ありそうでない話

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『待たせてごめん』

 店の入り口でマネージャーと従業員に恭しくお辞儀をされながら哲也が店を出ると、着替え終えた光輝が立って待っていた。

ダッフルコートにジーンズ、スニーカーというカジュアルなその姿は、さきほどの胸元の開いた妙にケバケバしいYシャツよりはずっと似合って見えた。

『いえ……。タクシーは……』
『うん、断った。ちょっと歩かない? 行きたいとこあって』
『……分かりました』
『その前に、本名教えてくれる? 俺は小牧哲也』
『……でも……』
『もう「光輝」じゃないから』
『……え?』
『あそこで働かなくていいから』
『……どういう意味ですか?』

 哲也は自分が借金を肩代わりしたことを簡単に説明した。その説明を聞くにつれ、目の前の彼の顔が困惑と驚きが混ざったような表情に変わっていった。

『待って下さいっ。何で……』
『俺もよく分かんないんだよね。なんか、全然楽しそうじゃなかったからさ』
『…………』
『それに、あそこ、借金返してもきっと解放してくれなかったと思うよ』

 おそらく、店側からしたらいい金づるが入ってきたと思っていただろう。この容姿で、性格も素直なようだし。一番人気だったところをみると、かなりの儲けを上げていたに違いない。

 それのほとんどをなんやかんやで店側が取って、この子の借金返済などほとんどされてなかっただろう。何年もかけて借金をようやく返し終わったころにはどっぷりこの世界に浸かっていて、逃げるにも逃げられない状態になっていた可能性が大きい。

 借金を肩代わりする申し入れをしたとき、マネージャーが随分渋ったのがその証拠だ。結局哲也は借金の倍近くの額を払うことで交渉成立させたのだが、そのことはこの子に伝える気はなかった。

『まだ若いんだし。自分の好きなことしたらどう?』
『あの……』
『なに?』
『まず、その……ありがとうございました』

 そう言って、彼は深々と頭を下げた。それから顔を上げて、哲也を真っ直ぐに見つめた。

『立て替えて頂いたお金は必ず返します。あの……どんなことでもしますから』
『…………』

 その言い方が気にくわなかった。と、同時にこの目の前の青年がとても気の毒に思えた。素直に好意として受け取れないほど、今まで色々なことがあったのだろう。けれど、その見返りに何かを求めるやらしいおっさんたちと一緒にはされたくなかった。

『別に何もしてくれなくていいけど』
『…………』
『もし、金を返したい、と思ってくれてるんだったら、じゃあ普通に働いて返して』
『でも……』
『あのさぁ。もしヤりたいだけだったら、持ち帰りでも出張サービスでもすればいいだけじゃん? 別に借金肩代わりしなくてもいいじゃん?』
『…………』
『そこから、酌み取ってくれない?』

 泣きそうな顔で俯いてしまった彼に向けて、哲也はふうっ、と溜息を吐いた。

『じゃあ、こうしない?』

 そう言うと、彼はゆっくりと顔を上げて哲也を見た。

『たぶん、行くところもないんだろ? だったら、とりあえず俺の家に来なよ。で、住むとこの金が貯まるまで、バイトでもなんでもしながらうちで家事してよ。それなら、ギブアンドテイクになるでしょ?』

 どう?と哲也が笑いかけると、じっと哲也を見つめていた彼がゆっくりと頷いた。

『じゃあ、交渉成立ね。で、名前は?』
『……真野陸です』
『陸くん?そっか……いい名前だね』

 そう言うと、陸は泣きそうな顔のまま微かに笑った。それが、哲也の初めて見た陸の笑顔だった。
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