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第二部 ジェノサイド

第40話 幻のデストラップとリアル絶叫マシーン 第十の犠牲者

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 残り時間――1時間57分  

 残りデストラップ――3個

 残り生存者――10名     
  
 死亡者――8名         

 重体によるゲーム参加不能者――1名

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 スオウは『アトラクション乗り場』に設置されている『船』を目指して進んでいく。

「待ちやがれ! てめえ、絶対にぶっ殺してやるからなっ!」

 後方からは、追って来る男の罵声が途絶えることなく聞こえてくる。

「そんなにおれを殺したかったら、おれに追いついてみろよ。それとも運動不足の体じゃ無理か?」

 スオウは敢えて男を挑発するように言い返す。デストラップに誘導するまでは、男にこちらの意図を悟らせるわけにはいかないのだ。怒声を張り上げる男の様子から見て、かなり頭に血がのぼっているであろうことは察せられた。つまり、男は冷静に状況を把握しきれていないはずだ。

「キサマ、ふざけたことを言いやがって……。殺されてから後悔しても遅いんだぜっ!」


 生憎と、今からするのは後悔じゃなくて『航海』の方なんだよ。


 スオウは前方に見えてきた『船』の偉容を見上げた。この『船』に男を誘い込み、デストラップに陥れるつもりだった。

 宙に浮いた『船』は左右に大きく動いているので、タイミングを見計らって男を誘い込まないとならない。『船』のある場所まで誘導したはいいが、肝心の『船』が稼動していたら中に乗り込むことは出来ないのだ。


 慌てることはないさ。ここまでは上手く誘導出来ているからな。この後もきっと上手くいくさ。


 スオウは痴漢スプレーの缶を取り出すと、右手でしっかりと握り締めた。この作戦の肝になるのが、この痴漢スプレーなのだ。

 いくら怪我をしているといっても相手はヤクザ崩れの粗野な人間である。素手のスオウでは絶対に太刀打ち出来ない。それをカバーするのが、この痴漢スプレーである。

 男の顔面──それも出来れば男の目を狙いたかった。視界を奪ったうえで、男だけを『船』に置き去りにするのだ。

 スプレーのボタンを軽く押し込んで、噴射の状態を確認してみる。プシュッという軽快な音を伴って、半透明の液体が霧状に飛んでいく。これなら問題なく使える。

 追ってくる男との間合い。『船』の稼動状況。痴漢スプレーを当てる場所。

 それら三つの要素が、すべて上手く噛み合わないと作戦は成功はしない。

 急に心中に不安がせりあがってきた。ここまで勢いに任せてやってきたが、一旦冷静になると、今自分がどれだけ危険なことをやらかそうとしているのか、改めて思い知ったのだ。

 かといって、ここで逃げるわけにはいかない。スオウは『ゾンビ病棟』で待っている、イツカのことを思い浮かべた。


 イツカ、待っててくれよ。


 スオウは頭に思い浮かべたイツカの顔に誓うと『船』に近付いて行った。


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 スオウがデストラップに男を誘い込もうとしていたのと同時刻──。


 玲子もまた追ってくる男をデストラップに引っ掛けようと行動していた。

 破壊された迷子センターで春元と別れた玲子は、計画に必要な『荷物』をいくつか手に持って、『あるアトラクション』を目指して走っていた。『荷物』のうちのひとつは、かなり大きく嵩張るものだった。

 果たして、思いついた作戦が上手くいくかどうかは半々だったが、銃を持った相手と戦うには、これ以外に良い方法は思いつかなかった。


 大丈夫、あたしには慧登君が付いていてくれるから。きっと慧登君が守ってくれるはずだから。


 その思いがあるからこそ、玲子は大胆不敵な計画を実行する決断を下したのである。

 大きな『荷物』を両手で抱えるようにして持ったまま、お目当ての『絶叫アトラクション』乗り場まで急ぐ。


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 鬼窪は道のかなり前方に、あの女の姿を発見した。距離的に銃で狙える距離ではない。銃を使うには、もう少し近付く必要がある。

「このピストルじゃ、ライフルのようにはいかないからな」

 銃を構えようとしたが、早々に狙撃を諦めて銃をしまった。

 女は手にやたらと大きな荷物を持っていた。そのせいかどうか分からないが、走るスピードはあまり速くない。

「まさか、あの大きな荷物は──」

 鬼窪の脳裏に、現金がたっぷり詰まってパンパンに膨れたボストンバックが思い浮かんだ。現金というのは、集まると以外に嵩をとるし、見た目以上に重量もあるのだ。

「やっぱりな。あの女は金を持っているんだ。俺の予想通りだぜ。あの男、女に金の在り処を教えていやがったな。どこに隠していたのか知らねえが、これで金を探す手間が省けたってもんだぜ」

 鬼窪は口の端をくいっと持ち上げた。頭で底意地の悪いことを考えていると、つい出てしまう鬼窪の癖だった。

「だが、二千五百万の大金だからな。女の体力じゃ、そう簡単に遠くまで運べやしねえだろうな」

 自分にとって好都合の状況を前にして、鬼窪の胸中にも若干余裕が生まれた。これならば女に追いつくのも時間の問題に思えた。

「ヤクザを甘く見たことをたっぷりと後悔させてやるぜ」

 鬼窪は遠くに見える女の背中に向かって、不敵につぶやいた。


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 左右に大きく動いていた『船』が徐々にスピードを緩めていき、最終的に地面と平行になったところで止まった。目の前で改めて見ると、その巨大さに圧倒されそうになる。しかし、大きいということは、それだけ男を誘い込むのに適しているともいえた。

 スオウは止まったばかりの『船』に、さっそく乗り込んだ。前後に何列も座席が並んでいる。むろん、座ることはしない。楽しむために乗り込んだわけではないのだ。

 スオウが乗り込んだ『船』は、振り子のように左右に大きく傾き、乗っている人を怖がらせ且つ楽しませる、バイキングと呼ばれるタイプのアトラクションである。

 スオウの読みが正しければ、このバイキングでデストラップが発動するはずであった。

 座席の背もたれに手をつきながら、追ってくる男が乗船してくるのを待つ。

 この座席の列を上手く使って男と距離を取りつつ、船が動き出すタイミングを見計らって、男に痴漢スプレーを掛けて、スオウは船から飛び降りる──というのが、スオウがたてた計画の素案だった。

「こんなところに逃げ込んで、どうしようっていうんだ? 海賊ごっこでも始めるつもりか?」 

 スオウのことを追いかけてきた男が、何も疑うことなくバイキングに乗船してきた。明らかに自分が有利であると信じて疑わない男の言葉である。そこにこそ、スオウがつけこむチャンスがある。

「おれもさすがに走り疲れたからな、ここらで決めようと思っただけのことさ。ただし、あんたは立派な武器を持っているが、おれはこの通り素手だからな。その武器に勝つには、地の利を有効に使わないとな。それがこの乗り物だったってだけのことさ」

 男から少し離れた場所に位置取りしながら、男を挑発するスオウ。

「随分と言ってくれるじゃねえかよ。まるでオレに勝つみたいな口振りだな。だがな、キサマにひとつ良い事を教えてやるよ。地の利がそっちにあったとしても、ケンカで最終的にものを言うのはコレなんだよ」

 男はコンバットナイフの刃先を、スオウに突き刺すように向けてきた。

「そのオモチャが勝つか、おれの頭脳が勝つか、勝負だな」

 突きつけられた凶悪な武器を目にして、胴震いが生じたが、ここは自分の計画を信じて強気に出た。

「ふんっ、オモチャかどうかは、一度刺されればすぐに分かるぜ」

「つまり体に刺さらなければ、ただのオモチャと変わらないってわけだな」

 さらに相手を煽るスオウ。

「言ってくれるな、ガキの分際で。だったら、このナイフでキサマの腹を切り裂いて、内臓を抉り出してやるまでのことよ。腹を押さえて地面の上をのた打ち回っても、まだそんな軽口を叩けるか試してやるよ。矢幡様に腹を切り裂かれて殺されましたって、天国で後悔しても遅いんだぜっ!」

「…………」

 日常的に荒事に慣れている男の脅し文句を聞いて、さすがに背筋に冷たいものが走った。男の本気さが、その言葉尻から伝わってきたのである。

「ん? どうした? 急に黙っちまってよ。ようやく自分のバカさ加減にでも気付いたのか? そもそもオレ様に刃向かおうと思った時点で、すでに間違っていたんだよ! 今からその間違いを、このコンバットナイフで正してやるぜっ!」

 男──矢幡がスオウに近付いてくる。相変わらず右足は引き摺っているが、強力な武器を手に持っている余裕からか、体の前面はがら空きで、懐はノーガードに等しい。しかし、そこに攻撃を仕掛ける勇気はない。近接戦に持ち込まれたら、スオウの方が分が悪いのは分かりきっているのだ。

「…………」

 スオウは矢幡の手元の動きに細心の注意を払いつつ、後ずさりでひとつ後ろの座席に回り込む。常に、自分と矢幡との間に座席を挟む形を維持する。こうしておけば、咄嗟の攻撃でも避けることが出来る。

「おいおい、そうやって逃げ続けるつもりなのか? さっきの強気な発言は口からのでまかせだったのか?」

 矢幡が唐突にコンバットナイフを座席の背もたれに突き刺した。ナイフの刃がいとも容易くシートに深くめり込んでいく。スオウに対して目に見える形で心理的プレッシャーを掛けてきたのだ。

「ど、ど、どこ、攻撃してんだよ……。お、お、おれはこっちだぜ……」

 スオウはさらに後方に逃げていく。

「なんだよ、声が震えてるじゃねえかよ。やっとこのナイフの威力に気付いたのか。まあ、今さら気付いたところで遅いけどな」

 矢幡が座席を回り込んでくる──と見せかけて、背もたれを一気に飛び越えてきた。足を怪我しているから、そんな突拍子な動きはしないだろうとスオウは踏んでいた。その思いがスオウの反応を遅らせた。

 スオウと矢幡との距離が肉薄する。矢幡は手にしたコンバットナイフを迷うことなく走らせてきた。

 あの坂道でのデストラップのときと同じ風景がスオウの視界に広がる。自分に迫ってくるコンバットナイフの刃の動きが、スローモーションのように見えたのだ。頭ではナイフの刃を避けなくていけないと理解しているのに、しかし肉体の動きがそれに追いつかない。脳の神経から送られくる電気信号が、体の細部にまだ伝わりきれていないのだ。


 ヤバイ……。このままじゃ……さ、さ、刺される!


 脳内に命の危機を知らせる警報が鳴り響く。神経の電気信号が伝わった体が、ようやくナイフからの退避行動に移る。だが、あまりにも遅すぎた。

 コンバットナイフの刃先が、まさにスオウの胸先を抉ろうとした。

 そのとき──。

 2人が乗る船がガクッと揺れた。

 スオウは体勢を維持出来ずに、堪らず船の床に尻餅をついた。矢幡はコンバットナイフを突き出した勢いのまま、両足でたたらを踏んで、前のめりになる体を必死に押しとどめる。必然的に矢幡のコンバットナイフの刃は、スオウの体に届かなかった。

 スオウはまさに危機一髪のところを、動き出したバイキングに助けられたのだった。


 ぜ、ぜ、絶体絶命のところで……命拾いしたな……。


 死の恐怖を目の当たりにしたせいか、体が勝手に小刻みに震えてくる。ともすれば、恐怖に打ち負けて気持ちが萎えそうになる。しかし、ここで負けるわけにはいかない。自分の帰りを待っていてくれる人の為にも。

 バイキングは2人を乗せたまま、左右に少しづつ揺り幅を大きくしていく。


 とにかく、命が助かったのはいいけど、これで当初の計画は台無しになったな……。このあと、どうすりゃいいんだよ……。こうなったら、この痴漢スプレーに全てを賭けるしかないか……ていうか、スプレーは掛けるものだけどさ……。


 泣き言と詰まらない冗談を胸の内でぼやきつつ、矢幡の動きに気をつけながら立ち上がる。動き出したバイキングの中で、立ったまま次の一手を必死に模索する。

 スオウの読みが正しければ、この船はやがて『転覆』するはずだった。スオウが竜巻注意情報を喚起するメールを読んで、すぐに思いついたのが、このバイキングのアトラクションだった。バイキング──つまり船は竜巻や突風を浴びると、転覆もしくは沈没する危険性がある。それこそがデストラップの正体だと予想したのである。

 つまり、このままバイキングに乗り続けることは、イコール、転覆に巻き込まれる可能性が高いということでもあった。

 しかし、すでに傾斜角度が30度以上を越えて左右に大きく揺れ始めたバイキングからは、もはや安全に飛び降りることは事実上不可能であった。

 
 くそっ……どうすればいいんだよ……。


 立っているのもやっとの中、状況を打破する解答を導き出せぬままのスオウを乗せたバイキングは、さらに大きく激しく揺れる。


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 玲子は追ってくる男に気を配りながら、『絶叫アトラクション』乗り場に続く階段を駆け上がっていた。手にした『荷物』の大きさに手間取りながら階段を上りきると、お目当ての『絶叫アトラクション』が見えてきた。

 一番前の座席に『荷物』を置く。続いて、手早く着ていた上着を脱いで、その『荷物』の上に掛ける。これで準備は完了。あとは『このエサ』に男が喰いつくかどうかだ。

 玲子はこのアトラクションの操作室に向かった。機械操作は苦手だが、ありがたいことに、操作盤には『スタート』のボタンに分かりやすく表示がしてあったので、迷わずに済んだ。

 一旦、階段まで戻ってみる。下を覗き込むと、あの男が階段を登ってくるのが見えた。

「そこで待ってろ!」 
 
 男が怒声を放つ。

「こ、こ、こっちに来ないでよ!」

 悲鳴染みた嬌声を、わざと男に聞こえるように出す。

「叫びたいなら勝手に叫んでな! 車とスーツの借りはしっかりと返してもらうからな! それから、その金も返してもらうぞ! 覚悟しておけ!」

 乗り場に戻りかけていた玲子は、男のその言葉を聞いて頭に疑問が浮かんだ。
 

 はあ? 金ってなんのことよ……?


 この追ってくる男から金を奪った記憶はない。


 この男、あたしが過去に美人局詐欺をした被害者だったの?


 そこまで考えたとき、不意に慧登の存在を思い出した。慧登はオレオレ詐欺を働いていたと、皆の前で告白した。


 もしかして慧登君はこのヤクザたちから、オレオレ詐欺で奪ったお金を持ち逃げしたんじゃ……。


 そこまで思考が進んだところで、ある名案を思い付いた。このあとの作戦をさらに成功に導くための、最後の一押しになることは間違いなかった。だから、玲子はすぐにそれを実行した。

「このお金はあたしの為に慧登君が残してくれたものよ! お前なんかに渡すぐらいなら、ここから全部バラ撒いてやるっ!」

 咄嗟のこととはいえ、ここまでのことがすらすら言えたのには、ちゃんとした理由があった。このゲームに参加する直前に、ホテルで大金をバラ撒いてきたことを思い出したのだ。あのときは上手くいった。だから、今度も上手くいくはずだ。

「クソアマがっ! それは俺の金だぞっ!」

 男が語気を荒げる。どうやら、玲子の予想は当たっていたらしい。


 そうやって怒ればいいさ。怒れば怒っただけ、冷静さを欠くからね。


 玲子は乗り場に戻ると、そのまま操作室に入った。腰を屈めて、ガラス窓越しに男がやって来るのを見張る。

 昔、ある男から聞いた話を思い返していた。──とある有名なテーマパークに遊びに行ったときのこと、たまたま強風の影響でアトラクションが運行中止になったことがあった。観覧車が強風で運行中止になるのはなんとなく理解出来たが、『そのアトラクション』がなぜ強風の影響を受けるのかよく分からなかった。そのことを連れの男に聞いてみた。男は大学で物理を専攻していたので、その答えを知っていた。玲子に良い格好を見せられると思ったのか、男は胸を張って得意げに教えてくれた。


『このアトラクションは電動的な動力を使わずに、位置エネルギーと運動エネルギーだけで動くから、その分、風の影響をモロに受けることになるんだ。追い風が少しでも強くなると、速度が出過ぎて──』


 確かそんな風に教えてくれた。そのことを覚えていた玲子は、竜巻注意情報を喚起するメールを読んで、すぐに『このアトラクション』でデストラップが発動すると考えたのである。

 男が階段を登りきって、乗り場に姿を見せた。玲子は操作室に隠れたまま、『スタート』のボタンを押した。

 コース上に停車していたコースターがゆっくりと前進する。そう、ここは『ジェットコースター』乗り場なのだ。


 この男が上手いこと罠にハマってくれればいいけど──。


 玲子は男の一挙手一投足を食い入るように見つめた。


 ――――――――――――――――


 女の悲鳴染みた声を聞いた鬼窪は、はやる気持ちを押さえながら階段を登っていった。この階段の先に逃げ道はない。いってみれば、もう袋のネズミ同然である。勝ったも同然だと思っていたが、女の言葉に肝を冷やした。同時に、さらなる怒りが沸き起こってきた。

 女は金をバラ撒くと言ってきたのだ。鬼窪が非合法的な手段で集めた金を!

 鬼窪は急いで階段を駆け上がった。金をバラ撒かれる前に、なんとしてでも金の詰まったバックを回収しないとならない。

 乗り場に立つと、コース上に停車していたコースターがたった今発車したところだった。

 動き出したコースターに自然と目がいった。すると、コースターの先頭車両に見覚えのある服が見えた。


 あのアマ、コース上で金をバラ撒くつもりじゃねえだろうな。


 鬼窪はまだ動き出したばかりでスピードが鈍いコースターに飛び乗った。乗ったのはコースターの真ん中辺りである。ここから前の座席の背もたれを乗り越えて、前へ前へと進んで行けば、女の元に着く。

「今度こそ、本当に逃がしはしねえからな!」

 先頭に向かって勝ち誇った声で叫ぶ。

 鬼窪は先頭の座席からヒラヒラ見えている服を目指して進んでいく。その間も、もちろんコースターはコース上を動いている。チェーンによって傾斜したコースを上へ上へとゆっくり引き上げられていく。

 コースターが傾斜の頂上についたとき、鬼窪も先頭座席の真後ろの位置まで移動してきていた。

「さあ、俺の金を返してもらおうぜ」

 鬼窪は服に手をかけて、力尽くで自分の方に振り向かせようとして──。

「──あのクソアマ……やりやがったなっ!」

 苦虫を噛み潰したような鬼窪の顔の先には、服を着させられた大きなぬいぐるみがでんとシートに座っていた。愛嬌のある可愛らしいぬいぐるみは、この遊園地のマスコットキャラクターである。

 そう、玲子が手にしていた大きな『荷物』の正体は、金の詰まったバッグなんかではなく、この巨大なぬいぐるみだったのだ。鬼窪をジェットコースターのデストラップに誘導する為に、迷子センターに置かれていたぬいぐるみをここまで苦労して持ってきたのだ。

「俺の金はどこにいったあああーーーーっ!」

 悔しさに声を張り上げる鬼窪だったが、その表情が次の瞬間一変した。

 鬼窪が乗るコースターが、傾斜を一気に下っていったのだ。

「うおおおおおおーーーーーっ!」

 ヤクザらしからぬ声で喚く鬼窪。

 コースターは物凄いスピードでコース上を走って行く。鬼窪は辛うじてシートに乗り込むことが出来たが、ベルトを締める余裕はなかった。シートの前に付いたバーを両手で掴むだけで、精一杯である。

 ゴゴゴウーという走行音が耳に木霊する。そのせいか、鬼窪の耳に届かない音があった。

 風の音である。


 現在、市内全域に『竜巻注意情報』が出されているのだ!


 鬼窪は気が動転していて気付かなかったが、コースターは強風の影響を受けて、通常では在りえないスピードを出していた。 

 コース上に設置されたレールから耳障りな軋み音が上がる。

 スピードを保ったまま、コースターが急カーブに突入した。

 鬼窪はもはや声をだす余裕すらなく、ただ振り落とされないようにこらえるだけだった。

 無理なスピードで急カーブに突入したコースターの車輪が悲鳴をあげる。車輪とレールが激しく接触して、火花が飛び散る。そして──。

 車輪の強度が限界点を突破した。

 車輪が分解して、宙に飛び散る。コースのレール上から先頭車両が脱線する。一両目が脱線すると、それに続く形で後続の車両が次々に脱線していく。

 空中に飛び出したコースターは、そのまま数十メートル下の地面に向かって落下していった。たったひとりの乗客である鬼窪を乗せたまま──。

「おごごごごごおおおおおおわわわわわーーーーっ!」

 言葉にすらならない鬼窪の悲鳴は、しかし強風の音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。


 組織内でナンバー2の地位にまでのし上がった鬼窪だったが、その権威と生命は文字通り地に墜ちていったのだった――。
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