上 下
52 / 61

第52話 蠢く春の虫達

しおりを挟む
 世継ぎを産む事、それはフレイアにとっても最大の役目であった。
彼女が望むのと望まないのは別にして、この王家の存続は世継ぎを産むことで成立するシステムが出来上がっていたのだ。
 多くの人間が城に仕えている以上、彼らの支え先が崩れるのは彼らの職場が崩れるようなものであった。内乱を経たからこその不安かもしれない。ロスカは執務室に残り、ぼんやりと考えた。
 
「ロスカ様、彼らの気持ちもわかりますな?」
 
「ああ」
 
 生返事に臣下は顔を歪ませる。
 
 彼の母親は、世継ぎの使命を早々に果たしている。婚姻の翌月には兄の命を宿らせた。
兄が生まれたのちは、暫く辛い時期だった様だが、十年の時を置いて、ロスカが生まれた。とはいえ、母親は体が弱く、数年後には亡くなった。
 
「・・父親が」
 
「はい」
 
「父親が、母親が死んだ後に後妻を取らなかったのは何故だと思う?」
 
 フレイアに触れられた筈の、拳の山がまた机にぶつけられている。父親の話をする時には何か痛みがないと駄目なようだ。
 
「それは、あなたのお父様が確かにお母様を愛しておられたからですよ。お母様は、後妻を取る様にと仰っておりましたが」
 
 確かに、とロスカは遠い昔の記憶を思い出した。
暗い塔の記憶が長く残されているが、彼のそれ以前の生活も薄暗いものだった。その、薄暗い生活の中で、父親が母親の死に涙をする瞬間だけは何故か色鮮やかに見えた。真珠のような涙、と揶揄する者が時折いる。その時の父親の涙はまさにそうだった、と。粘度が高い涙が瞳からゆっくりと溢れ、ぼたぼたと真珠が潰れていくのだ。
 
「まあ、泣いてはいたな」
 
 臣下は言わなかったが、炎帝は一応、ロスカの母親がいる間はまだ健全な精神を保てていたのだ。
まるで、ロスカがフレイアに春の日差しを感じたように、炎帝も自身の妻から春の日差しを感じていたのだ。
 
「ロスカ様、お二人の事なので私は批判もしません。ですが、フレイア様の評判にも関わる話題でございますので、どうか、ご注意を」
 
 せっかくの臣下の優しい注意も、また、ロスカは生返事であった。
でも、以前ならうるさい!と怒鳴り返されていたかもしれない。だから、まだマシな方だ、と臣下はため息を吐いた。
 
 ロスカにそのような話が上がった様に、フレイアにも似た様なような話が上がっていた。
 今日は過越祭を前に、城に勤める貴族の家族とのお茶会があったのだ。家族、と言っても娘やその奥方であったが。
 
「お妃様、声が出ずとも女達は瞳だけで十分分かり合えますわ」
 
 麗しい金髪に、濃い金色の耳飾りをした女に言われる。
年代は様々、親子で参加する者が殆どであったが、中には一人で参加する者も居た。そういう者は娘が既に嫁入りをしている場合である。
 
「お声が出ないなんて、お辛いのではないですか?」
 
 その言葉にフレイアは、肩を竦めて時々、と呟いてみる。すると、老年の女性がときどきでございますか、と言葉を打ってくれたのだ。
 
「陛下とはどのように会話をされているのですか?」
 
 一人、漆黒の髪色の若い娘が声をかけた。フレイアと年は違わないだろう。
寒い日なのに、彼女の豊満な胸元が見えそうだ。彼女からの質問に、文字を書くジェスチャーを取れば、皆なるほど、と相槌を打った。城の中の人間が声の出ないお妃様を、不思議に思うのと同様で、皆不思議に思っていたのだ。
 
「お声が出なくとも陛下を射止めるなんて、とっても魅力的な方ですわ」
 
 テーブルに並べられた、りんごのパイを皿に乗せたところである。何となく、その漆黒の娘の言葉が耳に刺さったのだ。
 
「声が出る女では面白くなかったのかしら」
 
 ふふ、とその母親と娘は笑った。自身をわざと下げているのか、他意があるのか。
フレイアにはよくわからなかった。でも、この後の言葉で彼女はぼんやりと真相を感じ取る。
 
「お妃様との婚姻の前、陛下とお話しした時は沢山お話ししてくれたんですよ。だから、私驚きが隠せませんわ」
 
 フォークを差し込んだパイから、りんごが崩れるように皿へ落ちる。
フレイアが取ったパイはりんごパイではなかったのかもしれない。知らなかった過去が、聞かなくても良かったような真実がたっぷりと詰まったパイだったのかもしれない。
 
「もし、お話し相手が必要であれば私、手を上げますのに」
 
「良い話ですわね、私の娘も是非」
 
 皆笑っている筈なのに、フレイアは彼女らから友好さ等何も感じれなかった。ロスカと婚姻を結んだのは彼女である。でも、どうして皆、彼に近づこうとするのだろう、と混乱した。
 
「お世継ぎができてからは、もっと大変でしょうし。侍女には出来ないお手伝いを致します。そもそも出来るかは知りませんが」
 
 別の娘は得意気に言っては、甘いしょうがが織り込まれた薄いパンを取る。
その言葉に小さな笑いが起きたことに、フレイアは何も言い返せなかった。どうするのが正解なのだろうか、とフォークを置いた時であった。
 
「皆様の春は随分と、じゃじゃ馬でございます事」
 
 フレイアの隣に座っていた老年の女が口を開いた。
たっぷりと苺のジャムを取っては、紅茶に入れて溶かす。直接的な言葉ではないが、どこか批判的な口ぶりであった。
 
「暴れるような熊すらも、眠るような穏やかな春を、陛下は探しておられたのではないでしょうか」
 
 途端、貴族の女達は口を紡いだ。
 
「春といえば、若い皆様は冬の間何をしておられるのでしょう?お妃様は刺繍がお好きだと聞いておりますが」
 
 後に知った事であるが、この老年の女性はロスカの臣下の妻だったのだ。
 
 
しおりを挟む

処理中です...