ありそうでない話

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「社長?」

 後ろから社員に声をかけられて、我に返る。

「大丈夫ですか?あの、一通り報告が終わりました」
「……分かった、今行く」

 とりあえず仕事に集中しよう。考えるのはその後だ。哲也は手にした携帯の電源を切ると、再び会議室へと足を向けた。

 結局その日はかろうじて仕事に集中していたものの、どこかで陸のことが頭から離れなかった。栗原から聞いたことが予想以上に哲也を揺さぶっていた。

 狡いもので。あんなに無事でいてくれたらいいと願っていたのに。男と一緒だったと聞いただけで、舌打ちしたくなる自分がいた。

 マンションの駐車場に車を停めて、エントランスへと向かう。いつも通りエレベーターで目的の階まで行き、自分の部屋へと歩を進めた。解錠して中に入る。真っ暗だった。

 哲也は玄関で立ったままその暗闇を見つめた。慣れてきたはずなのに。少し前までここには、明るい光が灯っていて。扉を開ける音で、急ぎ足で嬉しそうに迎えてくれる顔があって。それが今夜は苦しいぐらいに恋しい。

『おかえり』
『ただいま』

 当たり前に交わせた挨拶も、1人じゃできない。

 大きな溜息を吐いて、玄関を上がった。電気を点けてリビングへと向かう。ソファに鞄を投げ置いて、キッチンへと入った。

 手慣れた動きでインスタントラーメンを取り出すと、ケトルでお湯を沸かす。外食以外はいつもレトルトやインスタントばかりになった。

 陸と出会う前の自分に戻ったかのようだった。ふとキッチンの流し台に目を向けると、大切に使い込まれた調理器具たちが、持ち主の帰りをじっと待っていた。この調理器具も、陸と出会ってすぐ2人で買いに行ったものだった。

嬉しそうに器具を選ぶ陸の顔を思い出す。あの時。確かに自分たちは幸せだった。

『このまま一緒に暮らそう』

 そう陸に言った時。陸は目を少し見開いたまま哲也の顔を凝視していた。何も言わずにじっと哲也を見つめていたその瞳からやがてゆっくりと涙が流れた。哲也はその涙に妙に焦ったのを覚えている。

『いや、あの、嫌だったら、別で暮らしてもいいんだけど……』

 すると、ぶんぶんと陸が頭を振って、そのまま哲也の胸に飛び込んできた。

『ありがとう』

 小さく呟いて。
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