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第26話 湯気が国王を唆す

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 二度目の湯浴みを終えた時だった。浴室の外で控えている筈の侍女がいないようなのだ。声が出ない代わりに、浴槽の横に置かれた小さなテーブルを叩くも、反応がない。こんな日である、フレイアはどうしても考え方が悲観的になってしまった。所謂意地悪なのかしら、と。声が出ないのは良くないだろう。会話も不便だし、春にもなって声が出なかったら、自分は外交で来た異国の妃の相手も出来ない。それに、ロスカに身体を許しても、声が出ない事で飽きられてしまうかもしれない。あの、書房にいた侍女達の言う通りになってしまうかもしれない。ぐるぐると、自分の未来を案じてはフレイアは悲しくなった。
 
 その気持ちを絞り落とすように、彼女は自身の髪をぎゅっと握った。残った水分を落とす為である。それから、綿糸で出来た身体を拭うための布を取ろうと手を伸ばした。
 
「フレイア、」
 
 ノックもなく開いた扉に彼女は声にならない悲鳴を上げた。そして、その場にしゃがみ込んだ。少しでも、自分の肌が夫であるロスカに見られないように。
 
 『足首を自分から見せた』
 
 その言葉が突然、頭の中に浮かび上がっては彼女を恐れさせた。別に今は夫婦なのだから、この事を批判される筋合いはない。足首だって、フレイアが望んで見せた訳ではないのに、哀れな花嫁である。
 
「すまない、悪い。音がしなかったから、この部屋にいないかと思った」
 
 先程、臣下の顔に向かって人差し指を突き出したように、ロスカは今度は片手でフレイアの方へ手を突き出した。顔は違う方向を向いている。彼女を見ないように。それでも、目線が思わず、フレイアの肌に行ってしまうのは致し方ないだろう。布で肌を覆ったとは言え、彼女の肌は衣服を纏った状態に比べよく見える。湯浴みを終えたばかりだろう、白い肌はどこか蒸気しているようにも思えた。
 フレイアは立ち上がって、背を向けて布を巻きつけている。侍女を呼ぶかどうするべきか、とりあえず寝衣を身につけようと考える。こんなに足を晒すことは恥ずかしくてできなかった。しかし、着替え用にも、ロスカはまだ後ろにいるようだ。異性に肌を見られた事のないフレイアは困った。でも、言わなくては着替えられない。
 
「・・・すまない、本当に」
 
 困ったような顔をした妻にロスカは、浴室から出て行くように促された。開いている扉に向かって、フレイアが指をさしたのだ。はっとしたように、出て行ったが彼の意識は浴室に残ったままらしい。
 
 湯から上がって間もなかったからだろう。フレイアの肌は蒸気しているようにも見えた。自分とは違う、体の形にロスカの目は釘付けになった。腰の細さは彼女の乗馬の賜物だろう。腰より下こそ見えなかったが、まだ若いロスカの本能に訴えるには十分な視覚的刺激であった。肩の先だって、自分と違って丸い。肌は柔らかく、噛みついてしまえば歯の跡がよく残りそうだった。彼女の腰を後ろから掴んで、満月のように丸い瞳を歪ませたい。そう、ロスカは初めて思った。でも後ろからでは、顔が見にくいし反応がわかりにくいだろう。フレイアの浸かっていた湯船の湯気が、ロスカの頭の中に入り込んだらしい。彼は逆上せ上がりそうな気持ちを、どうにか抑え込む。
 
 扉の外で話し声が聞こえたからだ。程なくしてノックが聞こえ、ロスカは入室を許可した。
 
「まあ、陛下。いらしたのですね」
 
 侍女長の娘であった。手には何か本を持っているようだ。
 
「フレイアが浴室で待ってる」
 
「ああ、ごめんなさい!お妃様!」
 
 娘は慌ただしく走り、浴室へ入った。勿論、フレイアがやけに顔を赤らめていた理由など、彼女はわからない。
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