18 / 21
18 『鷹保』という男
しおりを挟む
◇◇◇
隼助が隼助であることをハナ明かし、逃避行を終えて、馬車で去っていったその後。
隼助は帝都に帰る馬車に揺られていた。馬車内にはじいやがいるだけで、他には誰もいない。
ガタガタと揺れが強いのは、きっと田舎の砂利道を走っているからだろう。この辺りは周りが田んぼばかりで、帝都のように整備されてはいない。
隼助は先程まで共に寄り添い、口吻を交わした相手を思い浮かべた。
『でしたら、私も一緒に! 隼助様のお側にいたいのです! お力になりたいのです!』
そう言って、側にいてくれようとしたハナを置いてきてしまった。
間違ったことをしたつもりはない。帝都中の記者に追われるよりも、彼女は村で過ごしてもらったほうが良い。全てを終わらせたら、迎えに行く。
それに、自分への褒美も後に取っておいたほうが良い。このままハナと逃げ出して二人きりで生きていくなんて、兄の二の舞になるだけで、どこかにしわ寄せが行く。
そうはさせない。誰にも、自分のような想いはしてほしくない。
だから、邸宅を出る前に執務室に置き手紙を残して、わざとじいやに迎えに越させたのだ。
「ぼっちゃん、こちら今朝の朝刊です」
隼助は差し出された新聞を見た。
一面には大きく、自分のことが書かれている。
「あいつらも懲りないねえ」
隼助は新聞に目を通しながら、クツクツと喉で笑った。
『帝都一の色男の本性、一夜のシンデレラと逃避行』
隼助が女中と共に上野発の汽車に乗るところが抜かれている。さらに『中條婦人の本音』と、母の証言が載っている。
「とんでもないことを言ってくれたねえ、あの人は」
『鷹保のお相手は女中の女』
『鷹保自身も女中の子で、自分の本当の子ではない』
隼助は新聞に踊る文字に肩をすくめた。『血は争えない』と母が門の前の記者たちに怒り狂ったまま怒鳴る姿を想像して、やれやれと頭を抱える。
「じいや、母は」
「ご自身の発言をさら記者たちに追求され、辟易して倒れてしまい……ご自宅で療養しておられます」
「そうか」
面倒事が増えたと、隼助はため息をこぼした。
――さて、どうするかな。
隼助が下げた視線の先、馬車の足元の隅に、キラリと輝くそれは落ちていた。隼助は手を伸ばし、まだ輝きを放つそれを見つめた。
ハナに送った靴だ。片一方は、帝劇で脱げ落としてしまったと言っていたが、もう一方を馬車内に置きっぱなしにしていたとは。
隼助はそれだけで、頬が綻ぶ。
「なあ、じいや」
隼助はじいやの方を見た。じいやは、何を言われても受け入れる、菩薩のような笑みを隼助に向ける。
「なんでしょう、ぼっちゃん」
「私は、諦めないよ。……今度は」
隼助は不敵な笑みを浮かべ、誰もいない正面を見据える。じいやもにこりと、口角を上げた。
馬車が賑やかな街に入る頃には、もう日が暮れかけていた。茜色の空に、ハナの無事を祈りながら、隼助は馬車の中で立てた作戦を思い出す。
「ぼっちゃん、馬車はどちらに向かわせますか?」
「中條邸に」
隼助がそう言うと、じいやの顔が一瞬ひきつる。
「ぼっちゃん……」
隼助は不敵な笑みを崩さない。
「私は本気だ」
隼助は父親の元へと、馬車を向けたのだ。
それから2週間が経った。
全てを終わらせた隼助は喫茶アイスクリヰムにいた。
「マスター、これで全部だ」
入るやいなや大きな茶封筒をマスターに渡し、隼助はカウンターの席に腰掛ける。開店したばかりの店内には、まだ客は隼助しかいない。
「了解」
マスターは引き換えにチェリーの瓶を隼助に渡した。
「しっかし、本当にいいのかい?」
「ああ、構わない。父親の了承も得ている」
「しばらくは新聞もネタに尽きないだろうねえ」
マスターが笑うと、隼助も不敵な笑みを浮かべる。
マスターは隼助にアイスクリームを差し出した。
「私に食え、と?」
隼助が聞くと、マスターはスプーンを差し出した。
「ハナちゃんが初めて自分の金で買ったのは、うちのアイスクリームだからね」
隼助の目が一瞬見開かれたのを、マスターは見逃さなかった。
「愛ゆえ、だな。鷹保くんも変わったねえ」
マスターが笑う。
隼助はスプーンでアイスクリームを掬った。口に運ぶと、冷たくて甘くい。けれど、すぐに蕩けて無くなってしまう。
カランカランと、喫茶店の戸が開いた。マスターの顔見知りの新聞記者が入ってきたのだ。
「鷹保、もう3度目だな」
「ああ」
鷹保と記者は既に顔見知りだ。
「一度目の手紙を出した時、こりゃ大変なことになったと新聞社中が大騒ぎ。でも魂胆があってのことだろう?」
「お前さんのところはなかなか頭が切れる。今まで黙ってくれていたお返しさ。魂胆がなければ、こんなにここに通わないさ。今回で最後、まあ後は上手く書いてくれ」
マスターが記者に、先程隼助が渡した封筒をそのまま渡す。
「さて、渦中の者はもう帰らねば、店にも迷惑がかかってしまうな」
隼助がわざとおどけて言う。
「今日の昼にはえらい騒ぎだろうよ。邸宅にこもるのがいい」
「そうさせてもらうよ」
隼助はケラケラ笑う記者にヒラヒラと手を振ると、片手にチェリーを抱え、早々に喫茶アイスクリヰムを後にした。
その日の朝刊は、帝都中を激震させた。隼助は執務室の椅子に座り、じいやが持ってきた新聞に目を通しながら、「よくやった」と新聞記者を
心の中で褒める。
『中條家の知られざる秘密、鷹保は鷹保ではなかった』
その見出しにふっと息を漏らし、立ち上がる。
きっと門の前には様々な新聞社の記者が詰めかけ、どうせ邸宅から出られやしない。今日は絶好の、ビリヤード日和だ。
◇◇◇
財前はその日、新聞を握りしめて朝からハナの元を訪れた。彼は高笑いをしていて、その気味の悪い声に茣蓙の上で横になっていたハナは目を覚ました。
「ハナちゃん、大ニュースだ。『鷹保は鷹保ではなかった』だと。実に面白い冗談だ」
ハナは財前に新聞の一面を突きつけられ、ハッと目を見開いた。
「今朝の朝刊だよ」
そこには、『鷹保』の名が書いてあるのが見えた。
「この間、ハナちゃんが帝劇で鷹保と観劇した次の朝刊、アイツの母が『鷹保のお相手は女中の女』だとか、『鷹保自身も女中の子で、自分の本当の子ではない』とか言ってた記事が出たんだけど、その後婦人は体調を崩されて真偽もうやむやのまま情報が握りつぶされてしまってね」
言いながら、財前は新聞記事を指差した。
「しかしついに明らかになったようだよ、ほら。噂は本当だと、ご丁寧に中條公の手紙の写しまで入ってるよ」
ハナは写真の文字までは読めないが、ゆっくりとなら新聞の文字が読めそうだとしっかり文字を目に焼き付ける。
「つまるところ、お前は鷹保に騙されていたんだよ。私はもう読んだから、その紙面はハナちゃんにあげよう」
鼻で笑いながらそう言う財前から、ハナは目の前の新聞を奪った。
財前は同時に格子の中にパンを放った。
ハナは財前邸では家畜のような扱いを受けていた。毎朝「食事だ」と財前が持ってきたパンを格子の中に放るので、土に汚れぬようそれをキャッチする。財前はそれを見ながら、ケラケラと笑い、笑われながらパンを頬張るのはとても屈辱的な気分だった。
しかし、今日はハナはパンには目もくれず、新聞とにらめっこを続ける。
「ああ、鷹保じゃなかった。隼助、だったな」
その様子に怒った財前は顔を歪ませて、悪意たっぷりに彼の名を呼んだ。
けれど、その言葉はハナの右耳から左耳に抜けていく。
「お前のせいで気分を害した、今日の夕飯はなしだよ!」
財前はズカズカと歩きながら行ってしまった。
ハナはそれにも気づかずに、格子の近くで差し込む日を頼りに、新聞の文字を一所懸命に追った。
「隼助、様……」
ハナはかろうじて、読める字を拾っていく。
『隼助』という文字が読めて、それが彼の名であることを理解し、指でそっとなぞった。
愛しさが募る。けれど、彼が抱えていた秘密を帝都中に知られてしまったことに、とんでもない胸騒ぎがした。
(『妾』『兄』『身代わり』……。隼助様が一所懸命に一人で抱えておられた秘密は、こうも簡単に暴かれてしまうものなのね)
隼助は今頃どうしているだろうか。中條公の下で、秘密を暴かれたと弾罪されているのではないか。
何がどうして中條公がこの秘密に対して弁明することになったのかは分からないが、兄の身代わりをしてきた隼助が、何らかの非難を浴びるのは明らかである。
記者に囲まれた時、ビリヤードの台の前で、隼助は言っていた。
『時が経てば人は忘れる。今回も、時間が無かったことにしてくれるさ』
しかし、今回のことを人々は忘れてくれるだろうか。時間が全てを解決してくれるだろうか。
ハナは不安に押しつぶされそうになりながら、元主で恋しい兄のことを想った。
(どうか、幸せになってください、隼助様。……お兄様。私は、ここで生きていますから)
しかしその日の夕刻、また財前がハナの前に現れた。新たな新聞を手に、怪訝に眉間に皺を寄せていた。
「ハナ! お前は鷹保の何を知っている!」
突然怒鳴られて、蔵の隅で膝を抱えていたハナはピクリと身体を揺らした。
「今度は兄だ。兄が中條家を破門してほしいと手紙を寄越したと、丁寧に手紙の写真付きで記事にしてやがる。これで結局はアイツが長男で、事実上の公爵の嫡男だよ」
財前が叩きつけるように新聞を地面に放った。
「アイツは一体何を企んでいる? 知っているのか!?」
財前はハナを睨んだ。ハナはただのとばっちりを受けただけだと分かって、ほっと胸をなでおろす。
財前はそれだけ言うと、ハナの前から姿を消した。ハナはそっと、格子の前に捨てられた新聞に手を伸ばした。
じきに日が暮れる。財前邸の明りは一晩中消えないが、日が落ちれば文字が読めるような明るさではないのだ。
「お兄様に、隼助様の想いが届いたのね……}
隼助が兄のことを憎んでいることは、ハナも知っていた。アーモンドの木を恨めしいと嘆きながら、懐かしそうに目を細めていた彼を覚えている。
ハナは新聞に目を通す。相変わらず読めない漢字も多いが、それでも財前が怒鳴っていた所を見ると、きっと風向きは隼助の方にあるはずだ。
(信じています、隼助様。私はここにいますから――)
ハナは新聞を胸に抱く。それから、茣蓙の上に丁寧に今朝のものと並べて置いた。その横には、隼助にもらったかかとの高い靴を置く。
自分はこのままでいい。隼助が幸せになれる道を見つけたなら――。
そう思いながら、ハナは茣蓙の空いた場所にそっと横になった。
◇◇◇
隼助は夕刻、まだ門の前を記者たちが占拠している中、出掛けるために身支度を整えた。
異国で作業員が履くという厚手のジーンズを履き、胸元のボタンを2つ開けたシャツの腕をまくる。髪をわざと無造作に整えれば、庶民風『鷹保』の完成だ。
「じいや、留守中頼むぞ」
「はい、ぼっちゃん」
隼助はそう言いながら、遊戯室へ向かうと壁の本棚をくるりと翻した。
裏庭の生け垣に、ひっそりと隠した自転車に乗った。馬車では目立つからと、マスターに借りたのだ。そうっと二輪を漕いで、暮れゆく帝都の街を進む。
上野まで来て振り返り、誰もいないことを確認してから、隼助は切符を買った。
――今夜中にハナを迎えに行き、明日の朝には帝都に戻ってこよう。その頃には、きっと帝都は大騒ぎになっている。けれど自分はもう自分を見失わない。
自分の隣には、ハナが堂々と並んでいる。そんな未来を信じて、隼助は汽車に乗り込んだ。
隼助が隼助であることをハナ明かし、逃避行を終えて、馬車で去っていったその後。
隼助は帝都に帰る馬車に揺られていた。馬車内にはじいやがいるだけで、他には誰もいない。
ガタガタと揺れが強いのは、きっと田舎の砂利道を走っているからだろう。この辺りは周りが田んぼばかりで、帝都のように整備されてはいない。
隼助は先程まで共に寄り添い、口吻を交わした相手を思い浮かべた。
『でしたら、私も一緒に! 隼助様のお側にいたいのです! お力になりたいのです!』
そう言って、側にいてくれようとしたハナを置いてきてしまった。
間違ったことをしたつもりはない。帝都中の記者に追われるよりも、彼女は村で過ごしてもらったほうが良い。全てを終わらせたら、迎えに行く。
それに、自分への褒美も後に取っておいたほうが良い。このままハナと逃げ出して二人きりで生きていくなんて、兄の二の舞になるだけで、どこかにしわ寄せが行く。
そうはさせない。誰にも、自分のような想いはしてほしくない。
だから、邸宅を出る前に執務室に置き手紙を残して、わざとじいやに迎えに越させたのだ。
「ぼっちゃん、こちら今朝の朝刊です」
隼助は差し出された新聞を見た。
一面には大きく、自分のことが書かれている。
「あいつらも懲りないねえ」
隼助は新聞に目を通しながら、クツクツと喉で笑った。
『帝都一の色男の本性、一夜のシンデレラと逃避行』
隼助が女中と共に上野発の汽車に乗るところが抜かれている。さらに『中條婦人の本音』と、母の証言が載っている。
「とんでもないことを言ってくれたねえ、あの人は」
『鷹保のお相手は女中の女』
『鷹保自身も女中の子で、自分の本当の子ではない』
隼助は新聞に踊る文字に肩をすくめた。『血は争えない』と母が門の前の記者たちに怒り狂ったまま怒鳴る姿を想像して、やれやれと頭を抱える。
「じいや、母は」
「ご自身の発言をさら記者たちに追求され、辟易して倒れてしまい……ご自宅で療養しておられます」
「そうか」
面倒事が増えたと、隼助はため息をこぼした。
――さて、どうするかな。
隼助が下げた視線の先、馬車の足元の隅に、キラリと輝くそれは落ちていた。隼助は手を伸ばし、まだ輝きを放つそれを見つめた。
ハナに送った靴だ。片一方は、帝劇で脱げ落としてしまったと言っていたが、もう一方を馬車内に置きっぱなしにしていたとは。
隼助はそれだけで、頬が綻ぶ。
「なあ、じいや」
隼助はじいやの方を見た。じいやは、何を言われても受け入れる、菩薩のような笑みを隼助に向ける。
「なんでしょう、ぼっちゃん」
「私は、諦めないよ。……今度は」
隼助は不敵な笑みを浮かべ、誰もいない正面を見据える。じいやもにこりと、口角を上げた。
馬車が賑やかな街に入る頃には、もう日が暮れかけていた。茜色の空に、ハナの無事を祈りながら、隼助は馬車の中で立てた作戦を思い出す。
「ぼっちゃん、馬車はどちらに向かわせますか?」
「中條邸に」
隼助がそう言うと、じいやの顔が一瞬ひきつる。
「ぼっちゃん……」
隼助は不敵な笑みを崩さない。
「私は本気だ」
隼助は父親の元へと、馬車を向けたのだ。
それから2週間が経った。
全てを終わらせた隼助は喫茶アイスクリヰムにいた。
「マスター、これで全部だ」
入るやいなや大きな茶封筒をマスターに渡し、隼助はカウンターの席に腰掛ける。開店したばかりの店内には、まだ客は隼助しかいない。
「了解」
マスターは引き換えにチェリーの瓶を隼助に渡した。
「しっかし、本当にいいのかい?」
「ああ、構わない。父親の了承も得ている」
「しばらくは新聞もネタに尽きないだろうねえ」
マスターが笑うと、隼助も不敵な笑みを浮かべる。
マスターは隼助にアイスクリームを差し出した。
「私に食え、と?」
隼助が聞くと、マスターはスプーンを差し出した。
「ハナちゃんが初めて自分の金で買ったのは、うちのアイスクリームだからね」
隼助の目が一瞬見開かれたのを、マスターは見逃さなかった。
「愛ゆえ、だな。鷹保くんも変わったねえ」
マスターが笑う。
隼助はスプーンでアイスクリームを掬った。口に運ぶと、冷たくて甘くい。けれど、すぐに蕩けて無くなってしまう。
カランカランと、喫茶店の戸が開いた。マスターの顔見知りの新聞記者が入ってきたのだ。
「鷹保、もう3度目だな」
「ああ」
鷹保と記者は既に顔見知りだ。
「一度目の手紙を出した時、こりゃ大変なことになったと新聞社中が大騒ぎ。でも魂胆があってのことだろう?」
「お前さんのところはなかなか頭が切れる。今まで黙ってくれていたお返しさ。魂胆がなければ、こんなにここに通わないさ。今回で最後、まあ後は上手く書いてくれ」
マスターが記者に、先程隼助が渡した封筒をそのまま渡す。
「さて、渦中の者はもう帰らねば、店にも迷惑がかかってしまうな」
隼助がわざとおどけて言う。
「今日の昼にはえらい騒ぎだろうよ。邸宅にこもるのがいい」
「そうさせてもらうよ」
隼助はケラケラ笑う記者にヒラヒラと手を振ると、片手にチェリーを抱え、早々に喫茶アイスクリヰムを後にした。
その日の朝刊は、帝都中を激震させた。隼助は執務室の椅子に座り、じいやが持ってきた新聞に目を通しながら、「よくやった」と新聞記者を
心の中で褒める。
『中條家の知られざる秘密、鷹保は鷹保ではなかった』
その見出しにふっと息を漏らし、立ち上がる。
きっと門の前には様々な新聞社の記者が詰めかけ、どうせ邸宅から出られやしない。今日は絶好の、ビリヤード日和だ。
◇◇◇
財前はその日、新聞を握りしめて朝からハナの元を訪れた。彼は高笑いをしていて、その気味の悪い声に茣蓙の上で横になっていたハナは目を覚ました。
「ハナちゃん、大ニュースだ。『鷹保は鷹保ではなかった』だと。実に面白い冗談だ」
ハナは財前に新聞の一面を突きつけられ、ハッと目を見開いた。
「今朝の朝刊だよ」
そこには、『鷹保』の名が書いてあるのが見えた。
「この間、ハナちゃんが帝劇で鷹保と観劇した次の朝刊、アイツの母が『鷹保のお相手は女中の女』だとか、『鷹保自身も女中の子で、自分の本当の子ではない』とか言ってた記事が出たんだけど、その後婦人は体調を崩されて真偽もうやむやのまま情報が握りつぶされてしまってね」
言いながら、財前は新聞記事を指差した。
「しかしついに明らかになったようだよ、ほら。噂は本当だと、ご丁寧に中條公の手紙の写しまで入ってるよ」
ハナは写真の文字までは読めないが、ゆっくりとなら新聞の文字が読めそうだとしっかり文字を目に焼き付ける。
「つまるところ、お前は鷹保に騙されていたんだよ。私はもう読んだから、その紙面はハナちゃんにあげよう」
鼻で笑いながらそう言う財前から、ハナは目の前の新聞を奪った。
財前は同時に格子の中にパンを放った。
ハナは財前邸では家畜のような扱いを受けていた。毎朝「食事だ」と財前が持ってきたパンを格子の中に放るので、土に汚れぬようそれをキャッチする。財前はそれを見ながら、ケラケラと笑い、笑われながらパンを頬張るのはとても屈辱的な気分だった。
しかし、今日はハナはパンには目もくれず、新聞とにらめっこを続ける。
「ああ、鷹保じゃなかった。隼助、だったな」
その様子に怒った財前は顔を歪ませて、悪意たっぷりに彼の名を呼んだ。
けれど、その言葉はハナの右耳から左耳に抜けていく。
「お前のせいで気分を害した、今日の夕飯はなしだよ!」
財前はズカズカと歩きながら行ってしまった。
ハナはそれにも気づかずに、格子の近くで差し込む日を頼りに、新聞の文字を一所懸命に追った。
「隼助、様……」
ハナはかろうじて、読める字を拾っていく。
『隼助』という文字が読めて、それが彼の名であることを理解し、指でそっとなぞった。
愛しさが募る。けれど、彼が抱えていた秘密を帝都中に知られてしまったことに、とんでもない胸騒ぎがした。
(『妾』『兄』『身代わり』……。隼助様が一所懸命に一人で抱えておられた秘密は、こうも簡単に暴かれてしまうものなのね)
隼助は今頃どうしているだろうか。中條公の下で、秘密を暴かれたと弾罪されているのではないか。
何がどうして中條公がこの秘密に対して弁明することになったのかは分からないが、兄の身代わりをしてきた隼助が、何らかの非難を浴びるのは明らかである。
記者に囲まれた時、ビリヤードの台の前で、隼助は言っていた。
『時が経てば人は忘れる。今回も、時間が無かったことにしてくれるさ』
しかし、今回のことを人々は忘れてくれるだろうか。時間が全てを解決してくれるだろうか。
ハナは不安に押しつぶされそうになりながら、元主で恋しい兄のことを想った。
(どうか、幸せになってください、隼助様。……お兄様。私は、ここで生きていますから)
しかしその日の夕刻、また財前がハナの前に現れた。新たな新聞を手に、怪訝に眉間に皺を寄せていた。
「ハナ! お前は鷹保の何を知っている!」
突然怒鳴られて、蔵の隅で膝を抱えていたハナはピクリと身体を揺らした。
「今度は兄だ。兄が中條家を破門してほしいと手紙を寄越したと、丁寧に手紙の写真付きで記事にしてやがる。これで結局はアイツが長男で、事実上の公爵の嫡男だよ」
財前が叩きつけるように新聞を地面に放った。
「アイツは一体何を企んでいる? 知っているのか!?」
財前はハナを睨んだ。ハナはただのとばっちりを受けただけだと分かって、ほっと胸をなでおろす。
財前はそれだけ言うと、ハナの前から姿を消した。ハナはそっと、格子の前に捨てられた新聞に手を伸ばした。
じきに日が暮れる。財前邸の明りは一晩中消えないが、日が落ちれば文字が読めるような明るさではないのだ。
「お兄様に、隼助様の想いが届いたのね……}
隼助が兄のことを憎んでいることは、ハナも知っていた。アーモンドの木を恨めしいと嘆きながら、懐かしそうに目を細めていた彼を覚えている。
ハナは新聞に目を通す。相変わらず読めない漢字も多いが、それでも財前が怒鳴っていた所を見ると、きっと風向きは隼助の方にあるはずだ。
(信じています、隼助様。私はここにいますから――)
ハナは新聞を胸に抱く。それから、茣蓙の上に丁寧に今朝のものと並べて置いた。その横には、隼助にもらったかかとの高い靴を置く。
自分はこのままでいい。隼助が幸せになれる道を見つけたなら――。
そう思いながら、ハナは茣蓙の空いた場所にそっと横になった。
◇◇◇
隼助は夕刻、まだ門の前を記者たちが占拠している中、出掛けるために身支度を整えた。
異国で作業員が履くという厚手のジーンズを履き、胸元のボタンを2つ開けたシャツの腕をまくる。髪をわざと無造作に整えれば、庶民風『鷹保』の完成だ。
「じいや、留守中頼むぞ」
「はい、ぼっちゃん」
隼助はそう言いながら、遊戯室へ向かうと壁の本棚をくるりと翻した。
裏庭の生け垣に、ひっそりと隠した自転車に乗った。馬車では目立つからと、マスターに借りたのだ。そうっと二輪を漕いで、暮れゆく帝都の街を進む。
上野まで来て振り返り、誰もいないことを確認してから、隼助は切符を買った。
――今夜中にハナを迎えに行き、明日の朝には帝都に戻ってこよう。その頃には、きっと帝都は大騒ぎになっている。けれど自分はもう自分を見失わない。
自分の隣には、ハナが堂々と並んでいる。そんな未来を信じて、隼助は汽車に乗り込んだ。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
完結)余りもの同士、仲よくしましょう
オリハルコン陸
恋愛
婚約者に振られた。
「運命の人」に出会ってしまったのだと。
正式な書状により婚約は解消された…。
婚約者に振られた女が、同じく婚約者に振られた男と婚約して幸せになるお話。
◇ ◇ ◇
(ほとんど本編に出てこない)登場人物名
ミシュリア(ミシュ): 主人公
ジェイソン・オーキッド(ジェイ): 主人公の新しい婚約者
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜
四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」
度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。
事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。
しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。
楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。
その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。
ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。
その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。
敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。
それから、3年が経ったある日。
日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。
「私は若佐先生の事を何も知らない」
このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。
目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。
❄︎
※他サイトにも掲載しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
私も一応、後宮妃なのですが。
秦朱音|はたあかね
恋愛
女心の分からないポンコツ皇帝 × 幼馴染の後宮妃による中華後宮ラブコメ?
十二歳で後宮入りした翠蘭(すいらん)は、初恋の相手である皇帝・令賢(れいけん)の妃 兼 幼馴染。毎晩のように色んな妃の元を訪れる皇帝だったが、なぜだか翠蘭のことは愛してくれない。それどころか皇帝は、翠蘭に他の妃との恋愛相談をしてくる始末。
惨めになった翠蘭は、後宮を出て皇帝から離れようと考える。しかしそれを知らない皇帝は……!
※初々しい二人のすれ違い初恋のお話です
※10,000字程度の短編
※他サイトにも掲載予定です
※HOTランキング入りありがとうございます!(37位 2022.11.3)
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる