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4 主の秘密と逃走未遂

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 それから掃除の仕事をこなし、同室であるリサと共に夕飯に出された白米と煮魚を食べて、使用人棟に戻った。
 寝支度を整え、ベッドに横になる。すると同じく横になったリサが話しかけてきた。

「ハナさん、一日目、どうでした?」

(どう? と聞かれても……)

 ハナは困った。
 最初の鷹保の印象が強すぎて、その後は必死にそのことを忘れようと掃除に勤んだ。
 しかし、使い慣れない用具で廊下を掃除するのは、ハナには至難の業だった。挙げ句、雑巾一枚で隅から隅まで拭き掃除をするだけで終わってしまった。

「帝都はすごいなあって、思いました」

 ハナは少し考えてからそう答えた。

「なにそれっ」

 リサは「あなた、本当に面白いわね」と、くすくす笑った。

「生まれはここじゃないのね」

「はい、ここより北の、山中の小さな村で育ちました」

 リサは「へえ」と相槌を打つ。ハナはリサの方へ寝返りをうった。リサは仰向けのまま、天井を仰いでいた。

「帝都は良いところよ。憧れが詰まってる。どん底にいても、すくい上げてくれるから」

 そう話すリサの表情がキラキラとしていて、ハナは思わず見惚れてしまった。

「リサさん、お仕事辛くはないですか?」

 ハナは思わずそう聞いた。あんなに恐ろしい笑みを浮かべる主の元にいるのに、なお帝都に希望を持っている。それが不思議だった。
 なのにリサは、顔だけハナの方を向くと、笑みを浮かべる。

「辛いなんてあるわけないじゃない。ちゃんとしていればお給金で好きなものが買えるし、何より旦那様がとてもお優しい方だから。鷹保様に仕えることができて、心から幸せだって思えるの」

 リサは噛みしめるようにニコリと口角を上げ、楽しそうに笑う。

「そう、ですか……」

 ハナは希望と落胆が一気に押し寄せたような、変な気持ちになった。

(リサさんは、鷹保様に騙されているのかもしれないわ……)

 忠告しようとしたが、勤め始めて1日めの新人が先輩に言う言葉ではないなと、言いかけた言葉を飲み込んだ。モヤモヤしていると、「おやすみなさい」とリサが言う。

「おやすみなさい」

 そう返事をしたけれど、ハナはモヤモヤを抱えたまま、月明かりの入る部屋で眠れぬ夜を過ごした。


 全く眠れぬまま、朝日が登った。3月は色々な植物が芽吹く季節だが、早朝はまだ肌寒い。
 ハナは布団にくるまったまま、胸に抱いたもやもやとした気持ちと戦っていた。

(リサさんは鷹保様を優しいと言っていたけれど、やっぱり怖い……)

 迫ってきたかと思えば、『お戯れ』と笑う。
 怒ったかと思えば、急に笑みをうかべる。
 その腹の中では、一体何を考えているのだろう。

 ハナはリサが寝る前に言っていた言葉を思い出した。

「帝都という街は、『どん底にいても、すくい上げてくれる』……」

(帝都は広いわ。こんなところだけじゃないはず……!)

 ハナは部屋の窓をそっと開けた。


 窓の外には、ちょうど立派な松の木が一本生えていた。

(これなら、下まで降りれる!)

 ハナは窓から松の枝に慎重に飛び移る。リサに怪しまれぬようにそっと窓を外から閉めると、そのまま枝を伝って太い幹の部分に達した。
 それから慎重に降りてゆき、別の枝を伝って邸宅の外壁の上に達する。そこからぴょんっと飛び降りると、鷹保邸からの脱出に成功した。

 ほう、と安堵の息を着いたのも束の間、これからどうするかハナは考えていなかった。誰かがすくい上げてくれると期待を込めて逃げ出したはいいが、帝都に疎いハナはどちらに行けばいいのかも分からない。宝華亭のようなところに拾われてしまうかもしれない。

 不安のため息をもらすと、まだ早朝の静かな帝都に、カラカラと聞き慣れぬ車輪の音が聞こえた。

(何かしら? 馬車とは、違うようだけれど)

 ハナが音の方を振り向くと、向こうの方から二輪の足を持つ人影が見える。目を細めると、朝日の中に見たことのある顔が浮かんで、ハナは驚いた。二輪の人影もハナに気付いたようで、キーッという音を響かせハナの前で止まった。

 ハナはじっとその人物を見た。二輪の足だと思っていたのは金属でできた乗り物で、足で漕ぐと車輪が回る仕組みらしい。それに納得してから顔をあげると、二輪の主は目を瞬かせた。

「おや、お嬢ちゃん。また会ったね」

 彼はハナの事を覚えていた。

「あの、その節はありがとうございました!」

 二輪の主は、帝都でハナを最初に助けてくれた、白いシャツに黄土のズボン、下駄を履いた男性だったのだ。

「朝早くから、そんな怯えた顔をして、一体何をしているんだい?」

 男性は優しい笑みを浮かべ、ハナの顔を覗く。そんな顔をしていたのかと、ハナは自分の頬を両手でほぐした。
 けれど、そんなことしている場合ではないとすぐに気付く。

(逃げるために外に出たのよ!)

 ハナは男性に勢いよく詰め寄った。

「お願いします! ここから遠くに、私を連れていってください!」

 男性は一瞬驚いた顔をして、それからフッと笑う。落ちてきた前髪を頭の上にかき上げてから、必死な顔をしたハナの頭に優しく手を乗せた。

「分かったよ。乗りな」

 男性はハナの頭に乗せていた手で二輪の後ろを叩いて、座るよう促した。太い金属を曲げて作られたような平たい部分に腰を掛けると、男性は「足を巻き込まれないように気をつけて」と言いながら、ハナの手を取る。それを自分の腰に回すよう促すと、男性は前を向き直った。

「しっかり捕まってな、お嬢ちゃん」

 男性が漕ぎ出して、走るより数倍早く二輪が街を駆ける。朝日だけがそこにいるような早朝の静かな街に、ハナはこうして飛び出した。


 男性がやって来たのは、煉瓦れんが作りの建物が立ち並ぶ大きな通りだった。
 そこから一本入った路地にある、小さな茶屋の前で男性は二輪を停めた。茶屋というには洋風なのだが、こじんまりとしたその店の雰囲気に、ハナは他の言い方が思い浮かばなかった。

 男性はガチャリと鍵をあけ、ガラス格子の戸を開く。

「入りな、お嬢ちゃん」

 ハナが中に入ると、男性は腰に黒いエプロンを巻きつける。

「そこのカウンター、座って。ここ、俺の店だから」

(彼、お茶屋さんの店主だったのね!)

 納得しながら、ハナは男性の目線の先を見る。カウンターと呼ばれた場所は、店主と対面できる席だった。その一番端にちょこんと腰掛けると、店主はカウンターの奥で湯を沸かしていた。

「その恰好じゃあ、冷えただろう。3月は朝晩はまだ冷えるからなあ」

「……あっ!」

 ハナははっと思い出す。鷹保邸で布団に入り、そのままの恰好だ。ということは、寝間着の浴衣に裸足ではないか。
 思い出したら急にそわそわして、きゅっと身体を縮こませる。草履も履いていない足元が心もとなくて、もじもじと足をすり合わせた。

「ほら」

 店主はいつの間にか手に外套がいとうを持っていた。黒くて大きく、所々色があせている。

「悪いね、お嬢ちゃん。こんなのしかなくて」

 店主がハナの背後に回り、そっと肩に外套をかけてくれた。

「い、いえ……ありがとうございます、えっと……」

「俺は戸越とごし十蔵じゅうぞう。喫茶アイスクリヰムへようこそ、お嬢ちゃん」

 彼はハナの横で、わざとらしく大きく手を広げて笑いながら言う。

「喫茶、アイスクリヰム……?」

 十蔵はカクっと一旦膝を折ったが、苦笑いを浮かべながら湯を沸かしていた方へ戻る。それで、ハナは調理する十蔵を目の前に見る形になった。

「書いてあったでしょう、店の入口に。小さな看板だけどさ」

 十蔵は流れるような手付きで、小さな鍋に茶色い粉を入れ、先程沸かした湯を加えて金属の棒で練り上げている。

「すみません、私……字が読めなくて」

 十蔵は一度はっとハナの方を向く。すぐに目線を手元に戻し、白い液体をそこにゆっくりと注いでいた。

「そりゃ悪いことを聞いたね。お嬢ちゃんの田舎はまだ学制も浸透していないのか」

 言っている意味が分からなくて、ハナは首をかしげた。

「この店は喫茶店。西洋のカフェーってヤツだ。で、目玉商品がアイスクリームなんだ」

「カフェー……? それは、お茶屋さんということで合ってますか?」

 十蔵は「まあ、そんなところだ」と苦笑を浮かべる。彼の手元の小鍋から甘い匂いが香ってきて、ハナは鼻から思い切り息を吸い込んだ。

「それが、アイスクリームですか?」

 十蔵はハハっと声を上げて笑う。

「違う違う、アイスクリームは冷たくてね。今は温かいものがいいだろう。だから、これは――」

 十蔵は取っての付いた湯呑のようなものに、出来上がった茶色い液体を流し入れる。

「――ココア、だよ。どうぞ」

 手渡され、受け取ってからハナははっとした。

「私、お金持ってませんっ!」

「いいんだよ。だってお嬢ちゃん、注文もしてないだろ?」

 そう言いながら、今度は十蔵は手際よくハナの持つ湯呑と同じものを取り出して、その上にガラスのろうとのようなものを乗せる。そこに黒っぽい粉を乗せると、今度は上から湯を注ぐ。

 ハナはその様子を、温かいココアを両手で包みながら見ていた。だんだんと冷たかった手が温まってゆく。同時に、十蔵の手元から香る異国の香りに、胸がドキドキする。

「それは、何ですか?」

「これはコーヒー」

 十蔵はそう言いながら、上に乗せたろうとをどけると、湯呑に付けられた取っ手を右手で軽く持ち、自分の鼻に近づける。

「うん、いい香り」

 それから一口含み、ふっと笑った。

「お嬢ちゃんも、飲んでみたいかい?」

 ハナはこくりとうなずいた。帝都で感じた、初めての異国の香り。けれど、十蔵は「ハハっ」と笑う。

「お嬢ちゃんにこれはまだ早いさ。今はそのココアを飲みな。まだ一口も飲んでないんだろ? 冷めないうちに」

 ハナはそっと湯呑に口づけた。温かくて、甘くて、優しい味がする。

「美味しい……」

 帝都に来てから2日。たったそれだけしか経っていないのに、随分と色々なことがあった。
 初めて飲んだココアは、ハナの心までじわんと温めてくれるようだった。

「十蔵さん……」

「何だい、お嬢ちゃん?」

「ありがとう、ございます……」

「ああ」

(私、十蔵さんに助けてもらってばかりだわ)

 十蔵の温かさに、涙がこぼれた。

「ごめんなさい……私……」

「……お嬢ちゃんを泣かせるなんて、鷹保くんは酷い男だ」

 十蔵はわざとおどけるように言う。ハナははっとした。

「私が鷹保様のところにいたこと、知ってたんですか!?」

「やっぱりそうか。ほら、あそこは鷹保くんのお屋敷でしょ?」

 十蔵はまたハハっと笑って、コーヒーに口をつける。ハナも胸がドクドク言うのをごまかすように、まだ温かいココアに口をつけた。

「お嬢ちゃん、その様子じゃ荷物も鷹保くんのところに置いてきちゃったんでしょ?」

「え?」

 ハナは顔を上げた。十蔵と目が合った。

「この間は持ってたでしょ、風呂敷包み」

「あ、それはまた別の事情がありまして、宝華亭に……」

 モジモジしながらそう言うと、十蔵は「もしかして――」とハナの顔を覗く。

「財前の頬を叩いたって女中は、お嬢ちゃん?」

 覗かれた顔を隠すようにココアに口を付けていたハナは、思わず噎せてしまった。

「ごめんごめん、でもやっぱりそうか。ほら、こういう仕事してると、色んな客が来るんでね。色んな噂を聞くんだよ」

 十蔵は「ま、財前が何かやらかして逆上したのを、鷹保くんが助けたって噂だったけど」と呟きながら、楽しそうにコーヒーを飲み続ける。
 それから、飲み終わった湯呑を手元に置くと、改めてハナの方を向く。そして、その瞳をじっと見つめて、優しく微笑んだ。

「色々大変だったね、お嬢ちゃん」

「は、はい……」

 ハナは頬が熱くなるのを感じた。それで、また湯呑で顔を隠す。口に流れてくるココアは甘く優しくて、胸に芽生えた想いに拍車をかけようとする。

「……鷹保くんが怖いかい?」

 ハナは十蔵の言葉に、コクリと頷いた。

「それなら、とっておきの噂を教えてあげるよ」

 ハナは目を見開き顔を上げた。

「鷹保くんは帝都一の色男ってちまたでは呼ばれてる。一晩毎に違う女を喜ばせては、世間を賑わせるんだ」

(――知らなかった、そんなこと)

 けれど一昨日、簡単に押し倒され彼の罠にはまったハナは、それが本当であると信じられた。

 ハナはまばたきも忘れて十蔵の話に食い入る。十蔵はハナに顔を近づけ、内緒話をするような声で囁いた。

「そんな帝都一の色男には、誰も知らない秘密があるんだってよ」

「秘密……?」

 ハナが首をかしげると、十蔵はフッと笑う。

「まあ、中身は知らねえけどさ、それはお嬢ちゃんんが追々掴むとして。相手の弱みを握っていれば、鷹保くんだって怖くないだろ?」

(確かに、相手の弱みを掴めば怖さは消えるかもしれない。でも――)

 ハナは鷹保のことを思い出した。
 腹の底では何を考えているのかわからない、笑顔の仮面を被った高貴な方。そんな彼の弱みを掴もうと挑むくらいなら、関わらないほうがマシだ。
 そう思って、こうして逃げ出してきたのだ。

「……もう関わらないからいいんです。それに、私はそんな卑怯な真似はしたくない」

「ほう?」

 ハナは自分が震えているのが分かった。本心だったが、帝都で酷い目に合ってきたハナにとって、それが正しいことなのか分からなかったのだ。

「いいねえ、お嬢ちゃん」

 十蔵はハナの顔を覗き込み、ニヤリと笑う。不思議な人だ、とハナは思った。

「行く宛もないんだろう? だったらうちで働くかい?」

「いいんですか!?」

「ああ」

 願ってもない奇跡だ。ハナは急いで冷めてしまったココアを飲み干す。

「えっと、お嬢ちゃんお名前は?」

 そう訊ねてきた十蔵に、ハナは勢いよく立ち上がり、腰から90度頭を下げた。

「ハナと申します! よろしくお願い致します!」

「じゃあ、開店前に店の掃除をよろしく、ハナちゃん。掃除用具はそこの扉の中に。俺はちょっと用があるから出てくるわ」

 十蔵はハナを残し、ヒラヒラと手を振って喫茶店を出ていく。ハナは「よし」と気合を入れると、裸足のまま喫茶店の掃除を始めた。


 しばらくして十蔵が戻ってくると、その手には草履と着物が握られていた。

「裸足でよく頑張っていたね、これ」

 ハナは持っていた雑巾で足の裏を拭き、草履を履いた。それが妙に足に馴染んで、そういうところも優しいと嬉しくなった。
 それから、背の高い長椅子の影でぱぱっと着替えを済ませると、髪を手で梳いた。十蔵が細い綺麗な布をくれたので、それでまとめた髪を結った。

「赤いリボンが似合うねえ」

 十蔵が布を綺麗に結び直しながらそう言って、満足気に微笑んだ。

「さて、開店だ」

 十蔵がそう言った瞬間、喫茶の入り口の戸が開いた。顔をそちらに向け、ハナは固まった。

「マスター、いつもの」

「あいよ」

 客は何事もないかのように、十蔵に流れるように小銭を渡す。十蔵がそれを受け取ると、彼もまた流れるように何かの入った瓶を渡した。

「それから……」

 客がハナを見た。目が合った。ハナは動けないでいた。

「うちの者が世話になったな」

(嘘……)

 客は目の前まで迫り、ハナに手を伸ばす。

「迎えに来たよ、おひいさん」
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