路線バス運転士俳優ひろしの冒険

きよバス

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第2話

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 駅に向かう朝一番のバスということもあり、途中ほとんど乗り降りのないまま、一日を通しても滅多に停まることのないある地味なバス停に珍しく人がいるのが目に入った。だからって慌てず騒がず当たり前にバスを停め後ろ扉を開けて、その人が乗ったのを確認してさらに他には誰も乗る人がいないのを確認してから扉を閉め、発車しようとしたその時、今乗ってきた人が運賃箱のすぐ近くまで歩いてきた。何か聞く事でもあるのか先に両替でもするのかと思い、少し待っていると、
「お前、ひろしだよな?」
 失礼になるかもと思い、話す時以外はお客さんの顔をあまり見ないようにしていた僕は、聞き覚えのある声の問いかけに思わず振り向いて、初めて誰が乗ってきたのかを知った。僕が分からないはずがない人だ。
「け、健二さん! な、何で? 何でこんな所にいるんですか? いや、そうじゃなくて、運行中は業務に関係のない事は話せないので……すいません」
 驚きながらもなんとか声を抑えられたので、他の乗客には何を話しているかまでは分からなかったと思いたい。健二さんも驚いているようだけど、たぶん健二さん以上に驚いているかもしれない僕は必死で冷静になろうと努力した。もちろん簡単ではないので、はっきり言って動揺したままだ。でもバスは発車させないといけないので、周囲を確認してから車内も見ると、あっけにとられながらもまだ何か話したそうにしている健二さんとミラー越しに目が合った。
「すいません、安全のために座っていただけますか?」
「ああ、悪い悪い。すぐに座るから、ちょっと待ってくれ」
 言い終わるか終わらないかで、健二さんが座ってくれたので、僕はゆっくりバスを発車させた。エンストなんてせず、自分でも驚くくらいにスムーズに動かせたと心の中で自画自賛だ。うん、いくらか余裕はあるようだ。大事なお客さんを運んでいるのだから、これくらいで安全運転ができなくなるようではバス運転士失格なのだろうけど。
 ただ、久しぶりに会った健二さんに対して素っ気ない態度をとってしまった事を申し訳なく感じたが、今はバスを安全に運行させる事が最優先事項なので、心を鬼にして黙々と運転しなければならない。だけど気持ちとは裏腹にいろいろな雑念が次々に湧き出てくるので、終点である駅に着くまでの道のりは簡単ではないだろうと、まるで未知の惑星へ向かう宇宙船を操縦しているかのようなものすごい覚悟を持っていた。
 あの超大物有名人気俳優の小林健二が、東京から離れたこんな田舎のバスに、それも一番早い時間のさらにこの寂しげなバス停から乗ってくるなんて、夢でも見ているのかと本気で疑うほどだ。一瞬そっくりさんの可能性も考えたが、一言二言言葉を交わしただけとはいえ、僕が健二さんを見間違うはずがない。あの人は本物の小林健二だけれども、僕が運転しているバスにたまたま乗ってきたお客さんのうちの一人というだけなので、その経緯や事情を詮索する必要なんてあってはならない。
 そうか。健二さんの前に、大事なお客さんなんだ。それなら、いつもと同じ緊張感で運転すればいいだけだ。そう思えた途端に落ち着けたのに、すぐに別の雑念というか不安が襲ってきた。この時間は比較的にお客さんが少ないとはいえ、10数人は乗ってくるはず。もし誰かが伊達メガネ一つで顔を隠している健二さんに気づいたら、バスの中はちょっとした騒動になり、走行中にもかかわらずお客さんがあっち行ったりこっち行ったりと歩き回って車内事故のリスクが大幅に上がってしまう。
 そこからは、初めて一人でお客さんを乗せて運転した時と同じいやそれ以上の緊張感で駅までの道のりを進み、新しくお客さんが乗るたびにさらに緊張感は増していった。健二さんも察してくれているのか、それともただ単に自分が見つかりたくないのか、目立たないようにしてくれているのが救いだ。それでも、お客さんの誰もが健二さんに気づいてくれるなと心で祈りながら、さらには僕が必要以上に緊張しているのを悟られると理由を知らないお客さんは不安に思うだろうと、緊張が緊張を呼ぶ悪循環に陥ってしまっていた。だけど、安全運転だけは体が覚えてくれているようだ。
 今朝起きてすぐに布団から颯爽と飛び出した時には、今の僕を想像できただろうか。バスの暖房が効いているとはいえ、真冬にもかかわらずこんなに汗をかいている自分を。あの時イメージしたタカラジェンヌの男役が足元から崩れていき、残るは顔だけとなって平静を保つのにも限界に達しようとしたその時、なんとか無事に何事もなく駅に到着した。僕は生まれて初めて、神様に感謝したかもしれない。
 この喜びをどんなにか皆で分かち合いたいと思ったか。いつものように淡々と降りていくお客さんに対して、僕もいつものように淡々とお礼を言いながら、心の中では皆さんにハグをしたのは、これが最初で最後だろう。そして何も知らないお客さんが次々に一人また一人と降りていき、案の定最後にイスを立ったお客さんだけが運賃箱の横で立ち止まった。
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