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第29話 緑の湖は春の色
しおりを挟むロスカは言い淀んだ。彼も行為について詳しく知っている訳ではないからだ。
かといって、男同士で集まってそういう話にならない訳もなく、知っているのはその場で聞いた限りの事なのだ。声が大きかったとか、何の反応もしない娼婦だったとか。目の前にいるフレイアは不安そうにロスカを見つめている。行為のことを知らないから、よく考えていなかったのが彼にとっての正解だろう。
「・・・俺は気にするような事だとは思わなかった」
精一杯の言葉である。でも、フレイアにはまだ言葉足らずなようだ。
「声が出なければ感情を示せない訳でもないだろう」
それ以上になんと言えば良いのか、ロスカにはわからない。でも、彼女を不安に思わせたくないという気持ちに間違いはない。
それに、フレイアは以前恥ずかしさで頬を染めていた。声が出ないから、何の表現も出来ないなんておかしい。ロスカはそう考えた。
「気にしないから、フレイアを妻に選んだ。・・・声が出ないなら目を見つめれば良いだろう」
途端、フレイアは頬が熱くなった気がした。さっと、血が頬に集まるような、そんな感覚である。
驚いてしまい反射的にロスカから彼女は距離を少しだけあけた。先程までの不安を押し退けるように、心臓は早く鳴っては血を頬へとのぼらせている。
彼女の、今まで感じ得ない感情が生まれた瞬間だった。今まで良き話し相手、と思っていたフレイアは改めてロスカを異性として感じた。今までした口づけや抱擁が頭の中で浮き上がる。ロスカには知られまい、と思っていたが彼は他人の内側で浮かぶ感情に敏感らしい。何か匂いでも嗅ぎつけた狼のように、フレイアの方へ手を伸ばした。
「・・・嫌なのか」
熱くなった頬に触れながら尋ねる。
彼女は首を横に小さく振って否定をした。嫌なのではない。彼を異性として意識した途端、随分と恥ずかしく思えたのだ。
自分の顔はおかしくないか、髪の毛は乱れていないか。せめて白粉くらい塗しておくべきだったか、なんて。
そしてフレイアは目を逸らしたくなった。ロスカがじっと、彼女の目を見つめるからだ。瞳の中に文字が浮かんでいるとでも言いたいのだろうか。ロスカはただただ瞳を見つめるばかりで何も言わないのだ。もしかして、自分の心を読み取っている?フレイアはそんな気がして、顔を逸らそうとしたがロスカに阻止されてしまう。両手で頬を包まれてしまった。大きな手だ。柔らかな頬に、少しだけ乾燥した肌が触れている。自分とは違う、ゴツゴツした骨張った手である。
視線を彼以外のものに向けようにも、うまく出来ない。
どうしてだろうか。フレイアもまた、ロスカと同じように彼の瞳を見つめる。春を思わせる緑色の瞳、雪景色に変わった世界では生命の芽吹きを知らせる色だ。そんな神秘的な色なのに、フレイアは頭の中がクラクラとしてきた。強い葡萄酒を一気に煽ったように、眩暈が起きそうなのだ。
「フレイア?」
ロスカの緑色の瞳に囚われてしまった。名を呼ばれ、首を縦に動かす。
気持ちはさながら足のつかない湖で泳ぎ続けているようである。彼が何を考えているかなどわからない。
彼の瞳に囚われているのに、その思考を手で掬って読み解く事もままならない。泳ぎ続けるには足がもつれそうだ。
解放してほしい、そのつもりで彼の手に自身の手を重ねた時である。フレイアの視界は真っ暗になった。
夫の顔をが近づいてきて、唇を重ねられたからだ。
緑色に飲まれてしまう、そう思った。実際は飲まれた訳ではなく、彼に食べられてしまいそうな感覚ではあった。
唇を啄まれ、角度を変えて、何度も何度も口づけをされた。そのまま、押し倒されてはロスカに見下ろされた。さながら逃げ場をうしなった子鹿である。
これから先何が起きるかは詳しく知らないフレイアでも予想出来た。
捉えた獲物を観察するように、ロスカに見つめらる。彼女は粗相のないようにしなくては、と祈る気持ちで両手を胸の前で重ねた。
「・・・また今度」
でも、口づけ以上の行為は無く、ロスカは彼女の手を取って、口づけをするだけで終わってしまった。
湖の水が引いたらしい。フレイアはやっと、息が出来るようになった。
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