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第二部 ジェノサイド
第36話 デストラップの正体 第八の犠牲者
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――――――――――――――――
残り時間――3時間02分
残りデストラップ――4個
残り生存者――12名
死亡者――7名
――――――――――――――――
慧登と玲子は見覚えのあるエンピツ型の屋根をした迷子センターに戻ってきた。慧登の脇腹の痛みは依然引いておらず、歩くのはしんどかったが、目的地に着いたことで安心感が湧いてきた。
「これで薬があれば最高なんだけどね」
この痛みがある限り、玲子の負担になり続けてしまう。少しでもいいから痛みが治まれば、今度は慧登が玲子の助けになれる。いや、玲子の助けになるような行動をしたかった。
「あたしが棚を探すから、慧登君はそこにあるイスに座って待ってて」
玲子は中に入ると、壁際に並んだ棚を素早く順番に見ていく。
「ああ、分かったよ」
慧登は言われた通り、大人しくイスに腰掛けた。なんだか、こうして何もせずに座っていると、ますます『弟感』に浸ってしまう。
ダメだ、ダメだ。薬を飲んだら、今度は俺が玲子さんを助ける番なんだからな。
薬を探す玲子の後ろ姿を見つめながら、改めて心の中で誓う。
「あった! やっぱり、あたしの記憶は正しかったんだ!」
長方形の白い箱を手にした玲子が満面の笑みを浮かべて、うれしそうに慧登の方に振り返った。
「良かった! これで移動がだいぶ楽になるよ。じゃ、すぐにその薬を飲まないと」
「ちょっと待って。奥に洗面台があるから、そこでコップに水を入れてくるね」
玲子は薬の箱を慧登に手渡すと、奥の方に向かった。
「えーと、打ち身に捻挫、それと打撲に有効な薬か──」
慧登は薬箱の説明書きを確認した。アレルギーショックの有無が書かれていたが、慧登は該当しなかった。加えて、服用することで眠気の副作用が出ることはないとあった。また誰かに襲われる前に、眠気に襲われたのでは笑い話にもならない。玲子にさらに負担を掛けることにならずに済みそうで、ほっと胸をなでおろした。
「うん、この薬を飲めば、なんとかなりそうだな。あとは包帯かテーピングテープで、脇腹をぐるぐる巻きにして固定すれば、全速力は無理でも小走りぐらいなら出来そうかな」
「はい、薬を飲む水、持ってきたよ」
「ありがとう……えっ、そのコップって……」
遊園地の迷子センターという場所柄のせいか、玲子が手にしているのは子供向けの可愛らしい動物のキャラクターが描かれたプラスチックのコップだった。
「あれ? どうしたの? 自動販売機で飲み物を買ってきた方が良かったかな? コーヒーの方が良かった? でも、コーヒーで薬を飲むのはダメだったんじゃ──」
「うん……いや、そうじゃなくて……うん、そのコップの水で大丈夫だよ……」
慧登は仕方なく幼稚園児が持てば喜ぶこと間違い無しの愛らしいコップで薬を飲んだ。
「はい、ちゃんと飲めたね」
心なしか、玲子の話し方も子供に話しかける保育士さんみたいだった。
うーん、確かさっき、ちゃんとキスしたんだけどな……。あれってもしかして、愛情のキスじゃなくて、同情のキスだったのかな……?
そんなことを考えていたら、水が気管支に入ってしまったらしく、激しくむせてしまった。
「ごほっ、ごほっ……ごふっ……」
「ほら慌てないで、ゆっくり飲まないとダメだよ」
玲子の『お姉さん感』が増す。
「あっ、うん、大丈夫……。薬はちゃんと飲んだから……」
どうしても『弟感』が拭えない慧登であった。
――――――――――――――――
顔は赤く火照っている。目は半開きで、視線が定まらず宙を彷徨っている。口元からは絶えず荒い息が漏れている。額の辺りはじんわり汗ばんでおり、そこに髪がまとわり付いている。大きく開いた襟元から覗く豊満な胸元が、呼吸の度に激しく揺れる。全身熱を持っており、痙攣したように震えている。
ヴァニラの容態は誰が見ても明らかに異常が認められた。
「ヴァニラさん! ヴァニラさん! どうしたんですか!」
何度もデストラップに合っているので慣れっこになっていたはずだが、目の前で苦しむヴァニラの顔を見たら、途端にスオウは混乱してしまった。それほどヴァニラの容態はひどかったのである。
「ヴァニラさん! しっかりして下さい! 急にどうしたっていうんだよ……。いったいどうすれば……」
「スオウ君、落ち着いて! とにかくヴァニラさんの様子をしっかり確認しないと」
スオウとは逆に、イツカは冷静にヴァニラの傍らに跪くと、ヴァニラの表情を真剣な目で見つめる。
「よくあるカゼの症状とは違うみたいだし、骨折みたいな痛みがあるって感じでもないわね……」
イツカは次にさっきケガをしたばかりのヴァニラの足に目を向ける。
「足の出血はもう完全に止まっているみたいだから、出血多量で貧血を起こしたわけでもなさそうだし……」
「イツカ、ヴァニラさんはどんな感じなんだ?」
冷静に対処するイツカを見ているうちに、スオウも少しづつ落ち着きを取り戻した。
「正直分からないわ……。スマホを使って、この症状に該当する病気を探してみるしかないかも……。でも、その前に春元さんを呼んできた方が良さそうだね」
「よし、おれが急いで入り口まで行って春元さんを呼んでくるから、その間、ヴァニラさんを頼むよ」
「うん、分かった。お願いね」
「あっ、そうだ。イツカは体調は大丈夫なのか?」
ヴァニラの容態にばかり気がいっていたが、まだ正体の分からないヴァニラのこの症状が、ここにいる全員に現われる可能性もなくはないのだ。
「えっ、わたし? うん、わたしは大丈夫だよ」
「そうか、良かった」
スオウは入り口に向かおうとしたが、もうひとりいることを思い出した。
「美佳さん、きみはどうだい?」
「…………」
壁の方を見つめていた美佳はスオウの方に振り返ると、首を小さく左右に揺らした。
「きみも大丈夫みたいだな。それじゃ、今度こそ入り口に──」
だが、スオウはその場で固まってしまった。視線が壁に固定される。視線の先にあったものは──。
『ゾンビウィルスが病棟内に飛散して、大量のゾンビが発生しました。現在、この病棟は閉鎖されております。それでも中に入るようでしたら、ゾンビと戦う覚悟で入ってください』
「そうか、これだったんだ……。これがヴァニラさんを襲ったものの正体なんだ……」
「スオウ君、どうしたの?」
春元を呼びに行かずに、その場に立ち尽くしているスオウのことを不審に思ったらしく、イツカが声を掛けてきた。
「イツカ、これだったんだよ。さっき何かを見過ごしている気がしたんだけど、それがなんなのか分かったんだ」
「えっ? どういうこと? それってヴァニラさんと関係あるの?」
「ああ、大有りだよ。──ヴァニラさんは『ゾンビウィルス』に感染したんだよ!」
「えっ……『ゾンビウィルス』……?」
イツカは顔に困惑の表情を浮かべている。それも当然かもしれない。しかし、今は詳しく説明している暇がない。
「とにかく、おれは春元さんを呼んでくるから、細かい説明はそれからにしよう」
スオウは今度こそ本当に入り口に向かって走り出した。
もしも……もしも……おれの勘が正しければ、ヴァニラさんを助ける術はない……。でも春元さんなら、何か名案を思い付いてくれかもしれない。
今はただ一縷の望みをかけて、春元の元に急ぐしかなかった。
『ゾンビ病棟』の入り口の門をくぐると、案内板の裏に隠れるようにしてしゃがみ込んでいる春本の姿があった。周辺に注意の目を向けていたが、スオウの走る足音が耳に入ったのか、視線を入り口の方に向けてきた。
「春元さん!」
周囲に響かないように大きな声は出さず、しかし張りのある声で春元を呼んだ。
「あれ、スオウ君? まさか、なにかあったんじゃ……」
春元はスオウの声の調子から、即座に異常を察したらしい。
「ヴァニラさんがデストラップに掛かりました」
簡潔に事実だけを伝えた。
「──分かった。それでヴァニラの容態は? きみのその様子からすると、死んではいないんだろう?」
春元はこんなときでも冷静にスオウの様子を観察していたらしい。
「ええ、デストラップに掛かりましたが、今はまだ大丈夫です。ただ、症状がかなりひどくて……」
「よし、とにかく中に戻ろう。詳しい話はそれからだ」
言うが早いか、春元は入り口の門をくぐって『ゾンビ病棟』内に走って入って行く。
「分かりました」
スオウも春元の後を追おうとしたが、ひとつ確認することがあったのを思い出した。入り口の案内板に目を向ける。果たしてそこには──。
『ゾンビたちが蔓延る病棟内で、ゾンビウィルスへの感染に気をつけながら、無事にゴールを目指そう!』
「思った通りだ。この案内板もデストラップの前兆だったんだな。クソっ、入るときにこれに気付いていれば……」
今さら悔やんだところでしょうがないが、目の前に見えていたデストラップの前兆をみすみす見逃したのは痛かった。
スオウが悔しさ滲ませた、まさにそのとき──。
メールの着信音がした。スマホを操作して、素早くメールに目を通す。
『 ゲーム退場者――1名 ヴァニラ
残り時間――2時間51分
残りデストラップ――3個
残り生存者――11名
死亡者――7名
重体によるゲーム参加不能者――1名 』
「ヴァニラさん……」
予想通りの名前が書いてあった。
「死亡者リストにないってことだけは救いだけど、ヴァニラさんの今の状態だと、いつ死ん──」
そこで悪い想像を振り払うように首を振った。
「いや、そんなことはない。大丈夫、きっと大丈夫なはずだ!」
スオウは一度大きく頷くと、春元の後を追って『ゾンビ病棟』に入っていった。
――――――――――――――――
「これはマズイ状況だな……」
春元はヴァニラの顔色を見るなり、開口一番そう言った。
「いったい何があったんだ?」
「スオウ君が呼びかけたら返事がないので、おかしいと思ってヴァニラさんの様子を見たら、そのときにはもうこの状態で……」
イツカはヴァニラの傍に付いて、額から出る汗をしきりに拭いている。
「そうか……」
「春元さん、おれの勘ですけど、これはデストラップじゃないかと──」
「デストラップ? 何か前兆でもあったのか?」
「ええ、あとから気が付いたんですが、多分、間違っていないと思います。──壁に貼ってあるあのポスターを見てください」
スオウは壁を指差した。そこには例のポスターが貼ってある。
『ゾンビウィルスが病棟内に飛散して、大量のゾンビが発生しました。現在、この病棟は閉鎖されております。それでも中に入るようでしたら、ゾンビと戦う覚悟で入ってください』
「──ふんっ、なるほどな。そういうことか」
春元はポスターの文言を黙読すると、すぐに理解したようで何回か頷いた。
「ねえ、スオウ君、どういうことなの? さっきは『ゾンビウィルス』って言っていたけれど、でも『ゾンビウィルス』なんて、この世には存在しないでしょ……?」
イツカは困惑顔でポスターとスオウの顔を交互に見つめる。
「確かに『ゾンビウィルス』なんてものはこの世に存在していない。このポスターは、あくまでも前兆を示しているにすぎないんだ」
「つまり、ヴァニラさんは『ゾンビウィルス』ではないけれど、それに類するウィルスに感染したっていうことなの?」
頭の回転が早いイツカはすぐにスオウの言わんとしていることが分かったらしい。
「でも、そうだとしたら、そのウィルスの感染経路はどこから──あっ、もしかして──」
イツカの視線がヴァニラの足に向けられた。正確に言えば、先ほどケガをして出血をした箇所である。
「イツカちゃん、君の予想は当たっているよ。間違いない。あのときの傷からウィルスに感染したんだ。まったく、あれほど無茶をするなと言ったのに……」
口ではそう言ってるが、苦しむヴァニラに注がれている春元の目には、ヴァニラを思いやる気持ちが見て取れた。
「春元さん、感染経路は分かったけれど、ヴァニラさんはいったいどんなウィルスに感染したんでしょうか?」
スオウもそこだけは分からなかった。もしかしたらすぐに処置出来るウィルスかも、と淡い期待を抱いていたのだ。
「まあ、いろいろ可能性は考えられるな。有名なものだと破傷風とかあるが、この状態では正直なところ見当も付かない」
「そうですか……」
「とにかく、今一番重要なのはこれからの処置だ。このまま何もせずにいたら、ヴァニラの命が危険なことになるのだけは確かだからな」
「ウィルス感染ってことは、ワクチンが効果的ですよね? でも、ウィルスの正体が分からないんじゃ……」
イツカの顔がさっと曇った。
「いや、遊園地でワクチンは無理だろうな。それに抗生物質もここじゃ手に入らないだろうから」
「それじゃ、ヴァニラさんはこのまま──」
「イツカちゃん、早合点しないでくれ。出来る手がひとつだけあるにはある」
「春元さん、それはどんな手なんですか? おれ、なんでも手伝いますよ!」
スオウの予想通り、春元はヴァニラを助ける手立てを思いついたらしい。
「患部を消毒して、これ以上のウィルスの侵入を少しでも塞ぐんだ。そしてゲーム終了後、すぐにヴァニラを病院に連れて行く」
「病院に連れて行くのは、今じゃダメなんですか?」
「俺たちはゲーム参加者だからな。ゲーム終了まで、この園内からは一歩も外に出られない。無断で出ようとしたらペナルティがあると、紫人も言ってたからな。それがどんなペナルティか分からないが、命を失うことになるペナルティの可能性だってある。だとしたら、ゲーム終了まで園内に留まっていた方が、ヴァニラにとってもいいはずだ。もっとも、それまでヴァニラの体力がもつかどうか分からないが……」
「そんな……」
「ヴァニラさん……」
スオウとイツカは言葉を失い、重い沈黙がその場を支配する。それを破ったのは、意外な人物の声だった。
「な、な、なに……そ、そ、揃いも……揃って……く、く、暗い、か、か、顔……してん、のよ……」
途切れ途切れにか細い声が聞こえてきた。
「ヴァニラさん! 大丈夫なんですか!」
そばにいたイツカが即座に反応した。
「あ、あ、ありが……とう……イ、イ、イツカ、ちゃん……。み、み、みんなの……は、は、話は……しっかりと……き、き、聞かせて、もらったから……。ア、ア、アタシ、ゲーム、し、し、失格に……なっちゃったんだね……。ざ、ざ、残念、だな。『甲子園』も……あと、一歩のところで……負けちゃったん、だよね……」
ソファに横になったままのヴァニラが、そこにいる面々の顔を苦しげな目で見上げる。
「今はそんなこといいから、少しでも体力を維持することだけを考えるんだ!」
春元が強い口調でヴァニラを諭した。それは愛情の裏返しであると、誰もが理解していた。
「い、い、いや……絶対に、いやっ! こ、こ、こんなところで……ま、ま、負ける訳には……いかないのよ……。ア、ア、アタシには……も、も、目的が、あるん……だから……」
ヴァニラはそこで気力が尽きたのか、すっと目蓋を閉じると、全身から力が抜け落ちたかのようにぐったりとなった。
「ヴァニラ、分かってる。それは分かっているさ。みんな、目的があってこのゲームに参加しているんだからな。でも命を落としたら、そこで終わりなんだよ。ゲームどころじゃなくなるんだよっ!」
誰に言うでもなく、春元が荒げた声を出した。何かを堪えるように、拳は強く握り締められている。こんな姿の春元を見るのは、ゲーム開始から初めてだった。
「──俺が今から迷子センターに行ってくる。あそこに救急箱が置いてあったはずだからな。消毒液くらいはあるだろう」
決然とした口調で春元が言った。
「それじゃ、おれもいっしょに行きますよ!」
すぐにスオウは名乗り出た。ヴァニラを助けたい気持ちはスオウにだってある。
「いや、君はここに──」
「春元さん、園内にはあの男がうろついているかもしれないんですよ? ひとりよりも2人の方が安全です!」
「春元さん、ヴァニラさんのことはわたしたちに任せて、スオウ君と2人で行ってきてください!」
示し合わせたつもりはなかったが、図らずもスオウとイツカの2人は同じ事を言っていた。
「――2人とも……。分かった。そこまで言ってくれるのならば、ここはイツカちゃんに任せることにして、オレとスオウ君で迷子センターに向かうことにする。ただしイツカちゃん、もしも危険が迫ってきたら、そのときはとにかく急いで逃げるんだぞ!」
「分かりました」
「それじゃ行きましょう、春元さん」
「ああ、急ごう!」
春元がヴァニラの顔にちらっと目を向けた。それから何かを振り切るようにして顔を上げると、『ゾンビ病棟』の入り口に向かっていった。
「イツカ、あとは頼んだ。それから、デストラップには十二分に気をつけてくれよ。そうだ、美佳さん、君も気を付けるんだぞ」
スオウが春元の後を追おうとしたとき──。
「──これ」
美佳がすくっと立ち上がって、スオウの元まで歩いてきた。右手をすっと差し出してくる。30センチと離れていない間近の距離で、初めて美佳と向き合った。前髪で隠れてしまっているが、ニキビかソバカスなのか、顔の皮膚がとても荒れているのが見て取れた。反対に、スオウに差し出してきた白くて細い右手は、肌理が整ってとてもキレイである。あるいは、この肌こそが美佳の本来の肌艶なのかもしれない。それを取り戻すために、このゲームに参加したのだろう。改めてそう思ったが、今はそれを聞く時ではない。
スオウが注目したのは、美佳の手の美しさばかりではなかった。その手のひらの上に、ちょこんと円柱形の物体が乗っていたのだ。
大きさはリップクリームより一回り大きいくらい。色はショッキングピンク。化粧品の類かとも思ったが、だとしたら、ここでスオウに差し出してくる意味が分からない。
「これは……?」
「──痴漢スプレー」
一言だけぼそっと答えた。
「痴漢スプレーって……。ああ、これを武器代わりに貸してくれるの?」
言葉の途中で美佳の考えを察した。身を守る武器としては心強い。それで終わりとばかりに、美佳はもう元居た壁際に戻っていた。相変わらずコミニュケーションが取り辛い少女だが、その気持ちは本当にありがたかった。
「ありがとう、美佳さん」
スオウは頭を軽く下げて、お礼をした。
「それじゃ、行ってくるから」
「スオウ君、気をつけてね」
イツカが心配気な目で見つめてくる。
「大丈夫だよ。バスケ部の足で、すぐに行って戻って来るから」
後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、スオウは春元の後を追った。
こうしてゲーム開始以来ずっといっしょにいたスオウとイツカは、ここで離れ離れになった――。
――――――――――――――――
春元の姿は『ゾンビ病棟』の前にあった。
「このまま回り道をせずに、一直線で迷子センターに向かうけど、それでいいか?」
春元の口調はすでに確定している風な言い方だった。
「ええ、構いません。ヴァニラさんのあの様子だと、少しでも早く傷口を消毒しないとならないですから」
スオウも春元の案に異論はなかった。今は一秒でも早く行動するときだ。
「悪いな。きみにまでこうして迷惑をかけてしまって」
ヴァニラとペアを組んでいるわけでもないのに、スオウに謝る春本だった。でも、スオウにはその気持ちが痛いほど分かった。なぜならば、もしもイツカがウィルスに感染していたら、スオウも同じ事をしたはずだから。
「よし、全力で行くぞ」
「走りだったら負けませんよ」
スオウと春元は顔を見合わせると、互いににやっと笑みを浮かべた。緊張感を和らげる笑みであり、同時に、それは互いを信頼しているからこそ出せる笑みだった。
2人は迷子センターに向かって走り出した。
『ゾンビ病棟』は『アトラクション乗り場』の一番奥に位置していたので、迷子センターまではかなり距離があった。このゲームも時間的に終盤に差し掛かっており、スオウたちの体力も精神力もかなり落ちていたが、ヴァニラの命が掛かっている今、泣き言は言っていられない。
フリーフォール、コーヒーカップ、豆機関車、バイキング、ジェットコースターといった遊園地ではお馴染みのアトラクションを横目で見ながら、ひたすらに迷子センターを目指して走る2人。
しばらくの間、無言で全力疾走していた2人だったが──。
「待った!」
春元が急停止して、慌てた様子ですぐそばのメリーゴーラウンドの陰に身を潜めた。
「スオウ君、早く身を隠すんだ!」
鋭い声に促されるようにして、スオウもメリーゴーランドの陰に隠れた。
2人の間に張り詰めた空気が生まれる。
「まさか、あの男ですか?」
視線は前に向けたまま、春元に訊いた。
「ああ、あの男で間違いない」
春元は追ってきた男をいち早く見つけたらしい。2人の気持ちとは正反対の華やかな音楽が、メリーゴーラウンドから流れてくる。馬車とそれを引く馬が、楽しそうに上下に動きながら回転している。
あいつだ!
スオウの視界にも、あのゴーカートのサーキットコースで見た男の姿が入ってきた。
メリーゴーラウンドの音のおかげか、男はまだスオウたちの存在に気が付いていないみたいだった。このまま男をやり過ごして、迷子センターに向かうことも出来るが、それだとひとつ問題が生じてしまう。
男の進行方向の先には、倒れたヴァニラがいる『ゾンビ病棟』があるのだ。むろん、この男が実際に『ゾンビ病棟』に向かうかどうかは分からないし、ヴァニラやイツカたちに危害を加えるかどうかはまだ未知数である。しかし男の手には、これ見よがしに物騒な物が握られていた。コンバットナイフと呼ばれる、通常のナイフの何十倍も殺傷力の高い武器である。それが意味することはひとつしかない。
この男は本気で『殺る気』なのだ。なんら躊躇うことなく、その武器を使うに違いない。
男は様子を伺うような視線を周囲に飛ばしつつ歩いてきている。
「マズイな。まさか、もうこんなに近くに来ていたとは……。この広さの『アトラクション乗り場』ならば、仮に見付かるにしても、もっと時間がかかると思っていたんだが……」
春元は自分の計算違いに、悔しげに顔をしかめていた。
「──春元さんはこのまま迷子センターに向かってください。ここはおれがなんとかしますから」
スオウが決断を下すのは早かった。
「スオウ君……。その言葉はありがたいが、そういうわけにはいかない。男の様子を見てみろ。手には凶器を持って、顔には凶相が浮いているんだぞ。あれは誰でもいいから『殺る』といった顔だ」
「それは分かっています。でも、ここで何とかしないと、あの男は『ゾンビ病棟』の方に向かっていっちゃいますよ」
「それはそうだが……」
春元が苦悩の色を顔に浮かべる。春元も判断に悩んでいるのだ。
「よし、それじゃこうしよう。オレがオトリになるから、その間にスオウ君が──」
「それはダメです」
スオウは言下に否定した。
「ヴァニラさんは油断を許さない状態です。ヴァニラさんのそばにいて、ヴァニラさんの力になれるのは春元さんしかいません。だから、ここはおれが行くしかないんです!」
スオウは春元の返事を聞く前に立ち上がった。すぐにでも走り出せる体勢をとる。
「スオウ君、早まるな!」
「大丈夫ですよ。あの男はさっきのゴーカートのデストラップのときにケガをしたみたいで、片足を引き摺っていますから、おれの足の速さならなんとかなります。バスケ部の凄さを見せ付けてやりますよ」
わざと春元に余裕の笑みを返した。少しでも春元の心理的負担を和らげる為である。
「スオウ君……」
「それにおれには美佳さんから借りた痴漢スプレーがあります。いざとうときはこれを使いますから」
「──すまない」
春元が重い声で一言つぶやくと、深々と頭を下げた。その一言と動作にどれだけの意味と思いが詰まっているのか、分からないスオウではない。
「それじゃ、おれがおとり役になりますから、春元さんはタイミングを見計らって、迷子センターに向かってください」
スオウはメリーゴーラウンドの影から少しだけ顔を覗かせた。男の様子を確認する。男は足を引き摺るようにして、今まさにメリーゴーラウンドの脇を通り抜けようとしていた。行動を起こすならば絶好のタイミングである。
「今がチャンスです」
スオウは最後に春元と目を合わせた。無言で頷き合う。声に出さなくとも、互いの気持ちを察し合った。
「おまえ、なんでこんなところにいるんだ!」
スオウはわざとらしく大声をあげて、男に自分の存在と居場所をアピールする。
「さっきのクソガキかっ! きさま、そんなところに隠れていやがったのかっ!」
さっそく男がスオウに気が付いて、スオウの方に向かってきた。ここまでは予想通りの動きである。
「きさま、絶対にブッ殺してやるからなっ!」
物騒な言葉を叫ぶ。やはり、この男は『殺る気』でいるのだ。
第一段階はこれでいい。問題はここから先だった。この先のプランは一切考えていない。あとは出たとこ勝負をするしかない。
春元さん、ヴァニラさんのことをお願いしますよ。
スオウはポケットに入れた痴漢スプレーを確認すると、『ゾンビ病棟』とは逆に向かって走りだした。
残り時間――3時間02分
残りデストラップ――4個
残り生存者――12名
死亡者――7名
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慧登と玲子は見覚えのあるエンピツ型の屋根をした迷子センターに戻ってきた。慧登の脇腹の痛みは依然引いておらず、歩くのはしんどかったが、目的地に着いたことで安心感が湧いてきた。
「これで薬があれば最高なんだけどね」
この痛みがある限り、玲子の負担になり続けてしまう。少しでもいいから痛みが治まれば、今度は慧登が玲子の助けになれる。いや、玲子の助けになるような行動をしたかった。
「あたしが棚を探すから、慧登君はそこにあるイスに座って待ってて」
玲子は中に入ると、壁際に並んだ棚を素早く順番に見ていく。
「ああ、分かったよ」
慧登は言われた通り、大人しくイスに腰掛けた。なんだか、こうして何もせずに座っていると、ますます『弟感』に浸ってしまう。
ダメだ、ダメだ。薬を飲んだら、今度は俺が玲子さんを助ける番なんだからな。
薬を探す玲子の後ろ姿を見つめながら、改めて心の中で誓う。
「あった! やっぱり、あたしの記憶は正しかったんだ!」
長方形の白い箱を手にした玲子が満面の笑みを浮かべて、うれしそうに慧登の方に振り返った。
「良かった! これで移動がだいぶ楽になるよ。じゃ、すぐにその薬を飲まないと」
「ちょっと待って。奥に洗面台があるから、そこでコップに水を入れてくるね」
玲子は薬の箱を慧登に手渡すと、奥の方に向かった。
「えーと、打ち身に捻挫、それと打撲に有効な薬か──」
慧登は薬箱の説明書きを確認した。アレルギーショックの有無が書かれていたが、慧登は該当しなかった。加えて、服用することで眠気の副作用が出ることはないとあった。また誰かに襲われる前に、眠気に襲われたのでは笑い話にもならない。玲子にさらに負担を掛けることにならずに済みそうで、ほっと胸をなでおろした。
「うん、この薬を飲めば、なんとかなりそうだな。あとは包帯かテーピングテープで、脇腹をぐるぐる巻きにして固定すれば、全速力は無理でも小走りぐらいなら出来そうかな」
「はい、薬を飲む水、持ってきたよ」
「ありがとう……えっ、そのコップって……」
遊園地の迷子センターという場所柄のせいか、玲子が手にしているのは子供向けの可愛らしい動物のキャラクターが描かれたプラスチックのコップだった。
「あれ? どうしたの? 自動販売機で飲み物を買ってきた方が良かったかな? コーヒーの方が良かった? でも、コーヒーで薬を飲むのはダメだったんじゃ──」
「うん……いや、そうじゃなくて……うん、そのコップの水で大丈夫だよ……」
慧登は仕方なく幼稚園児が持てば喜ぶこと間違い無しの愛らしいコップで薬を飲んだ。
「はい、ちゃんと飲めたね」
心なしか、玲子の話し方も子供に話しかける保育士さんみたいだった。
うーん、確かさっき、ちゃんとキスしたんだけどな……。あれってもしかして、愛情のキスじゃなくて、同情のキスだったのかな……?
そんなことを考えていたら、水が気管支に入ってしまったらしく、激しくむせてしまった。
「ごほっ、ごほっ……ごふっ……」
「ほら慌てないで、ゆっくり飲まないとダメだよ」
玲子の『お姉さん感』が増す。
「あっ、うん、大丈夫……。薬はちゃんと飲んだから……」
どうしても『弟感』が拭えない慧登であった。
――――――――――――――――
顔は赤く火照っている。目は半開きで、視線が定まらず宙を彷徨っている。口元からは絶えず荒い息が漏れている。額の辺りはじんわり汗ばんでおり、そこに髪がまとわり付いている。大きく開いた襟元から覗く豊満な胸元が、呼吸の度に激しく揺れる。全身熱を持っており、痙攣したように震えている。
ヴァニラの容態は誰が見ても明らかに異常が認められた。
「ヴァニラさん! ヴァニラさん! どうしたんですか!」
何度もデストラップに合っているので慣れっこになっていたはずだが、目の前で苦しむヴァニラの顔を見たら、途端にスオウは混乱してしまった。それほどヴァニラの容態はひどかったのである。
「ヴァニラさん! しっかりして下さい! 急にどうしたっていうんだよ……。いったいどうすれば……」
「スオウ君、落ち着いて! とにかくヴァニラさんの様子をしっかり確認しないと」
スオウとは逆に、イツカは冷静にヴァニラの傍らに跪くと、ヴァニラの表情を真剣な目で見つめる。
「よくあるカゼの症状とは違うみたいだし、骨折みたいな痛みがあるって感じでもないわね……」
イツカは次にさっきケガをしたばかりのヴァニラの足に目を向ける。
「足の出血はもう完全に止まっているみたいだから、出血多量で貧血を起こしたわけでもなさそうだし……」
「イツカ、ヴァニラさんはどんな感じなんだ?」
冷静に対処するイツカを見ているうちに、スオウも少しづつ落ち着きを取り戻した。
「正直分からないわ……。スマホを使って、この症状に該当する病気を探してみるしかないかも……。でも、その前に春元さんを呼んできた方が良さそうだね」
「よし、おれが急いで入り口まで行って春元さんを呼んでくるから、その間、ヴァニラさんを頼むよ」
「うん、分かった。お願いね」
「あっ、そうだ。イツカは体調は大丈夫なのか?」
ヴァニラの容態にばかり気がいっていたが、まだ正体の分からないヴァニラのこの症状が、ここにいる全員に現われる可能性もなくはないのだ。
「えっ、わたし? うん、わたしは大丈夫だよ」
「そうか、良かった」
スオウは入り口に向かおうとしたが、もうひとりいることを思い出した。
「美佳さん、きみはどうだい?」
「…………」
壁の方を見つめていた美佳はスオウの方に振り返ると、首を小さく左右に揺らした。
「きみも大丈夫みたいだな。それじゃ、今度こそ入り口に──」
だが、スオウはその場で固まってしまった。視線が壁に固定される。視線の先にあったものは──。
『ゾンビウィルスが病棟内に飛散して、大量のゾンビが発生しました。現在、この病棟は閉鎖されております。それでも中に入るようでしたら、ゾンビと戦う覚悟で入ってください』
「そうか、これだったんだ……。これがヴァニラさんを襲ったものの正体なんだ……」
「スオウ君、どうしたの?」
春元を呼びに行かずに、その場に立ち尽くしているスオウのことを不審に思ったらしく、イツカが声を掛けてきた。
「イツカ、これだったんだよ。さっき何かを見過ごしている気がしたんだけど、それがなんなのか分かったんだ」
「えっ? どういうこと? それってヴァニラさんと関係あるの?」
「ああ、大有りだよ。──ヴァニラさんは『ゾンビウィルス』に感染したんだよ!」
「えっ……『ゾンビウィルス』……?」
イツカは顔に困惑の表情を浮かべている。それも当然かもしれない。しかし、今は詳しく説明している暇がない。
「とにかく、おれは春元さんを呼んでくるから、細かい説明はそれからにしよう」
スオウは今度こそ本当に入り口に向かって走り出した。
もしも……もしも……おれの勘が正しければ、ヴァニラさんを助ける術はない……。でも春元さんなら、何か名案を思い付いてくれかもしれない。
今はただ一縷の望みをかけて、春元の元に急ぐしかなかった。
『ゾンビ病棟』の入り口の門をくぐると、案内板の裏に隠れるようにしてしゃがみ込んでいる春本の姿があった。周辺に注意の目を向けていたが、スオウの走る足音が耳に入ったのか、視線を入り口の方に向けてきた。
「春元さん!」
周囲に響かないように大きな声は出さず、しかし張りのある声で春元を呼んだ。
「あれ、スオウ君? まさか、なにかあったんじゃ……」
春元はスオウの声の調子から、即座に異常を察したらしい。
「ヴァニラさんがデストラップに掛かりました」
簡潔に事実だけを伝えた。
「──分かった。それでヴァニラの容態は? きみのその様子からすると、死んではいないんだろう?」
春元はこんなときでも冷静にスオウの様子を観察していたらしい。
「ええ、デストラップに掛かりましたが、今はまだ大丈夫です。ただ、症状がかなりひどくて……」
「よし、とにかく中に戻ろう。詳しい話はそれからだ」
言うが早いか、春元は入り口の門をくぐって『ゾンビ病棟』内に走って入って行く。
「分かりました」
スオウも春元の後を追おうとしたが、ひとつ確認することがあったのを思い出した。入り口の案内板に目を向ける。果たしてそこには──。
『ゾンビたちが蔓延る病棟内で、ゾンビウィルスへの感染に気をつけながら、無事にゴールを目指そう!』
「思った通りだ。この案内板もデストラップの前兆だったんだな。クソっ、入るときにこれに気付いていれば……」
今さら悔やんだところでしょうがないが、目の前に見えていたデストラップの前兆をみすみす見逃したのは痛かった。
スオウが悔しさ滲ませた、まさにそのとき──。
メールの着信音がした。スマホを操作して、素早くメールに目を通す。
『 ゲーム退場者――1名 ヴァニラ
残り時間――2時間51分
残りデストラップ――3個
残り生存者――11名
死亡者――7名
重体によるゲーム参加不能者――1名 』
「ヴァニラさん……」
予想通りの名前が書いてあった。
「死亡者リストにないってことだけは救いだけど、ヴァニラさんの今の状態だと、いつ死ん──」
そこで悪い想像を振り払うように首を振った。
「いや、そんなことはない。大丈夫、きっと大丈夫なはずだ!」
スオウは一度大きく頷くと、春元の後を追って『ゾンビ病棟』に入っていった。
――――――――――――――――
「これはマズイ状況だな……」
春元はヴァニラの顔色を見るなり、開口一番そう言った。
「いったい何があったんだ?」
「スオウ君が呼びかけたら返事がないので、おかしいと思ってヴァニラさんの様子を見たら、そのときにはもうこの状態で……」
イツカはヴァニラの傍に付いて、額から出る汗をしきりに拭いている。
「そうか……」
「春元さん、おれの勘ですけど、これはデストラップじゃないかと──」
「デストラップ? 何か前兆でもあったのか?」
「ええ、あとから気が付いたんですが、多分、間違っていないと思います。──壁に貼ってあるあのポスターを見てください」
スオウは壁を指差した。そこには例のポスターが貼ってある。
『ゾンビウィルスが病棟内に飛散して、大量のゾンビが発生しました。現在、この病棟は閉鎖されております。それでも中に入るようでしたら、ゾンビと戦う覚悟で入ってください』
「──ふんっ、なるほどな。そういうことか」
春元はポスターの文言を黙読すると、すぐに理解したようで何回か頷いた。
「ねえ、スオウ君、どういうことなの? さっきは『ゾンビウィルス』って言っていたけれど、でも『ゾンビウィルス』なんて、この世には存在しないでしょ……?」
イツカは困惑顔でポスターとスオウの顔を交互に見つめる。
「確かに『ゾンビウィルス』なんてものはこの世に存在していない。このポスターは、あくまでも前兆を示しているにすぎないんだ」
「つまり、ヴァニラさんは『ゾンビウィルス』ではないけれど、それに類するウィルスに感染したっていうことなの?」
頭の回転が早いイツカはすぐにスオウの言わんとしていることが分かったらしい。
「でも、そうだとしたら、そのウィルスの感染経路はどこから──あっ、もしかして──」
イツカの視線がヴァニラの足に向けられた。正確に言えば、先ほどケガをして出血をした箇所である。
「イツカちゃん、君の予想は当たっているよ。間違いない。あのときの傷からウィルスに感染したんだ。まったく、あれほど無茶をするなと言ったのに……」
口ではそう言ってるが、苦しむヴァニラに注がれている春元の目には、ヴァニラを思いやる気持ちが見て取れた。
「春元さん、感染経路は分かったけれど、ヴァニラさんはいったいどんなウィルスに感染したんでしょうか?」
スオウもそこだけは分からなかった。もしかしたらすぐに処置出来るウィルスかも、と淡い期待を抱いていたのだ。
「まあ、いろいろ可能性は考えられるな。有名なものだと破傷風とかあるが、この状態では正直なところ見当も付かない」
「そうですか……」
「とにかく、今一番重要なのはこれからの処置だ。このまま何もせずにいたら、ヴァニラの命が危険なことになるのだけは確かだからな」
「ウィルス感染ってことは、ワクチンが効果的ですよね? でも、ウィルスの正体が分からないんじゃ……」
イツカの顔がさっと曇った。
「いや、遊園地でワクチンは無理だろうな。それに抗生物質もここじゃ手に入らないだろうから」
「それじゃ、ヴァニラさんはこのまま──」
「イツカちゃん、早合点しないでくれ。出来る手がひとつだけあるにはある」
「春元さん、それはどんな手なんですか? おれ、なんでも手伝いますよ!」
スオウの予想通り、春元はヴァニラを助ける手立てを思いついたらしい。
「患部を消毒して、これ以上のウィルスの侵入を少しでも塞ぐんだ。そしてゲーム終了後、すぐにヴァニラを病院に連れて行く」
「病院に連れて行くのは、今じゃダメなんですか?」
「俺たちはゲーム参加者だからな。ゲーム終了まで、この園内からは一歩も外に出られない。無断で出ようとしたらペナルティがあると、紫人も言ってたからな。それがどんなペナルティか分からないが、命を失うことになるペナルティの可能性だってある。だとしたら、ゲーム終了まで園内に留まっていた方が、ヴァニラにとってもいいはずだ。もっとも、それまでヴァニラの体力がもつかどうか分からないが……」
「そんな……」
「ヴァニラさん……」
スオウとイツカは言葉を失い、重い沈黙がその場を支配する。それを破ったのは、意外な人物の声だった。
「な、な、なに……そ、そ、揃いも……揃って……く、く、暗い、か、か、顔……してん、のよ……」
途切れ途切れにか細い声が聞こえてきた。
「ヴァニラさん! 大丈夫なんですか!」
そばにいたイツカが即座に反応した。
「あ、あ、ありが……とう……イ、イ、イツカ、ちゃん……。み、み、みんなの……は、は、話は……しっかりと……き、き、聞かせて、もらったから……。ア、ア、アタシ、ゲーム、し、し、失格に……なっちゃったんだね……。ざ、ざ、残念、だな。『甲子園』も……あと、一歩のところで……負けちゃったん、だよね……」
ソファに横になったままのヴァニラが、そこにいる面々の顔を苦しげな目で見上げる。
「今はそんなこといいから、少しでも体力を維持することだけを考えるんだ!」
春元が強い口調でヴァニラを諭した。それは愛情の裏返しであると、誰もが理解していた。
「い、い、いや……絶対に、いやっ! こ、こ、こんなところで……ま、ま、負ける訳には……いかないのよ……。ア、ア、アタシには……も、も、目的が、あるん……だから……」
ヴァニラはそこで気力が尽きたのか、すっと目蓋を閉じると、全身から力が抜け落ちたかのようにぐったりとなった。
「ヴァニラ、分かってる。それは分かっているさ。みんな、目的があってこのゲームに参加しているんだからな。でも命を落としたら、そこで終わりなんだよ。ゲームどころじゃなくなるんだよっ!」
誰に言うでもなく、春元が荒げた声を出した。何かを堪えるように、拳は強く握り締められている。こんな姿の春元を見るのは、ゲーム開始から初めてだった。
「──俺が今から迷子センターに行ってくる。あそこに救急箱が置いてあったはずだからな。消毒液くらいはあるだろう」
決然とした口調で春元が言った。
「それじゃ、おれもいっしょに行きますよ!」
すぐにスオウは名乗り出た。ヴァニラを助けたい気持ちはスオウにだってある。
「いや、君はここに──」
「春元さん、園内にはあの男がうろついているかもしれないんですよ? ひとりよりも2人の方が安全です!」
「春元さん、ヴァニラさんのことはわたしたちに任せて、スオウ君と2人で行ってきてください!」
示し合わせたつもりはなかったが、図らずもスオウとイツカの2人は同じ事を言っていた。
「――2人とも……。分かった。そこまで言ってくれるのならば、ここはイツカちゃんに任せることにして、オレとスオウ君で迷子センターに向かうことにする。ただしイツカちゃん、もしも危険が迫ってきたら、そのときはとにかく急いで逃げるんだぞ!」
「分かりました」
「それじゃ行きましょう、春元さん」
「ああ、急ごう!」
春元がヴァニラの顔にちらっと目を向けた。それから何かを振り切るようにして顔を上げると、『ゾンビ病棟』の入り口に向かっていった。
「イツカ、あとは頼んだ。それから、デストラップには十二分に気をつけてくれよ。そうだ、美佳さん、君も気を付けるんだぞ」
スオウが春元の後を追おうとしたとき──。
「──これ」
美佳がすくっと立ち上がって、スオウの元まで歩いてきた。右手をすっと差し出してくる。30センチと離れていない間近の距離で、初めて美佳と向き合った。前髪で隠れてしまっているが、ニキビかソバカスなのか、顔の皮膚がとても荒れているのが見て取れた。反対に、スオウに差し出してきた白くて細い右手は、肌理が整ってとてもキレイである。あるいは、この肌こそが美佳の本来の肌艶なのかもしれない。それを取り戻すために、このゲームに参加したのだろう。改めてそう思ったが、今はそれを聞く時ではない。
スオウが注目したのは、美佳の手の美しさばかりではなかった。その手のひらの上に、ちょこんと円柱形の物体が乗っていたのだ。
大きさはリップクリームより一回り大きいくらい。色はショッキングピンク。化粧品の類かとも思ったが、だとしたら、ここでスオウに差し出してくる意味が分からない。
「これは……?」
「──痴漢スプレー」
一言だけぼそっと答えた。
「痴漢スプレーって……。ああ、これを武器代わりに貸してくれるの?」
言葉の途中で美佳の考えを察した。身を守る武器としては心強い。それで終わりとばかりに、美佳はもう元居た壁際に戻っていた。相変わらずコミニュケーションが取り辛い少女だが、その気持ちは本当にありがたかった。
「ありがとう、美佳さん」
スオウは頭を軽く下げて、お礼をした。
「それじゃ、行ってくるから」
「スオウ君、気をつけてね」
イツカが心配気な目で見つめてくる。
「大丈夫だよ。バスケ部の足で、すぐに行って戻って来るから」
後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、スオウは春元の後を追った。
こうしてゲーム開始以来ずっといっしょにいたスオウとイツカは、ここで離れ離れになった――。
――――――――――――――――
春元の姿は『ゾンビ病棟』の前にあった。
「このまま回り道をせずに、一直線で迷子センターに向かうけど、それでいいか?」
春元の口調はすでに確定している風な言い方だった。
「ええ、構いません。ヴァニラさんのあの様子だと、少しでも早く傷口を消毒しないとならないですから」
スオウも春元の案に異論はなかった。今は一秒でも早く行動するときだ。
「悪いな。きみにまでこうして迷惑をかけてしまって」
ヴァニラとペアを組んでいるわけでもないのに、スオウに謝る春本だった。でも、スオウにはその気持ちが痛いほど分かった。なぜならば、もしもイツカがウィルスに感染していたら、スオウも同じ事をしたはずだから。
「よし、全力で行くぞ」
「走りだったら負けませんよ」
スオウと春元は顔を見合わせると、互いににやっと笑みを浮かべた。緊張感を和らげる笑みであり、同時に、それは互いを信頼しているからこそ出せる笑みだった。
2人は迷子センターに向かって走り出した。
『ゾンビ病棟』は『アトラクション乗り場』の一番奥に位置していたので、迷子センターまではかなり距離があった。このゲームも時間的に終盤に差し掛かっており、スオウたちの体力も精神力もかなり落ちていたが、ヴァニラの命が掛かっている今、泣き言は言っていられない。
フリーフォール、コーヒーカップ、豆機関車、バイキング、ジェットコースターといった遊園地ではお馴染みのアトラクションを横目で見ながら、ひたすらに迷子センターを目指して走る2人。
しばらくの間、無言で全力疾走していた2人だったが──。
「待った!」
春元が急停止して、慌てた様子ですぐそばのメリーゴーラウンドの陰に身を潜めた。
「スオウ君、早く身を隠すんだ!」
鋭い声に促されるようにして、スオウもメリーゴーランドの陰に隠れた。
2人の間に張り詰めた空気が生まれる。
「まさか、あの男ですか?」
視線は前に向けたまま、春元に訊いた。
「ああ、あの男で間違いない」
春元は追ってきた男をいち早く見つけたらしい。2人の気持ちとは正反対の華やかな音楽が、メリーゴーラウンドから流れてくる。馬車とそれを引く馬が、楽しそうに上下に動きながら回転している。
あいつだ!
スオウの視界にも、あのゴーカートのサーキットコースで見た男の姿が入ってきた。
メリーゴーラウンドの音のおかげか、男はまだスオウたちの存在に気が付いていないみたいだった。このまま男をやり過ごして、迷子センターに向かうことも出来るが、それだとひとつ問題が生じてしまう。
男の進行方向の先には、倒れたヴァニラがいる『ゾンビ病棟』があるのだ。むろん、この男が実際に『ゾンビ病棟』に向かうかどうかは分からないし、ヴァニラやイツカたちに危害を加えるかどうかはまだ未知数である。しかし男の手には、これ見よがしに物騒な物が握られていた。コンバットナイフと呼ばれる、通常のナイフの何十倍も殺傷力の高い武器である。それが意味することはひとつしかない。
この男は本気で『殺る気』なのだ。なんら躊躇うことなく、その武器を使うに違いない。
男は様子を伺うような視線を周囲に飛ばしつつ歩いてきている。
「マズイな。まさか、もうこんなに近くに来ていたとは……。この広さの『アトラクション乗り場』ならば、仮に見付かるにしても、もっと時間がかかると思っていたんだが……」
春元は自分の計算違いに、悔しげに顔をしかめていた。
「──春元さんはこのまま迷子センターに向かってください。ここはおれがなんとかしますから」
スオウが決断を下すのは早かった。
「スオウ君……。その言葉はありがたいが、そういうわけにはいかない。男の様子を見てみろ。手には凶器を持って、顔には凶相が浮いているんだぞ。あれは誰でもいいから『殺る』といった顔だ」
「それは分かっています。でも、ここで何とかしないと、あの男は『ゾンビ病棟』の方に向かっていっちゃいますよ」
「それはそうだが……」
春元が苦悩の色を顔に浮かべる。春元も判断に悩んでいるのだ。
「よし、それじゃこうしよう。オレがオトリになるから、その間にスオウ君が──」
「それはダメです」
スオウは言下に否定した。
「ヴァニラさんは油断を許さない状態です。ヴァニラさんのそばにいて、ヴァニラさんの力になれるのは春元さんしかいません。だから、ここはおれが行くしかないんです!」
スオウは春元の返事を聞く前に立ち上がった。すぐにでも走り出せる体勢をとる。
「スオウ君、早まるな!」
「大丈夫ですよ。あの男はさっきのゴーカートのデストラップのときにケガをしたみたいで、片足を引き摺っていますから、おれの足の速さならなんとかなります。バスケ部の凄さを見せ付けてやりますよ」
わざと春元に余裕の笑みを返した。少しでも春元の心理的負担を和らげる為である。
「スオウ君……」
「それにおれには美佳さんから借りた痴漢スプレーがあります。いざとうときはこれを使いますから」
「──すまない」
春元が重い声で一言つぶやくと、深々と頭を下げた。その一言と動作にどれだけの意味と思いが詰まっているのか、分からないスオウではない。
「それじゃ、おれがおとり役になりますから、春元さんはタイミングを見計らって、迷子センターに向かってください」
スオウはメリーゴーラウンドの影から少しだけ顔を覗かせた。男の様子を確認する。男は足を引き摺るようにして、今まさにメリーゴーラウンドの脇を通り抜けようとしていた。行動を起こすならば絶好のタイミングである。
「今がチャンスです」
スオウは最後に春元と目を合わせた。無言で頷き合う。声に出さなくとも、互いの気持ちを察し合った。
「おまえ、なんでこんなところにいるんだ!」
スオウはわざとらしく大声をあげて、男に自分の存在と居場所をアピールする。
「さっきのクソガキかっ! きさま、そんなところに隠れていやがったのかっ!」
さっそく男がスオウに気が付いて、スオウの方に向かってきた。ここまでは予想通りの動きである。
「きさま、絶対にブッ殺してやるからなっ!」
物騒な言葉を叫ぶ。やはり、この男は『殺る気』でいるのだ。
第一段階はこれでいい。問題はここから先だった。この先のプランは一切考えていない。あとは出たとこ勝負をするしかない。
春元さん、ヴァニラさんのことをお願いしますよ。
スオウはポケットに入れた痴漢スプレーを確認すると、『ゾンビ病棟』とは逆に向かって走りだした。
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