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第7話 小さな心臓、鈍い心臓 ※動物虐待の描写があります

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※鹿を殺める描写があります。苦手な方は「彼らは足が速い」というセリフ以降はスクロールし文末まで飛ばされる事をおすすめします。
『ロスカ様』という台詞以降には殺める描写はありません。





 フレイアの輿入れまでそう遠くない今日、ロスカはたった2人の従者を引き連れて彼女の家を訪ねた。

例年なら降り始める雪が今年はまだ降り始めていない。このままでは太陽が寝入り始め、一日中薄暗くなってしまう。
それでも、今日だけはよく晴れていた。きん、と澄んだ冷たい空気がフレイアの頬に触れる。
 寒いのが嫌でなければ、とロスカに誘われ彼女は今彼と青空の下を歩いているのだ。しかし、彼の従者2人と馬2頭が離れてついてきているので、違うと言えば違うが。
 
 石畳とぶつかる蹄鉄の音が後ろから響く。
畑を耕す農民も、家の庭でくつろぐ人もいない。ついこの間まで黄金色の葉をつけていた木々は、あっという間にそれを脱いでしまった。
 
「元気そうで良かった」
 
 道の両端にある木々を眺めていたフレイアは、ロスカの方へ顔を向ける。
自分より背の高い彼を見上げては、少し恥ずかしそうに微笑んでみせた。すると、ロスカも相槌を打つように唇の左右をあげてみせてくれた。陛下のおかげです、と言えれば良いのだが、今の彼女には出来ない。
 
「・・・輿入れの頃には多分雪が降っているだろう。今のうちに外を歩こうと思ったんだ」
 
 長い冬がこの国に鎮座する前に。

外を歩きたいと思っていたのは本当である。何より、ロスカは彼女と会話もせず、会話などできないが、フレイアを迎えるのはおかしいのではないかと思ったのだ。また、もう一度くらい彼女の顔を見たかった。
 彼が記憶した通り、フレイアの瞳は満月のように丸く、鼻は小さく愛らしかった。話せない彼女に気を遣わせないように、言葉を紡ごうとした時である。彼は拳を握って片手を上げた。後ろに続いていた蹄鉄の音は直ちに停止する。兵士達もフレイアも一瞬、緊張感に包まれたがすぐに脱力する。ロスカの指差す先に見えたものは可愛らしい動物であった。
 
「子鹿たちだ」
 
 フレイアは彼に言われるまで全く気が付かなかった。
蹄鉄の音の中、子鹿の小さな足音を聞きつけるなんて。随分耳が良いのだわ、といたく感心した。
兄弟なのだろうか、三匹の子鹿は動かない人間を横目に、足早に石畳の道を越えて反対側の森の方へ入っていく。

 姿が見えなくなり、歩き出そうとしたがロスカは歩き出さなかった。
彼の服を引っ張るのも無礼かもしれない。腕に触れようとした手を引っ込めて、フレイアは彼の顔を覗き込んだ。遠慮がちに顔を覗き込めば、彼は何事もなかったように再び歩き出した。

 でも、フレイアの心には雲がかかり始めてしまった。

 ざわざわと、ちくちくするような雲だ。そんな雲が彼女の心臓の底に腰を据える。森の奥からフレイアに視線を移した時のロスカの眼差しが恐ろしく思えたのだ。視線の送り方の問題かもしれない。そうであってほしい。
 
 そう思ったが、彼の瞳にかかった力の強さに驚いた。
力の強さと言うべきか、灯りというべきか。いずれにせよ、彼の瞳に浮かんだ感情は喜びで嬉しさでもなかった。
森で最初に出会った兵士達のような、肉欲的な眼差しでもない。なんと表現すべきか、フレイアは思いつかない。
ただ確かなのは、見つめ続けるには恐ろしい瞳であるという事である。

 ぱちり、と目と目が合うロスカはすぐに瞬きをした。
長くはないが、彼の長短の揃った睫毛が降りる。そして、開かれた瞳の底には先ほどの力強さはない。たったそれだけなのに、フレイアはなんだか不安になった。恋する乙女のように胸は高鳴らず、低く強く心臓が鳴った。
 
「彼らは足が速い」
 
 ロスカの言葉に彼女は首を縦にふった。自分の中の雲を払うように。

きっと、気のせいだわ。
 
 でも、フレイアに言えようか。本当は子鹿を追い詰めて殺めた時のことを思い出していた、なんて。
亡命生活の長い間、彼は人々から存在を忘れてもらう必要があった。行方をくらまし、存在を気づかれないようにする必要があったのだ。幼い子どもならではの活発さは消化するのは不可能で、彼は不満を溜め込んでいった。

そしてその不満が、消化し得なかった活発さが悪い方に動いてしまったのだ。

数年ぶりに祖国に戻り、首都を越え北の方へ北上した頃。彼は初めて年の近い友人に恵まれる。友人らと白銀の野原を走り回ったり、犬ぞりで遊んだり。内乱の終わりという事もあり、ロスカにしてみればようやく子どもらしい時を過ごせる時間であった。
 
 『競争しよう、誰が子鹿を捕まえれるか』
 
 ある日のことである。
わんぱくな友人の提案にロスカを含む4人が同意した。罠を仕掛け、子鹿を捕まえてくるという遊びであった。
 幼いロスカは負ける気がしなかった。亡命生活で彼は臣下から狩猟の行い方も、火のくべ方も、全て教わっていたのだ。それに、実際に動物を捕らえ食事にする事もあったのだ。

 ロスカは得意気に駆け出し、匂いを消した罠を仕掛けた。罠にかかるまで、雪化粧を済ました茂みに隠れじっとした。
息を潜めしばらくすると、子鹿は捕まった。まだ小さく、親鹿と逸れたようであった。子鹿はひどく暴れ、足にかかった罠から抜け出そうと必死に動き回った。落ち着かせようと、持っていた布で目を覆うにも上手くいかない。子鹿が強く首を左右に振るからだ。

 ロスカが苛立ったように、子鹿も苛立っていたようで、ガブリ、と手を噛まれてしまう。幸い分厚い手袋をしていた為怪我をしなかったが、彼が腹を立てるには十分であった。彼はそのまま力任せに子鹿を太い木に足で突き飛ばした。

一度で治れば良かったものの、彼は湧き上がる苛立ちの抑え方がわからなかった。燃え盛った炎が燃え続けるように、ロスカは苛立ちが治るまで何度も何度もそれを繰り返した。始めこそは抵抗していた子鹿も、次第に弱り、目の前の人間に怯え始めた。
親鹿を呼んでいるのか、か弱く鳴き出した。倒れる度に罠でかかった足を引っ張り、無理矢理立たせたては蹴り飛ばした。子鹿の足首からは血が滲み、最後には起き上がれなくなってしまった。
 
 『おい、起きろよ』
 
 子鹿の足を再度引っ張るも、起き上がらない。
それが鈍く瞬きをした後、二度と瞼が下がることはなかった。そこでようやく、ロスカは自分の成した事に気がついたのだ。
いたずらに動物を殺めてしまった。白い息が短く上へと上がっては消えていき、彼は暫し呆然とした。手袋を外し、子鹿の口元に手を持っていくが吐息は感じられない。
 
 『ロスカ様』
 
 聞き慣れた声に呼ばれ、振り返ると彼を心配した臣下がいた。
臣下は足元にある子鹿を見て、すぐに理解をした。殺めてしまったのだ、と。

 その後のことはいまいちよく覚えていなかった。泣きながら臣下と一緒に、子鹿を深い雪の中へ埋めたことだけは確かであった。
だから、彼がフレイアにこう言葉を紡いだのは不思議では無いのだ。
 
「俺は動物に好かれない」
 
 その理由を聞くべく、彼女は首を傾げたが答えは教えてもらえなかった。
 
 
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