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第34話
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『名バス運転士ホームズ』の第1話がテレビで放映された次の日、僕はバスの運転をしていた。これは撮影ではなく、バス運転士『山田広志』としてだ。平常心を心がけようとはするけれども、どうしてもドラマの評判が気になる。幸か不幸かバスの車内では、今のところそのドラマの話をしている人はいなかった。僕に聞こえなかっただけかもしれないし、話題になっていないからといって観ていないとは限らないし。
それに理不尽な悩みもあって、ドラマがヒットしたらそれだけ僕の正体を気づかれるリスクも高まるのだ。なので諸手を挙げて大勢の人に観てもらいたいとまでは言えない。僕のバスの仕事を100パーセント続けられる保障があるのなら、全国民に観てもらいたいというのが本音ではあるけれども。
そんな訳で、運転中に舞い上がりそうになっても、常に僕を押さえつけてくれる見えないシートベルトもあるので、今日も冷静に安全運転ができている。そして『名バス運転士ホームズ』の話をしているお客さんが乗ってこないまま昼過ぎのガラガラの時間帯を運行中に、一人の小学生が乗ってきた。寂しいことに、大きなバスの中には僕とその小学生だけだ。そのまましばらく走り、あの滅多に乗り降りのない健二さんと会ったバス停の名前のアナウンスが流れた時に、降車ボタンを押した音がバスの中に鳴り響いた。もちろん押したのは唯一の乗客の小学生だ。このバス停で降りるなんて珍しいなと軽く思ったが、今までも全くいなかったわけではないので間違って押したわけではないのだろう。例え間違って押したとしても、バス停に止まってから確認すればいいので全然問題はないが。
そしてしばらく走ると、そのバス停が近づいてきたので早めに減速して、そっとバスを止めて前のドアを開けた。すると小学生が何も言わず歩いてきたので、間違って押したわけではなかったんだと思い安心した。運賃箱のすぐ前まで来た小学生は、細かいお金を持ち合わせていなかったのだろう。慣れた手付きで、まずは千円札を両替する。そしてそこから運賃を入れ、残ったお金を財布に入れるのかと思いきや、僕に向かって唐突に言い放った。
「昨日の『名バス運転士ホームズ』は面白かったよ、山田ひろしさん」
「ありがとう。観てくれたんだ……」と、ここまで発して、僕は『狼狽バス運転士ひろし』になってしまった。
「やっぱり、山田ひろしだー。そうだとは思ったけど、いまいち自信がなかったんだよねー」
小学生の術中にあっさりはまってしまった恥ずかしさなんてなく、動揺しすぎて言葉が出て来ない。この小学生に聞きたい事や言いたい事はいっぱいあるのにだ。そんな僕の心情を察したのかマイペースなのか、小学生が言葉を続ける。
「昨日ドラマに出ていた山田ひろしが、まさかこんな所でバスを運転するなんて普通は信じられないよね? あっ、でも誰にも言わないから大丈夫だよ。だからそんな顔しないで」
そんな顔って、どんな顔なんだろう。今まで気づかれたと言っても、同業者だったので動揺はしたけど諦めもついた。がしかし、今回は一般の小学生だ。もしかしたら子供だから思った事をそのまま僕に向かって言えただけで、大人の乗客でも僕を僕を怪しいと思った人がいるのかもしれない。なんとかそういう想像をできる状態に回復はしてきたけれど、内容は悲観的な事しか思いつかないし、まだまだ言葉が出てきそうになかった。
「ごめんなさい、ひろしさん。そんな困らせるつもりはなかったの。ただ嬉しかっただけなの」
悲しげに俯いたその小学生を見て、僕は申し訳ない気持ちからか少し冷静になってきた。なのでフォローする言葉を必死に考える。バス運転士は子供に優しく接するものだ。
「あ、ごめんね。ちょっと驚いただけだから。来週も『名バス運転士ホームズ』を観てくれる?」
「うん!」
両替された小銭をそのままにしてその小学生が降りていきそうになったのに気づくことができるくらいに、僕は落ち着いていた。
「お金忘れてるよ」と声をかけると、その小学生は子供らしくはにかみながら小銭を取り財布に入れた。そして降りそうになってすぐに立ち止まって振り返る。
「ありがとう、ホームズ」と笑顔で降りていった。
その笑顔は僕を完全に落ち着かせたので、残りは少なかったが終点までの道のりを完璧な安全運転で進むことができた。その間はお客さんがいなかったというのも大きいが。それでも自分の冷静なハンドルさばきを自画自賛したのは、僕は調子に乗っていたのだろう。気づかれて驚いたけれども、なんだかんだで役者としての山田ひろしを褒められたのは嬉しかった。あのドラマはどちらかと言えば大人向けなのに、小学生でも楽しんでくれたことが喜びを助長させもした。あの小学生だけが特別なのかもしれないが。例え一人だけでも、観て面白いと思ってくれたのは事実だ。さらに嬉しそうに話しかけてくれるまでしてくれたのは純粋に幸せだった。
ただ、いつまでも舞い上がっていられない。この休憩時間はあまり長くはないが、すぐにでも塚谷君と作戦会議をしないといけないだろう。事務的書類の山に押しつぶされそうになっているであろう塚谷君に電話をかけた。
「もしもし、ひろしさん。そろそろかかってくると思ってから5時間ずっと気が気でなかったので、仕事が手に付かなかったじゃないですか。おかげで社長のものすごい目に見られながら、書類の山からノートパソコンを救出するのに手間取りましたよ。それにしても何をしてたんですか?」
「仕事に決まってるじゃないか。今日はバスの方の仕事だというのを知らなかったの?」
「冗談じゃないですか。もちろん知ってましたよ。まあ最近はどっちの仕事もバスの仕事なので、何かややこしいですね。あっ、大丈夫ですよ。ひろしさんの名前を聞いて急に優しくなった社長に見送られて、もう誰もいない所まで逃げてきました。だからなんでも話せますよ」
「へえー、社長が僕の名前を聞いて優しくなることなんてあるんだね? そう言えば、美樹も嬉しそうだけど、何かあったの?」
「そりゃあ、ひろしさん主演のドラマの第1話の数字が良かったからに決まってるじゃないですか。早く知らせたかったのに、こっちから電話してもバスの運転をしてるだろうから出られないし。だから、ずっとずっとずーっと、ひろしさんから電話が来るのを待ってたんですよ。そんなんだから事務仕事にだって手を付けられなかったんです」
事務仕事に手を付けられないのは、いつものことなんだろうけど、早く僕に知らせたいと思っていたのは事実だろう。なので照れ隠しのために怒ったふりをしている塚谷君のご機嫌をとるために、一応謝罪から入ろう。
「ごめんごめん、迷惑かけたね。それでそんなに数字が良かったんだ?」
「はい! 数字だけじゃなくて評判もいいんですよ。だから事務所の中がお祭り騒ぎになるかと思ったんですけど。でも、みんなが私のデスクを見たかと思うと、何事もなかったかのように淡々と仕事を始めるんです。社長にいたっては、私とマンツーマンで仕事をするし。だから盛り上がりに欠けてるんですけどね」
社長をはじめ事務所のみんなは塚谷君のことを思って、あえて通常通りに仕事をしているのだろう。塚谷君がみんなに愛されていることが分かって、僕はすごく嬉しかった。もしかしたら、このドラマがヒットするよりも嬉しかったかもしれない。
「普段の仕事をこなすのは大事だもんね。それにこのドラマはこれからまだまだ面白くなるし、お祝いならいつでもできるから」
「ひろしさんは冷静ですね。私なんて、今すぐひろしさんに会ってハグでもしたい気分なのに」
「そうだねえ。自分たちでは面白いドラマだと思っていても、いざ視聴者に受け入れられるか不安の方が大きかったから安心したというのが大きいからかな。それに受け入れられ過ぎたら、自分で自分の首を絞めかねないというジレンマがあるし。実際にその事で今電話したんだけど、本題に入る前に時間がなくなってきたから、今日の仕事が終わったらまた電話をしてもいいかな?」
「だめです。私は仕事が終わったら、美人マネージャー塚谷美樹から普通の美人塚谷美樹になるんです。なのでサービス残業なんてできません」
「あ、そうだよね。ごめんね、わがまま言って。また明日、現場で会ったら話すよ。それじゃ……」
「あー、ちょっと待ってください。そうじゃないでしょ。そのお、電話はだめだけど、直接会って話すなら大丈夫ですよ。ほら、なんて言うか、その、前にもこんな事があったような……。もおー、全部私に言わせないでください」
「もしかしたら、またこっちの家まで迎えにきてくれるの?」
「しょうがないなあ。ひろしさんがそこまでして頼むのなら行ってあげますよ。20時には余裕で着きますけど、大丈夫ですよね?」
「ありがとう。今日はその時間には家に帰ってるよ」
「それでは首を長くして楽しみに待っていてくださいね。社長の顔がまたすごく恐くなるといけないので、私は戻りまーす。ガチャ」
それに理不尽な悩みもあって、ドラマがヒットしたらそれだけ僕の正体を気づかれるリスクも高まるのだ。なので諸手を挙げて大勢の人に観てもらいたいとまでは言えない。僕のバスの仕事を100パーセント続けられる保障があるのなら、全国民に観てもらいたいというのが本音ではあるけれども。
そんな訳で、運転中に舞い上がりそうになっても、常に僕を押さえつけてくれる見えないシートベルトもあるので、今日も冷静に安全運転ができている。そして『名バス運転士ホームズ』の話をしているお客さんが乗ってこないまま昼過ぎのガラガラの時間帯を運行中に、一人の小学生が乗ってきた。寂しいことに、大きなバスの中には僕とその小学生だけだ。そのまましばらく走り、あの滅多に乗り降りのない健二さんと会ったバス停の名前のアナウンスが流れた時に、降車ボタンを押した音がバスの中に鳴り響いた。もちろん押したのは唯一の乗客の小学生だ。このバス停で降りるなんて珍しいなと軽く思ったが、今までも全くいなかったわけではないので間違って押したわけではないのだろう。例え間違って押したとしても、バス停に止まってから確認すればいいので全然問題はないが。
そしてしばらく走ると、そのバス停が近づいてきたので早めに減速して、そっとバスを止めて前のドアを開けた。すると小学生が何も言わず歩いてきたので、間違って押したわけではなかったんだと思い安心した。運賃箱のすぐ前まで来た小学生は、細かいお金を持ち合わせていなかったのだろう。慣れた手付きで、まずは千円札を両替する。そしてそこから運賃を入れ、残ったお金を財布に入れるのかと思いきや、僕に向かって唐突に言い放った。
「昨日の『名バス運転士ホームズ』は面白かったよ、山田ひろしさん」
「ありがとう。観てくれたんだ……」と、ここまで発して、僕は『狼狽バス運転士ひろし』になってしまった。
「やっぱり、山田ひろしだー。そうだとは思ったけど、いまいち自信がなかったんだよねー」
小学生の術中にあっさりはまってしまった恥ずかしさなんてなく、動揺しすぎて言葉が出て来ない。この小学生に聞きたい事や言いたい事はいっぱいあるのにだ。そんな僕の心情を察したのかマイペースなのか、小学生が言葉を続ける。
「昨日ドラマに出ていた山田ひろしが、まさかこんな所でバスを運転するなんて普通は信じられないよね? あっ、でも誰にも言わないから大丈夫だよ。だからそんな顔しないで」
そんな顔って、どんな顔なんだろう。今まで気づかれたと言っても、同業者だったので動揺はしたけど諦めもついた。がしかし、今回は一般の小学生だ。もしかしたら子供だから思った事をそのまま僕に向かって言えただけで、大人の乗客でも僕を僕を怪しいと思った人がいるのかもしれない。なんとかそういう想像をできる状態に回復はしてきたけれど、内容は悲観的な事しか思いつかないし、まだまだ言葉が出てきそうになかった。
「ごめんなさい、ひろしさん。そんな困らせるつもりはなかったの。ただ嬉しかっただけなの」
悲しげに俯いたその小学生を見て、僕は申し訳ない気持ちからか少し冷静になってきた。なのでフォローする言葉を必死に考える。バス運転士は子供に優しく接するものだ。
「あ、ごめんね。ちょっと驚いただけだから。来週も『名バス運転士ホームズ』を観てくれる?」
「うん!」
両替された小銭をそのままにしてその小学生が降りていきそうになったのに気づくことができるくらいに、僕は落ち着いていた。
「お金忘れてるよ」と声をかけると、その小学生は子供らしくはにかみながら小銭を取り財布に入れた。そして降りそうになってすぐに立ち止まって振り返る。
「ありがとう、ホームズ」と笑顔で降りていった。
その笑顔は僕を完全に落ち着かせたので、残りは少なかったが終点までの道のりを完璧な安全運転で進むことができた。その間はお客さんがいなかったというのも大きいが。それでも自分の冷静なハンドルさばきを自画自賛したのは、僕は調子に乗っていたのだろう。気づかれて驚いたけれども、なんだかんだで役者としての山田ひろしを褒められたのは嬉しかった。あのドラマはどちらかと言えば大人向けなのに、小学生でも楽しんでくれたことが喜びを助長させもした。あの小学生だけが特別なのかもしれないが。例え一人だけでも、観て面白いと思ってくれたのは事実だ。さらに嬉しそうに話しかけてくれるまでしてくれたのは純粋に幸せだった。
ただ、いつまでも舞い上がっていられない。この休憩時間はあまり長くはないが、すぐにでも塚谷君と作戦会議をしないといけないだろう。事務的書類の山に押しつぶされそうになっているであろう塚谷君に電話をかけた。
「もしもし、ひろしさん。そろそろかかってくると思ってから5時間ずっと気が気でなかったので、仕事が手に付かなかったじゃないですか。おかげで社長のものすごい目に見られながら、書類の山からノートパソコンを救出するのに手間取りましたよ。それにしても何をしてたんですか?」
「仕事に決まってるじゃないか。今日はバスの方の仕事だというのを知らなかったの?」
「冗談じゃないですか。もちろん知ってましたよ。まあ最近はどっちの仕事もバスの仕事なので、何かややこしいですね。あっ、大丈夫ですよ。ひろしさんの名前を聞いて急に優しくなった社長に見送られて、もう誰もいない所まで逃げてきました。だからなんでも話せますよ」
「へえー、社長が僕の名前を聞いて優しくなることなんてあるんだね? そう言えば、美樹も嬉しそうだけど、何かあったの?」
「そりゃあ、ひろしさん主演のドラマの第1話の数字が良かったからに決まってるじゃないですか。早く知らせたかったのに、こっちから電話してもバスの運転をしてるだろうから出られないし。だから、ずっとずっとずーっと、ひろしさんから電話が来るのを待ってたんですよ。そんなんだから事務仕事にだって手を付けられなかったんです」
事務仕事に手を付けられないのは、いつものことなんだろうけど、早く僕に知らせたいと思っていたのは事実だろう。なので照れ隠しのために怒ったふりをしている塚谷君のご機嫌をとるために、一応謝罪から入ろう。
「ごめんごめん、迷惑かけたね。それでそんなに数字が良かったんだ?」
「はい! 数字だけじゃなくて評判もいいんですよ。だから事務所の中がお祭り騒ぎになるかと思ったんですけど。でも、みんなが私のデスクを見たかと思うと、何事もなかったかのように淡々と仕事を始めるんです。社長にいたっては、私とマンツーマンで仕事をするし。だから盛り上がりに欠けてるんですけどね」
社長をはじめ事務所のみんなは塚谷君のことを思って、あえて通常通りに仕事をしているのだろう。塚谷君がみんなに愛されていることが分かって、僕はすごく嬉しかった。もしかしたら、このドラマがヒットするよりも嬉しかったかもしれない。
「普段の仕事をこなすのは大事だもんね。それにこのドラマはこれからまだまだ面白くなるし、お祝いならいつでもできるから」
「ひろしさんは冷静ですね。私なんて、今すぐひろしさんに会ってハグでもしたい気分なのに」
「そうだねえ。自分たちでは面白いドラマだと思っていても、いざ視聴者に受け入れられるか不安の方が大きかったから安心したというのが大きいからかな。それに受け入れられ過ぎたら、自分で自分の首を絞めかねないというジレンマがあるし。実際にその事で今電話したんだけど、本題に入る前に時間がなくなってきたから、今日の仕事が終わったらまた電話をしてもいいかな?」
「だめです。私は仕事が終わったら、美人マネージャー塚谷美樹から普通の美人塚谷美樹になるんです。なのでサービス残業なんてできません」
「あ、そうだよね。ごめんね、わがまま言って。また明日、現場で会ったら話すよ。それじゃ……」
「あー、ちょっと待ってください。そうじゃないでしょ。そのお、電話はだめだけど、直接会って話すなら大丈夫ですよ。ほら、なんて言うか、その、前にもこんな事があったような……。もおー、全部私に言わせないでください」
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