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第6話
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「じゃあ、迷惑ついでに、もう一つお願いをしてもいいかな?」
「嫌です。私を何だと思ってるんですか」
「あっ、ごめんごめん。忘れて」
「もおー、冗談じゃないですか。ひろしさんは真面目なんだから」
いいように扱われているけど、お願いをする身なので、我慢我慢。
「普段は自分で運転士して、撮影の前日か当日に東京まで帰ってるでしょ? だけど今日はちょっと特別に疲れたから、これ以上運転するのが辛いし、一晩寝ても回復してる自信がないんだよね。それで申し訳ないんだけど、明日の朝は東京の家じゃなくて、こっちまで迎えに来てくれないかな?」
「……」
「あれ? 塚谷君? 無理だったらいいから、気を使わないで断ってね」
この時間からは難しいけど明日になれば高速バスか電車を使って帰ればいいのだから、僕のわがままで塚谷君に負担をかけるわけにはいかない。塚谷君はなかなか話さないが、断りづらいのだろうか。塚谷君なら嫌な事は嫌とはっきり言うはずなのに珍しい。
申し訳ない気持ちになってきたその時、
「無理なわけないじゃないですか。めちゃくちゃ嬉しいです。いよいよ、ひろしさんの別宅に行けるんですね」
「ああ、塚谷君はうちに来たことがなかったかな?」
そう言えば、塚谷君は僕の別宅を知らなかった。あれだけ好奇心の強い塚谷君だけど、きちんと僕のプライバシーを尊重してくれる。やはり優秀な敏腕マネージャーだ。
「あるわけないじゃないですか。まさかどこの馬の骨とも知れない女を、私に断りもなく引き入れてるんじゃないでしょうね? やっぱり、ひろしさんの別宅を調べておくべきでしたね。でも、安心しれください。これからは私が四六時中見張ってあげますね。それでは住所を教えてください」
前言撤回だ。住所を教えるのが恐くなってきたけど、もう後には引けないみたいだ。うしろ髪を引かれつつ少し声も震えながら、僕は塚谷君に住所を教えた。
「分かりました。2、3時間で、いやそんなにかからないかな。遅くとも22時までには着けると思うので、楽しみに待っていてくださいね」
「え! 今から来るの?」
「はい。今すぐ電車で行って、そしてひろしさんの車でとんぼ返りすれば東京の家で寝られるので、明日は体調ばっちりで撮影に臨めますよ。ひろしさんも早く私に会いたいと思うので、長話はこれくらいにして出発しますね。あっ、しばらくマナーモードにするので電話繋がらないですからね。それでは、私も出発しんこーう。ガチャ」
塚谷君のあまりの身軽さに驚き、まるでうちわであおげば飛んでいきそうで、そしてそれを想像して一人で笑ってしまった。ここまでしてもらったので、せめて感謝の印として帰りがけに塚谷の大好物のドーナツをこれでもかと買って帰ることにした。
子供の頃には映画館で観るお金なんて持っていなかったので、テレビでしか観たことがなかったけど、それでも十分に味わうことができた興奮、感動、驚愕。
あんな大きなバスをまるで自分の手足のように颯爽と操るバス運転士と映画スターの両方に憧れ、悩みに悩んで俳優の道に進んだ時は、どんなに売れなくてもどんなに貧しくても幸せだったしずっと続けていくんだと心に誓っていた。通行人の役から始まり、しばらくすると脇役の脇役だけど役名のある人物を演じさせてもらい、そして少しずつ少しずつ セリフも多くなりアルバイトをしなくても俳優だけで食べていけるようになったのは、僕が努力したのもあるけどきっと事務所の社長が僕の知らないところで頑張ってくれたのだろう。
その社長の期待に応えるためにも真摯に俳優業に取り組んでいるうちに、いつしか主役に準ずる役も度々もらえるようになっていた。これは主役を演じるようになるのは時間の問題かなと、期待も兼ねつつ客観的に見ても考えるようになっていたけど、大した趣味もない僕は俳優業が安定し始めてきたら暇な時間が増えてきていて、そうなると街中を歩いている時に見かけたバスが子供の頃の夢を僕に思い出させるのは自然なことだ。
まるで見えない力で押されるように、その足で自動車教習所に向かい手続きをしてしまった。一応、この頃には僕に専属のマネージャーを付けてもらえていたので、事後報告だったけどあっさり承諾してくれた。その時は自家用車を持っていなかったので車の免許も持っていないと決めつけて、気まぐれに暇つぶしで車の免許でも取るのだろうと思っていたようだ。
でもまさか大型自動車2種免許を取ろうとしているとは気づかなかった、というよりもそういう免許があることすら知らなかったらしい。当時の塚谷美樹は。
しかし念願の免許を取得するだけで満足できるほど大人ではなかった僕は、日に日にバス運転士への憧れが強くなっていった。だけど、同じように大好きな俳優を辞めるという選択なんてあるわけがなく、毎日のように悩んでいるとセリフ覚えも悪くなりNGも少し多く出すようにもなっていた。それで僕の異変に気づいていた塚谷君が心配して相談に乗ってくれたのだ。
するとあっさり解決策を提示してくれた塚谷君の言う通りに、今のバス会社に応募して採用が決まり、世界に一人だけのダブルワークの幕開けとなったのだ。
ただ、塚谷君は条件を出してきて、バスの仕事は多くても週に3日までにしてできるだけ先々までの勤務表を作る事と、主役級の仕事は拘束時間が長いから話が来ても断らざるを得ない事と、そして掛け持ちで仕事をしているのを誰にも知られないようにする事を特に念を押された。
しばらくは順調に進んでいたのに、まさかあんな所で健二さんがバスに乗ってくるなんて。
今考えると、あの時は別人のフリをすれば良かったと思うけど後の祭りだし、もしそうしたとしてもやはり落ち着かなかっただろうし寧ろ嫌な気持ちになったかもしれない。なぜならなんとなくだけど、健二さんには嘘をつきたくない。それに起こってしまった事を、いつまでもくよくよしていても仕方がない。
これから何をするかが大事なのだから。
「嫌です。私を何だと思ってるんですか」
「あっ、ごめんごめん。忘れて」
「もおー、冗談じゃないですか。ひろしさんは真面目なんだから」
いいように扱われているけど、お願いをする身なので、我慢我慢。
「普段は自分で運転士して、撮影の前日か当日に東京まで帰ってるでしょ? だけど今日はちょっと特別に疲れたから、これ以上運転するのが辛いし、一晩寝ても回復してる自信がないんだよね。それで申し訳ないんだけど、明日の朝は東京の家じゃなくて、こっちまで迎えに来てくれないかな?」
「……」
「あれ? 塚谷君? 無理だったらいいから、気を使わないで断ってね」
この時間からは難しいけど明日になれば高速バスか電車を使って帰ればいいのだから、僕のわがままで塚谷君に負担をかけるわけにはいかない。塚谷君はなかなか話さないが、断りづらいのだろうか。塚谷君なら嫌な事は嫌とはっきり言うはずなのに珍しい。
申し訳ない気持ちになってきたその時、
「無理なわけないじゃないですか。めちゃくちゃ嬉しいです。いよいよ、ひろしさんの別宅に行けるんですね」
「ああ、塚谷君はうちに来たことがなかったかな?」
そう言えば、塚谷君は僕の別宅を知らなかった。あれだけ好奇心の強い塚谷君だけど、きちんと僕のプライバシーを尊重してくれる。やはり優秀な敏腕マネージャーだ。
「あるわけないじゃないですか。まさかどこの馬の骨とも知れない女を、私に断りもなく引き入れてるんじゃないでしょうね? やっぱり、ひろしさんの別宅を調べておくべきでしたね。でも、安心しれください。これからは私が四六時中見張ってあげますね。それでは住所を教えてください」
前言撤回だ。住所を教えるのが恐くなってきたけど、もう後には引けないみたいだ。うしろ髪を引かれつつ少し声も震えながら、僕は塚谷君に住所を教えた。
「分かりました。2、3時間で、いやそんなにかからないかな。遅くとも22時までには着けると思うので、楽しみに待っていてくださいね」
「え! 今から来るの?」
「はい。今すぐ電車で行って、そしてひろしさんの車でとんぼ返りすれば東京の家で寝られるので、明日は体調ばっちりで撮影に臨めますよ。ひろしさんも早く私に会いたいと思うので、長話はこれくらいにして出発しますね。あっ、しばらくマナーモードにするので電話繋がらないですからね。それでは、私も出発しんこーう。ガチャ」
塚谷君のあまりの身軽さに驚き、まるでうちわであおげば飛んでいきそうで、そしてそれを想像して一人で笑ってしまった。ここまでしてもらったので、せめて感謝の印として帰りがけに塚谷の大好物のドーナツをこれでもかと買って帰ることにした。
子供の頃には映画館で観るお金なんて持っていなかったので、テレビでしか観たことがなかったけど、それでも十分に味わうことができた興奮、感動、驚愕。
あんな大きなバスをまるで自分の手足のように颯爽と操るバス運転士と映画スターの両方に憧れ、悩みに悩んで俳優の道に進んだ時は、どんなに売れなくてもどんなに貧しくても幸せだったしずっと続けていくんだと心に誓っていた。通行人の役から始まり、しばらくすると脇役の脇役だけど役名のある人物を演じさせてもらい、そして少しずつ少しずつ セリフも多くなりアルバイトをしなくても俳優だけで食べていけるようになったのは、僕が努力したのもあるけどきっと事務所の社長が僕の知らないところで頑張ってくれたのだろう。
その社長の期待に応えるためにも真摯に俳優業に取り組んでいるうちに、いつしか主役に準ずる役も度々もらえるようになっていた。これは主役を演じるようになるのは時間の問題かなと、期待も兼ねつつ客観的に見ても考えるようになっていたけど、大した趣味もない僕は俳優業が安定し始めてきたら暇な時間が増えてきていて、そうなると街中を歩いている時に見かけたバスが子供の頃の夢を僕に思い出させるのは自然なことだ。
まるで見えない力で押されるように、その足で自動車教習所に向かい手続きをしてしまった。一応、この頃には僕に専属のマネージャーを付けてもらえていたので、事後報告だったけどあっさり承諾してくれた。その時は自家用車を持っていなかったので車の免許も持っていないと決めつけて、気まぐれに暇つぶしで車の免許でも取るのだろうと思っていたようだ。
でもまさか大型自動車2種免許を取ろうとしているとは気づかなかった、というよりもそういう免許があることすら知らなかったらしい。当時の塚谷美樹は。
しかし念願の免許を取得するだけで満足できるほど大人ではなかった僕は、日に日にバス運転士への憧れが強くなっていった。だけど、同じように大好きな俳優を辞めるという選択なんてあるわけがなく、毎日のように悩んでいるとセリフ覚えも悪くなりNGも少し多く出すようにもなっていた。それで僕の異変に気づいていた塚谷君が心配して相談に乗ってくれたのだ。
するとあっさり解決策を提示してくれた塚谷君の言う通りに、今のバス会社に応募して採用が決まり、世界に一人だけのダブルワークの幕開けとなったのだ。
ただ、塚谷君は条件を出してきて、バスの仕事は多くても週に3日までにしてできるだけ先々までの勤務表を作る事と、主役級の仕事は拘束時間が長いから話が来ても断らざるを得ない事と、そして掛け持ちで仕事をしているのを誰にも知られないようにする事を特に念を押された。
しばらくは順調に進んでいたのに、まさかあんな所で健二さんがバスに乗ってくるなんて。
今考えると、あの時は別人のフリをすれば良かったと思うけど後の祭りだし、もしそうしたとしてもやはり落ち着かなかっただろうし寧ろ嫌な気持ちになったかもしれない。なぜならなんとなくだけど、健二さんには嘘をつきたくない。それに起こってしまった事を、いつまでもくよくよしていても仕方がない。
これから何をするかが大事なのだから。
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