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第20話
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「阿部君?」
「……」
「あ、べ、く、ん?」
「……」
「トラゾウは起きてないよ。明智君は元気だし」
「……、本当ですか?」
「うん。だからもう少しお肉を焼いてくれるかい? 私と明智君は、トラゾウが気持ちよく起きられるようにマッサージをするから」
「任しといてください。でも、できるだけ私から離れた所でしてくださいね」
「う、うん」
このアジトにいる生物の中でダントツで一番年下のトラゾウに対して、我々怪盗団の3人は計り知れない恐怖を感じながらも、心のこもった接待の準備を開始した。準備と言っても、すでに心地良いマッサージは始まっているのだけれど。
だがしかし、マッサージは逆効果かもしれない。冷静に考えれば、起きている人を眠らせることはあっても、眠っている人を起こすのは至難の業だろう。
ビビっていると言われれば反論はできないが、いくら一度はトラゾウを屈服させたとはいえ、再び同じようにできる保証なんてないのだ。なので心のどこかで、トラゾウを起こすのを少しでも遅らせようと思っているのは否定できないだろう。
それは、私だけでなく、明智君も阿部君も同じ考えだ。なぜなら二人とも、マッサージされてそんな簡単に起きるわけないと、バカにしたような目で私を見ているのに、口には出せないでいるのだから。
言い訳をダラダラして心の準備もできてきたので、本意ではないがトラゾウを起こす方向に気持ちが傾いてきたかもしれない。阿部君と明智君に念の為に同意を求めると、二人はあからさまに素早く目を逸らした。それは一種の責任逃れのように見えなくもないけど、前向きではないという意思表示なだけで、否定をしなかったのが答えだ。
私は意を決して起こす決断を下した。
だけど、起こす方法が全く思い浮かばない。それは、どうしたら起きるではなく、どうしたらトラゾウは気持ちよくすこぶる快適に幸せを噛み締めながら起きてくれるかが分からないのだ。
ただ起こせばいいのなら、力いっぱい叩けば起きるが、その方法を取るなら残酷だけど起きても反抗できないような状態にしないといけなくなる。しかし、それは私の、いや私たち善良なる怪盗団のやり方にそぐわない。
優しく揺り動かして起こすしかないようだ。その結果、私たちがこの世とおさらばしたとしても、地獄ではなく天国に行くのは間違いないだろう。私たち心のきれいな怪盗団は恐いものなしだと気づいたところで、トラゾウを軽く揺すってあげた。
トラゾウ、信じているよ。起こされて機嫌が悪かったとしても、せいぜい明智君にじゃれるように甘噛みする程度だと。
軽く揺さぶったくらいでは、トラゾウは起きなかった。私を根性なしと蔑んでいるのか安心しているのか読み取れない表情で、明智君と阿部君が無言で見つめている。
もう一度、同じ力加減でトラゾウを揺さぶった。結果は変わらない。バックパックからずり出た時に比べたら、そよ風程度の振動なのだから、当然と言えば当然だな。
今度こそ腹を決めようと決意したその時、緊張感に耐えられなかったのか明智君が特大音量のくしゃみをしてしまった。私がまず思ったのは、明智君は緊張から解放されて安心した時だけではなく、緊張中もくしゃみが出る、いや明智君のくしゃみに法則なんてないのだな、だった。私はなんて余裕があるのだろう。
今度はトラゾウから3メートルも離れていた事に気づいたのは、そのすぐ後だった。私が3メートルも逃げたのだから、明智君ですら2メートルは逃げたと思ったのに、なんと明智君はトラゾウの目と鼻の先で身構えていたのだ。
ただこれは、明智君の度胸に驚くところではない。なぜなら阿部君が結構長尺のサスマタを使って、明智君が下がるどころか逆に前に押し、抑えつけていたのだから。私の部屋兼アジトにサスマタなんてあっただろうか? それにサスマタを使用するのは、警察のような捕まえる側であって、怪盗のような存在はどちらかと言えば使用される側のはず。
いやいや、今はそんな事はどうでもいい。直視しないといけない事があるじゃないか。
そう、トラゾウだ。
トラゾウは……起きている。
私は明智君の無事を祈りつつ、それ以上に私の方へトラゾウが振り向かないように願った。私をなんて卑怯で自分勝手な奴だと思いたければ思えばいいさ。
でも、一応説明させてほしい。私は、いや私たちは大事な事を忘れてしまっていたのだ。トラゾウが恐れた、トラの覆面を被った一人とトラの覆面を被った一頭と変なロボットのお面を付けた一人が、今ここに誰もいない事を。
せめて私だけでもとお面を探したが、外した時に確かバックパックにぶら下げていたはずなのに、見当たらないということは、帰ってくる途中で落としたに違いない。絶体絶命という状況が安全であるはずのこのアジトで起こるなんて、誰が想像しただろうか。
そうは言っても、私は強靭な精神力を持っているので、ほんの少しだけ開き直り、阿部君と明智君を見た。二人とも自分たちが素顔だったことに、今さら気づいたような顔をしている。やはりお互いの顔を見て気づいたのだろう。もちろん私の想像だけど、案外当たっているかもしれないな。
と、いろいろ考えていたが、いつまでも肝心なものから目を逸らしていてはいけないようだ。
一つ安心したのは、トラゾウは起きただけで暴れるわけでも喚き散らすわけでもなく、おとなしくじっとしてくれていることだ。私の位置からはトラゾウの顔が見えないのでなんとも言えないが、期待を込めてトラゾウの機嫌は悪くないということにしておこう。
だけど、ここからどうすればいいんだ? 頼れるのは、この中で生物としても距離も一番近い明智君だけだと思って、再び私は明智君に目を向けた。
な、なんと、私は初めてのものを見てしまったのだ。明智君が、いや、犬という生物があからさまなゴマすりをしている姿を。両前足で揉み手をし、阿部君が焼いていたホットプレートの上の肉の方を指差し、案内する気満々だ。
阿部君がサスマタで抑えていなかったなら、すぐにでも連れていっただろう。しかし阿部君の考えでは、トラゾウが肉の方へ来るのではなく、肉をトラゾウの方へ運びたいようだ。もちろん運ぶのは、明智君か私だけど。
本来なら、阿部君はいつでも逃げられる玄関側にいたかったけれど、トラゾウを背負った私が玄関にいたのだから、できるだけ奥に逃げるしかなかったのだ。なのにトラゾウが奥に進んだら、阿部君のスペースは狭くなり、逃げるのが困難となってしまう。いざとなれば、奥は壁ではなくガラス戸なのでそれを開ければ簡単に逃げられるが、ガラス戸なのでトラゾウはお構いなしに突進して阿部君を追撃するかもしれない。
阿部君の気持ちは痛いほど分かるが、せっかくトラゾウがおとなしくしているのだから、私は明智君の考えに賛成だ。
「阿部君、明智君はトラゾウをホットプレートの所に連れていきたいんじゃないかな?」
「そう見えますけど、それは……。リーダーがこの肉を、トラゾウの前まで持っていってくれませんか?」
やはりそうか。だけど、ここで素直に「はい分かりました」とは言い難いぞ。
「うーん、明智君、トラゾウはどっちが喜ぶと思う?」
「ワンワワンワッワーン。ワワーン」
「ガオーン、ガガッガオー、ガオン」
明智君は自分の考えをジェスチャーを交えて説明してくれたが、当然私には理解できなかった。それでも、トラゾウが明智君に何か答えたのは分かったぞ。
「明智君、トラゾウと話せるのかい?」
「ワワン」
「阿部君、私では明智君が言いたい事が分からない。とりあえず、そのサスマタを外して、明智君が振り向けるようにしてやってくれないか? そうすれば、阿部君は明智君の表情とジェスチャーで会話ができるだろ?」
「そ、そうですね。もしトラゾウが暴れたら、明智君とリーダーでなんとかしてくださいね」
「あ、ああ」
不思議なことに、明智君の表情も態度も普段の明智君に戻っている。トラゾウとの短い会話が、よっぽど明智君を安心させたのだろうか。トラゾウとの初対面の時は今にも食べられそうな感じだったとはいえ、実際に何か危害を加えられたわけではなかったし。
白シカ組組長宅にいる間も、たまたま私たちが忍び込んだ日は晩ごはんがないと言われてキレていただけで、普段は一般的な猫のように家の中を自由に歩き回っていても組長は平気だったのだろう。その証拠に、あのトラゾウの部屋には檻や鎖なんかもなく、襖で区切られていただけだ。
トラゾウはキレさせなかったら、何も恐れることなんてないのかもしれない。誰だって前触れもなしに晩ごはん抜きだなんて言われたら、キレるのは当然だ。もし私が明智君に同じ事を言ったなら、明智君は私をヘッドロックして壁に叩きつけるに決まっている。
私が俯いて一人黙考している間に、阿部君と明智君とトラゾウの会話がはかどっていたのか確かめようと顔を上げると、ホットプレートの置かれたローテーブルを挟んで、阿部君と明智君の向かいにトラゾウが収まっていた。
「リーダー、いつまでもそんな所に突っ立ってないで、一緒に食べましょ」「ワン!」「ガオー!」
驚かない。驚くわけがない。私はすっかり耐性ができている。当たり前に、私は空いている席についた。そう、トラゾウの横に。
恐くない恐がるわけがない。玄関まで一番近いのは、私だ。
ホットプレートを見ると、私の近い所のお肉は何かちょっと違うような。おそらくこれは明智君が白シカ組のバーベキュー跡から盗ってきた肉だな。文句なんて言わないで、とりあえず一枚食べた。美味しい。これがこんなに美味しいのだから、阿部君と明智君とトラゾウの前の高級和牛はどれだけ美味しいのだろう?
あれ? そう言えば、あの高級和牛はブロック肉だったような。お土産にと思った時に、トラゾウだけでなく私たち人間も食べやすいように白シカ組が気を利かせてわざわざ切ってくれたのだろうか。
いや、自分たちのためだけに、後で気が変わってトラゾウを返しにこないように、できうる限りの先手を打ったのかもしれないぞ。どちらにしても、そういう小癪なまねをする前に、トラゾウに対して気を使うべきだったのにな。結果として、揉めることなくトラゾウを白シカ組から離せたのだから、私としては申し分ないが。
これで白イノシシ会の組長との約束を果たせたのだから、阿部君と明智君が奪った組長のへそくりの300万円に対して何も言ってこないだろうし、もう関わりを持つこともないだろう。
ひとまず一件落着ということで、次はもっと深刻なトラゾウについての話し合いをしないといけないな。トラゾウを含めみんなが楽しく食事をしている今はチャンスだぞ。
「阿部君、明智君、トラゾウに聞いて欲しい事があるんだ」
「リーダーが聞けばいいじゃないですか。すぐ隣にいるんだし」
「そ、それは……」
ちくしょー、足元を見ているな。どうしよう? 今回もこんなに頑張った私の取り分を減らさないといけないのか?
「今回も、お金を盗ってきたのは、私と明智君だけですよね?」
あからさまじゃないか。清々しいくらいだぞ。
「阿部君と明智君の好きな配分でいいよ」
はあー、私はなんて素直なんだろう。怪盗としてやっていけるのだろうか。
「私たちも鬼ではないというか、ものすごく優しいので。……今回の最終配分を発表しまーす」「ワオーン!」
「トラゾウを手に入れたのは、私だと分かっているよね?」
無駄だと分かっていても、最後の悪あがきをしてやったぞ。
「今回の最優秀怪盗である明智君は、5割だね」
「ワオーンワオーワオーワオーン!」
「私も頑張ったけど明智君ほどじゃないので、4割で我慢です」
「ワンワワン」
「リーダー、計算できますよね? 今回は0ではないけど、これは次の作戦の期待を大いに込めてあるので、次こそは頑張ってくださいね」
ここでごねたら否応なしに0になるので、ありがたく受け取ろう。いつか見てろよー。
「ありがと……」
私は100万円を受け取った。まあ、嬉しくないと言えば嘘になる。だけど私は口車に乗ってしまったのだろうか。
「大サービスついでに、通訳もしてあげますよ。何を知りたいんですか?」
「トラゾウは近所の動物園と生まれ故郷の、どっちで生活したいのかを。この二択にしてね。あくまでも保護が目的だから。調子に乗ってドバイの金満動物園で生活したいとか言っても、動物園ということで近所の動物園だからね」
「分かりました。一応リーダーに説明しますけど、明智君は日本語を話せないだけで理解はできるのは知ってますよね? トラゾウも同じみたいなので、今のリーダーの言葉はトラゾウにも伝わってますからね」
「そうなんだ。それはだいぶ手間が省けていいな。ということは、明智君がトラゾウの通訳をして、阿部君が明智君のジェスチャーなんかを理解する手順でいいんだね?」
「はい、そうなります。トラゾウもこれからいろいろ経験すれば、明智君のように表現が豊かになるかもしれないですけど、今の段階では喜怒哀楽が分かるだけですね」
「何気に阿部君の理解力がすごいから成立するんだろうね。報酬が欲しいがためにおだててるつもりはないから」
「何か言いました? あっ、いいです。トラゾウは生まれ故郷に帰りたいらしいので、慰安旅行を兼ねて送ってあげましょうよ。ちなみに慰安旅行の費用は、リーダー持ちですよね? 100万円入ったから余裕ですね」
「ええー! 冗談だよね?」と言ったところで、くつがえらないことくらいは知っている。私は先が読めるのだ。
「はい、明智君とトラゾウもリーダーにお礼を言って」
「ワオワワン」「ガー」
しょうがない。こうなったら、旅行中は威張り散らしてやる。阿部君は荷物持ちで、明智君はパシリにして、トラゾウは……そうだ、お別れまでの間ずっと乗り物として扱ってやる。お礼の言葉もトラゾウはやけに短かったのだから自業自得だ。
ただ、100万円で足りるのだろうか。もし足がでるなら、なけなしの貯金を切り崩さないといけないな。世の中って理不尽だ。
「トラゾウの故郷って、どこなんだい?」
「ガオガガガーガオガオーン」
「ワンワンワワッワーンワンワワ」
「インドネシアのスマトラ島です」
「あー、よく考えたら、明智君とトラゾウをどうやって連れていったらいいんだろ?」
「簡単ですよ。ちょっとお金がかかるけど、箱に詰めて貨物扱いで運んでもらいましょう。もう仲良しだから、節約のために箱は一つでいいんじゃないですか」
明智君は知っていたが、トラゾウは阿部君の悪気にない冷酷さにショックを受け食欲がなくなったみたいだ。ここはせめて明智君とトラゾウ相手に得点を稼いでおくか。トラゾウは別としても、明智君とはこれからも仲良くやっていかないといけないのだから。決してお金がかかるのを嫌ったわけではないぞ。
「それはかわいそうだから、ぬいぐるみに見せかけて手荷物として機内に持ち込んであげようよ」
「ええー。私はぬいぐるみが似合うから大丈夫ですけど、初老の気持ち悪いおじさんがぬいぐるみなんて持って機内に入ってきたら、乗務員を含め機内にいる人たち全員が気分悪くなりませんか?」
「阿部君以外のみんなは微笑ましく見守ってくれるさ。ねえ、明智君、トラゾウ?」
「ワン!」「ガオー!」
「3対1じゃ、それでいくしかないですね。だけど、明智君とトラゾウは出発までに完璧なぬいぐるみを演じられるようにしておかないとだめだからね」
「ワン」「ガオ」
「機内でくしゃみの一つでもしようものなら、緊急脱出ドアを開けて上空からポイッだから」
「ワ……ン」「ガ……」
出発までに、阿部君による残酷な訓練が行われるのだろう。訓練中、何度も何度も一般荷物として格納庫に入れられる方がいいと思うほどの。例えば、くすぐられ続けても動いてはいけないとか、脱ぎたての私の靴下を鼻っ面に押し付けられても涙一つ流してはいけないとか。訓練自体の効果よりも、ただ阿部君が楽しみたいだけだ。
トラゾウだけでなく明智君までも食欲がなくなったので、話題を変えよう。
「そうだ。トラゾウを無事に送り届けたら、さっそくやらなければいけない仕事があるんだよ」
「せっかく楽しい旅行の話を始めたところなのに、仕事の話はまた今度にしましょうよ」
「そうだな。その仕事が上手くいけば、今度はフランス旅行が待っているが。また今度でいいな」
「フランスー! わおー! ほんとですかー? ぜひ聞かせてください。さあ、さあ、ほら、早く!」
明智君とトラゾウですらついていけないほど興奮している阿部君を見て、私はなぜか嫌な胸騒ぎが起こった。でも話さないわけにはいかないのだろう。
「……」
「あ、べ、く、ん?」
「……」
「トラゾウは起きてないよ。明智君は元気だし」
「……、本当ですか?」
「うん。だからもう少しお肉を焼いてくれるかい? 私と明智君は、トラゾウが気持ちよく起きられるようにマッサージをするから」
「任しといてください。でも、できるだけ私から離れた所でしてくださいね」
「う、うん」
このアジトにいる生物の中でダントツで一番年下のトラゾウに対して、我々怪盗団の3人は計り知れない恐怖を感じながらも、心のこもった接待の準備を開始した。準備と言っても、すでに心地良いマッサージは始まっているのだけれど。
だがしかし、マッサージは逆効果かもしれない。冷静に考えれば、起きている人を眠らせることはあっても、眠っている人を起こすのは至難の業だろう。
ビビっていると言われれば反論はできないが、いくら一度はトラゾウを屈服させたとはいえ、再び同じようにできる保証なんてないのだ。なので心のどこかで、トラゾウを起こすのを少しでも遅らせようと思っているのは否定できないだろう。
それは、私だけでなく、明智君も阿部君も同じ考えだ。なぜなら二人とも、マッサージされてそんな簡単に起きるわけないと、バカにしたような目で私を見ているのに、口には出せないでいるのだから。
言い訳をダラダラして心の準備もできてきたので、本意ではないがトラゾウを起こす方向に気持ちが傾いてきたかもしれない。阿部君と明智君に念の為に同意を求めると、二人はあからさまに素早く目を逸らした。それは一種の責任逃れのように見えなくもないけど、前向きではないという意思表示なだけで、否定をしなかったのが答えだ。
私は意を決して起こす決断を下した。
だけど、起こす方法が全く思い浮かばない。それは、どうしたら起きるではなく、どうしたらトラゾウは気持ちよくすこぶる快適に幸せを噛み締めながら起きてくれるかが分からないのだ。
ただ起こせばいいのなら、力いっぱい叩けば起きるが、その方法を取るなら残酷だけど起きても反抗できないような状態にしないといけなくなる。しかし、それは私の、いや私たち善良なる怪盗団のやり方にそぐわない。
優しく揺り動かして起こすしかないようだ。その結果、私たちがこの世とおさらばしたとしても、地獄ではなく天国に行くのは間違いないだろう。私たち心のきれいな怪盗団は恐いものなしだと気づいたところで、トラゾウを軽く揺すってあげた。
トラゾウ、信じているよ。起こされて機嫌が悪かったとしても、せいぜい明智君にじゃれるように甘噛みする程度だと。
軽く揺さぶったくらいでは、トラゾウは起きなかった。私を根性なしと蔑んでいるのか安心しているのか読み取れない表情で、明智君と阿部君が無言で見つめている。
もう一度、同じ力加減でトラゾウを揺さぶった。結果は変わらない。バックパックからずり出た時に比べたら、そよ風程度の振動なのだから、当然と言えば当然だな。
今度こそ腹を決めようと決意したその時、緊張感に耐えられなかったのか明智君が特大音量のくしゃみをしてしまった。私がまず思ったのは、明智君は緊張から解放されて安心した時だけではなく、緊張中もくしゃみが出る、いや明智君のくしゃみに法則なんてないのだな、だった。私はなんて余裕があるのだろう。
今度はトラゾウから3メートルも離れていた事に気づいたのは、そのすぐ後だった。私が3メートルも逃げたのだから、明智君ですら2メートルは逃げたと思ったのに、なんと明智君はトラゾウの目と鼻の先で身構えていたのだ。
ただこれは、明智君の度胸に驚くところではない。なぜなら阿部君が結構長尺のサスマタを使って、明智君が下がるどころか逆に前に押し、抑えつけていたのだから。私の部屋兼アジトにサスマタなんてあっただろうか? それにサスマタを使用するのは、警察のような捕まえる側であって、怪盗のような存在はどちらかと言えば使用される側のはず。
いやいや、今はそんな事はどうでもいい。直視しないといけない事があるじゃないか。
そう、トラゾウだ。
トラゾウは……起きている。
私は明智君の無事を祈りつつ、それ以上に私の方へトラゾウが振り向かないように願った。私をなんて卑怯で自分勝手な奴だと思いたければ思えばいいさ。
でも、一応説明させてほしい。私は、いや私たちは大事な事を忘れてしまっていたのだ。トラゾウが恐れた、トラの覆面を被った一人とトラの覆面を被った一頭と変なロボットのお面を付けた一人が、今ここに誰もいない事を。
せめて私だけでもとお面を探したが、外した時に確かバックパックにぶら下げていたはずなのに、見当たらないということは、帰ってくる途中で落としたに違いない。絶体絶命という状況が安全であるはずのこのアジトで起こるなんて、誰が想像しただろうか。
そうは言っても、私は強靭な精神力を持っているので、ほんの少しだけ開き直り、阿部君と明智君を見た。二人とも自分たちが素顔だったことに、今さら気づいたような顔をしている。やはりお互いの顔を見て気づいたのだろう。もちろん私の想像だけど、案外当たっているかもしれないな。
と、いろいろ考えていたが、いつまでも肝心なものから目を逸らしていてはいけないようだ。
一つ安心したのは、トラゾウは起きただけで暴れるわけでも喚き散らすわけでもなく、おとなしくじっとしてくれていることだ。私の位置からはトラゾウの顔が見えないのでなんとも言えないが、期待を込めてトラゾウの機嫌は悪くないということにしておこう。
だけど、ここからどうすればいいんだ? 頼れるのは、この中で生物としても距離も一番近い明智君だけだと思って、再び私は明智君に目を向けた。
な、なんと、私は初めてのものを見てしまったのだ。明智君が、いや、犬という生物があからさまなゴマすりをしている姿を。両前足で揉み手をし、阿部君が焼いていたホットプレートの上の肉の方を指差し、案内する気満々だ。
阿部君がサスマタで抑えていなかったなら、すぐにでも連れていっただろう。しかし阿部君の考えでは、トラゾウが肉の方へ来るのではなく、肉をトラゾウの方へ運びたいようだ。もちろん運ぶのは、明智君か私だけど。
本来なら、阿部君はいつでも逃げられる玄関側にいたかったけれど、トラゾウを背負った私が玄関にいたのだから、できるだけ奥に逃げるしかなかったのだ。なのにトラゾウが奥に進んだら、阿部君のスペースは狭くなり、逃げるのが困難となってしまう。いざとなれば、奥は壁ではなくガラス戸なのでそれを開ければ簡単に逃げられるが、ガラス戸なのでトラゾウはお構いなしに突進して阿部君を追撃するかもしれない。
阿部君の気持ちは痛いほど分かるが、せっかくトラゾウがおとなしくしているのだから、私は明智君の考えに賛成だ。
「阿部君、明智君はトラゾウをホットプレートの所に連れていきたいんじゃないかな?」
「そう見えますけど、それは……。リーダーがこの肉を、トラゾウの前まで持っていってくれませんか?」
やはりそうか。だけど、ここで素直に「はい分かりました」とは言い難いぞ。
「うーん、明智君、トラゾウはどっちが喜ぶと思う?」
「ワンワワンワッワーン。ワワーン」
「ガオーン、ガガッガオー、ガオン」
明智君は自分の考えをジェスチャーを交えて説明してくれたが、当然私には理解できなかった。それでも、トラゾウが明智君に何か答えたのは分かったぞ。
「明智君、トラゾウと話せるのかい?」
「ワワン」
「阿部君、私では明智君が言いたい事が分からない。とりあえず、そのサスマタを外して、明智君が振り向けるようにしてやってくれないか? そうすれば、阿部君は明智君の表情とジェスチャーで会話ができるだろ?」
「そ、そうですね。もしトラゾウが暴れたら、明智君とリーダーでなんとかしてくださいね」
「あ、ああ」
不思議なことに、明智君の表情も態度も普段の明智君に戻っている。トラゾウとの短い会話が、よっぽど明智君を安心させたのだろうか。トラゾウとの初対面の時は今にも食べられそうな感じだったとはいえ、実際に何か危害を加えられたわけではなかったし。
白シカ組組長宅にいる間も、たまたま私たちが忍び込んだ日は晩ごはんがないと言われてキレていただけで、普段は一般的な猫のように家の中を自由に歩き回っていても組長は平気だったのだろう。その証拠に、あのトラゾウの部屋には檻や鎖なんかもなく、襖で区切られていただけだ。
トラゾウはキレさせなかったら、何も恐れることなんてないのかもしれない。誰だって前触れもなしに晩ごはん抜きだなんて言われたら、キレるのは当然だ。もし私が明智君に同じ事を言ったなら、明智君は私をヘッドロックして壁に叩きつけるに決まっている。
私が俯いて一人黙考している間に、阿部君と明智君とトラゾウの会話がはかどっていたのか確かめようと顔を上げると、ホットプレートの置かれたローテーブルを挟んで、阿部君と明智君の向かいにトラゾウが収まっていた。
「リーダー、いつまでもそんな所に突っ立ってないで、一緒に食べましょ」「ワン!」「ガオー!」
驚かない。驚くわけがない。私はすっかり耐性ができている。当たり前に、私は空いている席についた。そう、トラゾウの横に。
恐くない恐がるわけがない。玄関まで一番近いのは、私だ。
ホットプレートを見ると、私の近い所のお肉は何かちょっと違うような。おそらくこれは明智君が白シカ組のバーベキュー跡から盗ってきた肉だな。文句なんて言わないで、とりあえず一枚食べた。美味しい。これがこんなに美味しいのだから、阿部君と明智君とトラゾウの前の高級和牛はどれだけ美味しいのだろう?
あれ? そう言えば、あの高級和牛はブロック肉だったような。お土産にと思った時に、トラゾウだけでなく私たち人間も食べやすいように白シカ組が気を利かせてわざわざ切ってくれたのだろうか。
いや、自分たちのためだけに、後で気が変わってトラゾウを返しにこないように、できうる限りの先手を打ったのかもしれないぞ。どちらにしても、そういう小癪なまねをする前に、トラゾウに対して気を使うべきだったのにな。結果として、揉めることなくトラゾウを白シカ組から離せたのだから、私としては申し分ないが。
これで白イノシシ会の組長との約束を果たせたのだから、阿部君と明智君が奪った組長のへそくりの300万円に対して何も言ってこないだろうし、もう関わりを持つこともないだろう。
ひとまず一件落着ということで、次はもっと深刻なトラゾウについての話し合いをしないといけないな。トラゾウを含めみんなが楽しく食事をしている今はチャンスだぞ。
「阿部君、明智君、トラゾウに聞いて欲しい事があるんだ」
「リーダーが聞けばいいじゃないですか。すぐ隣にいるんだし」
「そ、それは……」
ちくしょー、足元を見ているな。どうしよう? 今回もこんなに頑張った私の取り分を減らさないといけないのか?
「今回も、お金を盗ってきたのは、私と明智君だけですよね?」
あからさまじゃないか。清々しいくらいだぞ。
「阿部君と明智君の好きな配分でいいよ」
はあー、私はなんて素直なんだろう。怪盗としてやっていけるのだろうか。
「私たちも鬼ではないというか、ものすごく優しいので。……今回の最終配分を発表しまーす」「ワオーン!」
「トラゾウを手に入れたのは、私だと分かっているよね?」
無駄だと分かっていても、最後の悪あがきをしてやったぞ。
「今回の最優秀怪盗である明智君は、5割だね」
「ワオーンワオーワオーワオーン!」
「私も頑張ったけど明智君ほどじゃないので、4割で我慢です」
「ワンワワン」
「リーダー、計算できますよね? 今回は0ではないけど、これは次の作戦の期待を大いに込めてあるので、次こそは頑張ってくださいね」
ここでごねたら否応なしに0になるので、ありがたく受け取ろう。いつか見てろよー。
「ありがと……」
私は100万円を受け取った。まあ、嬉しくないと言えば嘘になる。だけど私は口車に乗ってしまったのだろうか。
「大サービスついでに、通訳もしてあげますよ。何を知りたいんですか?」
「トラゾウは近所の動物園と生まれ故郷の、どっちで生活したいのかを。この二択にしてね。あくまでも保護が目的だから。調子に乗ってドバイの金満動物園で生活したいとか言っても、動物園ということで近所の動物園だからね」
「分かりました。一応リーダーに説明しますけど、明智君は日本語を話せないだけで理解はできるのは知ってますよね? トラゾウも同じみたいなので、今のリーダーの言葉はトラゾウにも伝わってますからね」
「そうなんだ。それはだいぶ手間が省けていいな。ということは、明智君がトラゾウの通訳をして、阿部君が明智君のジェスチャーなんかを理解する手順でいいんだね?」
「はい、そうなります。トラゾウもこれからいろいろ経験すれば、明智君のように表現が豊かになるかもしれないですけど、今の段階では喜怒哀楽が分かるだけですね」
「何気に阿部君の理解力がすごいから成立するんだろうね。報酬が欲しいがためにおだててるつもりはないから」
「何か言いました? あっ、いいです。トラゾウは生まれ故郷に帰りたいらしいので、慰安旅行を兼ねて送ってあげましょうよ。ちなみに慰安旅行の費用は、リーダー持ちですよね? 100万円入ったから余裕ですね」
「ええー! 冗談だよね?」と言ったところで、くつがえらないことくらいは知っている。私は先が読めるのだ。
「はい、明智君とトラゾウもリーダーにお礼を言って」
「ワオワワン」「ガー」
しょうがない。こうなったら、旅行中は威張り散らしてやる。阿部君は荷物持ちで、明智君はパシリにして、トラゾウは……そうだ、お別れまでの間ずっと乗り物として扱ってやる。お礼の言葉もトラゾウはやけに短かったのだから自業自得だ。
ただ、100万円で足りるのだろうか。もし足がでるなら、なけなしの貯金を切り崩さないといけないな。世の中って理不尽だ。
「トラゾウの故郷って、どこなんだい?」
「ガオガガガーガオガオーン」
「ワンワンワワッワーンワンワワ」
「インドネシアのスマトラ島です」
「あー、よく考えたら、明智君とトラゾウをどうやって連れていったらいいんだろ?」
「簡単ですよ。ちょっとお金がかかるけど、箱に詰めて貨物扱いで運んでもらいましょう。もう仲良しだから、節約のために箱は一つでいいんじゃないですか」
明智君は知っていたが、トラゾウは阿部君の悪気にない冷酷さにショックを受け食欲がなくなったみたいだ。ここはせめて明智君とトラゾウ相手に得点を稼いでおくか。トラゾウは別としても、明智君とはこれからも仲良くやっていかないといけないのだから。決してお金がかかるのを嫌ったわけではないぞ。
「それはかわいそうだから、ぬいぐるみに見せかけて手荷物として機内に持ち込んであげようよ」
「ええー。私はぬいぐるみが似合うから大丈夫ですけど、初老の気持ち悪いおじさんがぬいぐるみなんて持って機内に入ってきたら、乗務員を含め機内にいる人たち全員が気分悪くなりませんか?」
「阿部君以外のみんなは微笑ましく見守ってくれるさ。ねえ、明智君、トラゾウ?」
「ワン!」「ガオー!」
「3対1じゃ、それでいくしかないですね。だけど、明智君とトラゾウは出発までに完璧なぬいぐるみを演じられるようにしておかないとだめだからね」
「ワン」「ガオ」
「機内でくしゃみの一つでもしようものなら、緊急脱出ドアを開けて上空からポイッだから」
「ワ……ン」「ガ……」
出発までに、阿部君による残酷な訓練が行われるのだろう。訓練中、何度も何度も一般荷物として格納庫に入れられる方がいいと思うほどの。例えば、くすぐられ続けても動いてはいけないとか、脱ぎたての私の靴下を鼻っ面に押し付けられても涙一つ流してはいけないとか。訓練自体の効果よりも、ただ阿部君が楽しみたいだけだ。
トラゾウだけでなく明智君までも食欲がなくなったので、話題を変えよう。
「そうだ。トラゾウを無事に送り届けたら、さっそくやらなければいけない仕事があるんだよ」
「せっかく楽しい旅行の話を始めたところなのに、仕事の話はまた今度にしましょうよ」
「そうだな。その仕事が上手くいけば、今度はフランス旅行が待っているが。また今度でいいな」
「フランスー! わおー! ほんとですかー? ぜひ聞かせてください。さあ、さあ、ほら、早く!」
明智君とトラゾウですらついていけないほど興奮している阿部君を見て、私はなぜか嫌な胸騒ぎが起こった。でも話さないわけにはいかないのだろう。
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