……」
「喬久から離れろ」
蒼の言葉と眼光は鋭く、まるで蛇に睨まれた蛙のように凍り付いていた和己だったが逃れられぬ現場を目撃され、取り繕う言葉も持ち合わせていない事実を理解すると指示されるまま大人しく跨いでいた喬久の上から降り、ベッド脇に両足を付く。
自宅の寝室で二人の男が言い争っている状況にあっても喬久は目を覚ます様子が一切無く、呼吸器官が解放された事から幾分か安らかな寝顔に変わっていた。
子供の頃はよく互いの家でお泊まり会などをした事もあった。その頃と何も変わらないあどけない寝顔。あの時のまま居られたら良かった。何ひとつ変わらず純粋な想いのまま。
「……なんでここに」
「可愛い恋人に『会いたい』なんてメッセ送られて来ない訳ないだろ」
蒼の片手に握られていたのは複数台所有しているスマートフォンの内のひとつで、蒼はそのスマートフォンで軽く口元を隠す様に傾けながら招かれざる客である和己の存在に目を細める。蒼が喬久の部屋に入ったのは先日の一度きりだったが、その時から違和感を覚えていた。
寝室を一通り見渡し、クローゼットやその上に置かれた荷物、床に散らばる脱ぎ捨てられた靴下類、そして毛布を抱くベッド上の喬久へと順に視線を落として行く。
「君は――盗聴器でずっと喬久の部屋の事探ってた?」
「なん、でそれ……」
蒼からの指摘に和己の瞳孔が収縮する。気取られる訳が無いと思っていた、事実喬久は何年もそれに気付いていない様子だった。それをつい先日たった一度この部屋に足を踏み入れただけの男に悟られる訳が――無い、と断言出来なくも無かった。
「ストーカー被害受けてたからね。盗聴器発見器くらいいつでも持ち歩いてるんだよ」
昨今の盗聴器発見器は性能を問わなければ一般人でも持ち歩ける程度には安価な物となっており、滅多な場合で無い限り常に持ち歩くようにしていた。蒼が常備していたのは薄型で、付近に違法電波の可能性があれば音を出さずに振動で教えてくれるタイプのものだった。
「喬久の部屋で反応あったのは驚いたけど。やっぱ犯人『親友』の君だったんだ?」
喬久の自室でその発見器が反応を示した事は蒼にとって青天の霹靂にも似た驚きだった。喬久本人はそれを気にしているような様子も無く、無闇に不安を煽る必要は無いと考え敢えてそれを喬久に教えるような事はしなかった。
「喬久に余計な事言ったのも君だよね?」
突然の訪問と話していなかったストーカー存在の有無、喬久らしくないその行動の裏には第三者の関与がある事は確実だった。調べてみればそれは喬久にとても近しい人物で、且つその人物が喬久の話していた幼馴染の親友であるという事が分かった。
想いを否定するつもりもなく、その意味でいえば蒼と和己は同じ立場の人間であった。しかし虚偽の情報で相手を惑わせ判断不能の状態に追い込む事は蒼からすれば許し難い蛮行だった。蒼が和己に向ける視線は侮蔑以外の何物でも無く、和己が喬久にとって大切な親友であると知った上でも蒼は和己に対しての認識を改めるつもりは無かった。
「……喬久に、言うつもりですか?」
もしこの場で喬久を人質に取って何かしらの行動を起こすつもりならば、蒼は手にしたスマートフォンで直ぐに助っ人を呼ぶつもりだった。その予想を覆す和己の呻き声にも似た小さな言葉に蒼は僅かに肩の力を抜く。
「――言わないよ。喬久には何も。だから」
親友に謀られていたという事実を知れば喬久はこれまで以上に傷付く事となるだろう。悔しいが共に過ごした時間だけは蒼でも塗り替える事は出来ない。喬久を傷付けずに事を治められるならばそれで良い、しかしそれは全て和己の決断と行動に懸かっていた。
「喬久の君に対する信頼、これ以上裏切らないで欲しい」
「……お邪魔しました」
幸いにも喬久を想う和己の気持ちは蒼と変わらず、目の前の凶行を見逃されただけでは無く喬久には何も伝えないという申し出に和己の命は首の皮一枚で繋がった。しかし蒼の言葉に込められた意味は見逃す代わりに喬久からは手を引けという圧力でもあった。
ここで醜く足掻けるほど和己も愚かでもなく、喬久が真実を知る事の方が脅威であると理解した和己は蒼には視線も向けず俯いたまま喬久の寝室を部屋を後にした。
「……あれ?」
喬久が目を覚ました時、そこは見知らぬ天井だった。熱を出して自宅で寝ていた事だけは覚えていた喬久だったが、そこから先の記憶が一切無い。夢現に蒼の声が聞こえた気がしたが、未だに夢と現実の境界が曖昧だった。自分の部屋よりも天井がずっと高く、恐らくリモコンで操作するタイプの照明は喬久の部屋には無いものだった。喬久はその照明に見覚えがあった。
「蒼さんち……?」
高い天井と見覚えのある照明の形、当時は泥酔状態ではあったが以前見たものに酷似していると感じた喬久はそれを確認するようにベッドから身を起こす。するとやはりそのスプリングの弾力も覚えがあるもので、薄暗い室内ではありながら見覚えのある家具に視線を送る。
「俺、自分の部屋で寝てたよな……スマホ……」
蒼の自宅で間違いは無さそうだったが、喬久は蒼の部屋へ来た覚えが無かった。起き上がった事で分かったのは見覚えの無い寝巻きを着ていることだった。汗を掻いていたのにも関わらずシャワーでも浴びたようにすっきりしていて、あれだけ重かった頭も嘘の様に軽くなっていた。
処理しきれない情報に喬久は普段の癖でスマートフォンを探すが周囲には見当たらず、蒼の自宅ならばどこかに蒼が居るはずだろうと片脚をベッドから下ろし床に付けた時、寝室の扉がそっと開かれる。
「ああ」
廊下から室内を覗き込んできたのは蒼では無く、喬久の知らない男性だった。身長は蒼と同じ位か、上半身しか見えなかったがすらりと細身で背中まである長い髪をひとつに結っていた。廊下の方が明るく輪郭しか見えなかったが、眼鏡の様なものを掛けている事は分かり、顔を動かすとさらりと小さな金属音がした。
「え……」
蒼の自宅である筈なのに、蒼以外の存在に驚いた喬久は思わず声を上げるが、部屋を覗き込んだ男性は喬久の驚きなど気にも留めぬ様子で寝室から身を引きリビングがあるべき方向へと顔を向ける。寝室から身を引いた事で僅かに相手の風貌が分かるようになり、ノーネクタイのワイシャツに濃い灰色のジレベストを纏うその姿は一見して自らと同じ会社員のようにも見えた。
「社長」
口を開けば低く薄く良く通る声、しんと静まり返った廊下に吸い込まれていったその声だったが、一度の呼び掛けだけでは必要な相手に伝わる事は無く、男性は寝室の扉を半分開けたまま音もなくリビングへと歩いて行った。その人物が喬久の視界から姿を消して数秒後、リビングの扉を開く音が響いた次の瞬間――。
「なあ俺言ったよな!? スケ管甘いって! ギリギリで間に合えばいいんじゃねぇんだよっ! 何のためのバッファか分かってんのか!?」
静寂を切り裂く蒼の怒鳴り声が空気を震わせた。その声は当然寝室という隔てた場所に居た喬久にも届いており、そういえば仕事中の蒼は熱が入りやすい人物であったと喬久は懐かしさを覚えた。
「社長、社長……」
「わざわざこないだそっちまで行ったのに何も変わって無ぇじゃねえか! 何回同じ事言えば分かる訳!?」
男性はリビングの作業スペースでディスプレイに向かい、リモート会議の相手に堪忍袋の緒が切れんばかりの熱量で叱責の言葉を向けていた。あまりに白熱していた為リビングに男性が入ってきて事にも気付いておらず、意識はケーブルに繋がるスピーカーへ向いており、男性が意識外の真横から声を掛けても一切耳に入ってきていなかった。
「――社長」
その状態は男性にも手に取るように分かり、目の前の会議も大事ではあったが何度注意しても何がいけない事であるのか理解しない限りは同じ事を繰り返す堂々巡りであり、そんな事に時間を割くだけ無駄と判断すると蒼の意識を自分の方へと向けるように拳でテーブルを叩きつけた。
その音は蒼だけではなくリモート先の相手にも尋常で無い様子が伝わる程で、当然寝室の喬久も何事かと息を呑む程だった。しんと静まり返ったリビングでようやく蒼の意識を捉える事が出来た男性は硬直して振り返る蒼に目を細める。
「聞け」
「――は、はい」
男性から喬久が目を覚ましたという報告を受けた蒼は目の前の会議を放り投げ一目散にリビングを出て寝室へと向かう。リビングに残された男性はカメラ越しに会議相手を一瞥すると左腕の時計へ一度視線を下ろす。
「喬久っ!」
「……蒼、さん」
落ち着きの無い足音が近付いてきたかと思えば、半分開かれていた寝室の扉を勢いよく開き倒れ込みそうな勢いで蒼が飛び込んでくる。蒼と一度話をしなければならないと考えていた喬久だったが、病床に伏せていた事もあり実際に向き合った時なにから伝えれば良いかを考えておらず、突然現れた蒼の姿に二の句を告げられぬままだった。
「蒼さん、あの、俺っ」
喬久は蒼と最悪の別れ方をしてしまった事しか覚えておらず、倒れかけつつも扉に捕まり踏ん張る蒼に何かを言わなければと言葉を探す。自分以上に慌てる喬久の姿を視認した蒼は肩の力を抜き、落ちかけていたシャツの袖を捲り直しながらベッドに身を預ける喬久へと歩みを寄せる。
目を覚ました時自宅以外の場所に居たならば喬久でなくとも驚く。喬久の許可も取らず無断で連れてきてしまった事には詫びるしか無い蒼だったが、込み入った話をする前にとベッドの傍らに膝を付くと喬久の頬に手を添え顔を近付け互いの額をくっつけた。室内が薄暗い為顔色は良く見えなかったが、手から額から伝わる喬久の体温は自分と然程変わらず、山が通り過ぎた事に蒼はほっと安堵の息を吐く。
「熱は下がったみたいだな。もう起きて大丈夫なのか? 吐き気とかどっか調子悪そうなとこあるか?」
こんな状況であっても自分の事を心配する蒼の優しさに喬久は胸を締め付けられる。何故蒼の部屋に居るのかなど聞きたい事は幾つもあったが、伝えなければならない事が多すぎて上手く言葉が選べない。
「いえ、大丈夫です。それよりあのっ――」
「社長、時間です」
咄嗟に顔を近付けた蒼の肩を掴んだ喬久だったが、何かを告げようと口を開いたその瞬間寝室を覗き込んだ先程の男性の言葉に遮られた。
掛けられた言葉から次の予定が差し迫っている事に気付いた蒼は肩に置かれた喬久の手を両手で掴みその場に下ろさせる。
「ごめん喬久、後もう少しだけ待っててくれ。仕事終わらせるから。そしたらちゃんと話そう?」
「え、あっ……」
先程聞こえた熱量の高い会話からも分かるように蒼が現状仕事に忙殺されている状態である事は喬久にも察する事が出来た。そんな状況にあるにも関わらず駆け込むように寝室に現れた蒼の思い遣りを騙していると受け取れる程喬久は捻くれてもいなかった。
「社長」
「分かってるって!」
躊躇いを見せる背中へ再度掛けられる言葉に蒼は意を決して立ち上がる。蒼としても目覚めたばかりの喬久を残していくのは本望ではなかったが、分単位で予定されている会議スケジュールをずらせば余計に仕事の上がりが遅くなる。喬久の手を大切そうに掛け布団の上へと置いた蒼は、寝室を出る際男性の肩へと手を置きアイコンタクトを送ってから落ち着かない様子でリビングへと戻って行く。
疾風の様に蒼が現れては去っていき、寝室に残された喬久は同じく入り口に残った長身の男性へ視線を送る。
「あの……」
沈黙に耐え切れないという訳では無かったが、蒼が行ってしまい男性と二人で残されてしまった以上何も話しかけないというのもとても気不味い。蒼によって布団の上へと置かれた手を握りながら喬久は意を決して男性へ視線を送って声を掛ける。
「失礼」
蒼と入れ替わるようにして寝室へと入ってきた男性は先程蒼がしたのと同じ様にベッド脇へと膝をつき指の甲をそっと喬久の頬へと当てる。それは甚く無表情で近くで見るとまるで人形の様だった。喬久がじっと視線を向けているのに気付いた男性はそっと手を下ろしてから身体の前で礼儀正しく手を組む。
「熱は下がったみたいですね。どうやら座薬が効いたようです」
「座、やっ……!?」
男性の指摘通りいつの間にか熱が下がっていた事だけは認識していた喬久だったが、告げられた座薬という言葉に耳を疑った。子供の頃しか経験の無いものではあったが大人になった今それを使うという事は非常に気が引ける。勿論自身で挿れた覚えもないし挿れられる訳も無い。自分以外の誰かが挿れたと考えるのが一番適切ではあったが、意識の無い間に誰かにそのような事をされたかもしれないという事実は喬久の羞恥心を激しく煽った。熱は下がったはずなのに全身が熱くなってきているように感じ、耐え切れない恥ずかしさに喬久は両手で顔を覆っていた。
喬久の動揺に気付いた男性はその意味を察すると少し喬久に気を許したのか口元に緩く笑みを浮かべる。
「……ああ、ご心配なく。座薬を入れたのは私では無く社長なので、ご安心を」
「あのっ、貴方、は……?」
男性が称する『社長』という存在が蒼であるという事は先程からのやり取りからも分かっていた。蒼ならば羞恥が消えるという訳では無いが、初対面の人物から座薬を挿入されるよりはずっとマシだった。先程から蒼を社長と呼んでいる事から蒼の会社の関係者である事は分かっていた喬久は、少しずつ状況が読み込めてくると顔を覆う手を下ろし男性へゆっくりと顔を向ける。
喬久から問われた男性は喬久が蒼から何の説明も受けていない事に驚きつつ一連の状況から考えると知らなくても無理は無いと納得し、改めて姿勢を正すと右手を自らの左胸へとそっと添える。
「失礼しました。私は秘書のようなものです。普段はオンラインでサポートさせて頂いているのですが、今日は急にご連絡を貰いまして」
「はあ、秘書……」
蒼の秘書を名乗るその男性は蒼が会社を立ち上げた頃からの付き合いで、主に案件関連での調査や取次の業務を主としていた。それは必ずしも対面で行う必要がある訳では無く、通信環境さえあればどこでも秘書業務を行う事が出来た。喬久がその存在を知らなかったのも無理は無く、喬久が以前二度この部屋に来た時もその影は無かった。
病み上がりであるからなのか、どこか煮え切らない喬久の返事にその心境を探る秘書だったが、秘書自身は蒼から喬久が恋人関係である事を聞いており、それを前提として考えた時喬久が危惧する内容を理解する事が出来た。
「ご不安にならずとも、社長と肉体関係はありませんよ?」
指摘された内容が一切頭に過らなかったといえば嘘になるが、蒼が元々妻帯者であり異性愛者である事を知っていた喬久は間違ってもこの秘書との男性の間にそういった関係性があると本気で考えていた訳では無かった。
「そんな心配はしてなくてっ……」
「ではこちらのご心配でしょうか」
分かってたいたつもりでも相手の口から告げられると心の中を見透かされてしまったかの様に思えてしまい、慌てふためく喬久の様子に合点が行った秘書はベッドに片腕を付き喬久の耳元へ唇を近付けそっと囁く。
「貴方の部下が信号で突き飛ばされた件、その時間社長はこのご自宅でオンライン会議にご参加中でした」
告げられた言葉に喬久の心臓が大きく高鳴る。疑念を抱いたまま一度も直接蒼へ問い質していない内容だった。八雲が事故に遭った事だけなら少し調べればすぐに分かる事ではあったが、その犯人が蒼に似た風貌の人物であった事は喬久が八雲から直接聞いた内容であり、疑念は喬久の頭の中にしか無いものだった。見透かした様な秘書の言葉に喬久の目は大きく見開き身体を離す秘書を凝視していた。
「必要でしたら然るべき機関に依頼して確かに社長がご自宅から出ていないという証拠を提出しましょう」
ずっと誰かに否定して欲しかった、蒼がそんな事をする訳が無いと。喬久自身はそうであると信じたかったが、蒼の口からやっていないという答えを聞きたかった。それが蒼本人ではなく秘書の口から告げられたとしても喬久にとっては同じ事で、第三者の口から疑惑を全て覆す発言を受けた喬久の瞳は大きく揺れた。
「蒼さんじゃ……ない……」
蒼を信じたいという気持ちを持ちながら、もし本当に蒼がやったのだとしたらそれでも喬久は蒼の罪全てを受け入れる覚悟だった。秘書の口から告げられた瞬間喬久の内に浮かんだのは心からの安堵で、どこかで蒼が犯人だったのかもしれないという考えを捨てきれていなかった自分自身に絶望した。
「真犯人をお知りになりたいですか?」
秘書の指が喬久の目元に触れる。見ると大粒の涙を掬い上げ、秘書は心持ち優しい口調で喬久に尋ねる。その言葉にはどこか温かみがあり、もう流す涙は二度と無いと思っていた喬久の目からは次から次へと涙が溢れ続ける。蒼で無いのならそれで良い、その事実が分かっただけで喬久には充分だった。
「……いいえ」
「後は、ご自身の口から社長にお伺い下さい」
数日前からずっと感じていた体調不良、単純に疲労のせいだろうと考えていた喬久だったが、張り詰めた緊張の糸が切れた反動か翌朝ベッドから起き上がる事もままならず、体温計で熱を計ってみたところ三十八度後半を記録した。
「ああ、もうほんと……ツイてな」
連日駒場に任せきりとなってしまっている状態は非常に心苦しかったが、通話口で状況説明をしたところ、逆に不安が増すだけなので何も考えずに今日は養生して欲しいと伝えられた。全休ともなれば流石に連絡は部署内だけに留まらず上長にあたる山城や四條にも伝わる事になる。迷惑を掛けた事を思い悩むよりも今は身体を治す事が最優先事項であり、一連の出来事からも頭を切り離し、ただただ心と身体を休める事に決めた。
熱が下がる様子も無く、布団から出ようとしても頭と全身が鉛の様に重く動く事すらままならない。当然医者に行ける余裕も無く、自宅に薬を常備してある訳では無い。あったとしても薬を飲む前に何かを胃に入れなければならなかったが、元からあまり自炊をしない喬久の自宅には食材すら無い。ただこうして大人しく寝転がって少しでも熱が下がり外へ出られる体調になるまで待つ事しか出来なかった。
汗で全身に纏わりつく寝巻きが気持ち悪くて仕方無かったが身体を拭く事や着替える事も出来ず、ただ熱が下がる事だけを呆けた頭で待ち続けていた。一日でも早く体調を元に戻して解決しなければならない仕事は山程ある。第一に駒場や平町に任せきりにしてしまった仕事の対応や、八雲の傷病休暇の手続き。蒼とも再度ちゃんと話さなければならなかったし、和己にも確認しなければならない事がある。
高熱を出したのは子供の頃以来かもしれない、しかし今は看病をしてくれる親や同居人が居る訳でも無い。病床において人は心細くなりやすいものであり、このまま孤独死するのではないだろうかという荒唐無稽な考えさえ頭に浮かんでしまう。
たかが熱如きで遠方から親を呼びつけられる程若くはないし、幾ら親友であっても所帯を持っている和己に声を掛けるのも何かが違う。千景との仲は良好だったが自宅に呼び付ける程の仲でも無い。こういう時こそセフレを呼び付けて良いのかもしれないが、下手にうつしてしまえばその後の仕事に影響を及ぼしてしまう可能性もある。
熱に魘され夢現の中、喬久は無意識にスマートフォンを手にしていた。喬久の体調を気遣って職場からの連絡が入る事は無かったが、それでも気にしてしまうのは現代における依存症の一種ともいえる。
滅多に使う事の無い蒼とのトークルームを気付けば開いていた。送るつもりもなく一文字ずつ指を滑らせ文字を入力する。それはたった四文字――会いたい――言葉で伝える事が出来たならどれだけ楽な事だっただろう。いつだって蒼からの呼び出しに応じるばかりで、喬久が初めて蒼と会う事を自ら望んだのは件のストーカー疑惑を尋ねる時だった。
ただでさえ忙しい蒼の負担になりたくは無かった。忙しい時に連絡をしてしまい煩わせて嫌いになられる事が一番怖かった。突然会いたいと伝えたあの日も蒼は嫌な顔ひとつせずに自分の事を迎えてくれた。きっととても忙しかったに違いないのに。訪問した時点でも疲れた顔をしていたのに、そんな蒼を余計に困らせてしまった。聞く事はいつでも出来た筈なのに、蒼を気遣う余裕も無く真実を知りたいという自らの意志を優先してしまった。
後悔だけが気弱になった喬久の頭の中を駆け巡る。体調を治したらまず一番に蒼に謝ろう、また自宅に押し掛けては迷惑になるかもしれないし蒼の方からも会いたくないと思われているかもしれない。着信で告げる事も蒼の時間を拘束して消費してしまう、だからたった一言のメッセージでも良い、蒼がいつ見ても構わない、もしかしたらブロックされていてその言葉は蒼に伝わる事は無いかもしれない。それでも喬久は蒼に謝罪の言葉を伝えたかった。
「あおい、さん……」
夢と現実の境界が曖昧で、先程まで蒼にメッセージを送ろうとしていたのが夢だったのか、どこからが現実なのか。熱でぼやけた視界の中、映るのは見慣れた自室の天井。ぼんやりと誰かの人影が見えた。
自宅に自分以外の誰かが居る訳は無く、まだ夢の続きであるのかも定かでないまま目を細める喬久の耳に微かに声が届く。
――喬久。
「あおいさん……?」
あまりにも心細すぎて、都合の良すぎる夢を見ている事に喬久は口元を緩めた。蒼が此処に居る訳が無い――居てくれたのだとしたらどんなに嬉しい事だっただろうか。伸ばされた手が頬に触れ、ひんやりと冷たい。熱に浮かされた喬久にとってはそれがとても心地よく、伸ばされた腕に手を添え抱きかかえるようにして身を転がした。
「蒼さん、好きです……すき」
もし許してくれるなら、今度こそちゃんと自分の口で蒼に好きだと伝えたい。実際蒼の目の前でそれが言えるかは分からなかったが、夢ならばこうやって幾らでも口に出して伝えられる。この夢ならばいつまでも覚めないでいて欲しい。現実は――今の喬久にはもう辛すぎて、それも病の上で表面化した喬久の心の弱さだった。
苦しそうに寝入る喬久の姿、それを見下ろす男がひとり。
「喬久……」
寝顔は今も昔も変わらない。何も変わらないまま、こうして喬久との関係を続けていられればそれで良かった。――それなのに、どうして。
和己は喬久の身体を跨ぎ、薄くなった鬱血痕が残るその首に両手の指を絡ませる。
「……お前が、他の奴のものになるくらいなら」
確かに想いは通じ合っていたはずなのに、どこで道を違えてしまったのか。こうなる事が分かっていたならば、もっと早くに喬久を自分の物にしておけば良かった。そうすれば誰かに奪われる恐怖で怯える必要も無かった。
親指に力が入り喬久の頸動脈を締め付ける。苦しいのか、僅かに眠る喬久の表情が歪んだ。だけれどもうこれしか方法が残されていなかった。喬久だけを愛していた、子供の頃からずっと。零れ落ちる涙が喬久の頬を濡らす。
「――やめとけよ」
「ッ!?」
和己と喬久以外の誰も居る筈が無い室内。不意に届いた言葉に和己は心臓が跳ね上がるほど驚き、喬久の首から手を離すと同時に声がするリビングを振り返った。そこには知らない男がひとり――面識のある相手では無かったが、和己はたしかにその人物を知っていた。
肩に掛かる程度の長い髪と百八十センチを超える長身、ニットにジャケットというラフな格好でありながらその出で立ちには気品があり、初めて対峙した和己から見ても女性にモテる男である事が分かる。喬久から偽装恋人の話を聞いた翌日すぐに興信所に素行調査を依頼をした。喬久の元上司であり現在は独立して勢いのあるスタートアップ企業のCEO、三田蒼。
リビングから寝室に通じる扉の柱に背中を預けたまま、腕を組んで和己を見ていた。その立ち姿はさながらファッションモデルの様でもあり、男の和己であっても思わず見とれてしまいそうだった。
蒼が見つめる視線の先にあるのは、病床に伏し昏睡状態の喬久とその上に跨り今正に喬久の首を絞めていた人物。蒼はその人物については何も知らなかったが、少なくとも喬久に危害を加えようとしていた人物であるという事は知っていた。こうして対面するのはこれが初めてではあるが、その存在だけは喬久自身の口から何度も聞いた事があった。
「君が喬久の言ってた『親友』だろ?」
大切な親友であると喬久は言っていた。それも気軽に自宅へ入れるような――喬久の性格上、例え親友であっても自宅の鍵を預けている可能性は限りなく低く、何度も招かれた事があるとするならば合鍵を作っていたとしても不思議では無い。蒼にはその仮説を裏付ける明確な証拠があった。
「アンタっ……」
「喬久から離れろ」
蒼の言葉と眼光は鋭く、まるで蛇に睨まれた蛙のように凍り付いていた和己だったが逃れられぬ現場を目撃され、取り繕う言葉も持ち合わせていない事実を理解すると指示されるまま大人しく跨いでいた喬久の上から降り、ベッド脇に両足を付く。
自宅の寝室で二人の男が言い争っている状況にあっても喬久は目を覚ます様子が一切無く、呼吸器官が解放された事から幾分か安らかな寝顔に変わっていた。
子供の頃はよく互いの家でお泊まり会などをした事もあった。その頃と何も変わらないあどけない寝顔。あの時のまま居られたら良かった。何ひとつ変わらず純粋な想いのまま。
「……なんでここに」
「可愛い恋人に『会いたい』なんてメッセ送られて来ない訳ないだろ」
蒼の片手に握られていたのは複数台所有しているスマートフォンの内のひとつで、蒼はそのスマートフォンで軽く口元を隠す様に傾けながら招かれざる客である和己の存在に目を細める。蒼が喬久の部屋に入ったのは先日の一度きりだったが、その時から違和感を覚えていた。
寝室を一通り見渡し、クローゼットやその上に置かれた荷物、床に散らばる脱ぎ捨てられた靴下類、そして毛布を抱くベッド上の喬久へと順に視線を落として行く。
「君は――盗聴器でずっと喬久の部屋の事探ってた?」
「なん、でそれ……」
蒼からの指摘に和己の瞳孔が収縮する。気取られる訳が無いと思っていた、事実喬久は何年もそれに気付いていない様子だった。それをつい先日たった一度この部屋に足を踏み入れただけの男に悟られる訳が――無い、と断言出来なくも無かった。
「ストーカー被害受けてたからね。盗聴器発見器くらいいつでも持ち歩いてるんだよ」
昨今の盗聴器発見器は性能を問わなければ一般人でも持ち歩ける程度には安価な物となっており、滅多な場合で無い限り常に持ち歩くようにしていた。蒼が常備していたのは薄型で、付近に違法電波の可能性があれば音を出さずに振動で教えてくれるタイプのものだった。
「喬久の部屋で反応あったのは驚いたけど。やっぱ犯人『親友』の君だったんだ?」
喬久の自室でその発見器が反応を示した事は蒼にとって青天の霹靂にも似た驚きだった。喬久本人はそれを気にしているような様子も無く、無闇に不安を煽る必要は無いと考え敢えてそれを喬久に教えるような事はしなかった。
「喬久に余計な事言ったのも君だよね?」
突然の訪問と話していなかったストーカー存在の有無、喬久らしくないその行動の裏には第三者の関与がある事は確実だった。調べてみればそれは喬久にとても近しい人物で、且つその人物が喬久の話していた幼馴染の親友であるという事が分かった。
想いを否定するつもりもなく、その意味でいえば蒼と和己は同じ立場の人間であった。しかし虚偽の情報で相手を惑わせ判断不能の状態に追い込む事は蒼からすれば許し難い蛮行だった。蒼が和己に向ける視線は侮蔑以外の何物でも無く、和己が喬久にとって大切な親友であると知った上でも蒼は和己に対しての認識を改めるつもりは無かった。
「……喬久に、言うつもりですか?」
もしこの場で喬久を人質に取って何かしらの行動を起こすつもりならば、蒼は手にしたスマートフォンで直ぐに助っ人を呼ぶつもりだった。その予想を覆す和己の呻き声にも似た小さな言葉に蒼は僅かに肩の力を抜く。
「――言わないよ。喬久には何も。だから」
親友に謀られていたという事実を知れば喬久はこれまで以上に傷付く事となるだろう。悔しいが共に過ごした時間だけは蒼でも塗り替える事は出来ない。喬久を傷付けずに事を治められるならばそれで良い、しかしそれは全て和己の決断と行動に懸かっていた。
「喬久の君に対する信頼、これ以上裏切らないで欲しい」
「……お邪魔しました」
幸いにも喬久を想う和己の気持ちは蒼と変わらず、目の前の凶行を見逃されただけでは無く喬久には何も伝えないという申し出に和己の命は首の皮一枚で繋がった。しかし蒼の言葉に込められた意味は見逃す代わりに喬久からは手を引けという圧力でもあった。
ここで醜く足掻けるほど和己も愚かでもなく、喬久が真実を知る事の方が脅威であると理解した和己は蒼には視線も向けず俯いたまま喬久の寝室を部屋を後にした。
「……あれ?」
喬久が目を覚ました時、そこは見知らぬ天井だった。熱を出して自宅で寝ていた事だけは覚えていた喬久だったが、そこから先の記憶が一切無い。夢現に蒼の声が聞こえた気がしたが、未だに夢と現実の境界が曖昧だった。自分の部屋よりも天井がずっと高く、恐らくリモコンで操作するタイプの照明は喬久の部屋には無いものだった。喬久はその照明に見覚えがあった。
「蒼さんち……?」
高い天井と見覚えのある照明の形、当時は泥酔状態ではあったが以前見たものに酷似していると感じた喬久はそれを確認するようにベッドから身を起こす。するとやはりそのスプリングの弾力も覚えがあるもので、薄暗い室内ではありながら見覚えのある家具に視線を送る。
「俺、自分の部屋で寝てたよな……スマホ……」
蒼の自宅で間違いは無さそうだったが、喬久は蒼の部屋へ来た覚えが無かった。起き上がった事で分かったのは見覚えの無い寝巻きを着ていることだった。汗を掻いていたのにも関わらずシャワーでも浴びたようにすっきりしていて、あれだけ重かった頭も嘘の様に軽くなっていた。
処理しきれない情報に喬久は普段の癖でスマートフォンを探すが周囲には見当たらず、蒼の自宅ならばどこかに蒼が居るはずだろうと片脚をベッドから下ろし床に付けた時、寝室の扉がそっと開かれる。
「ああ」
廊下から室内を覗き込んできたのは蒼では無く、喬久の知らない男性だった。身長は蒼と同じ位か、上半身しか見えなかったがすらりと細身で背中まである長い髪をひとつに結っていた。廊下の方が明るく輪郭しか見えなかったが、眼鏡の様なものを掛けている事は分かり、顔を動かすとさらりと小さな金属音がした。
「え……」
蒼の自宅である筈なのに、蒼以外の存在に驚いた喬久は思わず声を上げるが、部屋を覗き込んだ男性は喬久の驚きなど気にも留めぬ様子で寝室から身を引きリビングがあるべき方向へと顔を向ける。寝室から身を引いた事で僅かに相手の風貌が分かるようになり、ノーネクタイのワイシャツに濃い灰色のジレベストを纏うその姿は一見して自らと同じ会社員のようにも見えた。
「社長」
口を開けば低く薄く良く通る声、しんと静まり返った廊下に吸い込まれていったその声だったが、一度の呼び掛けだけでは必要な相手に伝わる事は無く、男性は寝室の扉を半分開けたまま音もなくリビングへと歩いて行った。その人物が喬久の視界から姿を消して数秒後、リビングの扉を開く音が響いた次の瞬間――。
「なあ俺言ったよな!? スケ管甘いって! ギリギリで間に合えばいいんじゃねぇんだよっ! 何のためのバッファか分かってんのか!?」
静寂を切り裂く蒼の怒鳴り声が空気を震わせた。その声は当然寝室という隔てた場所に居た喬久にも届いており、そういえば仕事中の蒼は熱が入りやすい人物であったと喬久は懐かしさを覚えた。
「社長、社長……」
「わざわざこないだそっちまで行ったのに何も変わって無ぇじゃねえか! 何回同じ事言えば分かる訳!?」
男性はリビングの作業スペースでディスプレイに向かい、リモート会議の相手に堪忍袋の緒が切れんばかりの熱量で叱責の言葉を向けていた。あまりに白熱していた為リビングに男性が入ってきて事にも気付いておらず、意識はケーブルに繋がるスピーカーへ向いており、男性が意識外の真横から声を掛けても一切耳に入ってきていなかった。
「――社長」
その状態は男性にも手に取るように分かり、目の前の会議も大事ではあったが何度注意しても何がいけない事であるのか理解しない限りは同じ事を繰り返す堂々巡りであり、そんな事に時間を割くだけ無駄と判断すると蒼の意識を自分の方へと向けるように拳でテーブルを叩きつけた。
その音は蒼だけではなくリモート先の相手にも尋常で無い様子が伝わる程で、当然寝室の喬久も何事かと息を呑む程だった。しんと静まり返ったリビングでようやく蒼の意識を捉える事が出来た男性は硬直して振り返る蒼に目を細める。
「聞け」
「――は、はい」
男性から喬久が目を覚ましたという報告を受けた蒼は目の前の会議を放り投げ一目散にリビングを出て寝室へと向かう。リビングに残された男性はカメラ越しに会議相手を一瞥すると左腕の時計へ一度視線を下ろす。
「喬久っ!」
「……蒼、さん」
落ち着きの無い足音が近付いてきたかと思えば、半分開かれていた寝室の扉を勢いよく開き倒れ込みそうな勢いで蒼が飛び込んでくる。蒼と一度話をしなければならないと考えていた喬久だったが、病床に伏せていた事もあり実際に向き合った時なにから伝えれば良いかを考えておらず、突然現れた蒼の姿に二の句を告げられぬままだった。
「蒼さん、あの、俺っ」
喬久は蒼と最悪の別れ方をしてしまった事しか覚えておらず、倒れかけつつも扉に捕まり踏ん張る蒼に何かを言わなければと言葉を探す。自分以上に慌てる喬久の姿を視認した蒼は肩の力を抜き、落ちかけていたシャツの袖を捲り直しながらベッドに身を預ける喬久へと歩みを寄せる。
目を覚ました時自宅以外の場所に居たならば喬久でなくとも驚く。喬久の許可も取らず無断で連れてきてしまった事には詫びるしか無い蒼だったが、込み入った話をする前にとベッドの傍らに膝を付くと喬久の頬に手を添え顔を近付け互いの額をくっつけた。室内が薄暗い為顔色は良く見えなかったが、手から額から伝わる喬久の体温は自分と然程変わらず、山が通り過ぎた事に蒼はほっと安堵の息を吐く。
「熱は下がったみたいだな。もう起きて大丈夫なのか? 吐き気とかどっか調子悪そうなとこあるか?」
こんな状況であっても自分の事を心配する蒼の優しさに喬久は胸を締め付けられる。何故蒼の部屋に居るのかなど聞きたい事は幾つもあったが、伝えなければならない事が多すぎて上手く言葉が選べない。
「いえ、大丈夫です。それよりあのっ――」
「社長、時間です」
咄嗟に顔を近付けた蒼の肩を掴んだ喬久だったが、何かを告げようと口を開いたその瞬間寝室を覗き込んだ先程の男性の言葉に遮られた。
掛けられた言葉から次の予定が差し迫っている事に気付いた蒼は肩に置かれた喬久の手を両手で掴みその場に下ろさせる。
「ごめん喬久、後もう少しだけ待っててくれ。仕事終わらせるから。そしたらちゃんと話そう?」
「え、あっ……」
先程聞こえた熱量の高い会話からも分かるように蒼が現状仕事に忙殺されている状態である事は喬久にも察する事が出来た。そんな状況にあるにも関わらず駆け込むように寝室に現れた蒼の思い遣りを騙していると受け取れる程喬久は捻くれてもいなかった。
「社長」
「分かってるって!」
躊躇いを見せる背中へ再度掛けられる言葉に蒼は意を決して立ち上がる。蒼としても目覚めたばかりの喬久を残していくのは本望ではなかったが、分単位で予定されている会議スケジュールをずらせば余計に仕事の上がりが遅くなる。喬久の手を大切そうに掛け布団の上へと置いた蒼は、寝室を出る際男性の肩へと手を置きアイコンタクトを送ってから落ち着かない様子でリビングへと戻って行く。
疾風の様に蒼が現れては去っていき、寝室に残された喬久は同じく入り口に残った長身の男性へ視線を送る。
「あの……」
沈黙に耐え切れないという訳では無かったが、蒼が行ってしまい男性と二人で残されてしまった以上何も話しかけないというのもとても気不味い。蒼によって布団の上へと置かれた手を握りながら喬久は意を決して男性へ視線を送って声を掛ける。
「失礼」
蒼と入れ替わるようにして寝室へと入ってきた男性は先程蒼がしたのと同じ様にベッド脇へと膝をつき指の甲をそっと喬久の頬へと当てる。それは甚く無表情で近くで見るとまるで人形の様だった。喬久がじっと視線を向けているのに気付いた男性はそっと手を下ろしてから身体の前で礼儀正しく手を組む。
「熱は下がったみたいですね。どうやら座薬が効いたようです」
「座、やっ……!?」
男性の指摘通りいつの間にか熱が下がっていた事だけは認識していた喬久だったが、告げられた座薬という言葉に耳を疑った。子供の頃しか経験の無いものではあったが大人になった今それを使うという事は非常に気が引ける。勿論自身で挿れた覚えもないし挿れられる訳も無い。自分以外の誰かが挿れたと考えるのが一番適切ではあったが、意識の無い間に誰かにそのような事をされたかもしれないという事実は喬久の羞恥心を激しく煽った。熱は下がったはずなのに全身が熱くなってきているように感じ、耐え切れない恥ずかしさに喬久は両手で顔を覆っていた。
喬久の動揺に気付いた男性はその意味を察すると少し喬久に気を許したのか口元に緩く笑みを浮かべる。
「……ああ、ご心配なく。座薬を入れたのは私では無く社長なので、ご安心を」
「あのっ、貴方、は……?」
男性が称する『社長』という存在が蒼であるという事は先程からのやり取りからも分かっていた。蒼ならば羞恥が消えるという訳では無いが、初対面の人物から座薬を挿入されるよりはずっとマシだった。先程から蒼を社長と呼んでいる事から蒼の会社の関係者である事は分かっていた喬久は、少しずつ状況が読み込めてくると顔を覆う手を下ろし男性へゆっくりと顔を向ける。
喬久から問われた男性は喬久が蒼から何の説明も受けていない事に驚きつつ一連の状況から考えると知らなくても無理は無いと納得し、改めて姿勢を正すと右手を自らの左胸へとそっと添える。
「失礼しました。私は秘書のようなものです。普段はオンラインでサポートさせて頂いているのですが、今日は急にご連絡を貰いまして」
「はあ、秘書……」
蒼の秘書を名乗るその男性は蒼が会社を立ち上げた頃からの付き合いで、主に案件関連での調査や取次の業務を主としていた。それは必ずしも対面で行う必要がある訳では無く、通信環境さえあればどこでも秘書業務を行う事が出来た。喬久がその存在を知らなかったのも無理は無く、喬久が以前二度この部屋に来た時もその影は無かった。
病み上がりであるからなのか、どこか煮え切らない喬久の返事にその心境を探る秘書だったが、秘書自身は蒼から喬久が恋人関係である事を聞いており、それを前提として考えた時喬久が危惧する内容を理解する事が出来た。
「ご不安にならずとも、社長と肉体関係はありませんよ?」
指摘された内容が一切頭に過らなかったといえば嘘になるが、蒼が元々妻帯者であり異性愛者である事を知っていた喬久は間違ってもこの秘書との男性の間にそういった関係性があると本気で考えていた訳では無かった。
「そんな心配はしてなくてっ……」
「ではこちらのご心配でしょうか」
分かってたいたつもりでも相手の口から告げられると心の中を見透かされてしまったかの様に思えてしまい、慌てふためく喬久の様子に合点が行った秘書はベッドに片腕を付き喬久の耳元へ唇を近付けそっと囁く。
「貴方の部下が信号で突き飛ばされた件、その時間社長はこのご自宅でオンライン会議にご参加中でした」
告げられた言葉に喬久の心臓が大きく高鳴る。疑念を抱いたまま一度も直接蒼へ問い質していない内容だった。八雲が事故に遭った事だけなら少し調べればすぐに分かる事ではあったが、その犯人が蒼に似た風貌の人物であった事は喬久が八雲から直接聞いた内容であり、疑念は喬久の頭の中にしか無いものだった。見透かした様な秘書の言葉に喬久の目は大きく見開き身体を離す秘書を凝視していた。
「必要でしたら然るべき機関に依頼して確かに社長がご自宅から出ていないという証拠を提出しましょう」
ずっと誰かに否定して欲しかった、蒼がそんな事をする訳が無いと。喬久自身はそうであると信じたかったが、蒼の口からやっていないという答えを聞きたかった。それが蒼本人ではなく秘書の口から告げられたとしても喬久にとっては同じ事で、第三者の口から疑惑を全て覆す発言を受けた喬久の瞳は大きく揺れた。
「蒼さんじゃ……ない……」
蒼を信じたいという気持ちを持ちながら、もし本当に蒼がやったのだとしたらそれでも喬久は蒼の罪全てを受け入れる覚悟だった。秘書の口から告げられた瞬間喬久の内に浮かんだのは心からの安堵で、どこかで蒼が犯人だったのかもしれないという考えを捨てきれていなかった自分自身に絶望した。
「真犯人をお知りになりたいですか?」
秘書の指が喬久の目元に触れる。見ると大粒の涙を掬い上げ、秘書は心持ち優しい口調で喬久に尋ねる。その言葉にはどこか温かみがあり、もう流す涙は二度と無いと思っていた喬久の目からは次から次へと涙が溢れ続ける。蒼で無いのならそれで良い、その事実が分かっただけで喬久には充分だった。
「……いいえ」
「後は、ご自身の口から社長にお伺い下さい」
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