その蝶、猛毒につき

椎玖あかり

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第十八章 謝罪と自覚

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 Ⅷ号室――真香の部屋
「済まなかった」
 当初の予定から大幅に遅れ、昼過ぎに寮へと到着した千景は茅萱と共に真香の部屋に居た。千景を休日に寮へと呼び出したのは茅萱で、それは詩緒の口から千景へと伝えられていたものだった。理由は当然真香に対しての謝罪への立会いで、茅萱が真香に謝りたいとの相談を斎から受けた詩緒は中立の立場で尚且つ事を荒立てない為に四条では無く千景へ立会いを求めた。威圧感でいえば綜真も千景も似たようなものではあったが、千景は立場上そういった場では中立に徹する必要があり、真香も千景が居れば安心だろうといった経緯で千景に白羽の矢が立っった。
 病み上がりの上綜真からの暴行を受けた千景に今そんな事を頼むのはとても心苦しくもあったが、謝罪をするならば早い方が良いと考えた詩緒は真香自身も説得し、真香の部屋で茅萱からの謝罪を受ける事に同意をさせた。
 自分も同席した方が良いのではないかと最後まで踏み止まった斎だったが、今回の謝罪は二人の過去に関するものであり斎が茅萱と寄り添いたいと考える気持ちは雑音にしかならないとして、斎は茅萱が来ている間絶対に部屋から出るなと詩緒に強く言われていた。
 千景は真香を前にした茅萱が頭を下げる様子をただ見ているだけの存在だったが、茅萱の謝罪はこれまでの非を認めた心からの謝罪に見え、それを許すかどうかは真香の心次第であるとちらりと真香へ視線を向ける。図らずも真香の度重なる自殺未遂の原因を知っていた千景は思わず真香に肩入れしてしまいたくなる気持ちもあったが、最近の真香の精神面は以前よりもずっと安定していてこの場ではやまった事をする事は無いだろうと判断出来たのは、真香がこうして茅萱と向かい合う事を了承したからだった。
「……頭、上げてください」
 二人の間に走る緊張を先に破ったのは真香の一言だった。真香の言葉を以ても茅萱は決して頭を上げる事は無く、直立不動のまま微動だにしないままだった。当人が上げろと言っているのだからいつまでも下げ続けている事は無いと千景が茅萱の肩を軽く叩くと茅萱は漸くゆっくりと頭を上げて正面の真香を見据える。
 真香の言葉はもう全てを許しているという意味なのか、今さら謝罪は必要無いという意味なのか判断が付きかねる千景は自分ならば頭を下げただけでは到底許しきれないと考え、真香の気が済むようにさせるのが茅萱の禊であると何の感情も見せない真香に僅かな選択肢を提示する事にした。
「本田、これで気が済むか? 土下座でもさせる?」
「……土下座でも何でも。本田が望むならどんな要求にでも応える」
 それだけの事をした自覚が茅萱にはあった。茅萱が傷付けた人物は真香だけに限った事では無かったが、今後斎との事を考えるにあたって真香に対する謝罪は最低条件であり、真香が許さない限りは斎の側に居る事は出来ないと茅萱は考えていた。それは茅萱自身の為だけではなく、斎と真香の今後の関係性の為でもあった。
 千景から提示された土下座も辞さないと茅萱はその場に両膝を付く。切腹しろと言われれば茅萱は切腹でもしただろう。丁度千景という介錯人も居た事で、刃物を用意する時間さえ与えられれば茅萱は真香の目の前で切腹をする覚悟もあった。
「あ、分かった」
 茅萱が床に両手を付いた直後、真香が声を上げた。漸く真香の中でも折り合いの付く方法が思い付いたらしく、床に手を付いたまま真香を見上げる茅萱に真香はにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ茅萱さん、俺の事抱いて下さい」
「……え?」
 聞き違いではないかと茅萱は己の耳を疑った。
「本田?」
 まさか真香の口からそんな言葉が放たれるとは思っていなかった千景も真香の正気を疑うように真香の顔を見る。

 Ⅲ号室――斎の部屋
「海老原、入るぞ」
 数度扉をノックしたのみで千景は遠慮なく斎の部屋の扉を開ける。仮に何か立て込んでいたとしても、それはこんな昼間から興じている斎がただ悪いと考え無遠慮に入室すると、斎は寝室のベッドに腰を下ろしたまま訪問してきた千景に顔を向けた。
「佐野さん」
「病院行ったか?」
 顔を合わせたのは廃ビルの屋上が最後だったが、まともに会話をしたと言えばラウンジから救出した晩振りで、数日見ない間に随分男前振りが上がったなと千景は斎の顔を見て感じた。
 茅萱の謝罪が終わるまで絶対に部屋から出るなと詩緒に固く言われていた斎は特に何か出来る事がある訳でも無く、自分の部屋で茅萱の帰りを待つだけだった。詩緒は真香が茅萱を許すならば自分も茅萱を許すと言い、斎と茅萱の未来は真香の一言だけに掛かっていた斎は気が気では無かった。そんな中訪れてくれた千景の存在に緊張は解れ斎は緩く笑みを浮かべる。
「MRIも撮ったけど異常無いって言われましたよ」
「そっか。良かったな」
 綜真から隣のビルの屋上から転落したと聞いた上長時間目を覚まさなかったという事で気が気では無かった千景だったが、斎の様子を見る限り後遺症などは無さそうだと安堵の表情を浮かべる。寝室に足を踏み入れた千景は梁に背中を預け、そわそわと茅萱の謝罪結果を気にする斎に対して意地の悪い笑みを浮かべる。
「なあ海老原? 本田が茅萱部長に要求した謝罪、何だと思う?」
「立会い頼まれたんでしたよね。え、まさか……会社辞めろ、とか?」
 立会いを頼まれた千景が此処に居るという事は既に謝罪にはけりがついたのだろうかと斎はベッドから腰を浮かせる。結果如何にせよ茅萱から連絡がある筈だと握り締めていたスマートフォンにはまだ何の連絡も無く、結果の分からない斎は詩緒に怒られようが直接真香の部屋へと乗り込むしかないのではないかと立ち上がって玄関に視線を向ける。
「その方が幾らか平和的だったよなあ。『抱いて』だってよ」
 茅萱の退職を望まれた方が事は穏便に済んだ。しかし真香が茅萱に求めたのは性行為そのものであり、斎のみならず茅萱の心中を考えた上でも謝罪という意味ならばとても効果的であると千景は改めて真香のその悪魔的な思考に感心せざるを得なかった。
「まじでっ……!?」
 しかしそれは斎にとっては笑い話で済むような話では無く、千景の一言に青褪めた斎は咄嗟に玄関に向かって駆け出していた。三和土に足を付き玄関扉を目の前にした斎はその時ある事に気付いた。
「あ、あの、佐野さん」
「なに?」
 玄関前、それは入寮の日斎が強引に千景へ手を出そうとした場所だった。警戒をしていた千景は決して斎の部屋の中に入ろうとしなかったが、腕を掴んで強引に部屋の中へと連れ込んだのは斎だった。その千景が今はこうして警戒をする事も無く自ら寝室まで入ってきていた事に気付いた斎は改めて千景に働いた非道を後悔した。
「もう、凄い遅いんですけど……みんな、玲於くんの前で俺たちの関係バラしちゃって、本当にすいませんでした」
 真香が茅萱を許すか以前に、自分が千景に許されるかというのも大切な問題だった。あのラウンジから助け出されたという事実はあっても、それが斎が千景にした行いを許したという事にはならない。千景は分室のプレイングマネージャーとして斎を助け出したに過ぎなかった。
 ノブに手を掛けたまま斎は千景を恐る恐る振り返る。茅萱が真香に謝るのならば自らも千景に謝らなければならなかった。斎から突然の謝罪を受けた千景は暫く目を点にして斎を見ていたが、すぐに思い出したかのように両手を打つ。
「……そういえばそんな事もあったか!」
 それ以上の出来事の衝撃が大き過ぎてすっかり忘れてしまっていたと千景は納得したように頷きを繰り返す。自分の方はもうすっかりと忘れていたのに斎の方ではまだ心に引っかかっていたのかと驚いた千景は肩の力が抜けたように気にするなと軽く手を振る。
「でも俺はいい加減な気持ちで佐野さんの事好きだった訳じゃないですよ」
 確かに愛していた事に間違いは無く、少し前までは手に入れられなかった事があんなにも苦しかったのに今は不思議と心が痛くない。千景を大切に思う気持ちは今も変わらず、それは真香や詩緒を大切だと感じる思いと似ていて、自分の手で幸せにしたいと願うのが千景から茅萱に変わっただけの事だった。心配をしなくても千景には玲於が居る、そう思えるようになっていた心境の変化に斎は自ら驚いてもいた。
「知ってるよ。お前しつこい位一途だしな」
 斎が真剣だったからこそその想いを無碍には出来なかった。もし生まれて一度も玲於と出会う事の無い人生を歩んでいたのならば、斎の想いを受け入れる未来もあったかもしれない。ただ玲於という存在が無ければ自分は十年前に死んでいた筈だった。肉体的な死こそ無かったとしても歩む道はそこで変化し、恐らく斎と出会う事も無かった。
「えへへ……」
 自分の想いが全く千景に伝わっていなかった訳では無い事が分かった斎は照れ臭そうに笑う。こんな気持ちで今千景と向き合う事が出来たのは茅萱の存在もあったが、どんなに道を外そうとしても側で支え続けてくれた真香や詩緒という親友の存在も大きかった。
「早く行かないとお前の大好きな茅萱部長が本田抱くぞ」
「そうでした!!」
 千景の一言で現実に引き戻された斎は今起こり迫っている事態の可否を見極めたいと荒々しく扉を開けて部屋を飛び出した。

 Ⅷ号室――真香の部屋
 謝罪の要求までは見届けたので行為の立会いだけは辞退させて欲しいと千景の申し出もあり、部屋に残された真香は場所を移して時間を掛ける必要も無いと今この場で抱いて欲しいと茅萱に要求をした。
 それが真香の望みならばと承諾した茅萱の頭の中に斎の存在が過ぎらなかった訳では無いが、どんな事でもすると言った手前それを拒否する事は出来なかった。真香にベッドへと誘われ唇を重ねれば雄の性として気持ちは盛り上がり、真香の手腕もあり凡そ挿入には事足りる用意は出来た茅萱だったが、いざ及ぼうとしたその瞬間茅萱の手の中で縮こまってしまった。
「……萎えた」
「悪い、もう一回勃たせて……」
 未だかつて挿入行為の直前に萎えた事の無い茅萱は驚き、何としてでも再び使える状態にしなければと自らに指を絡ませるが、真香は溜息を吐き焦る茅萱のその手に自らの手を重ねる。
「もう良いですよ……」
「だけど本田……」
 異論を唱える茅萱の口を真香は自らの唇で塞ぐ。疑似ではあっても一時期は恋人ゴッコをしていた真香をこれ以上騙せる訳も無く、真香が触れるだけの唇を離すと自然と茅萱の頬に涙が伝った。あの頃の真香の目に映っていた茅萱は自信家で隙など一分も無く、今のように焦る姿など一度も見た事は無かった。
「あの時も、茅萱さん一回も俺の事抱きませんでしたよね。いっつも玩具ばっか」
「それは……」
 思えばその時に気付けば良かった、茅萱が自分に本気では無かった事を。それでも当時の真香はただ一人自分を救ってくれる茅萱の事を信じていたかった。茅萱に騙され、見知らぬ何人もの男たちに身体を弄ばれ、衝動的に電車に飛び込みたくなった程に心は一度ずたずたに壊れた。茅萱の甘言にさえ騙されなければあんな目に遭う事は無かった。しかし茅萱との事が無ければその後の詩緒との関係も、斎との関係も恐らく存在はしなかった。
「何で今回斎の事抱いたんですか? 今まで俺以外の何人、道具を抱きました?」
 斎は茅萱と付き合う気があるのだと真香に言った。嘗て自分をぼろ雑巾のように捨てた人間と。何度斎が茅萱の良い所を告げようと、どれだけ綜真や千景から茅萱に対するフォローが入ろうと、真香は自分の目で見極めるまで何も断定はしないでおこうと決めていた。
 今目の前に居る人物は本当に以前自分を騙した人物と同一人物なのだろうか、真香は茅萱の腿に指先を滑らせながら顔を近付ける。何故自分の事は抱かず、斎の事だけは抱いたのか。自分だけを抱かなかったのか、斎だけを抱いたのか、茅萱の返答を待たずとも真香にはその答えが分かっていた。
「……海老原だけ、だ」
「何で?」
 斎にだけ、茅萱の心を動かす何かがあったのだと真香は口元に笑みを浮かべた。斎がどれ程弱くて、依存心が強く、しかし性根から純粋な人物である事を真香は誰よりも知っていた。ただ斎と恋人同士になる事だけは一度も考えた事が無かった。斎の事は可愛いが、真香は一度も斎を抱いた事は無かった。斎がタチだったという事もあり一度も許さなかった事を茅萱にだけは許した。それは確かに千景を茅萱から守る為という大義名分もあっただろうが、恐らくそれが斎の本質だった。斎を幸せにしきれる自信が真香には無かったのだった。
「ねえ茅萱さん、俺利用されてたって分かった時、ほんと死にたい位辛かった」
 その歳に似合わない童顔をずたずたに切り裂いても、二度と使えないようにその男性器を根本から切断して自らに食わせようとも怒りが治まらないほど真香は茅萱を深く恨んでいた。
「うん……」
「だけど斎と榊っていう親友が居てくれたから、俺は今までこうやって生きてます」
 電車に飛び込もうとした真香を詩緒が止め、脅すような形ではあったが詩緒との関係を持ち始め、そこにいつしか斎が加わり三人で居られる事が真香には心地良かった。それでも詩緒には綜真という大切な存在が現れ、次第に斎は詩緒を失う不安に心が不安定になっていた。詩緒には詩緒の幸せを掴んで欲しかったが、斎を真香一人の手で支えられるほど真香も強くは無かった。
 その斎の前に心から幸せにしたいと願う人が現れ、それを否定する事は自分には出来なかった。気の迷いでは無く、茅萱の犯した過ちでさえも受け入れ共に生きたいと願う斎の純粋な気持ちを無碍に出来る程非情にはなりきれなかった。それが斎の幸せであるというのなら真香には背中を押してやる事しか出来ない。
 真香は茅萱の両手を取り正面から茅萱の顔を見据える。
「大きな子供みたいな奴だけど、ちゃんと斎の事大切にしてくれますか?」
「本田……」
 詩緒の背中を押した時もこんな気持だった。詩緒の方がまだ愚図っていて背中を押すどころか背中を蹴り飛ばさなければ素直に綜真の元へと走ってはいかなかったが、その点斎には雑念が一切無く送り出す方としても気が楽だった。
 まるで親目線の真香と嫁に貰う気分の茅萱の雰囲気を台無しにしたのは千景から一連の話を聞き付けた斎の絶叫だった。
「真香ぁああああ! やめてぇえええ!!」
 ノックもせず真香の部屋を開け飛び込んだ斎の目に飛び込んだのは、ベッドの上で向かい合う上半身裸の茅萱と全裸の真香だった。
 斎の絶叫は真香の部屋から一番遠い配置にある綜真の部屋にも届いており、綜真の部屋でソルトを釣って遊んでいた詩緒はその絶叫を聞いて驚愕し咄嗟に部屋を飛び出した。
「うるせぇな斎……」
 半開きになった真香の部屋を覗き込むと玄関前に座り込んだ斎が寝室に視線を向けていた。真香が茅萱に要求した謝罪内容を何となく把握した詩緒はベッドの上で硬直する二人へ視線を送り、斎の背後から真香に向けて下着だけでも穿けと指先で指示をする。
 詩緒からの指示を受けた真香はあたふたと床に散った下着に手を伸ばしベッドから下りて穿き直し、茅萱も茅萱で使用済みの避妊具を慌てて外しティッシュに包んでゴミ箱へと投げ捨てるという証拠隠滅を図るが、ベッドの上へ無造作に置かれた潤滑剤などは既に言い逃れが出来ないものとなっており、その光景を目の当たりにした斎は屈み込んだ状態のままぼろぼろと涙を流していた。
「もしかして、もう……」
 どう見ても空気感が事後ではなく事前のそれだろうと詩緒は感じながらも、斎が大きなショックを受けているこの状況が物珍しく、真香も茅萱に対する遺恨が残っていなさそうだと判断すると腰砕け状態の斎を見下ろし意地悪く笑みを浮かべる。
「それ、どっちに対してショック受けてんの?」
「へ?」
 詩緒からの問い掛けに涙を流したままの斎が振り返る。斎が大きなショックを受けている事は聞かずとも分かる事だったが、それが誰に対するものであるかで意味合いが大きく異なって来る。
「茅萱部長が真香抱いた事? それとも真香が茅萱部長に抱かれた事?」
 改めて詩緒に問われた斎は再び寝室の二人へと視線を移し、たった今ショックを受けたのはどちらに対する嫉妬であったのかと首を傾げて考える。寄り添って生きたいと考えていた茅萱が真香を抱いた事に対してなのか、大切な親友である真香が自分以外の相手に抱かれた事なのか、暫く思い悩んだ結果斎は再び詩緒を振り返る。
「え、っと……どっちだろう」
「やっぱコイツ馬鹿だ」
 確かにショックを受けてはいるが、それがどちらを取られたからの事なのか判断が付かなかった斎は困ったように詩緒へ視線を送るが、この期に及んでまだ自覚が足りない斎に対して詩緒は呆れたように声を上げた。
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