水の流れるところ

文字の大きさ
上 下
11 / 73

発作

しおりを挟む
 ふいに、心がざわついた。その身に覚えのある感覚に、誉の体が微かに震え出す。

ヤバい。

 自分に何度も言い聞かせて、もうとっくに諦めているはずなのに。その諦めたモノを必死で求めようとするように、時々こうして誉を襲う発作。

 苦しい。寂しい。だれか。だれか助けて。救い出して。

 誉の意志とは裏腹に、心が叫び出す。

 弾けるように、商店街から駆け出した。水たまりから逃げるように。

 スピードを上げて、息を切らしながら、込み上げてくる強い感情を必死に抑えて走る。数分で自宅マンションのエントランスまで辿たどり着いた。震える手でオートロックを解除し、中へと入る。エレベーターに飛び乗ると、目的の階数ボタンを連打した。誉の焦る気持ちをあざ笑うかのように、エレベーターは気怠そうなうなり声を上げ、のっそりと動き出した。

 早く着いてくれ。

 乱れた呼吸で願う。自分の家に着けば。自分の気配に囲まれた部屋に入れば。この発作も収まるはずだ。

 がくん、と軽い振動と共にエレベーターが停止した。すっと音もなく扉が開く。扉が開き終わらない内に無理やり外に出て、早足に自宅の玄関に向かった。

 がちゃがちゃと乱れた音を立てながら鍵を取り出し、開錠する。勢いよく扉を開き、靴を脱ぎ捨て浴室へと直行した。

 洗面所の蛇口を捻って冷水を出した。勢いよく水が流れ出す。その水で一心不乱に顔を洗った。何度も何度も。繰り返し、ひたすら顔を両手で擦った。

 もう何年もこの発作に悩まされてきた。最初に起きたのは、上京して一人暮らしを始めてすぐだった。自分がおかしくなってしまったのかと思った。息が苦しくなって呼吸ができない。動悸どうきがして、不安だけが膨れていく。ただ怖くて、ひたすら収まってくれるのを待った。

 病気なのかもしれない。そう思ったが、病院に通う金はなかった。だから起きる度に必死に耐えた。家にいる時は布団にくるまり、外にいる時は人の迷惑にならないところで座り込んだ。収まるまで時間はかかったが、それでなんとかやり過ごしていた。

 そんなことを繰り返している内に、発作が起きるのは、母親のことを思い出した直後だと気づいた。優しい笑った顔ではなくて、かつて誉を激しく罵る時に見せた、悪魔のような醜い顔。しかもそれは決まって、波を連想させる水場を目にした時だった。

 ある日、自宅の浴室で発作が起こった時。なんでもいいから気を紛らわせたくて、蛇口から水を勢いよく出し、その水で顔を洗った。すると、すっとすぐに発作が収まった。不思議な感覚だった。

 その因果はよくわからなかったが、それからは発作が起きると、とにかく母親の気配が届かないところへ逃げて、母親の存在を消すような気持ちで顔を洗うようになった。

「水」がトリガーになるくせに、「水」で救われる。どうにも妙な現象だったが、これが発作から早く逃げられる唯一の方法だった。やっかいなのは、条件がそろっても必ず発作が起こるとは限らないことだった。警戒が緩んだ頃にふとやってくる。水場を全て避けられるわけではないし、生活のためには、いつ起こるかはわからない発作にびくびくして家に籠もるわけにもいかない。だから、この方法でだましだまし過ごすしかなかった。

 発作の原因はわかっていた。でも気づかないフリをした。原因を解決することは、不可能だったからだ。どれだけ求めても。それを諦めてしまった自分には、こんな汚い自分には、もう手に入らないモノだから。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

熱中症

こじらせた処女
BL
会社で熱中症になってしまった木野瀬 遼(きのせ りょう)(26)は、同居人で恋人でもある八瀬希一(やせ きいち)(29)に迎えに来てもらおうと電話するが…?

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

(…二度と浮気なんてさせない)

らぷた
BL
「もういい、浮気してやる!!」 愛されてる自信がない受けと、秘密を抱えた攻めのお話。 美形クール攻め×天然受け。 隙間時間にどうぞ!

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

告白ゲームの攻略対象にされたので面倒くさい奴になって嫌われることにした

雨宮里玖
BL
《あらすじ》 昼休みに乃木は、イケメン三人の話に聞き耳を立てていた。そこで「それぞれが最初にぶつかった奴を口説いて告白する。それで一番早く告白オッケーもらえた奴が勝ち」という告白ゲームをする話を聞いた。 その直後、乃木は三人のうちで一番のモテ男・早坂とぶつかってしまった。 その日の放課後から早坂は乃木にぐいぐい近づいてきて——。 早坂(18)モッテモテのイケメン帰国子女。勉強運動なんでもできる。物静か。 乃木(18)普通の高校三年生。 波田野(17)早坂の友人。 蓑島(17)早坂の友人。 石井(18)乃木の友人。

しのぶ想いは夏夜にさざめく

叶けい
BL
看護師の片倉瑠維は、心臓外科医の世良貴之に片想い中。 玉砕覚悟で告白し、見事に振られてから一ヶ月。約束したつもりだった花火大会をすっぽかされ内心へこんでいた瑠維の元に、驚きの噂が聞こえてきた。 世良先生が、アメリカ研修に行ってしまう? その後、ショックを受ける瑠維にまで異動の辞令が。 『……一回しか言わないから、よく聞けよ』 世良先生の哀しい過去と、瑠維への本当の想い。

処理中です...