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13 憂き世の隠れ処
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◇◇◇
翌日、鷹保は早朝から執務室にいた。別邸から本邸に向かうまでの一瞬でも、写真に撮られるのは癪に触るからだ。
窓から外を覗くと、案の定門の外には記者が押しかけている。
財前がリークしたにしては多すぎるその数に、鷹保はため息をこぼした。
――帝国劇場で張ってる記者でもいたのか? 面倒だな。
けれど、ハナとハムレットを観劇できたことは、鷹保にとっては大きな収穫だった。
『孤独って、自分を苦しめてしまうものなのですね。私は、周りの人に恵まれて幸せなのだと、改めて思い知りました』
ハナの言葉を一語一句覚えているのは、自分を見透かされたような気がしたからなのか、彼女の強かさを思い知らされたからなのか、よくわからない。
「おひいさんだって、孤独だろうに……」
呟いて、自嘲するような笑みがこぼれた。
ハナは孤独を孤独と捉えずに、自分は恵まれて幸せだと言い切った。その天性の前向きさを、自分も持っていたらどれだけ楽に生きてこれただろう。ハナが羨ましい。
「やはり、彼女は――」
その時、規則的な音でドアがノックされた。じいやだ。
「入れ」
鷹保がそう言うと、ドアがゆっくりと開き、新聞を手にしたじいやが入ってきた。
「ぼっちゃん、今日の朝刊を」
受け取り、広げた。一面に自分の写真を見つけて、滑稽な笑い声が出た。
『帝国劇場に現れた、一夜のシンデレラ』
『帝都一の色男、お相手は見知らぬ令嬢』
記事には、鷹保がお忍びで帝劇にて現れハムレットを鑑賞したこと、隣にいたのは見たことのない令嬢であったこと、そして二人はいつの間にか姿を消していたこと云々が書かれている。
丁寧にも『観劇前にはデパートメントに寄り、貧しい身なりの女を生まれ変わらせた』といった記述もある。
あの財閥も宛にならないなと、鼻で笑った。
「いかがなさいますか、ぼっちゃん」
じいやが不安げに声を掛ける。
「放っておけ。じきに皆忘れるさ」
鷹保は興味なさそうにそう言うと、執務室の隣の戸を開ける。この場所は、鷹保の隠れ処だ。
「ぼっちゃん……」
じいやはその後ろ姿を見守りながら、そっと不安げにため息をこぼした。
◇◇◇
いつもは閑静な赤坂の邸宅街が、今日はがやがやとうるさい。ハナはその声で目を覚ました。
リサはもうとっくに起きていて、朝の支度を済ませていた。
「おはようございます、リサさん」
ハナが声をかけると、リサは「おはよう」とハナの方を向いた。
「旦那様、昨夜はお楽しみだったのね。今日はうるさいわよ~」
リサがそう言って、ハナはドキッとした。ハナが昨夜鷹保と出掛けたことを、リサは知らないはずだ。
「旦那様が朝帰りした次の日はいつもこう。今度はどこの令嬢だったのかしら」
ハナはその言葉に安堵の息を漏らす。
「あなたも帰りが遅かったのね。でもそろそろ準備しないと、遅れるわよ」
リサの言葉に、慌ててベッドから飛び降りる。急いで支度を整えていると、リサが「元気ね」とクスクス笑った。
ハナは今日も庭の手入れをしていた。中庭の手入れを済ませて門戸の方へ回ると、そこには朝から詰めかけているらしい記者が団子のように居座っていた。
鷹保を待っているらしく、こちらの様子を時折伺ってはいるが、そうでないときは何かを書いたり世間話をしている。
朝の集まりで執事長から気にしないようにと言われていたが、どうしても気になってしまう。
ハナは隠れるように、使用人棟の前や別邸の脇の草むしりに精を出した。
「鷹保のお相手は誰なんだろうねぇ」
「青い目をした、黒髪のご令嬢だそうだ」
「いや、私は金髪の姫だと聞いた」
「どこかの国の姫が入国したなんて、聞いていないがな」
「極秘のお忍びかもしれん」
数々の憶測が飛び交う。ハナは苦虫を噛んだような気持ちになった。
昨夜の相手は自分で、あれは逢引などではなくただの『ご褒美』だと言ってしまいたい。けれど、ここで下手に出ていってしまっては、記者たちはハナを囲むに違いない。
『身分違いの、許されぬ恋』
『主と女中の熱愛』
そんな見出しが脳裏に浮かび、必死に手を動かして気持ちをごまかそうとした。
「もしかしたら、例のご令嬢はご令嬢じゃないかもしれないな」
不意に記者が呟いたのが聞こえて、ハナの心臓が跳ねた。
「ああ。どこかの出の、庶民ということもある」
「鷹保は公爵様だぞ? 抱かれたい令嬢なんて幾らでもいるだろう」
「だが、鷹保は帝都一の色男。高貴な女に飽きて、庶民の所に手を出したってこともあるかもしれん」
「それで子でも出来ていたら、こりゃ大ニュースだ」
記者たちはゲラゲラと感じの悪い笑い声を出す。
話題がそれてほっとしたのも束の間、陰口のような話にハナの胸の奥はモヤモヤとしてきた。
(鷹保様は、そんなお方ではないわ!)
そう言いたいのを我慢して、我慢する代わりに記者たちの方をキッと睨んだ。
「ほら、あの女中なんて、青い目だ」
(しまった!)
ハナは慌てて視線を反らした。
「もしかして、あの女中が?」
「まさか。自分の所の女に手を出すなら、内々で上手くやるだろうよ」
「だが、鷹保が本気で惚れ込んでいるなら……?」
(……どうしましょう。話が、私の方へ……)
記者たちの視線を感じて嫌な汗が背を伝う。
ハナは逃げるように、足早に庭を後にした。
ハナはそのまま本邸に入り、鷹保を探した。
(伝えなくちゃ。昨夜の相手が、私かもしれないと、バレてしまったことを……!)
使用人室に執事長を見つけ、鷹保の居場所を聞く。
「ぼっちゃんなら、遊戯室にいると思いますが……何か御用ですか?」
「昨夜のこと、記者たちにバレてしまったかもしれません……」
ハナが小声で言うと、執事長はなぜか微笑んで、「ご案内しますね」と立ち上がる。ハナは慌てて、その後を追った。
本邸の執務室の隣の部屋に、遊戯室はあった。執事長が戸を開けると、そこには見たこともない緑色の机のようなものが置かれている。
鷹保は手にした長い棒で、机の上に置かれた玉を弾こうとしているところだった。
「ぼっちゃん、少々よろしいですか?」
鷹保は執事長の方は向かずに、「ああ」と声だけで返事をした。同時にトン、と白い玉を突く。突かれた白い玉が他の玉に当たって、コンコンと音を立てて四方に散らばった。
「うわぁ……」
ハナは思わず声を上げた。鷹保がこちらを向いて、声を上げた事を後悔した。執務室周辺に、女中は立ち入ってはいけないと言われていたのを思い出したのだ。
「なんだ、おひいさんもいたのか」
鷹保の言葉に、身構えていたハナはほっと身体を緩める。同時に、思わずうつむいてしまった顔を上げた。鷹保は優しく、ふわりと微笑んでいた。
「お入り、おひいさん。じいやは下がってくれ」
「はい、ぼっちゃん」
執事長が一度お辞儀をして去っていくのを見送って、ハナは遊戯室と呼ばれたその部屋に立ち入った。
「これはビリヤードというんだよ。おひいさんもやってみるかい?」
鷹保はそう言うと、壁に立て掛けてあった棒を取り、ハナに差し出した。
ハナは外に記者が押しかけているにも関わらず、優雅に”ビリヤード”というものに興じている鷹保に感心した。けれど、伝えなければならないことがあって、慌ててここへやって来たことを思い出す。
「い、いえ、あの……っ!」
ハナは棒を受け取らずに鷹保の目をまっすぐに見た。鷹保はハナの気迫に、差し出していた棒を下ろした。
「門の外に、記者の方々が、詰めかけていて――」
「ああ、知っているさ」
「それで、青い目で黒髪の女性だとか、鷹保様が庶民に手を出した無分別な男だとか、実は恋の相手が女中なんじゃないかとか、色々と言いたい放題でして……」
「そうかい、そうかい」
「それで、私思わず記者の方々を睨んでしまったんです。そしたら、記者の方と目があって……その、青い目だ、と……」
それまで受け流していた鷹保の顔がピクリと揺れた。
同時に、ふっと口から笑うようなため息を漏らした。
「記者たちは目敏いねえ」
なぜか鷹保は楽しそうな笑みを浮かべる。それから、「少し持っていておくれ」とハナにビリヤードの棒を渡すと、本人は部屋の隅にある机から紙の束を持ってきて、ハナに差し出す。
「今朝の新聞だよ。見てご覧?」
あいにく、読めない漢字が多くて文字を追うことはできない。だから余計に、そこに大きく貼られた写真がハナの目を引いた。
「これ……私?」
鷹保の隣で手を繋ぎ、楽しそうに帝国劇場を去る姿。間違いなく、昨夜のハナと鷹保だった。
ハナはごくりと唾を飲み込んだ。この写真では、自分と鷹保がまるで恋仲のようだ。記事にも『戀』という字が読めて、ハナは余計に青ざめた。
「鷹保様! これは、誤解だと記者の方たちに弁解すべきです! この女はただの女中で、これは鷹保様からのただの褒美だ、と……」
「そう言って、記者たちが信じると?」
「え……?」
鷹保はハナから新聞を取り上げ微笑んだ。それは、全てを受け入れる、諦めたような笑みだった。
「いいんだよ。時が経てば人は忘れる。今回も、時間が無かったことにしてくれるさ」
鷹保の言葉に、ハナの胸はズキンと痛んだ。けれど、自分と鷹保は女中と主という関係だ。きっと、鷹保の言うことが正しい。
鷹保は窓の外をちらりと眺める。「彼らも懲りないねえ」と小言をこぼした。
「まあ、私はなぜだか『帝都一の色男』らしいから、たまには記者どもに話題を提供してやらねばならんのだよ」
そう言って笑いながら、新聞を机に戻す。
「この場所は、憂き世からの隠れ処。せっかくだから、おひいさんもやってみたらいい」
鷹保はハナを手招きした。そういえば棒を持たされたままだったと、ハナは自分の手元を見て思い出した。
「でも、私やったことないです、こんな高貴な遊戯……」
「大丈夫、最初は誰も初心者だよ」
そう言って、鷹保はハナのものとは別の棒を持ち、緑色の台の上で構える。
「こうやって、指で穴を作って――」
鷹保はハナに分かりやすいようにと、わざと大袈裟に手を動かす。
「――この白い玉を、突く。そうして、他の玉を角の穴に落としていくのさ」
言いながら、鷹保がコンと玉を突く。コン、コンと次々に白い玉が他の玉に当たり、角の穴に落ちていく。
「わあ、すごい……!」
その光景に見惚れていると、鷹保がふっと笑う。
「ほら、おひいさんもやってごらん? 指で穴を作って、そこに棒を入れて玉を突くだけさ」
鷹保は左手で円を作り、そこに自身の持つ棒を抜き差しする。
出来るかどうか不安になりながらその光景をじっと見つめていると、鷹保がまたふっと笑った。
「なんだい、じっと見つめて。何か、他のことでも想像してしまったのかな?」
(他の、こと……あっ!)
引っかかってしまった。ハナは顔を真っ赤にして、叫んだ。
「破廉恥です!」
「おひいさんは、からかい甲斐があるねえ」
鷹保はケラケラ笑った。ハナは顔から火が出る思いでふいっとそっぽを向いた。
突然、コンコンと戸を叩く音がした。
「また、じいやか」
鷹保はそう言いながら、「入れ」と戸の向こうに声をかけた。
「度々失礼致します、ぼっちゃま。実は、来客がありまして」
「記者の関係か? 今は忙しいからと返してくれ」
鷹保はため息混じりに答えた。
「私もお帰り頂こうと思ったのですが、……その、大奥様なもので」
鷹保が眉根を寄せた。
(大奥様ということは、鷹保様の、お母様……?)
翌日、鷹保は早朝から執務室にいた。別邸から本邸に向かうまでの一瞬でも、写真に撮られるのは癪に触るからだ。
窓から外を覗くと、案の定門の外には記者が押しかけている。
財前がリークしたにしては多すぎるその数に、鷹保はため息をこぼした。
――帝国劇場で張ってる記者でもいたのか? 面倒だな。
けれど、ハナとハムレットを観劇できたことは、鷹保にとっては大きな収穫だった。
『孤独って、自分を苦しめてしまうものなのですね。私は、周りの人に恵まれて幸せなのだと、改めて思い知りました』
ハナの言葉を一語一句覚えているのは、自分を見透かされたような気がしたからなのか、彼女の強かさを思い知らされたからなのか、よくわからない。
「おひいさんだって、孤独だろうに……」
呟いて、自嘲するような笑みがこぼれた。
ハナは孤独を孤独と捉えずに、自分は恵まれて幸せだと言い切った。その天性の前向きさを、自分も持っていたらどれだけ楽に生きてこれただろう。ハナが羨ましい。
「やはり、彼女は――」
その時、規則的な音でドアがノックされた。じいやだ。
「入れ」
鷹保がそう言うと、ドアがゆっくりと開き、新聞を手にしたじいやが入ってきた。
「ぼっちゃん、今日の朝刊を」
受け取り、広げた。一面に自分の写真を見つけて、滑稽な笑い声が出た。
『帝国劇場に現れた、一夜のシンデレラ』
『帝都一の色男、お相手は見知らぬ令嬢』
記事には、鷹保がお忍びで帝劇にて現れハムレットを鑑賞したこと、隣にいたのは見たことのない令嬢であったこと、そして二人はいつの間にか姿を消していたこと云々が書かれている。
丁寧にも『観劇前にはデパートメントに寄り、貧しい身なりの女を生まれ変わらせた』といった記述もある。
あの財閥も宛にならないなと、鼻で笑った。
「いかがなさいますか、ぼっちゃん」
じいやが不安げに声を掛ける。
「放っておけ。じきに皆忘れるさ」
鷹保は興味なさそうにそう言うと、執務室の隣の戸を開ける。この場所は、鷹保の隠れ処だ。
「ぼっちゃん……」
じいやはその後ろ姿を見守りながら、そっと不安げにため息をこぼした。
◇◇◇
いつもは閑静な赤坂の邸宅街が、今日はがやがやとうるさい。ハナはその声で目を覚ました。
リサはもうとっくに起きていて、朝の支度を済ませていた。
「おはようございます、リサさん」
ハナが声をかけると、リサは「おはよう」とハナの方を向いた。
「旦那様、昨夜はお楽しみだったのね。今日はうるさいわよ~」
リサがそう言って、ハナはドキッとした。ハナが昨夜鷹保と出掛けたことを、リサは知らないはずだ。
「旦那様が朝帰りした次の日はいつもこう。今度はどこの令嬢だったのかしら」
ハナはその言葉に安堵の息を漏らす。
「あなたも帰りが遅かったのね。でもそろそろ準備しないと、遅れるわよ」
リサの言葉に、慌ててベッドから飛び降りる。急いで支度を整えていると、リサが「元気ね」とクスクス笑った。
ハナは今日も庭の手入れをしていた。中庭の手入れを済ませて門戸の方へ回ると、そこには朝から詰めかけているらしい記者が団子のように居座っていた。
鷹保を待っているらしく、こちらの様子を時折伺ってはいるが、そうでないときは何かを書いたり世間話をしている。
朝の集まりで執事長から気にしないようにと言われていたが、どうしても気になってしまう。
ハナは隠れるように、使用人棟の前や別邸の脇の草むしりに精を出した。
「鷹保のお相手は誰なんだろうねぇ」
「青い目をした、黒髪のご令嬢だそうだ」
「いや、私は金髪の姫だと聞いた」
「どこかの国の姫が入国したなんて、聞いていないがな」
「極秘のお忍びかもしれん」
数々の憶測が飛び交う。ハナは苦虫を噛んだような気持ちになった。
昨夜の相手は自分で、あれは逢引などではなくただの『ご褒美』だと言ってしまいたい。けれど、ここで下手に出ていってしまっては、記者たちはハナを囲むに違いない。
『身分違いの、許されぬ恋』
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そんな見出しが脳裏に浮かび、必死に手を動かして気持ちをごまかそうとした。
「もしかしたら、例のご令嬢はご令嬢じゃないかもしれないな」
不意に記者が呟いたのが聞こえて、ハナの心臓が跳ねた。
「ああ。どこかの出の、庶民ということもある」
「鷹保は公爵様だぞ? 抱かれたい令嬢なんて幾らでもいるだろう」
「だが、鷹保は帝都一の色男。高貴な女に飽きて、庶民の所に手を出したってこともあるかもしれん」
「それで子でも出来ていたら、こりゃ大ニュースだ」
記者たちはゲラゲラと感じの悪い笑い声を出す。
話題がそれてほっとしたのも束の間、陰口のような話にハナの胸の奥はモヤモヤとしてきた。
(鷹保様は、そんなお方ではないわ!)
そう言いたいのを我慢して、我慢する代わりに記者たちの方をキッと睨んだ。
「ほら、あの女中なんて、青い目だ」
(しまった!)
ハナは慌てて視線を反らした。
「もしかして、あの女中が?」
「まさか。自分の所の女に手を出すなら、内々で上手くやるだろうよ」
「だが、鷹保が本気で惚れ込んでいるなら……?」
(……どうしましょう。話が、私の方へ……)
記者たちの視線を感じて嫌な汗が背を伝う。
ハナは逃げるように、足早に庭を後にした。
ハナはそのまま本邸に入り、鷹保を探した。
(伝えなくちゃ。昨夜の相手が、私かもしれないと、バレてしまったことを……!)
使用人室に執事長を見つけ、鷹保の居場所を聞く。
「ぼっちゃんなら、遊戯室にいると思いますが……何か御用ですか?」
「昨夜のこと、記者たちにバレてしまったかもしれません……」
ハナが小声で言うと、執事長はなぜか微笑んで、「ご案内しますね」と立ち上がる。ハナは慌てて、その後を追った。
本邸の執務室の隣の部屋に、遊戯室はあった。執事長が戸を開けると、そこには見たこともない緑色の机のようなものが置かれている。
鷹保は手にした長い棒で、机の上に置かれた玉を弾こうとしているところだった。
「ぼっちゃん、少々よろしいですか?」
鷹保は執事長の方は向かずに、「ああ」と声だけで返事をした。同時にトン、と白い玉を突く。突かれた白い玉が他の玉に当たって、コンコンと音を立てて四方に散らばった。
「うわぁ……」
ハナは思わず声を上げた。鷹保がこちらを向いて、声を上げた事を後悔した。執務室周辺に、女中は立ち入ってはいけないと言われていたのを思い出したのだ。
「なんだ、おひいさんもいたのか」
鷹保の言葉に、身構えていたハナはほっと身体を緩める。同時に、思わずうつむいてしまった顔を上げた。鷹保は優しく、ふわりと微笑んでいた。
「お入り、おひいさん。じいやは下がってくれ」
「はい、ぼっちゃん」
執事長が一度お辞儀をして去っていくのを見送って、ハナは遊戯室と呼ばれたその部屋に立ち入った。
「これはビリヤードというんだよ。おひいさんもやってみるかい?」
鷹保はそう言うと、壁に立て掛けてあった棒を取り、ハナに差し出した。
ハナは外に記者が押しかけているにも関わらず、優雅に”ビリヤード”というものに興じている鷹保に感心した。けれど、伝えなければならないことがあって、慌ててここへやって来たことを思い出す。
「い、いえ、あの……っ!」
ハナは棒を受け取らずに鷹保の目をまっすぐに見た。鷹保はハナの気迫に、差し出していた棒を下ろした。
「門の外に、記者の方々が、詰めかけていて――」
「ああ、知っているさ」
「それで、青い目で黒髪の女性だとか、鷹保様が庶民に手を出した無分別な男だとか、実は恋の相手が女中なんじゃないかとか、色々と言いたい放題でして……」
「そうかい、そうかい」
「それで、私思わず記者の方々を睨んでしまったんです。そしたら、記者の方と目があって……その、青い目だ、と……」
それまで受け流していた鷹保の顔がピクリと揺れた。
同時に、ふっと口から笑うようなため息を漏らした。
「記者たちは目敏いねえ」
なぜか鷹保は楽しそうな笑みを浮かべる。それから、「少し持っていておくれ」とハナにビリヤードの棒を渡すと、本人は部屋の隅にある机から紙の束を持ってきて、ハナに差し出す。
「今朝の新聞だよ。見てご覧?」
あいにく、読めない漢字が多くて文字を追うことはできない。だから余計に、そこに大きく貼られた写真がハナの目を引いた。
「これ……私?」
鷹保の隣で手を繋ぎ、楽しそうに帝国劇場を去る姿。間違いなく、昨夜のハナと鷹保だった。
ハナはごくりと唾を飲み込んだ。この写真では、自分と鷹保がまるで恋仲のようだ。記事にも『戀』という字が読めて、ハナは余計に青ざめた。
「鷹保様! これは、誤解だと記者の方たちに弁解すべきです! この女はただの女中で、これは鷹保様からのただの褒美だ、と……」
「そう言って、記者たちが信じると?」
「え……?」
鷹保はハナから新聞を取り上げ微笑んだ。それは、全てを受け入れる、諦めたような笑みだった。
「いいんだよ。時が経てば人は忘れる。今回も、時間が無かったことにしてくれるさ」
鷹保の言葉に、ハナの胸はズキンと痛んだ。けれど、自分と鷹保は女中と主という関係だ。きっと、鷹保の言うことが正しい。
鷹保は窓の外をちらりと眺める。「彼らも懲りないねえ」と小言をこぼした。
「まあ、私はなぜだか『帝都一の色男』らしいから、たまには記者どもに話題を提供してやらねばならんのだよ」
そう言って笑いながら、新聞を机に戻す。
「この場所は、憂き世からの隠れ処。せっかくだから、おひいさんもやってみたらいい」
鷹保はハナを手招きした。そういえば棒を持たされたままだったと、ハナは自分の手元を見て思い出した。
「でも、私やったことないです、こんな高貴な遊戯……」
「大丈夫、最初は誰も初心者だよ」
そう言って、鷹保はハナのものとは別の棒を持ち、緑色の台の上で構える。
「こうやって、指で穴を作って――」
鷹保はハナに分かりやすいようにと、わざと大袈裟に手を動かす。
「――この白い玉を、突く。そうして、他の玉を角の穴に落としていくのさ」
言いながら、鷹保がコンと玉を突く。コン、コンと次々に白い玉が他の玉に当たり、角の穴に落ちていく。
「わあ、すごい……!」
その光景に見惚れていると、鷹保がふっと笑う。
「ほら、おひいさんもやってごらん? 指で穴を作って、そこに棒を入れて玉を突くだけさ」
鷹保は左手で円を作り、そこに自身の持つ棒を抜き差しする。
出来るかどうか不安になりながらその光景をじっと見つめていると、鷹保がまたふっと笑った。
「なんだい、じっと見つめて。何か、他のことでも想像してしまったのかな?」
(他の、こと……あっ!)
引っかかってしまった。ハナは顔を真っ赤にして、叫んだ。
「破廉恥です!」
「おひいさんは、からかい甲斐があるねえ」
鷹保はケラケラ笑った。ハナは顔から火が出る思いでふいっとそっぽを向いた。
突然、コンコンと戸を叩く音がした。
「また、じいやか」
鷹保はそう言いながら、「入れ」と戸の向こうに声をかけた。
「度々失礼致します、ぼっちゃま。実は、来客がありまして」
「記者の関係か? 今は忙しいからと返してくれ」
鷹保はため息混じりに答えた。
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