20 / 61
第20話 不安の四肢が彼に触れたがる
しおりを挟む『掴みたくても掴めない不安は、幽霊のように人に取り憑くものだ』
ロスカは亡き父親の言葉を思い出した。
用事もないのに、何かに囁かれるようにして朝早く目覚めたのだ。かといって、白い光が差し込むことはない。
雪が降り続いているせいだ。彼は隣で眠るフレイアを起こさないように、そっと寝室から抜け出した。幼馴染の辺境伯と会ってから一週間が経つ。その時に溢れた黒いインクは、彼の中で今も尚四肢を広げたまま漂っている。
まだ目覚めていない浴室に向い、侍女も起こさずに冷たい水で顔を洗う。寝起きには十分、彼の肌を突き刺すような冷たさだったが心地よかった。
取り憑く不安から一瞬意識が削がれるからだ。
何度も何度も顔を濡らし、何を思ったのか彼は冷たい水が張った陶器の桶に顔を沈め込んだ。
きん、と一瞬で肌が凍る気がした。呼吸すらもあっという間に凍えるような感覚に襲われる。ロスカの淡い金色の髪は水の中に浸かっては、いつこの男が顔を上げるのか待った。そして三十秒も経たない頃、ロスカはようやく顔を上げた。
顔を荒々しく拭って、浴槽に腰掛ける。浴槽に水が入っていれば良かったのに。彼はそのまま足を滑らせて入り込みたかった。形にならない不安は幽霊のように、彼の後をついて回るのだ。水の中なら入れまい。
父親のようになりたくない、と願うくせに思考はすっかり父親のようになってしまったらしい。ロスカは鏡に映る自分を睨みながら、暫く考えた。
フレイアの声が出ない理由はなんなのだ、と。
考えても無駄なのはわかっている。本人に理由を聞けば良いではないか。そんなのもわかっている。
でも、どうしてか聞けないのだ。何が恐ろしいのだ。何を恐れるのだ、自分に言い聞かせても彼はフレイアの方に足先を向けることは出来なかった。出来なかったし、彼が最も恐れる物にも目を向ける事はできなかった。大きな穴が口を開けて自分を待っている気がするのだ。形にならない不安の次は大きな穴か。馬鹿げていると何度も思うが、大きな穴を覗く事も出来なかった。大きな穴は口を開けて、彼が覗いてくれるのを待っているというのに。それに、大きな穴が必ずしも彼に悪いものだとは決まっていないのに。勝手に、大きな穴は何か恐ろしい怪物の口だと考えているのだ。きっと。
では、いつから自分はこんな風に見えない不安に恐れるようになったのか。
濡れた髪を整えながら彼は考えた。だが、考えずとも答えはすぐに出る。彼がうっかり、フレイアに口づけをしてしまった日からだ。
彼の心臓を巣食う黒い蔦、そこに芽生えた緑色のものは日に日に大きく膨らんでは黒い蔦では押し込めなくなった。今まで感じ得なかったこそばゆさを、彼はどう扱えば良いのかわからないのだ。
寝入る前に、目を瞑ればあの日の驚いたフレイアの表情が浮かぶ。
それに、手にはしっかりと、彼女の肌の感覚も残っていた。自分よりも柔らかで、薄い肌だと思った。瞳は大きく、やはり満月のように丸い。満月が檸檬だとしたら、フレイアの瞳は紅茶と蜂蜜で漬けたような甘い満月だろう。時折、緑も混ざっているように見えたが、それはまるで永遠の春を持つ人間の印にも思えた。
四肢を広げる不安と、緑色の蕾にロスカはすっかり翻弄されている。
前日に侍女が用意をした服の袖に腕を通しては、自分の癖を悔いた。フレイアの瞳を、自分が殺めた子鹿と重ねてしまったことを。だって、ロスカは彼女には恐れられたくないのだ。胸にある緑色の蕾の存在を認めたくはないが、この気持ちだけは認めれた。恐ろしいと思って欲しくない。父親を、炎帝を恐れたように自分も恐ろしいと思って欲しくないのだ。
「国王陛下、お早いですね」
「目が覚めた」
廊下を出た所で近衛兵に声を掛けられる。太陽の頭が出てきたくらいだろうか、空は僅かに白んでいる。
「朝の天気が続けば、乗馬くらいは行けますかね」
「雪でも行けるだろう」
「我々が良くても、お妃様が危ないですよ」
確かにフレイアはとある夜、冬の間はあまり乗馬をさせてもらえなかったと教えてくれたのを思い出した。
『私の馬は臆病なのです。雪の粒が大きくなれば、驚いて言う事をきかなくなります。二度ほど、雪の日に外に出て転んだ事があります』
母親のみならず、父親にも酷く怒られたらしい。二度目の転倒から、フレイアは冬の間殆ど乗馬が出来なかったと言うのだ。
「昨日も馬屋に行って、ご自分の愛馬の毛並みをブラシで整えてました。私が触ろうとしても、触らせてくれませんでした」
「そうなのか?」
「お妃様が一番好きなようです。馬丁の言う事は聞きますが、まあ、多分洗濯係の女かその旦那の扱いが酷かったのでしょうね。
今はお妃以外に触られたくない、という気持ちじゃないですか」
彼の言う通り、フレイアの愛馬は馬屋ではない所に繋がれていた。
無理に馬屋から出されたのだろう、とロスカは推測した。事実、フレイアは自分が酷い目にあったのにも関わらず、翌日すぐに馬屋に向かったという。
「俺の馬と大違いだな」
ロスカの言葉に近衛兵は苦笑いをした。本人の認識の通り、彼の馬はロスカに慣れるまで随分な時間をかけたし、手荒くしたと言っても良いだろう。悲しいかな、馬が無くては生活するには難しかった。それに、彼は馬車が大嫌いだった。
「春になればお妃様を探しに、リスでもウサギでも来るかもしれませんね」
「皮肉か?」
「いいえ」
また一度、窓の外へ視線をやれば先程よりも空はほんのりと赤く染まってる。
白の混ざった薄ら赤い空だ。不安の間でロスカはふと願った。朝焼けのように、自分に巣食うものも全て居なくなれば良いのに、と。
0
お気に入りに追加
60
あなたにおすすめの小説
王子の片思いに気付いたので、悪役令嬢になって婚約破棄に協力しようとしてるのに、なぜ執着するんですか?
いりん
恋愛
婚約者の王子が好きだったが、
たまたま付き人と、
「婚約者のことが好きなわけじゃないー
王族なんて恋愛して結婚なんてできないだろう」
と話ながら切なそうに聖女を見つめている王子を見て、王子の片思いに気付いた。
私が悪役令嬢になれば、聖女と王子は結婚できるはず!と婚約破棄を目指してたのに…、
「僕と婚約破棄して、あいつと結婚するつもり?許さないよ」
なんで執着するんてすか??
策略家王子×天然令嬢の両片思いストーリー
基本的に悪い人が出てこないほのぼのした話です。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

その眼差しは凍てつく刃*冷たい婚約者にウンザリしてます*
音爽(ネソウ)
恋愛
義妹に優しく、婚約者の令嬢には極寒対応。
塩対応より下があるなんて……。
この婚約は間違っている?
*2021年7月完結

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる