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第二部 ジェノサイド

第33話 溺れる者は何を掴む?

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 ――――――――――――――――

 残り時間――3時間48分  

 残りデストラップ――5個

 残り生存者――13名     
  
 死亡者――6名         

 ――――――――――――――――


 目の前にゾンビが現われた。もちろん、本物のゾンビではない。壁に描かれたイラストである。もっとも、体中血みどろでお腹から内臓が飛び出した生々しいイラストは、かなり写実的に描かれていて、人によっては吐き気を催しそうである。

「このゾンビのアトラクションが、ここの遊園地のお化け屋敷っていうことなのね」

 イツカが嫌そうにゾンビを見上げていた。この手のグロテスクなものは苦手らしい。

「ゾンビたちが蔓延る病棟内でゾンビウィルスへの感染に気をつけながら無事にゴールを目指そう、って書いてあるな」

 春本が入り口に設置された案内板に書かれている説明文を音読してくれた。『ゾンビ病棟』というのが正式なアトラクション名らしい。

「まあ、これを読むかぎり基本的にはよくあるお化け屋敷と変わらないな。出てくるのがお化けなのかゾンビなのかの違いってだけみたいだな」

「アタシは幽霊よりもゾンビの方がいいけど。幽霊は恨みとか、なんかジメジメした怖さがあるでしょ。相手がゾンビならば、バンバン銃で撃ち殺せばいいだけだし」

 ヴァニラはゾンビが相手でも怖くはないらしい。

「あのな、ゾンビが出てくるテレビゲームじゃないんだから、ここに銃なんてないと思うぞ」

「それじゃ、あたしのスペシャルキックをお見舞いするわよ」

 ヴァニラが例によってミニスカからおみ足を伸ばそうとするのを見て、春本が呆れた顔をしている。

「お化け屋敷っていうことは、中は暗いと思いますが、このまま入っても大丈夫なんしょうか?」

 イツカは不安げな顔こそしているが、ここでも的確な指摘をしてくる。

「いや、イツカちゃん、むしろ中が暗い方が敵の目から隠れやすいから、都合が良いかもしれない。それにこの手のお化け屋敷は人間がゾンビ役をやっているはずだから、園内スタッフがいない今、この中はただの暗い空間が広がっているだけだと思う。乗り物系のアトラクションに乗るよりは、かなり安全なはずだよ」

「イツカ、何も奥の方まで行かなくてもいいんだからさ。追ってくるあの男の目から隠れることが出来ればいいんだから。もしもあの男が中まで追ってきたら、そのときは奥の方まで誘導させて、その隙におれたちは先にここを抜け出せばいいだけだし」

 スオウはすぐにイツカを安心させるように付け加えた。

「うん、そうだね。分かったよ、スオウ君」

 曇っていたイツカの顔にさっと明るさが戻った。それを見て、スオウも気持ちが明るくなる。

「──ということで、『ゾンビ病棟』に入るとするか」

 春元を先頭にして、5人は順番に暗い入り口を潜っていった。


 ――――――――――――――――


「どう? 痛みの方は少しは引いた?」

「うん、さっきと比べてだいぶ良くなったよ……」

「それじゃ、そろそろ場所移動しようか。この迷宮内がいつまでも安全だとは限らないからね」

「そうだね。とりあえずここから出ることは賛成するよ……」

 慧登は立ち上がろうとしたが、体に走る鈍痛に激しく顔を歪めた。

「どうやらその表情だと、まだ痛みが引いていないみたいね」

「悪い……あの男、格闘技をやっていたらしくてさ……。何ヶ所か骨を折られたみたいだ……」

「ちょっと待って。なにか名案がないか考えてみるから」

 玲子がマップを開いて、思案タイムに入る。

 慧登はぼんやりと玲子の顔を見つめていた。玲子の顔を見ていると、なんだか痛みが引いていく気がした。病は気から、という言葉があるが、慧登は今その言葉を確かに実感していた。

「そうだ! さっきの迷子センターにまた行こうよ!」

 玲子が何やら閃いたらしい。

「迷子センターって、春元さんたちと合流した場所だろう?」

「そうよ。あそこの園内放送を使って、さっき春元さんたちに危険を知らせたの」

「ああ、それじゃ、あのときの玲子さんの声って……」

 慧登は暗闇に落ちそうになったときに聞こえてきた玲子の幻聴を思い出した。てっきり幻の声だと思っていたが、どうやら本物の玲子の声だったらしい。

 慧登はあの声に助けられたのだ。だから、次にピンチの場面に遭遇したときは、自分が玲子を助ける番だと思っていた。その為には、まずこの体中の痛みをなんとかする必要があるが。

「慧登君、あそこの迷子センターに救急箱があったの覚えている?」

「いや、あのときは春元さんと話すので頭がいっぱいで……」

 慧登の記憶の中に、救急箱は見当たらない。

「ほら、あたしはイスに座ってじっとしていたでしょ? だから、ずっと部屋の中を見るとはなしに見ていたの。あたしの記憶が正しければ、壁際の棚に救急箱があったはず。たぶん、その中に痛み止めの錠剤ぐらいはあると思うの」

「痛み止めがあれば、かなり助かるな」

「そうでしょ。骨折した箇所を固定する為の包帯とかもあると思うし」

「それなら、なんとかなるかもしれないな。この状態じゃ、いざというときに動けないからな」

「そうと決まったら、この迷宮から少しでも早く出ようか」

「いや、玲子さん、せっかく気合が入っているところ申し訳ないんだけど……」

「えっ? どうしたの?」

「うん、玲子さんは、この迷宮の出口までの道順を分かっているのかなと思ってさ」

「えっ? そ、そ、それは……だから……」

 口ごもった玲子が、答えを求めるように慧登の顔を見つめ返してきた。

「だよね。この迷宮、やたらとでかくて複雑だから、そう簡単に出口にたどり着けるとは思えないんだよな。なにせ『ミノタウロス』がいた『迷宮』だからね」

 牛頭のことを思い出して、慧登の体にぶるっと震えが走った。死んだとはいえ、あの男はまさに怪物ミノタウロスに匹敵するほどの怪物だった。

「『ミノタウロス』に『迷宮』って、いったい何のことなの?」

 玲子がきょとんとした表情を浮かべる。

「ああ、玲子さんには話していなかったね。つまり、この『巨大迷宮』は──」

 慧登はこの迷宮に関わるデストラップについて説明した。

「――そういう意味か。あっ、でも――」

 そこで玲子がふと可愛らしく小首を傾げるポーズをとった。

「『ミノタウロス』に『迷宮』っていうことは──なんだ、それじゃ、簡単にこの『巨大迷宮』を出られるじゃん!」

 なぜか玲子はとびっきりの笑顔を浮かべるのであった。その視線の先には、当惑する慧登の顔があった。


 ――――――――――――――――


「クソクソクソクソ……クソがっ!」

 ヒカリはスワンボートのシートに不貞腐れたように背中を預けながら、両足で何度もペダルを蹴り続けた。

 スワンボートの動力源であるペダルのチェーンが外れてしまったので、湖上で立ち往生するしかない状況である。こうしている間に、せっかく集まってくれた視聴者が次々と離れていく。ヒカリとしても出来るだけ早く生配信を再開したかったが、この状況では配信するだけの材料がなかった。ただ、夜の湖の映像を延々と映し続けるしかない。そんな中身のない配信をしたら、それこそ、たちまち視聴者数はゼロになってしまうだろう。

「ちぇっ、最悪の場合、このまま今夜の生配信を中断するしかねえか」

 ヒカリのチャンネルのコメント欄を見ると、配信の再開を待ち望む書き込みが数多くあった。みすみす目の前のチャンスを逃すことになるが、名案が思い浮かばない以上は仕方がない。

「とりあえず今はゲームの方に集中するしかねえか」

 ヒカリは生配信からゲームへと、気持ちを切り替えることにした。

「そういえば、さっきのメールでデストラップのことが書かれていたけど、結局、あれはなんだったんだ? どうせ俺の生配信を止める為の脅しか何かだろうけどな。紫人もあの喪服女も、みんな、俺のことをなめやがって! 全員、クソ野郎だっ!」

 さらにペダルを強く蹴り付けたとき──。


 ビジャッ!


 液体の弾ける音がした。

 なぜかスワンボートの中で!

 ヒカリの背中に氷柱が突き刺さったかのような冷気が走り抜けた。視線は前に向けたまま、足だけ使って、ペダルのあたりを探ってみる。


 チャポチャポ。


 明らかに液体状の音があがる。ヒカリの足の動きがピタッと止まる。

 そのまま数秒間、ヒカリは生ける彫像と化した。

 その間に、足の爪先に冷たいものが広がっていく。

「お、お、おい……これって、マジかよ……」

 口から漏れ出た声は、この男にしては珍しく弱気なものだった。

 湖上に向けていた視線を恐る恐る自分の足元に向ける。ボートの底が園内の外灯を反射させて、キラリと輝いた。

「あの野郎、やりやがったな……。これが俺専用のデストラップってやつかよ……」

 ヒカリは恨みのこもった声で吐いた。

 スワンボートの底には水が溜まりつつあった。おそらく、ボートのどこかに穴が空いていて、そこから湖の水が少しづつ流れ込んだのだろう。

「そうか。だから生配信で命乞いをしろって書いてあったんだな」

 紫人のメールの真の意味を今さらながらに悟った。

「クソがっ! だったら今すぐにでも生配信を再開してやるぜ!」

 足元の水はまだくるぶしのあたりまでしかない。ボートが沈むにはまだ時間の猶予がありそうだった。その間に、自らの視聴者に向けて助けを求めるしかない。

 なぜならば『そうしないとならない理由』がヒカリにはあったのだ。おそらく、紫人は予め『そのこと』を知っていたにちがいない。

 ヒカリは死神の息吹に急き立てられるようにして、生配信の再開準備を始めた。


 ――――――――――――――――


 玲子の晴れやかな笑顔を見ても、慧登には何も想像がつかなかった。

「えーと、どういうことなのかな?」

 とりあえず玲子本人に訊いてみた。

「だって今、慧登君自身が言ってくれたでしょ? 『ミノタウロス』のことを!」

「うん、そうは言ったけど……でも、それがどうして出口への答えになるのかは……?」

「あたし、頭はそれほどよくないけど、でも『ミノタウロス』の伝説ぐらいは知っているから」

「『ミノタウロス』の伝説……?」

「詳細は忘れちゃったけど、要はギリシア神話に出てくるお話なわけでしょ?」

「ああ、それくらいだったら俺も知ってるけど……」

「たしか、クレタ島の『迷宮』に住み着いた怪物ミノタウロスを、英雄──名前は『テセウス』だったと思うけど、とにかくその英雄が倒すっていうのが大まかなストーリーだよね?」

「そうそう、そんな感じの話であっていると思う」

「問題は『ミノタウロス』を倒した『テセウス』が、その後どうやって『迷宮』から脱出したのかっていうところだけど──」

 そこで一旦玲子は言葉を切った。話を盛り上げるために、わざわざ一呼吸置いたようだ。

「いい、『テセウス』はね、クレタ王の娘である『アリアドネ』から貰った『糸玉』を頼りにして、『迷宮』から脱出したの!」

 玲子はまるで自分が成し遂げた偉業であるかのように自信たっぷりに言った。

「えっ、『糸玉』?」

 それでもまだ慧登は玲子の言っている意味が理解出来ずにいた。

「そう、『糸玉』だよ! ほら、あたしの目の前にいるでしょ、名前に『糸』って入っている人が!」

 玲子が人差し指で慧登の顔の中心を指差した。

「それってまさか──」

「そうだよ、『慧登けいと』君のことに決まっているじゃん!」

「いや、それって、ただのこじつけなんじゃ──」

「そんなこと絶対にないから!」

 玲子は言下に否定した。

「だって、このゲームっていろいろな『前兆』が、デストラップを指し示しているわけでしょ? だったら、慧登君の名前にだって絶対に意味があるはずだから!」

「でも、そんなこと急に言われてもなあ……」

「大丈夫、あたしは慧登君の勘を信じているから。──さあ慧登君の先導で、この『迷宮』から脱出しよう!」

 玲子はすくっと立ち上がって、今すぐにでも歩き出そうかという雰囲気である。


 あの、玲子さん……言ってなかったけどさ……実は、俺……極度の方向音痴なんだけど……。


 この状況では決して声に出して言えないぼやきを、心の中でそっとつぶやく慧登だった。


 ――――――――――――――――


「やあみんな、だいぶ待たせちゃってゴメンな」

 ヒカリはスマホを自分の方に向けると、さっそく生配信を再開した。緊急事態とはいえ、出来るだけいつもと同じ口調を心がける。

「いやー、いろいろとトラブっちゃってさ、ここで緊急に生配信の内容を取り替えることにしたよ」


『ヒカリさんは大丈夫なんですか?』
『トラブルって何かあったの?』
『さっきからいろいろ映していたけど、まさか警察から連絡でも入ったんですか?』


 コメント欄に様々な返答が書き込まれていく。しかし、ヒカリは話の核心となる『デス13ゲーム』について話すことはしなかった。ゲームについて外部に漏らすのは厳禁とされている。ここでそのルールを破って、また自分専用の新しいデストラップを仕掛けられては堪ったものじゃない。

「実はさ、今とある遊園地の池の上から、スワンボートに乗って生配信をしているんだけど、ここに来てくれる視聴者を今から募集しようと思うんだ」

 決して『デストラップ』のことは言わない。ここでそんなことを言ってしまったら、危険を感じて誰も助けに来てくれなくなる。あくまでも生配信中のイベントのひとつとして、集客を試みるつもりであった。

 もちろん、それでも人が集まらなかったときは、すべてを話すつもりである。


『生のヒカリさんに会えるチャンスですね! あたし、行きたいかも!』
『募集っていうことは、なにかそこでイベントでも開くんですか?』
『深夜の遊園地でイベントって、なんかワクワクするな!』


 好意的な意見もあれば、その反対の意見もあった。


『お前ら、さっきの配信を見ていなかったのかよ! こいつは死体ばかり映していたんだぜ。そんな危ないところに、わざわざ行こうっていうヤツの気が知らねえな!』
『ていうか、さっきトラブルって言ってましたが、やっぱり警察沙汰なんじゃないですか? 視聴者を危険なことに巻き込むつもりじゃないですよね?』
『なんだかチョー怪しそうなんだけど。まさか深夜の遊園地で女性ファンを襲おうとしているとか?』


 不信感を抱く視聴者も何人かいた。この際、そういった視聴者のことは無視することにした。

「ゴメンゴメン、さっきはトラブルって言ったけど、そんなたいしたことじゃないから心配しないでくれよ」

 場を収めるコメントをする。今この場を荒らすわけにはいかない。ヒカリにとって、この生配信だけが命綱なのだ。

「あのさ、本当のことを言うと、スワンボートに乗っているって言ったけど、このボートが凄くボロくてさ、さっきから浸水しているんだ。しかもペダルのチェーンが外れて、池の上で立ち往生しちゃってさ。誰かに助けてもらえたらいいなと思っているんだけど。みんなの中で、この近くに住んでいる人がいたら助けに来てくれないかな? もちろん、お礼はするつもりだよ」


『浸水ってことは、それじゃ、ボートは沈没しちゃうんですか? 誰か早くヒカリさんを助けに行ってあげてよ』
『もう今夜は遅いから、この辺で生配信をやめるっていうのもありなんじゃないですか?』
『だから、こいつは今危険な場所にいるってことを忘れんなよ!』


 視聴者の中に、強硬にヒカリに対して否定的な意見を持っている者がいるみたいだ。

 スマホの画面を注意しつつ、足元にチラッと目を向けた。さきほどと比べて、水の水位がだいぶ上がってきている。ふくらはぎの辺りまで水で濡れてしまっている。

 背筋に冷たいものが走り抜けた。

「なあ、みんなはもっと生配信の続きを見たいだろ? その為にはみんなの助けが必要なんだ。だからさ、頼むから、誰かひとりでいいから、助けにきてくれよっ!」

 恐怖に背中を押されて、焦り気味の口調で訴えた。


『うーん、そこの遊園地って、家の近所ではあるんだけど、今の時間だと家から出るのは厳しいかなあ……。お母さんに絶対に止められるだろうから』
『今夜は長い時間楽しませてもらったから、この辺でヒカリさんは休んでください』
『そうだ、グッドアイデアを思い付いた! 死体が溢れているんだから、警察を呼べばいいんじゃんかよ。警察ならすぐにでも駆けつけてくれるぜ!』


「警察は絶対にダメだっ!」

 ヒカリは『警察』というコメントに対して、即座に否定の言葉を発した。警察には『苦い思い出』しかないので、絶対に警察とは関わりたくなかった。


『一層のこと、このまま朝まで池の上で過ごすとか面白そうじゃない? 池の上から朝日が昇るところを生配信してください!』
『なんか、さっきから全然死体が映らないんだけど。早くグロ映像をください!』
『おれ、眠くなったので、このへんで落ちまーす。ヒカリさん、おやすみなさい!』


 コメント欄を見る限り、助けにきてくれそうな気配は皆無である。視聴者は明らかに今の生配信に飽きてきてしまっている。このままでは本当にやばい事態になりそうだった。


『あのさ、ボートが沈みそうならば、泳いで岸まで行けばいいだけじゃないの?』


 灯台下暗しといった書き込みがされた。途端に──。


『そうだよ。何も視聴者からの助けを待たずに、池を泳げばいいだけだよね』
『冬場ってわけじゃないから、カゼをひく心配もいらないし』
『ヒカリさんの水泳生配信、見たいかも。ぜひお願いします!』


 コメント欄を見て、ヒカリは顔をさっと青褪めさせた。こういうコメントだけは絶対に見たくなかったのだ。

「あのさ、言ってなかったけど……実は俺、泳げ……」


『ひょっとしてヒカリさん、泳げないとかですか?』


 答えたくはなかった。でも、この流れでは答えざるをえなかった。自分の命が懸かっているのだ。妙な自尊心は捨てるしかない。

「ははは、そうなんだ……。泳ぎが得意じゃないというか、なんていうか……」

 そう、ヒカリは泳ぎがまるっきりダメであった。泳ぐことはおろか、そもそも水に顔をつけることすら怖くて出来なかった。

 だからこのゲームの最中、ヒカリはずっと池には近付かないようにしていた。水の近くはヒカリにとって鬼門でしかないのだ。

 しかし、目の前にぶらさがった喪服姿の美女というニンジンに釣られてしまった。視聴者数と入金額のアップに目が眩んで、櫻子を追ってスワンボートに乗ってしまったのである。

 ヒカリが返答に迷っている間に、物凄い勢いでコメント欄が書き込みで埋め尽くされていく。


『まさかのカナヅチ!』
『その歳で泳げないってありえないから!』
『ガキかよっ!』
『ヒカリ、スワンボートとともに池に沈む。合掌』
『泳げない男って、この世の中にいるんだね。マジウケるんですけど!』
『ていうか人間って、死んだら浮くんじゃなかったっけ? あっ、でも、それじゃダメか(笑)』
『あのさ、泳げないのならば、なんでスワンボートに乗ったんだ? そういうのを世間では自業自得って言うんだろう?』
『確かに自業自得な以上は、自己責任で解決するしかないよな!』
『今から大急ぎでスマホで検索して、泳ぎ方を覚えるのはどうですか? オススメは犬かきです! すぐに泳げるようになりますよ!』
『ていうか、あたしが通っているスイミングスクールを紹介しますよ!』
『あっ、名案を思いついた! ヒカリさん、今すぐにぐっすり寝てください。これが本当の《睡眠スイミンgoodグー》なんてね!』
『上手い! 座布団、十枚!』
『おー、高度なダジャレだ!』
『この中に落語家がひとり混じっていたみたいだな!』


 恐れていた事態になった。コメント欄がもはやネタの書き込み場になってしまっている。こういう事態を予想して、泳げないことは言わずにいたのだ。

 そこにトドメの書き込みがされた。


『少しは成長したのかと思っていたけど、やっぱりヒカリはヘタレのままだったな。今すぐ『ヘタリ』に改名しろよ!』


 それは一番見たくない単語だった。『忌まわしい過去』を思い起こさせる三文字。


『ヘタリ、キターーーーーっ!』
『まさかのヘタリ復活!』
『ヘタリーーーーーーーっ!』
『ヘ・タ・リ!』
『ヘタリ再び!』
『ヘタリ第二章!』
『ヘタリヘタリヘタリヘタリ……』
『ヘタリ祭り開催中!』


 何も言い返せず、怒りと恥辱に震えたまま、じっとコメント欄を睨み続けるだけのヒカリ。

 そして、スワンボート内の水は、いつのまにかすでにヒカリの膝を越えていた――。
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