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This is the moment ①

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 温かいしずくが絶え間なく頭上から降り注いで、顔を優しくたたく。水の玉が、筋を作って体を滑り落ちていく感触に目をつむって集中した。

 その感触が心地よくて、しばらくたたずんで水の膜に包まれた。途切れることのない流れに、寂しい気持ちや、迷う気持ち、そんな今の晃良を悩ませている感情が一緒に流れ去ってくれるような気がした。ほんの一瞬でも。

「晃良くん?」

 名前を呼ばれて、はっと目を開けた。浴室の扉に遠慮気味に立つ、尚人の影が見えた。

「尚人?」
「大丈夫?」
「何が?」
「何って、ずっと風呂から出てこないから」
「……ずっと?」
「うん。もう12時。1時間ぐらい経ってるよ」
「え?? マジで? すぐ出る」

 晃良は急いでシャワーの栓を止めると、浴槽の湯を抜いた。入浴が最後になったときはいつもするように、風呂場を簡単に掃除する。

 体を拭いて、寝間着代わりのTシャツと短パンを身につけると浴室を出た。リビングへ向かうと、尚人と涼がソファに座ってテレビを見ていた。晃良が入ってきた気配に気づいて一斉に振り返る。

「長風呂だったな、晃良くん」
「ん、ぼーっとしてたら時間経ってた」
「晃良くんが長風呂なんて珍しいから心配した。溺れてんのかと思って」
「溺れるわけないだろ、風呂で」
「そんなことないよ。たまにあるらしいよ、そういう事故。酔っ払ったりとかして水槽で寝落ちして、そのまま溺れるやつ」
「そんなのあんの?」
「あるよ。だから、風呂で寝落ちは気をつけないと」
「寝落ちしてたわけじゃないけど……気をつける」

 尚人は、晃良の母親かと思うことが時々ある。普段は甘えてくることが多いが、ちょっとしたときにしっかりした面が顔を見せるのだ。世話焼きでけっこう心配性。そうすると、涼はなんだろう? と考える。弟とか、子供とか、そんな感じだろうか? 晃良には遠慮なく甘えたりねたりしてくるし。けれども、そこにちゃんと晃良を尊重してくれる配慮もある。

 そんなことを考えながら、一緒にソファに腰かけた。目の前には、新調した(以前黒崎が勝手にお隣の斉藤さんにテーブルを譲ってしまったため)コーヒーテーブルがあった。ちなみに黒崎がこれまた勝手に買ってきたコタツは、さすがに季節外れなので今は収納場所に保管されている。尚人が何も言わずにミネラルウォーターの入ったグラスをテーブルに置いてくれた。

「ありがとう、オフクロ」
「え? 何言ってんの? 晃良くん」
「いや、尚人って母親みたいだから、時々」
「……それって褒め言葉?」
「そう」
「晃良くん、これ美味いよ、食べてみて」

 そう言って、涼が半ば強制的に煎餅を押しつけてきた。

「俺、もう歯磨きしたんだけど」
「またしたらいいじゃん」
「だけど……」
「晃良くん、ほんとに美味いよ?? これ逃したら絶対後悔するから、今、食べて!」
「はあ……わかった」

 やっぱり、涼は位置的に子供か弟だな。そう思いつつ、涼の我儘わがままにも近い押しに応えて煎餅をかじる。

「美味いな」
「だろ?」

 満足げに笑う涼を見て、晃良も微笑む。もう何年も続いている、いつもの3人の時間。家族みたいな2人とこのまま変わらず過ごしていくのだと10ヶ月前の自分なら思っていた。
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