路線バス運転士俳優ひろしの冒険

きよバス

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第35話

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 塚谷君に電話したからといって、気づかれた事実が無くなるわけではない。ただ、作戦会議と表して塚谷君の声を聞いて安心したかっただけなのかもしれない。嬉しい誤算だったのは、塚谷君がわざわざこっちまで来てくれることだ。ついでに東京まで送ってくれるのだろうか。それともさすがに運転は僕がするのだろうか。まあそれはどちらでも構わない。予定外に塚谷君に会えるだけで十分喜ばしい事なのだから。
 塚谷君のおかげもあって、その後も安全運転を続けられて何事もなく今日の仕事は終わりとなった。あの小学生以外には、お客さんをはじめ同僚の誰にも気づかれずにだ。昨日放映の今日というのもあったうえにいきなり気づかれたので、平常心でいられたとは言えないというのが本音かもしれない。だけどこれを言い訳に事故や失敗をしていては、バス運転士としては失格だろう。なので慣れないといけないし、慣れると確信している。だからこそ主演を引き受けたのだ。夢の主演を。そして何よりも『名バス運転士ホームズ』に携わってくれているすべての人のためにも、僕は完璧に両立させないといけない。
 おそらく僕一人だったらプレッシャーに押しつぶされ両方とも中途半端になっていたかもしれない。しかし僕には塚谷君がついている。その感謝をさり気なく最大限に表すために、僕は当たり前にドーナツを買ってから家に帰ってきた。するとすでに塚谷君が玄関のドアの前に座っていて、待ちくたびれたのか眠っているようだ。春になったとはいえ夜はまだまだ寒い。起こされて機嫌が悪くなりませんように。
「美樹、美樹、起きて。こんな所で寝てたら風邪をひくでしょ」
 用心のためにドーナツの入った箱を塚谷君の目の前に持っておいたので、可もなく不可もなく普通に起きてくれた。本当にドーナツには感謝だ。
「ああ、ドーナツさん、お疲れ様です」
 寝ぼけていても突っ込んではいけない。現実にドーナツがあると瞬時に理解するだろうし。
「すぐに着替えてくるから、先に車で待ってて」と僕が言うが早いか、ドーナツを抱えた塚谷君はまるで獲物を捕らえたトラかのように堂々としていながらも軽い足取りで僕の車の方へ歩いていった。ドーナツだけを持って塚谷君が一人で僕の車で東京に戻ってしまうかもと、一抹の不安を持ってしまったのは致し方ないだろう。なので、あくまでも無意識で、大急ぎで着替えて戻ってきた。塚谷君は運転席にはいるが出発する素振りはないようだ。安堵はしたが、理由を聞かれると言い訳に困るので顔には出さないように心がけた。
「美樹、僕が運転するよ」
「いつものようにバスの仕事の次の日に東京に戻るならまだしも、ひろしさんは何時間も運転した後なんだから、私がしないとわざわざ来た意味がないじゃないか」
「美樹が来てくれた意味は他にもあるけどね」
「え? どういうことですか?」
「どういうことだろうね。でも、お言葉に甘えようかな」と言ってから、僕は助手席に置いてあったドーナツがたくさん入った箱を膝に抱えて座った。そのドーナツの箱は一度開けてからまた閉めたような形跡があるので、何気なく開けてみると明らかにドーナツ1個分のスペースが空いていた。犯人は明白だろう。犯人を追い詰めるようなことはしないが。しかし僕の行動を恐る恐る見ていた犯人は、追求を逃れるためなのか慌てて車を発進させた。
「はーい、発車しまーす」
 実にスムーズな発進だったので、本気では慌てていなかったようだ。きっと塚谷君は僕が気兼ねなくすぐにドーナツを食べられるように、自分が先に食べたのだろう。運転してもらっている横で自分だけ食べるというのは結構気を使うものなのだから。塚谷君がただ単に欲望の赴くままに行動したわけではないはずだ。なのに、僕がドーナツを食べる気配を感じた塚谷君から、殺気が出ていたのは気のせいなのだろうか。しかし僕はドーナツを食べるしかなかった。一度食べるつもりになったら、ドーナツが僕を逃がすわけがないのだ。
 少し走ると、信号待ちのために車が止まった。塚谷君の目が僕とドーナツを行き来してから、塚谷君の口が一気にドーナツが3個は入りそうな錯覚を起こすほどの大きさに開かれた。僕が生き延びる道はただ一つだ。昔の人が天変地異を鎮めるために生贄を捧げるような気持ちで、ドーナツを塚谷君の口に入れてあげる。
 信号が青に変わる頃には、ドーナツのはみ出ていた部分も口の中にすっかり収まっていた。塚谷君は運転に支障がない状態でもぐもぐしている。なので無言だ。僕も黙っている。そして口の中からも無くなったと思われた頃に、塚谷君の口は開かれた。と言っても、ドーナツを要求しているのではなく、言葉を発するためにだけれども。
「昼に電話してきた時に、ひろしさんは何か言いたそうにしてませんでした? ドラマの評判とかそんな事とはなんとなく違うような事で。何かあったんですよね?」
「そうなんだよ。実は、とうとう一般の人に正体を知られちゃって。それも小学生くらいの子供にだよ」
「えっ、ええー。そ、そ、そんな大事な事をよくもまあ今まで黙ってられましたよね。そういう事は電話してすぐに報告してもらわないと困ります。ドラマの評判が良くてはしゃいでた私も悪いかもしれないですけど」
「それは僕も同じだよ。ただ、その小学生は他の誰にも言わないって言ってくれたし。なんとなく信用できるんだよね」
「ひろしさんがそう言うのなら大丈夫とは思いますけど」
 僕の説明に根拠はないし説得力もないけど、塚谷君は納得してくれることが多い。
「僕が心配しているのは、その小学生のことじゃないんだよ。小学生が気づいたということは、他にも気づいた人がいたかもしれないんだよね。気づかないまでも、僕のことを怪しいとかテレビに出てる人に似ているとかくらいは思ったかもしれないし。今思えば意味もなく僕の方を見ている人がいたような……」
「そうですね。あれだけ数字が良かったんだから、単純に観た人がたくさんいるということですね。それもよりによって制服を着てバスを運転しているひろしさんを。違いといえば制服のデザインと伊達メガネだけですもんね。そかそか……。ひろしさん、『ケ・セラ・セラ』って知ってます?」
「うん、知ってるよ」
「じゃあ、そういうことです」
 このドラマを引き受けた時に、僕自身が「なるようになる」というような事を言っていたのを思い出した。なのにちょっと予想外の事が起こっただけでジタバタするなんて。改めて塚谷君に言われて目が覚めたし、塚谷君を誇りに思えた。
「ありがとう、美樹」
 いつもなら、ここでドーナツを催促したり褒めることを要求したり晩ごはんを奢らせようとするはずなのに、塚谷君は無言で運転を続ける。僕も塚谷君に倣ってドーナツを食べずコーヒーも飲まずに前だけを見ている。何かをしているわけではないのに楽しかった。
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