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18 『鷹保』という男

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 ◇◇◇

 隼助が隼助であることをハナ明かし、逃避行を終えて、馬車で去っていったその後。

 隼助は帝都に帰る馬車に揺られていた。馬車内にはじいやがいるだけで、他には誰もいない。
 ガタガタと揺れが強いのは、きっと田舎の砂利道を走っているからだろう。この辺りは周りが田んぼばかりで、帝都のように整備されてはいない。

 隼助は先程まで共に寄り添い、口吻くちづけを交わした相手を思い浮かべた。

『でしたら、私も一緒に! 隼助様のお側にいたいのです! お力になりたいのです!』

 そう言って、側にいてくれようとしたハナを置いてきてしまった。
 間違ったことをしたつもりはない。帝都中の記者に追われるよりも、彼女は村で過ごしてもらったほうが良い。全てを終わらせたら、迎えに行く。

 それに、自分への褒美も後に取っておいたほうが良い。このままハナと逃げ出して二人きりで生きていくなんて、兄の二の舞になるだけで、どこかにしわ寄せが行く。

 そうはさせない。誰にも、自分のような想いはしてほしくない。
 だから、邸宅を出る前に執務室に置き手紙を残して、わざとじいやに迎えに越させたのだ。

「ぼっちゃん、こちら今朝の朝刊です」

 隼助は差し出された新聞を見た。
 一面には大きく、自分のことが書かれている。

「あいつらも懲りないねえ」

 隼助は新聞に目を通しながら、クツクツと喉で笑った。

『帝都一の色男の本性、一夜のシンデレラと逃避行』

 隼助が女中と共に上野発の汽車に乗るところが抜かれている。さらに『中條婦人の本音』と、母の証言が載っている。

「とんでもないことを言ってくれたねえ、あの人は」

『鷹保のお相手は女中の女』
『鷹保自身も女中の子で、自分の本当の子ではない』

 隼助は新聞に踊る文字に肩をすくめた。『血は争えない』と母が門の前の記者たちに怒り狂ったまま怒鳴る姿を想像して、やれやれと頭を抱える。

「じいや、母は」

「ご自身の発言をさら記者たちに追求され、辟易して倒れてしまい……ご自宅で療養しておられます」

「そうか」

 面倒事が増えたと、隼助はため息をこぼした。

 ――さて、どうするかな。

 隼助が下げた視線の先、馬車の足元の隅に、キラリと輝くそれは落ちていた。隼助は手を伸ばし、まだ輝きを放つそれを見つめた。

 ハナに送った靴だ。片一方は、帝劇で脱げ落としてしまったと言っていたが、もう一方を馬車内に置きっぱなしにしていたとは。
 隼助はそれだけで、頬が綻ぶ。

「なあ、じいや」

 隼助はじいやの方を見た。じいやは、何を言われても受け入れる、菩薩のような笑みを隼助に向ける。

「なんでしょう、ぼっちゃん」

「私は、諦めないよ。……今度は」

 隼助は不敵な笑みを浮かべ、誰もいない正面を見据える。じいやもにこりと、口角を上げた。


 馬車が賑やかな街に入る頃には、もう日が暮れかけていた。茜色の空に、ハナの無事を祈りながら、隼助は馬車の中で立てた作戦を思い出す。

「ぼっちゃん、馬車はどちらに向かわせますか?」

「中條邸に」

 隼助がそう言うと、じいやの顔が一瞬ひきつる。

「ぼっちゃん……」

 隼助は不敵な笑みを崩さない。

「私は本気だ」

 隼助は父親の元へと、馬車を向けたのだ。


 それから2週間が経った。
 全てを終わらせた隼助は喫茶アイスクリヰムにいた。

「マスター、これで全部だ」

 入るやいなや大きな茶封筒をマスターに渡し、隼助はカウンターの席に腰掛ける。開店したばかりの店内には、まだ客は隼助しかいない。

「了解」

 マスターは引き換えにチェリーの瓶を隼助に渡した。

「しっかし、本当にいいのかい?」

「ああ、構わない。父親の了承も得ている」

「しばらくは新聞もネタに尽きないだろうねえ」

 マスターが笑うと、隼助も不敵な笑みを浮かべる。
 マスターは隼助にアイスクリームを差し出した。

「私に食え、と?」

 隼助が聞くと、マスターはスプーンを差し出した。

「ハナちゃんが初めて自分の金で買ったのは、うちのアイスクリームだからね」

 隼助の目が一瞬見開かれたのを、マスターは見逃さなかった。

「愛ゆえ、だな。鷹保くんも変わったねえ」

 マスターが笑う。
 隼助はスプーンでアイスクリームを掬った。口に運ぶと、冷たくて甘くい。けれど、すぐに蕩けて無くなってしまう。

 カランカランと、喫茶店の戸が開いた。マスターの顔見知りの新聞記者が入ってきたのだ。

「鷹保、もう3度目だな」

「ああ」

 鷹保と記者は既に顔見知りだ。

「一度目の手紙を出した時、こりゃ大変なことになったと新聞社中が大騒ぎ。でも魂胆があってのことだろう?」

「お前さんのところはなかなか頭が切れる。今まで黙ってくれていたお返しさ。魂胆がなければ、こんなにここに通わないさ。今回で最後、まあ後は上手く書いてくれ」

 マスターが記者に、先程隼助が渡した封筒をそのまま渡す。

「さて、渦中の者はもう帰らねば、店にも迷惑がかかってしまうな」

 隼助がわざとおどけて言う。

「今日の昼にはえらい騒ぎだろうよ。邸宅にこもるのがいい」

「そうさせてもらうよ」

 隼助はケラケラ笑う記者にヒラヒラと手を振ると、片手にチェリーを抱え、早々に喫茶アイスクリヰムを後にした。


 その日の朝刊は、帝都中を激震させた。隼助は執務室の椅子に座り、じいやが持ってきた新聞に目を通しながら、「よくやった」と新聞記者を
心の中で褒める。

『中條家の知られざる秘密、鷹保は鷹保ではなかった』

 その見出しにふっと息を漏らし、立ち上がる。
 きっと門の前には様々な新聞社の記者が詰めかけ、どうせ邸宅から出られやしない。今日は絶好の、ビリヤード日和だ。

 ◇◇◇

 財前はその日、新聞を握りしめて朝からハナの元を訪れた。彼は高笑いをしていて、その気味の悪い声に茣蓙の上で横になっていたハナは目を覚ました。

「ハナちゃん、大ニュースだ。『鷹保は鷹保ではなかった』だと。実に面白い冗談だ」

 ハナは財前に新聞の一面を突きつけられ、ハッと目を見開いた。

「今朝の朝刊だよ」

 そこには、『鷹保』の名が書いてあるのが見えた。

「この間、ハナちゃんが帝劇で鷹保と観劇した次の朝刊、アイツの母が『鷹保のお相手は女中の女』だとか、『鷹保自身も女中の子で、自分の本当の子ではない』とか言ってた記事が出たんだけど、その後婦人は体調を崩されて真偽もうやむやのまま情報が握りつぶされてしまってね」

 言いながら、財前は新聞記事を指差した。

「しかしついに明らかになったようだよ、ほら。噂は本当だと、ご丁寧に中條公の手紙の写しまで入ってるよ」

 ハナは写真の文字までは読めないが、ゆっくりとなら新聞の文字が読めそうだとしっかり文字を目に焼き付ける。

「つまるところ、お前は鷹保に騙されていたんだよ。私はもう読んだから、その紙面はハナちゃんにあげよう」

 鼻で笑いながらそう言う財前から、ハナは目の前の新聞を奪った。

 財前は同時に格子の中にパンを放った。
 ハナは財前邸では家畜のような扱いを受けていた。毎朝「食事だ」と財前が持ってきたパンを格子の中に放るので、土に汚れぬようそれをキャッチする。財前はそれを見ながら、ケラケラと笑い、笑われながらパンを頬張るのはとても屈辱的な気分だった。

 しかし、今日はハナはパンには目もくれず、新聞とにらめっこを続ける。

「ああ、鷹保じゃなかった。隼助、だったな」

 その様子に怒った財前は顔を歪ませて、悪意たっぷりに彼の名を呼んだ。
 けれど、その言葉はハナの右耳から左耳に抜けていく。

「お前のせいで気分を害した、今日の夕飯はなしだよ!」

 財前はズカズカと歩きながら行ってしまった。
 ハナはそれにも気づかずに、格子の近くで差し込む日を頼りに、新聞の文字を一所懸命に追った。

「隼助、様……」

 ハナはかろうじて、読める字を拾っていく。
 『隼助』という文字が読めて、それが彼の名であることを理解し、指でそっとなぞった。
 愛しさが募る。けれど、彼が抱えていた秘密を帝都中に知られてしまったことに、とんでもない胸騒ぎがした。

(『妾』『兄』『身代わり』……。隼助様が一所懸命に一人で抱えておられた秘密は、こうも簡単に暴かれてしまうものなのね)

 隼助は今頃どうしているだろうか。中條公の下で、秘密を暴かれたと弾罪されているのではないか。
 何がどうして中條公がこの秘密に対して弁明することになったのかは分からないが、兄の身代わりをしてきた隼助が、何らかの非難を浴びるのは明らかである。

 記者に囲まれた時、ビリヤードの台の前で、隼助は言っていた。

『時が経てば人は忘れる。今回も、時間が無かったことにしてくれるさ』

 しかし、今回のことを人々は忘れてくれるだろうか。時間が全てを解決してくれるだろうか。
 ハナは不安に押しつぶされそうになりながら、元主で恋しい兄のことを想った。

(どうか、幸せになってください、隼助様。……お兄様。私は、ここで生きていますから)


 しかしその日の夕刻、また財前がハナの前に現れた。新たな新聞を手に、怪訝に眉間に皺を寄せていた。

「ハナ! お前は鷹保の何を知っている!」

 突然怒鳴られて、蔵の隅で膝を抱えていたハナはピクリと身体を揺らした。

「今度は兄だ。兄が中條家を破門してほしいと手紙を寄越したと、丁寧に手紙の写真付きで記事にしてやがる。これで結局はアイツが長男で、事実上の公爵の嫡男だよ」

 財前が叩きつけるように新聞を地面に放った。

「アイツは一体何を企んでいる? 知っているのか!?」

 財前はハナを睨んだ。ハナはただのとばっちりを受けただけだと分かって、ほっと胸をなでおろす。
 財前はそれだけ言うと、ハナの前から姿を消した。ハナはそっと、格子の前に捨てられた新聞に手を伸ばした。
 じきに日が暮れる。財前邸の明りは一晩中消えないが、日が落ちれば文字が読めるような明るさではないのだ。

「お兄様に、隼助様の想いが届いたのね……}

 隼助が兄のことを憎んでいることは、ハナも知っていた。アーモンドの木を恨めしいと嘆きながら、懐かしそうに目を細めていた彼を覚えている。

 ハナは新聞に目を通す。相変わらず読めない漢字も多いが、それでも財前が怒鳴っていた所を見ると、きっと風向きは隼助の方にあるはずだ。

(信じています、隼助様。私はここにいますから――)

 ハナは新聞を胸に抱く。それから、茣蓙の上に丁寧に今朝のものと並べて置いた。その横には、隼助にもらったかかとの高い靴を置く。

 自分はこのままでいい。隼助が幸せになれる道を見つけたなら――。

 そう思いながら、ハナは茣蓙の空いた場所にそっと横になった。

 ◇◇◇

 隼助は夕刻、まだ門の前を記者たちが占拠している中、出掛けるために身支度を整えた。
 異国で作業員が履くという厚手のジーンズを履き、胸元のボタンを2つ開けたシャツの腕をまくる。髪をわざと無造作に整えれば、庶民風『鷹保』の完成だ。

「じいや、留守中頼むぞ」

「はい、ぼっちゃん」

 隼助はそう言いながら、遊戯室へ向かうと壁の本棚をくるりと翻した。

 裏庭の生け垣に、ひっそりと隠した自転車に乗った。馬車では目立つからと、マスターに借りたのだ。そうっと二輪を漕いで、暮れゆく帝都の街を進む。

 上野まで来て振り返り、誰もいないことを確認してから、隼助は切符を買った。

 ――今夜中にハナを迎えに行き、明日の朝には帝都に戻ってこよう。その頃には、きっと帝都は大騒ぎになっている。けれど自分はもう自分を見失わない。

 自分の隣には、ハナが堂々と並んでいる。そんな未来を信じて、隼助は汽車に乗り込んだ。
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