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第21話
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「兄さん、何を考えてるの。そんな事したら、さらに罪が重くなるじゃない」
「もう今さら刑務所に入る期間が2、3年延びることなんてどうでもいい。ただ、お父さんとお母さんの墓の前に行って謝らないと」
「そんなの、今じゃなくてもいいでしょ」
「いや、今しかない。それを済まさないと安心して自首できないよ」
「そう。それなら、私も一緒に行く。とめても無駄だから」
すぐにでもトラックを発車させたい兄はそれ以上は何も言わず、妹が助手席に座るのを待った。こんなに大きなトラックを運転するなんて自動車学校で運転して以来何年かぶりだった兄ではあるが、最初に発進する時にぎこちなかっただけで、すぐに持ち前の運転センスを見せわざわざ狭い路地のある方へ入っていった。そうすれば、追いつかれることはあってもブロックすれば追い抜かれることはないと踏んだのだ。後は信号無視や一方通行の逆走を上手くやれば、刑事が乗っているとはいえ一般人が運転するタクシーくらいならまく自信はあった。そのへんは交番勤務で培った土地勘が大いに役立つことになる。
「兄さん、こんな狭い道に入って大丈夫なの?」
「大丈夫さ。逆に狭い方が都合がいい」
「きゃー。前から車が来たよ」
「大丈夫だって。あの車はあの少し広くなってる所で必ず止まるから。それよりも、お前がうるさくて運転に集中できないから、恐いなら目をつぶっておけよ」
「なによー、私に心配ばっかりかけて」
「そうだな……悪かったな……」
「兄さんは悪くないわよ。兄さんは……」
「怒ったり泣いたり、忙しいやつだな」
「何を笑ってるのよ。兄さんなんて嫌いって、こんな所を曲がれるの?」
「なんだ、まだ目を開けてたのか。懲りないやつだな」
「兄さんの妹なんだから、懲りることなんてあるわけないでしょ」
「そうだな」
何事もなく曲がった後は、妹は静かに前だけを見ていた。信号無視をしたり一方通行を逆走しても何も言わなかった。言っても無駄だと思ったのか、それとも兄の気持ちを十分に理解して当たり前の事をしていると思ったのかは定かではないが、安心して乗っていたのだけは真実だ。やがて、ずっと付いてきていたタクシーがバックミラーに映らなくなると、兄はトラックを停め、妹と共に雑踏の中に混ざっていった。そして、容疑者から逃亡者へなってしまった兄は、決死の思いで自由をほんの少しだけ延長するに至ったのだ。
トラックから降りて妹の手を取りながら徒歩で少し行ったところで「カット」の声がかかった時に、犯罪者の僕を、そこにいる誰もが拍手喝采で迎えてくれたのがすべてを表している。監督だけは、ただ目を潤ませて僕に向かって一回頷いたのみだったが。もちろん、それが一番の賛辞だったことは言うまでもない。
そのままの勢いで小野さんとしばらくハグをしていたが、このシーンの撮影を成功に導いた僕にとっての一番の功労者にお礼を言わなければいけないだろう。なのでトラックに戻ろうとしたら、小野さんが付いてきた。
「どうしたんですか、ひろしさん?」
「トラックにちょっと忘れ物があって」
「忘れ物? もしかしたら財布でも落としたんですか?」
「ううん。もっと大事な……お守りのようなものかな」
「お守りって、ひろしさんはなかなか古風なところもあるんですね。私も探すのを手伝いますね」
「えっ、いや、そんな。探すまでもないんだけど……」と言っている間にトラックに辿り着いたので、僕が運転席側を小野さんが助手席側のドアをほぼ同時に開けると、中は予想外に静かだった。てっきり塚谷君がいつもの笑顔でシートの後ろから飛ぶように出てくると思っていた僕は拍子抜けだ。
「ひろしさん、お守りは見つかりましたか?」
「見つからないねえ。まだ撮影が終わってないと思って隠れてるのかもね」
「ひろしさんのお守りは意志があるんですね」
小野さんは僕が冗談を言ったと思ったのかもしれない。具体的に言わなかった僕が悪いのは重々承知だけれど、こんな稚拙な冗談を言うと思われるのは心外なので、早くお守りの正体を発表するべきだろう。
「いや、お守りというのは……おーい、美樹ー。撮影は無事に終わったから、いつまでも隠れてないで出てきなさい」
「え? 美樹ちゃん? 美樹ちゃんがいるんですか?」
「うん。このシートの後ろに人が寝られるスペースがあるんだけど、まさか寝ちゃったのかな」
「へえー、そうなんですね。美樹ちゃんがお守りというのは分かるような……」
小野さんの言葉を聞き流して、僕は運転席に上がってからシートの後ろに目をやった。すると、ある程度は予想できていたが、塚谷君は気持ちよさそうに寝息を立てている。こんな塚谷君を叩き起こせるほど鬼ではないので、しばらくそっとしておいてあげることにした。なのに、助手席に上がってきた小野さんが、よく言えば気を利かせてしまった。
「あ、ほんとだ。美樹ちゃーん、撮影終わったよ」とさすがのよく通るきれいな大声で話しかけたので、塚谷君は起きてしまった。ということは全くなく、ピクリとも動かない。面白いし安心もした。
「しーっ、しーっ。小野さん、美樹をもう少し寝させといてあげて。どうせ僕がこのトラックを最初あった撮影拠点まで乗っていかないといけないから、せめてそれまでは美樹を休ませてあげたいと思って」
「あー、それなら、私も乗せていってくださいよ。マネージャーに言ってくるので、待っててくださいね。絶対ですよ」
「あっ、小野さん……。行っちゃった。まあついでだし、いいか」
僕も一応、スタッフの一人を捕まえて、トラックに乗って帰る旨を伝えてからすぐに戻ってくると、すでに小野さんが助手席に座っていた。当たり前だけど、少し待たせたからって怒る小野さんではない。
「来た来た。それじゃ、改めてお疲れさまです、ひろしさん」
「今日は特にお疲れさまだね。その分、達成感がすごいし、小野さんを本当の妹のように感じたよ。僕に妹はいないけどね。発車しまーす」
「私もそうですよ。だけど、ひろしさんとこうやって話すのは初めてだから、仕事の事は忘れてプライベートの事を話しましょうよ」
「プライベート?」
「はい。たまに現場で一緒になっても、ひろしさんは自分の出番が終わるとすぐに帰っちゃうし。私もなんですけどね。だからよく考えたらひろしさんの事を何も知らないし、ひろしさんも私の事を全然知らないでしょ? ひろしさんがこんなに車の運転が上手だなんて思いもしなかったんですからね。それも、こんなに大きなトラックを当たり前に操ってることが驚きですよ。私なんてペーパードライバーのようなものだから、ひろしさんが超能力者に見えますよ。どうしてこんなに上手なんですか?」
よりによって運転の事を聞いてくるなんてと思ったが、今日の流れを考えるとそれも当たり前だろう。だけど、正直にバス運転士をやっているなんて言えるわけがない。監督に説明した時は、僕はなんて言ったのかすらはっきりしなかったので、適当に嘘をつくわけにもいかなかった。
塚谷君がいてくれたなら上手くフォローしてくれただろうに、いるにはいるが今は夢の中で何か美味しいものでも食べているのだろう。全く助けにならないので、情け容赦なく起こしておけば良かったと思ったのも後の祭りだ。
早く何か答えないと気まずい雰囲気になるか、もっと悪いのは何か後ろめたい事があるのかと疑って裏でいろいろ調べられるかもしれない。冷静に考えれば、小野さんがそこまでするわけがないのだけれど、どんどん悪い方悪い方へと想像してしまう。
もう開き直って正直に話してしまおうか。内緒にしてくれるように頼めば、小野さんなら誰にも言わないでいてくれるような気がする。根拠と言えるものは何一つないけれど。
「もう今さら刑務所に入る期間が2、3年延びることなんてどうでもいい。ただ、お父さんとお母さんの墓の前に行って謝らないと」
「そんなの、今じゃなくてもいいでしょ」
「いや、今しかない。それを済まさないと安心して自首できないよ」
「そう。それなら、私も一緒に行く。とめても無駄だから」
すぐにでもトラックを発車させたい兄はそれ以上は何も言わず、妹が助手席に座るのを待った。こんなに大きなトラックを運転するなんて自動車学校で運転して以来何年かぶりだった兄ではあるが、最初に発進する時にぎこちなかっただけで、すぐに持ち前の運転センスを見せわざわざ狭い路地のある方へ入っていった。そうすれば、追いつかれることはあってもブロックすれば追い抜かれることはないと踏んだのだ。後は信号無視や一方通行の逆走を上手くやれば、刑事が乗っているとはいえ一般人が運転するタクシーくらいならまく自信はあった。そのへんは交番勤務で培った土地勘が大いに役立つことになる。
「兄さん、こんな狭い道に入って大丈夫なの?」
「大丈夫さ。逆に狭い方が都合がいい」
「きゃー。前から車が来たよ」
「大丈夫だって。あの車はあの少し広くなってる所で必ず止まるから。それよりも、お前がうるさくて運転に集中できないから、恐いなら目をつぶっておけよ」
「なによー、私に心配ばっかりかけて」
「そうだな……悪かったな……」
「兄さんは悪くないわよ。兄さんは……」
「怒ったり泣いたり、忙しいやつだな」
「何を笑ってるのよ。兄さんなんて嫌いって、こんな所を曲がれるの?」
「なんだ、まだ目を開けてたのか。懲りないやつだな」
「兄さんの妹なんだから、懲りることなんてあるわけないでしょ」
「そうだな」
何事もなく曲がった後は、妹は静かに前だけを見ていた。信号無視をしたり一方通行を逆走しても何も言わなかった。言っても無駄だと思ったのか、それとも兄の気持ちを十分に理解して当たり前の事をしていると思ったのかは定かではないが、安心して乗っていたのだけは真実だ。やがて、ずっと付いてきていたタクシーがバックミラーに映らなくなると、兄はトラックを停め、妹と共に雑踏の中に混ざっていった。そして、容疑者から逃亡者へなってしまった兄は、決死の思いで自由をほんの少しだけ延長するに至ったのだ。
トラックから降りて妹の手を取りながら徒歩で少し行ったところで「カット」の声がかかった時に、犯罪者の僕を、そこにいる誰もが拍手喝采で迎えてくれたのがすべてを表している。監督だけは、ただ目を潤ませて僕に向かって一回頷いたのみだったが。もちろん、それが一番の賛辞だったことは言うまでもない。
そのままの勢いで小野さんとしばらくハグをしていたが、このシーンの撮影を成功に導いた僕にとっての一番の功労者にお礼を言わなければいけないだろう。なのでトラックに戻ろうとしたら、小野さんが付いてきた。
「どうしたんですか、ひろしさん?」
「トラックにちょっと忘れ物があって」
「忘れ物? もしかしたら財布でも落としたんですか?」
「ううん。もっと大事な……お守りのようなものかな」
「お守りって、ひろしさんはなかなか古風なところもあるんですね。私も探すのを手伝いますね」
「えっ、いや、そんな。探すまでもないんだけど……」と言っている間にトラックに辿り着いたので、僕が運転席側を小野さんが助手席側のドアをほぼ同時に開けると、中は予想外に静かだった。てっきり塚谷君がいつもの笑顔でシートの後ろから飛ぶように出てくると思っていた僕は拍子抜けだ。
「ひろしさん、お守りは見つかりましたか?」
「見つからないねえ。まだ撮影が終わってないと思って隠れてるのかもね」
「ひろしさんのお守りは意志があるんですね」
小野さんは僕が冗談を言ったと思ったのかもしれない。具体的に言わなかった僕が悪いのは重々承知だけれど、こんな稚拙な冗談を言うと思われるのは心外なので、早くお守りの正体を発表するべきだろう。
「いや、お守りというのは……おーい、美樹ー。撮影は無事に終わったから、いつまでも隠れてないで出てきなさい」
「え? 美樹ちゃん? 美樹ちゃんがいるんですか?」
「うん。このシートの後ろに人が寝られるスペースがあるんだけど、まさか寝ちゃったのかな」
「へえー、そうなんですね。美樹ちゃんがお守りというのは分かるような……」
小野さんの言葉を聞き流して、僕は運転席に上がってからシートの後ろに目をやった。すると、ある程度は予想できていたが、塚谷君は気持ちよさそうに寝息を立てている。こんな塚谷君を叩き起こせるほど鬼ではないので、しばらくそっとしておいてあげることにした。なのに、助手席に上がってきた小野さんが、よく言えば気を利かせてしまった。
「あ、ほんとだ。美樹ちゃーん、撮影終わったよ」とさすがのよく通るきれいな大声で話しかけたので、塚谷君は起きてしまった。ということは全くなく、ピクリとも動かない。面白いし安心もした。
「しーっ、しーっ。小野さん、美樹をもう少し寝させといてあげて。どうせ僕がこのトラックを最初あった撮影拠点まで乗っていかないといけないから、せめてそれまでは美樹を休ませてあげたいと思って」
「あー、それなら、私も乗せていってくださいよ。マネージャーに言ってくるので、待っててくださいね。絶対ですよ」
「あっ、小野さん……。行っちゃった。まあついでだし、いいか」
僕も一応、スタッフの一人を捕まえて、トラックに乗って帰る旨を伝えてからすぐに戻ってくると、すでに小野さんが助手席に座っていた。当たり前だけど、少し待たせたからって怒る小野さんではない。
「来た来た。それじゃ、改めてお疲れさまです、ひろしさん」
「今日は特にお疲れさまだね。その分、達成感がすごいし、小野さんを本当の妹のように感じたよ。僕に妹はいないけどね。発車しまーす」
「私もそうですよ。だけど、ひろしさんとこうやって話すのは初めてだから、仕事の事は忘れてプライベートの事を話しましょうよ」
「プライベート?」
「はい。たまに現場で一緒になっても、ひろしさんは自分の出番が終わるとすぐに帰っちゃうし。私もなんですけどね。だからよく考えたらひろしさんの事を何も知らないし、ひろしさんも私の事を全然知らないでしょ? ひろしさんがこんなに車の運転が上手だなんて思いもしなかったんですからね。それも、こんなに大きなトラックを当たり前に操ってることが驚きですよ。私なんてペーパードライバーのようなものだから、ひろしさんが超能力者に見えますよ。どうしてこんなに上手なんですか?」
よりによって運転の事を聞いてくるなんてと思ったが、今日の流れを考えるとそれも当たり前だろう。だけど、正直にバス運転士をやっているなんて言えるわけがない。監督に説明した時は、僕はなんて言ったのかすらはっきりしなかったので、適当に嘘をつくわけにもいかなかった。
塚谷君がいてくれたなら上手くフォローしてくれただろうに、いるにはいるが今は夢の中で何か美味しいものでも食べているのだろう。全く助けにならないので、情け容赦なく起こしておけば良かったと思ったのも後の祭りだ。
早く何か答えないと気まずい雰囲気になるか、もっと悪いのは何か後ろめたい事があるのかと疑って裏でいろいろ調べられるかもしれない。冷静に考えれば、小野さんがそこまでするわけがないのだけれど、どんどん悪い方悪い方へと想像してしまう。
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