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第9話

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「権兵衛! 貴様ー、権兵衛を人質じゃなくて犬質にとるなんて卑怯だぞ」
 え? こいつは何を言ってるんだ? 恐る恐る目を開け体勢はそのままに、ふざけたお面のせいでもともと視界が狭い中、目だけを動かして辺りを見渡しても組長と私以外には誰もいなさそうだ。組長は私を真っ直ぐ見ているようだし、もしかしたら私の後ろに誰かいるのか?
 動こうが動かまいが、どうせ殺されるのだ。死の恐怖よりも好奇心が勝った私は、大胆に振り返り組長に背を向けると、じっくりと辺りを見回した。
 なんということだ。誰もいないぞ。
 組長は明智君と阿部君にやられた時に頭でもぶつけて、時間差でおかしくなったのかもしれない。これは私が助かる可能性が上がった……とは言えないな。普通の殺人鬼が異常な殺人鬼になっただけのような気がする。いや、待てよ。さっきは私の足元を狙っていたが、錯乱している組長は私の頭や体を狙ってくる恐れがあるぞ。とりあえず身を低くしよう。
「貴様ー、権兵衛を盾にするなんて、人間の面をした鬼なのか? いや、今は変なロボットのお面だけど……ややこしいな。そんな事はどうでもいいー。許さんぞー。いや、許してやるから権兵衛を返してくれ」
 組長の奴め、いよいよ末期症状だな。もういつ撃ってきてもおかしくないぞ。今度こそ、みなさんとサヨナラだ。たまには……いや、年に12回くらいは、この伝説の大怪盗の事を思い出しておくれ。

 ……。……。あれ? 撃ってこないな。もしかしたら確実に命中させるために近づいてきているのか? 錯乱している割には冷静じゃないか。誤算だ。どうする? 逃げるか? いや、もう手遅れだ。いや、近づいてきたら、それは私にとってチャンスじゃないか。よし、引きつけるだけ引きつけて、ギリギリでアリキックを……アリキックは平成や令和生まれの人たちにも認知されているのだろうか? 説明してあげたいところだけど、そこまでの余裕がないので検索して調べてくれ。しばし待ってやる。
 待っている間に、音もなく気配も感じないが、そろそろ私のすぐ後ろまで詰めてきたな。私はイチかバチかで一世一代で初めてのアリキック……の真似事をしてしまった。焦ったようだ。見事に空振りだ。万事休すというやつは、怪盗の日常茶飯事なのか。
 もうこうなったら、最後の悪あがきをしてやろうじゃないか。
 よーし……ビビらせてやる。それとも、命乞いの方がいいだろうか。
 どうしよう? この選択は私の将来を左右するぞ。
 決めた。生きてさえいたら、怪盗を続けていける。その結果、明智君と阿部君を組長に引き渡さないといけないにしても。
 明智君、阿部君、ごめん。白イノシシ会で一生下働きだって、そんなに悪い世界ではないぞ。一年に一回は最高級ドッグフードと老舗和菓子店のみたらし団子を差し入れしてあげるからね。天気が良ければだけど。阿部君はみたらし団子が好きだろうか? いらないなら、私が食べればいいか。
 腹が決まったところで、私は訴えるような上目遣いで組長の方に目を向けた。お面を付けているので意味がないのかもしれないが、こういうのは気持ちが大事なのだ。それはさておき、組長の様子がおかしいぞ。すでに散弾銃は手放していて、ひざまずき両手を握りしめ、私に何か訴えている。神頼みするような敬虔な奴なわけないので、おそらく、私に対して。どういうことだ?
 うーん……なるほど。私のアリキックは空振りしたかもしれない。かもしれないではなく、したと正直に言おう。ただ、そのとてつもない衝撃波がヒットしたのだ。それで恐れおののき負けを認め命乞いしてるのだな。分かる分かる。やはり最後は命乞いと相場が決まっている。
「よし、私も鬼ではない。許してやろう。さらばだ」
 決まった。このかっこいい姿を、命よりも大事な明智君と阿部君に見せてあげたかったな。
「ま、待てー! 権兵衛を置いていけー!」
 え? ゴンベエ? さっきから、ゴンベエゴンベエと……。そういうことか。そうだったのか。私のお尻にぶら下がりアクセサリーと化している犬のことを言っているのだな。離れる素振りが全くないから、アジトに戻ってから明智君の手を借り外そうと思っていたが、この組長なら取れるのではないか。良かった。これで明智君に手伝ってもらうために全身マッサージをしなくて済んだぞ。
 ただここで下手に出ては、形勢が逆転する微妙な状態だ。あくまでも、上から目線で臨むぞ。
「いいだろう。ゴンベエとやらを返してやろう。取りに来い。散弾銃はそこに置いておけよ! あと何か怪しい動きをしたら、この犬を……うん、よく見たら、これは警察犬に多いシェパードじゃないか。よーし、少しでも変な動きをしたら、この犬を警察犬訓練学校に入学させるからな」
「そ、それだけはやめてくれ。お前の言う通りにするから」
 この犬にしたら警察犬になった方が幸せかもしれないが、組長の様子からして溺愛されているのだろう。後は、この犬の判断に任せよう。
「よし。私は両手を上げて後ろを向いていてやるから、ゆっくり近づいてきてそっとこの犬を持っていけ。そっとだぞ。そっと!」
「ああ、分かった」
 組長が来ても私から離れないなら、この犬はきっと警察犬になるのを選んだということだろう。その時は、このまま強引に帰らないといけないぞ。組長は納得しないだろうけど、この犬の気持ちを最優先に考えろとか言って必死で説得するのみだ。上手く説得できないと、組長は力づくでこの犬を引っ張り私の臀部に犬の一口大の凹みができてしまう。私の話術があれば……うん、組長とこの犬の絆を信じよう。
 私は恐怖でとても顔色が悪いのを組長にバレていないだろうか。一気に形勢が逆転する恐れもあるので決して悟られてはいけないが、幸いにも再びこの安物のふざけたお面が守ってくれているので、悔しいが阿部君に感謝しようではないか。でもなぜか腑に落ちないのは、どうしてだろう? 考えてはいけない。集中集中。
 私が一人問答をしている間に、組長は寄り道一つせずに私の背後にやってきた。組長が私をやっつける気になれば簡単だ。しかし組長はそんな卑怯なマネはしないと、私は断言できる。なぜなら組長は大事なゴンベエを取り戻す事しか考えていないのだ。もし私が同じ状況になって明智君を取り戻したいなら……ほんの小さなリスクすらも冒したくない。一瞬迷ったが、明智君にバレなければ問題ないだろう。一応罪ほろぼしとして、明日の朝ごはんは3パーセント増しにしてあげようかな。夢の中で検討してあげるか。今はもっと大事な事に集中する時なのだから。
 ゴンベエは組長の愛情に応えてくれるのだろうか。大丈夫かな。私ですら明智君に何度も裏切られているんだぞ。
「権兵衛、もう大丈夫だぞ。こっちにおいで」
 気持ち悪いくらい優しい声色で組長が話しかけた。おかげで私の顔色がますます悪くなったじゃないか。
「ワン!」
 ゴンベエがあっさり私から離れ組長へと向かっていくと、組長とゴンベエの絆が羨ましくもあり悔しくもあった。私と明智君だって……。今回の明智君の裏切り行為を思い出してしまった私は、いたたまれなくなり力なく帰路につくしかなかった。
「待てー!」
 え? 嘘? 組長は私をおとなしく帰してくれないのか。やられた。芝居だったのか。やはり暴力団なんて信用してはいけなかったんだ。どうしよう? もう私のゾーンは切れているだろう。肉体的にも精神的にも疲労困憊だ。しかし、組長だってもう武器を持っていないはず。1対1プラス子犬のシェパードなら、なんとかなるだろうか。なんとかしてやる。
 なぜなら私には、明智君と阿部君に文句を言って説教をするという大いなる欲望があるじゃないか。
 よーし、空元気が湧いてきたぞー。どこからでもかかってこい!
「一つ、お前にお願いがある」
 え? 鬼の形相で振り返った私に、組長は神妙な面持ちで意外な事を言った。私が勝手に怒っていただけなので、組長には虚を突くつもりなんてなかっただろう。しかし顔をおもいっきり作っていただけに、反動から私は見るも無惨な顔の見本のように情けなくなっている。もちろんくどいようだが、阿部君が買ってくれたお面のおかげで私の表情は見られていないが。そして繕うのがまあまあ得意な私は、予期していたかのようにいたって冷静に応えられるのだ。虚勢を張るために上から目線だけは命がけで続けるぞ。
「何だ? 言ってみろ」
 上からでも、こういう時はいきなり一蹴するのではなく、まず話を聞いた方が同じ断るにしても相手に嫌われる度合いが小さいのだ。断るのが前提で話しているが、だってそうだろ? 暴力団となんて接点を持たないに越したことはないのだから。
「お前たちに盗られた私のへそくり300万円は忘れてやる。だから……」
「え! さ、さ、さ、三百、まん、えん?」
 あいつらめー! 私の知らないところで、そんな大金を。帰ったらまず、最低でも私の取り分の100万円もらうからな。それから、リーダー手当とか明智君のごはん代とか、あとは……本日の最優秀怪盗賞もふんだくってやる。
 だけど、その前に組長のお願いを聞いてあげないといけなくなったじゃないか。簡単なお願いならいいのだけれど。安くて美味しいドッグフードを売っている店を教えてほしいとか、愛犬に嫌われないための100の心構えとか。
「ああ、しかしそれは忘れてやる。だから、白シカ組の組長の飼い猫を誘拐してくれ」
「白シカ組? 誘拐?」
「なんだお前、白シカ組を知らないのか?」
「いや、知ってる」
「そうだよな。ワシの組ほどではないが、この辺りではまあまあ有名だからな」
「ああ、そうだな」私の場合は前職の関係で知っているのだけれど。
「その白シカ組の組長のやつが、私が権兵衛を飼い始めたのを知って、対抗意識から猫を飼い始めたみたいなんだ。あんな動物愛護の精神なんてこれっぽっちもない奴から猫を救い出してくれ」
「なるほど。そういうことか。だからといって、誘拐はちょっと……」
「あーあー、あの300万円があれば権兵衛にたらふくごはんを食べさせてあげられるのになー。しばらくワシは三日に一食で我慢するから、権兵衛は一日一食で勘弁しておくれ」
 下手な芝居をしやがって。やるしかないじゃないか。しかしただやるのは悔しいな。モチベーションがあればいいんだけれど。よーし。明智君の毛を短くカットしてゴールデンなのにラブラドールと勘違いされて、阿部君の眉毛を油性マジックで繋げて笑い者になっているのを想像してやったぞ。
「分かった分かった。だけど誘拐した後はどうするんだ? 身代金でも要求するのか?」
「そんな非人道的な事をするわけないだろ! 白シカ組の組長には『お前に生き物を飼う資格はない。この先もお前が何らかの生き物を飼う度に成敗してやる』と書いた手紙を残していけ」
「じゃあ、さらってきた猫はどうしたらいいんだ?」
「うーん、そうだなあ。白シカ組では辛い毎日を送っているから、野良になる方がまだマシだけど。どうせならこれからは今まで苦労した分を補うためにも幸せに快適に暮らしてほしいから、設備の行き届いた猫友達もたくさんいる保護団体に預けるしかないな。罪ほろぼしとして、その保護団体には私が少しばかり寄付をするから、後で教えてくれ」
 暴力団のくせに良いところがあるじゃないか。だけど、称賛なんてしないぞ。褒めてほしければ足を洗うんだな。
 私は了承すると、今度こそ温かい我が家へと足を向けた。明智君と阿部君に対して激しい怒りの炎をまといながら。
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