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第20話 不安の四肢が彼に触れたがる
しおりを挟む『掴みたくても掴めない不安は、幽霊のように人に取り憑くものだ』
ロスカは亡き父親の言葉を思い出した。
用事もないのに、何かに囁かれるようにして朝早く目覚めたのだ。かといって、白い光が差し込むことはない。
雪が降り続いているせいだ。彼は隣で眠るフレイアを起こさないように、そっと寝室から抜け出した。幼馴染の辺境伯と会ってから一週間が経つ。その時に溢れた黒いインクは、彼の中で今も尚四肢を広げたまま漂っている。
まだ目覚めていない浴室に向い、侍女も起こさずに冷たい水で顔を洗う。寝起きには十分、彼の肌を突き刺すような冷たさだったが心地よかった。
取り憑く不安から一瞬意識が削がれるからだ。
何度も何度も顔を濡らし、何を思ったのか彼は冷たい水が張った陶器の桶に顔を沈め込んだ。
きん、と一瞬で肌が凍る気がした。呼吸すらもあっという間に凍えるような感覚に襲われる。ロスカの淡い金色の髪は水の中に浸かっては、いつこの男が顔を上げるのか待った。そして三十秒も経たない頃、ロスカはようやく顔を上げた。
顔を荒々しく拭って、浴槽に腰掛ける。浴槽に水が入っていれば良かったのに。彼はそのまま足を滑らせて入り込みたかった。形にならない不安は幽霊のように、彼の後をついて回るのだ。水の中なら入れまい。
父親のようになりたくない、と願うくせに思考はすっかり父親のようになってしまったらしい。ロスカは鏡に映る自分を睨みながら、暫く考えた。
フレイアの声が出ない理由はなんなのだ、と。
考えても無駄なのはわかっている。本人に理由を聞けば良いではないか。そんなのもわかっている。
でも、どうしてか聞けないのだ。何が恐ろしいのだ。何を恐れるのだ、自分に言い聞かせても彼はフレイアの方に足先を向けることは出来なかった。出来なかったし、彼が最も恐れる物にも目を向ける事はできなかった。大きな穴が口を開けて自分を待っている気がするのだ。形にならない不安の次は大きな穴か。馬鹿げていると何度も思うが、大きな穴を覗く事も出来なかった。大きな穴は口を開けて、彼が覗いてくれるのを待っているというのに。それに、大きな穴が必ずしも彼に悪いものだとは決まっていないのに。勝手に、大きな穴は何か恐ろしい怪物の口だと考えているのだ。きっと。
では、いつから自分はこんな風に見えない不安に恐れるようになったのか。
濡れた髪を整えながら彼は考えた。だが、考えずとも答えはすぐに出る。彼がうっかり、フレイアに口づけをしてしまった日からだ。
彼の心臓を巣食う黒い蔦、そこに芽生えた緑色のものは日に日に大きく膨らんでは黒い蔦では押し込めなくなった。今まで感じ得なかったこそばゆさを、彼はどう扱えば良いのかわからないのだ。
寝入る前に、目を瞑ればあの日の驚いたフレイアの表情が浮かぶ。
それに、手にはしっかりと、彼女の肌の感覚も残っていた。自分よりも柔らかで、薄い肌だと思った。瞳は大きく、やはり満月のように丸い。満月が檸檬だとしたら、フレイアの瞳は紅茶と蜂蜜で漬けたような甘い満月だろう。時折、緑も混ざっているように見えたが、それはまるで永遠の春を持つ人間の印にも思えた。
四肢を広げる不安と、緑色の蕾にロスカはすっかり翻弄されている。
前日に侍女が用意をした服の袖に腕を通しては、自分の癖を悔いた。フレイアの瞳を、自分が殺めた子鹿と重ねてしまったことを。だって、ロスカは彼女には恐れられたくないのだ。胸にある緑色の蕾の存在を認めたくはないが、この気持ちだけは認めれた。恐ろしいと思って欲しくない。父親を、炎帝を恐れたように自分も恐ろしいと思って欲しくないのだ。
「国王陛下、お早いですね」
「目が覚めた」
廊下を出た所で近衛兵に声を掛けられる。太陽の頭が出てきたくらいだろうか、空は僅かに白んでいる。
「朝の天気が続けば、乗馬くらいは行けますかね」
「雪でも行けるだろう」
「我々が良くても、お妃様が危ないですよ」
確かにフレイアはとある夜、冬の間はあまり乗馬をさせてもらえなかったと教えてくれたのを思い出した。
『私の馬は臆病なのです。雪の粒が大きくなれば、驚いて言う事をきかなくなります。二度ほど、雪の日に外に出て転んだ事があります』
母親のみならず、父親にも酷く怒られたらしい。二度目の転倒から、フレイアは冬の間殆ど乗馬が出来なかったと言うのだ。
「昨日も馬屋に行って、ご自分の愛馬の毛並みをブラシで整えてました。私が触ろうとしても、触らせてくれませんでした」
「そうなのか?」
「お妃様が一番好きなようです。馬丁の言う事は聞きますが、まあ、多分洗濯係の女かその旦那の扱いが酷かったのでしょうね。
今はお妃以外に触られたくない、という気持ちじゃないですか」
彼の言う通り、フレイアの愛馬は馬屋ではない所に繋がれていた。
無理に馬屋から出されたのだろう、とロスカは推測した。事実、フレイアは自分が酷い目にあったのにも関わらず、翌日すぐに馬屋に向かったという。
「俺の馬と大違いだな」
ロスカの言葉に近衛兵は苦笑いをした。本人の認識の通り、彼の馬はロスカに慣れるまで随分な時間をかけたし、手荒くしたと言っても良いだろう。悲しいかな、馬が無くては生活するには難しかった。それに、彼は馬車が大嫌いだった。
「春になればお妃様を探しに、リスでもウサギでも来るかもしれませんね」
「皮肉か?」
「いいえ」
また一度、窓の外へ視線をやれば先程よりも空はほんのりと赤く染まってる。
白の混ざった薄ら赤い空だ。不安の間でロスカはふと願った。朝焼けのように、自分に巣食うものも全て居なくなれば良いのに、と。
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