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5 灰被りのおひいさん

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 ◇◇◇

 ドンドンと別邸の戸を叩かれ、鷹保はまだ覚めきっていない身体を無理矢理起こした。昨日は夜遊びする気になれず、早々に別邸に引き上げたのだ。
 本邸の右側は使用人棟だが、左側の別邸は鷹保の住処だ。西洋に倣い、四角い敷地全てを門から見てシンメトリーにしたため、鷹保邸はこの造りになったらしい。
 鷹保は、何もなければ普段は寝食等をここで済ます。

「ぼっちゃん、起きていらっしゃいますか!?」

 朝からじいやが訪ねてくるなど珍しい。まだ眠い目を開けると、朝日が地平線から昇ってまだ時間が経っていないことに気付く。

 ――何があった?

 鷹保は起き上がり、面倒くさそうに入り口の戸を開けた。庭に植えてある木に咲いた、ピンク色の花弁はなびらが数枚風に乗って室内に入ってくる。鷹保はそれだけで苛立った。

「ぼっちゃん、女中が一人いなくなりました」

 じいやの影に隠れて、金色の髪がふわりと揺れる。エメラルド色の瞳をした彼女は、リサという名だ。

「ハナか?」

 じいやではなく、リサに問うた。彼女はコクリと頷く。

「起きたら、ベッドの上にいなくて。でも草履や着物は置いてあったので、寝巻き一枚で一体――」

 鷹保は目を伏せ、二、三度まばたきをした。

 ――彼女に、お戯れは刺激的すぎたか。それとも、私の秘密をどこかに――?

 急に不安になった。ハナはあの手紙の中身を見ている。自分が本当は中條家の次男であり、兄の身代わりであることが、知られてしまっている。
 もしハナが自分の秘密を誰かに漏らせば、帝都中の知るところになる。そうなっては、中條家が世間を欺いていることが公になってしまう。

 けれど、どこかで安心もしていた。抱える秘密がなければ、本心を隠してばかりの惨めな想いで生きなくても良くなる。

 黙り込んだ鷹保に、リサは喋りすぎたと口を噤んだ。

「いかがなさいましょう、ぼっちゃん」

 探しに行きたい。けれど、ハナの人生はハナが決めるべきでもある。彼女は自分と違って、庶民だ。鷹保の秘密を暴露して、大金を得て優雅に暮らせるなら、それでもいいかもしれない。

 鷹保は諦めのため息を漏らした。

「私、探しに――」

「いや、いい」

 リサの提案を最後まで言わせずに断ると、鷹保は自分で探しに行こうと決めた。彼女はその身ひとつで脱走した。きっと、まだ遠くへは行っていないはずだ。
 もし見つからなければ、諦めればいい。秘密が公にならなければ、それから探しても遅くはないだろう。

 リサとじいやを使用人棟に返す。鷹保は部屋に戻り、洋装に着替えた。シルクハットを被って、外へ出る。

 すると、門の前に見慣れた人影を見つけた。

 ――アイスクリヰムのマスターか? 珍しい。

 喫茶アイスクリヰムは、鷹保の贔屓にしているカフェーのひとつだ。
 赤くてころんとした、チェリーのシロップ漬けは鷹保の好物だ。日本では珍しいそれを鷹保に売ってくれるのが、マスターの店なのだ。
 店名にあるアイスクリームやチョコレートなど、マスターの店には他では珍しいものがたくさん売っている。

「喫茶アイスクリヰムは、配達を始めたのかな?」

 門の外に向かって、鷹保は口角を釣り上げ言い放つ。しかしマスターは「いやいや」と笑って、門の外から鷹保に言った。

「鷹保くんのとこのお嬢ちゃん、うちにいるよ」

 ――マスターのところなら安全か。

 そう思ったのも束の間、鷹保は急に苛立ち始めた。

 ――マスターのところが良くて、私のところから逃げ出す理由は何だ?

 マスターも胡散臭くて、裏の多い人物である。情報通で、敵に回したくはない。鷹保ですらそう思うのに、ハナはなぜこの男について行ったのか。

「お嬢ちゃん、着の身着のまま飛び出してきたみたいでさ。荷物があれば、うちで引き取るけど」

 マスターは片手を鷹保に差し出した。

「必要はない。私も共に行くさ」

「迎えに?」

「ああ」

「分かった。だが、履物と着物だけ先にもらっていいか? お嬢ちゃん、帝都で裸足に浴衣一枚じゃあ、さすがに可哀想だろ」

 そう言われ彼女の草履と女性ものの着物をマスターに手渡す。
 マスターはそれを手にひょいと自転車に乗り、道の向こうに消えていった。
 鷹保は急いで馬車を手配し、マスターの後を追った。


 帝都の朝は道が混む。帝都に集まる官僚も、新しくできたサラリーマンという職種の人間も、朝から勤勉なことだと鷹保は馬車の車窓から外を眺めて思った。

 ――思っていたより時間がかかるな。

 腕時計を確認し、開店時間に間に合えばと窓枠に頬杖をついた。

 鷹保が喫茶アイスクリヰムの前に着いたのは開店の刻ギリギリ前だった。マスターには迷惑をかけたと、チェリーを買う金もいつもより多めに用意した。

 店の外から中の様子を伺う。ハナは髪をひとつに束ね、上の方を真っ赤なリボンで結っているところだった。うまく結えずにいると、それを十蔵が手伝う。瞬間、苛立ちがこみ上げた。

 ――私の女中なのに、マスターは距離が近くはないか?

 十蔵が何かを言って笑うと、ハナが頬を桃色に染める。鷹保は舌打ちをした。耐えられずに、喫茶店の戸を開いた。ハナの視線を感じたが、わざといつも通りを装った。

 ――ほれみろ、おひいさん。私だって、お前のことは何とも思っていないさ。

「マスター、いつもの」

「あいよ」

 マスターがカウンターの向こうから手を伸ばし、鷹保がそこに小銭を乗せる。マスターが手を引っ込め、代わりにチェリーの瓶を差し出す。
 何十回としたやりとりだが、こんなに朝早く、しかも目の前のマスターが意味深に口角を釣り上げているのは初めてだ。

 居心地が悪い。さっさと切り上げたい。

「それから……」

 鷹保はさっさとマスターから目線を離し、微笑みの仮面を被ると、先程から自分に視線を向ける人物の方を見た。
 
「うちの者が世話になったな」

 ハナは鷹保を見たまま、ぴくりとも動かない。
 それが癪に障って、鷹保はわざとゆっくりハナに歩み寄る。それでもハナは動かないので、鷹保は仕方なく彼女に手を伸ばした。

「迎えに来たよ、おひいさん」

 それでもなお、ハナはまだ固まったままで、鷹保は怒りを抑え無理矢理に目を細めた。

「ハナちゃん、主にばれちゃ仕方ないさ。鷹保くんのところをクビになったらまたおいで。そしたら雇ってあげるから」

 マスターがカウンターに手をついてそう言う。鷹保がマスターを振り返ると、彼はそしらぬ顔でカウンターを拭いていた。


 表に停めていた馬車にハナを乗せると、鷹保は隣で流れていく帝都の朝の景色に目を細めた。

 ――ここにいる万人が私の秘密を知ったなら、私は私でいられるのだろうか。

 マスターの感じから、おそらくハナは秘密を漏らしてはいないだろう。しかし、彼女が一人で抱えるには、中條家の秘密は重すぎるかもしれないとも思う。

 ふと彼女を見た。初めて会った時のように、青い顔で震えていた。

「何をそんなに怯えているんだい、おひいさん」

 優しく声をかけたつもりだったが、ハナは大袈裟に肩を震わせる。顔が一気に驚きに代わり、鷹保は耐えられずに声を出して笑った。

 ――彼女を逃がすわけにはいかない。けれど、秘密の重荷に潰れて欲しくはない。戻ったら、彼女に相応しい仕事を頼もう。

 鷹保はそう思いながら、口を開いた。

「忘れたのかい? 逃げられないと言っただろう。勤めてさえいてくれれば、悪いようにはしないさ」

 ハナは困惑した顔で鷹保を見たが、そのまま顔を伏せてしまった。
 鷹保はまた窓の外に目を向ける。

 ――行き交う人々が、私を中條家の長男だと思っている。それでいい。私は私である以前に、中條家の人間なのだから。


 ◇◇◇

 ――つかまってしまった。
 鷹保様の馬車に乗るのは二度目だが、ハナの心持ちは一度目とはだいぶ異なっていた。
 フカフカの座席に、身体と共に心まで沈んでいく気がする。鷹保は相変わらず、窓の外を眺めハナの方には目もくれない。

(きっと、ものすごく怒っていらっしゃる)

 ハナは鷹保邸に戻ったあとの処遇を想像し、ぶるりと身震いをした。

「何をそんなに怯えているんだい、おひいさん」

 いつの間にか、鷹保はハナの方を見ていたらしい。大袈裟すぎるほどに身体が震え、鷹保はケラケラと笑った。

「忘れたのかい? 逃げられないと言っただろう。勤めてさえいてくれれば、悪いようにはしないさ」

 鷹保は微笑を浮かべ、それからまた馬車の車窓に目を戻す。
 ハナは彼の本心が分からず、恐怖で胸がいっぱいになる。けれど、戻ったらまた女中として働かなくてなならない。

 ハナは、帝都に来た時の誓いを思い出した。

(父母に、村の人たちに帝都での仕事を誇れるように、困難があっても立派に勤めなきゃ)

 ハナは揺れる馬車の中、鷹保が見てないことを確認してから、拳をぐっと握りしめた。


 鷹保邸に戻ると、門の前でリサと女中長が待っていた。リサは不安そうな、女中長は鬼のような形相をしている。
 鷹保は先に降り、さっさと本邸の方へ向かってしまう。ハナは門を入ったところで、リサと女中長に頭を下げた。

「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

「本当ですよ! 逃げ出すなんて、前代未聞です! 次は無いと思ってくださいね!」

 女中長はそう言い放ってから、部屋に戻って着替えるようにハナに指示した。
 女中長が去っていったあと、リサが駆け寄ってくる。

「何もなくて良かったわ。部屋に朝食のおにぎり置いてあるから、頂いてから出てきなさいね」

「ありがとうございます……」

 リサの優しさが身にしみる。ハナはほっと安堵の息をついた。

「でもどうして逃げ出すなんてこと……。旦那様も、とても心配してなさったのよ?」

 リサはそう言うと、「あ、もう行かなきゃっ」と本邸の方へ駆けて行ってしまう。

(鷹保様が、私を心配していた……?)

 そんなはずない、きっとお茶屋さんに来たのも偶然だったんだとハナは思いながら、自分の部屋へ戻っていった。


 自室で身支度を整え終わった頃、コンコンと戸を叩かれた。

「失礼致します」

 入ってきたのは執事長だった。

「ああ、無事お戻りでしたね。良かった」

「ご心配をおかけしました」

 ハナはぺこりと頭を下げる。鷹保は怖いけれど、自分の身を案じてくれる人がいるのは、心強い。この場所で頑張ろうと思わせてくれる。
 頭を上げると、執事長は穏やかな笑みを浮かべていた。

「ハナさんはご存知と思いますが……」

 執事長は声を潜め、「ぼっちゃんの秘密のことです」と言う。

「ぼっちゃんの負担を、あなたも抱えてくださった。それだけで、私は嬉しいのです」

 十蔵に、『鷹保には誰も知らない秘密がある』ということは聞いた。ハナはその内容を知らない。けれど、どうやら執事長は、ハナが秘密の内容を知っていると勘違いしているらしい。
 そのことを伝えようと口を開くが、執事長はそれより早くハナに言う。

「ハナさんなら、きっとぼっちゃんの力になってくださると思うのです。だから、今後もご負担をおかけすると思いますが、それを含めて鷹保邸で勤めていただけたらと思うのです」

 ハナは何のことだかわからず首をかしげた。すると執事長は唐突に話題を変えた。

「ところで、ハナさんは何か得意なことはございますか?」

「得意なことですか……?」

 田舎の山の村で育ったハナは、学もなければ教養もない。土にまじって走り回り、手伝いをして育った。

「畑仕事なら田舎で手伝ってました。あとは、布切れをつなぎ合わせたり、竹を編んでかごを作るくらいしか……」

 悩みながら、自分のできることを精一杯に伝える。けれど、どれも帝都ではあまり意味がないように思えた。

「では、ハナさんには庭のお手入れをしてもらいましょう」

「え? 庭……ですか?」

 ハナは聞き返した。ハナのしていた畑仕事といえば、桑で土を耕したり、草取りをしたり、田植えの季節に植え付けを手伝ったり、稲穂が実れば刈り取ることだ。
 帝都で見るような花や木は、扱いに慣れていない。

「ええ。本邸の前の庭の木に、ピンク色の花が咲いているでしょう。この季節になると、どうにも花びらが凄いので、それを掃除してもらって、あとは雑草を処理していただけたらと」

 それくらいなら、とハナは「はい」と頷いた。
 執事長はハナの準備が整っていることを悟り、自分についてくるよう指示した。

 使用人棟を出て右側、今朝ハナが伝って降りた松の木の横に、小さな木の小屋があった。

「庭の手入れに使うものはこの小屋の中にありますので。最近は私が箒を使っているだけなので、もしかしたら奥の方は煤埃が溜まっているかもしれません」

「それなら、小屋の中の掃除からしましょうか?」

 ハナが言うと、執事長はニコリと笑う。

「お願いしてもよろしいでしょうか? 庭は長らく私が担当してきましたが、この老いぼれは庭の掃き掃除で手一杯でして」

 ハナもその言葉にクスリと笑う。「かしこまりました」とハナが小屋の戸を開けると、執事長はそこから去っていった。

(さて、頑張らないと。お屋敷の中にいるよりも外で土をいじっている方が私らしいものね)

 ハナは意気込んで小屋の中に入った。
 手前には執事長が良く使うのだろう、竹箒と木のちりとりがある。そこだけ綺麗になっているが、奥の方は誰も使わないらしい。棚に置かれた小さなくわや枝切りばさみは、見事に埃を被っていた。

(埃を払うなら、まずはハタキと雑巾ね)

 ハナはくわが置かれた棚の下の小さな戸棚から、目的のものを探し出す。そして上から順番に、埃をどんどん落としてゆく。
 蜘蛛の巣を絡め取り、落ちてきた埃にむせながら、懸命に小屋内を掃除した。

 その甲斐あり、雑巾をかけ終わると小屋内も見違えるように綺麗になった。まだ外は肌寒いが、ハナはじんわりと額に汗をかいていた。

 ハナは少しだけと、その場に腰を下ろした。小さな窓から覗く光が、もうすぐ昼になることをハナに告げる。

(昼げを頂いたら、午後はお庭の掃き掃除と草むしりをしないと)

 気合を入れるけれど、ハナの口からはふわりと欠伸が漏れた。
 昨夜は悶々としたまま眠れず、そのまま朝早くに鷹保邸を飛び出した。昨日も一日中掃除をしていたので、思っているより疲れていたらしい。

(少しだけ、昼げまでなら……)

 ハナは自分に言い聞かせ、ほんの少しだけ休むつもりで、身体を横にし目を閉じた。


「おひいさん、見いつけた」

 甘い囁きが耳元で聞こえ、ハナは飛び起きた。声の主はそんなハナを見てククッと喉を鳴らして笑っている。

「鷹保様っ!」

 鷹保が物置小屋にいるという事実に驚いたが、それ以上に自分が業務中にすっかり寝てしまったことに慌てて窓の外を見た。
 日はまだ高く、先程からそんなに時間は経っていないらしい。

「失礼を致しました!」

 ハナはまだ笑みを浮かべる鷹保をもう一度見て、それから慌てて立ち上がる。
 ぱんぱんと前掛けの埃を払うと、頭を下げた。

「あの、昨晩は寝ていなかったもので、少しだけならと甘えてしまいました。どうか、見逃して頂けると――」

 必死なハナに、鷹保はまたクツクツと喉を鳴らす。

「そのくらいどうってことないさ」

 鷹保の言葉に顔を上げた。鷹保が思ったよりも近くに迫っていて、思わず仰け反る。
 しかし鷹保は、そんなハナの頭に右手を伸ばした。鷹保の手は、そのままハナのまとめた髪を滑るように降りてゆく。

「もう逃げ出さないでおくれよ、灰被りのおひいさん」

 強気な顔で、口元は微笑んでいる。けれど、その口調は覇気がなく、どこか悲しげに聞こえる。

 ハナの胸は高鳴った。けれど、鷹保が右手をぱっと払ったので、髪の埃を取ってくれただけだと理解した。

 鷹保はくるりと背を向け、小屋の中から去ってゆく。

(ほだされてどうするのよ! 相手は、腹の内では何を考えているのか分からないお方よ! ……というか、主とただの女中なんだから!)

 まだ高鳴ったままの胸に手を当て、ハナは自分に言い聞かせた。
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