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第15話 淡紫色の靄がかかる

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「フレイア」
 
 涙する彼女の背中に大きな手が添えられた。
ずっとそばに居てくれた侍女といつの間にか変わったのに、フレイアはロスカの手が添えられるまで気が付かなかった。
 
「椅子に座ろう」
 
 気が動転して落ち着かないのか、彼女は立ったまま泣いていた。
ロスカに促されてようやく、彼女は暖炉の前のソファーに腰掛けた。泣き止もうにも泣き止めないフレイアを、彼はただじっと、待った。事の顛末を聞こうと彼の手には紙とペンもあったが、今はその時ではないと理解した。臣下の言った通り、なるべく優しく、彼女の心に寄り添おうとしているのだ。
 
「・・・恐かったな」
 
 幼い頃の自分をロスカは思い出した。
初めて、父親への敵意を自分へ向けられた時の事である。後ろから突然、殴られたのだ。
 
 『悪魔の息子め!!!』
 
 自分は何もしていないのに。
そんな事は相手には伝わらなかった。一度や二度ではない出来事に、次第に彼は父親のように他人を疑うことを学び始めた。握手は他人と交わさない。握られたまま腕を引き寄せられたら、短剣で刺されるかもしれない。そうではなくとも、相手ごと一緒に貫かれるかもしれない。
 だから、抱擁などもっての他だと。信頼した人間以外、駄目だ。そう、自分にずっと言い聞かせてきたのだ。なのに、どうしてかフレイアの抱擁は予想出来なかった。出来なかったし、そのまま受け入れてしまったのだ。
あまつさえ、口づけすらしてしまった。驚いた彼女の顔が彼の頭の中に浮かび上がる。今は思い出している場合ではない、とそれをかき消すようにロスカは言葉を紡ぎ続けた。
 
「俺の父親への恨みだった。王位を継ぐ前に、ここで働く人間を整理したつもりだったが、まだ居たらしい」
 
 フレイアは顔を俯かせたまま、ロスカの話を聞いた。
もう泣きまいと涙を堪えるも、膝の上に乗せた手に涙が何度も落ちる。
 
「彼らには推薦状を出して、出て行ってもらった。暫くは、侍女長と臣下以外からの伝達は聞かないようにしてくれ。馬屋に行く時も必ず、近衛兵と一緒に」
 
 その言葉に彼女は、また、ロスカの方を向かないまま頷いた。
彼は彼女の姿を頭から、手元まで凝視した。目を見て反応しなかったのが不愉快だったのかもしれない。
 
「こっちを向け、フレイア」
 
 気をつけたつもりが、声に棘が宿ってしまった。
もう少し優しく言えなかったのか、と後悔するも今更である。彼女は涙を慌てて拭ってから、彼の方へ顔を向けた。
濡れた睫毛を上下させ、ロスカを見つめる瞳はまだ潤んでいる。事実、フレイアの瞳にうつった自分を彼は上手く捉えられなかった。
そしてうっかりした事に、考えないようにしていた口づけの事を思い出してしまった。泣いている彼女の感情は露知らず、ロスカは自分の中に湧いた感情をどう処理すべきかわからなくなった。しかし、こちらへ顔を向かせた手前、無視するのは出来ない。
 
「俺の話がわかったか?」
 
 目を逸らさせないように、ロスカは彼女の膝の上にある手を握った。
その問いに、フレイアは黙って、彼の瞳を見つめながら頷いた。涙を流されるのは好ましくないものの、潤んだ瞳を見つめていると何だかくすぐったくなった。白い羽で胸の底をくすぐられているような感覚になるのだ。その正体は彼女の涙を拭ったところで見えないが、ロスカは見えそうな気がした。
 
 目尻の方に親指の腹を這わせ、涙を拭う。
勿論、答えは出ない。反射で瞼を閉じたフレイアだったが、その仕草がロスカの胸をくすぐったのは知るまい。
人差し指を折り曲げ、涙の跡を辿るようになぞる。そして、そのまま親指の腹で何度も彼女の濡れた頬を撫でた。自分の指の温度のせいなのかわからないが、なんとなく頬が熱い気がした。それも気にせず、もう一度目尻に溜まった涙を拭おうとすると、フレイアに距離を取られてしまった。

 遠慮がちにこちらを見つめる彼女の濡れたまつ毛は、小さくに揺れている。
そのまつ毛の下、頬は赤く染まっていた。こんな反応をされるなんて。ロスカは慌てて手を下ろして、わざとらしく咳払いをした。

「悪いが、また夕食の時に。何かあれば侍女長を呼んでくれ」

 ペンと紙をローテーブルに置いて、彼は足早に立ち去る。
残されたフレイアは謝罪の言葉を書く間も無く、一人にされてしまった。
暖炉のない廊下に出ると、彼の頬に冷気が爪を立てる。部屋が暖かすぎたのか。違うだろう。
頬を赤らめたのは彼女だけではなく、ロスカもだったのだ。あんな風に頬を染められるなんて想像もしなかった。
 
 頬を染めた彼女に指を置いていたから、指を通して自分の頬も熱くなったのだろうか。そうであればどんなに良かった事か。
ロスカは心臓に巣食う黒い蔦の隙間から、緑色の幼い芽が芽吹いた気がした。
 
 むず痒い、こそばゆい感覚だ。
この感覚を落ち着かせようとしても上手くいかない。なぜなら、何度も何度も頬を染めたフレイアの顔を思い出してしまうのだ。頭から払おうにも払えない。
それだけではない、森の中で抱きしめられた事も、口付けしてしまった事も全てが鮮明に思い出されるのだ。こんな風になるとは想像していなかった彼は握りめた手で、眉間の間をこつこつと叩く。勿論、叩いてもその時の感覚は薄まらることは無かった。

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