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チワワは獰猛?

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 無傷で疲労もない阿部君を無事に塀の上まで引き上げると、私だけが少し腕がプルプルしていた。すぐに治まるだろう。そしていちいちそのプルプルを、阿部君に見せてアピールしない。バカにされこそすれ、労ってくれるはずがない。それにまだまだ関門がある。そう、着地だ。分かる人には分かるが、高い所へ上がるよりも下りる方が遥かに危険だから。
 と言っても、明智君は既に難なく下りて待っているし、私も油断しているわけではなく簡単に下りられる。問題はここでも阿部君なのだ。恐くて飛び降りられないらしい。無理して飛び降りてケガをされるよりは、正直に恐いと言ってくれて助かると、私と明智君は前向きに捉えている。
 それなら塀の上に上げた時のように、またロープにしがみついた状態で、私が下ろしてあげればいいじゃないかと無責任な事を言っている奴はいないよな? もしいるなら、そういう奴は腕立て伏せを1000回ほどしてくれ。今の私の腕の状態をはっきりと実感できるだろう。100パーセントに限りなく近い確率で、阿部君を落としてしまう。そうなったら、阿部君が受けた痛みの100倍が、私に返ってくる。私がいかに頑張ったかなんて評価するわけがない。結果がすべてなのだ。
 言い訳ばかりしていても埒が明かないので、阿部君には自力で下りてもらわなければならない。と言っても、下りた時の衝撃が可能な限り弱くなる方法を、手取り足取り教えながらだ。方法自体は簡単だ。……。いや、難しくても恥ずかしいことではないと言っておかないと、阿部君に何をされるか……。簡単かどうかは、各々が判断してくれるかい。自己責任だからな。
 では、方法を説明する。塀の上部からぶら下がった状態で体を伸ばし、そして手を離す。それならせいぜい1メートルほどを落ちるだけでいい。私が下で阿部君の両足を抱きかかえてゆっくり下ろすのは、なしだ。その力すらもないわけではない。プルプルはしていても、ほんの一瞬なら力が入るのだから。
 なぜだめなのかと言えば、答えはいたってシンプルだ。両足を抱えようとしたなら、阿部君のパンツが丸見えになるからだ。阿部君は私にパンツを見られても全くなんとも思わないが。阿部君の中では、私は明智君と同列なのだろう。もちろん良い方にとっている。しかし阿部君が気にしなくても、私からしたら立派なセクハラになってしまう。私は何かおかしい事を言ってるか? 言ってるよな。分かるぞ。みんなが引っかかっているだろう。
 怪盗の衣装なのに、パンツが見えるわけがないだろと。一般常識のある人なら、確実にそう思う。じゃあ聞くが、阿部君に一般常識があるのか? そう、ない。具体的に言えば、阿部君の快盗時の衣装は、トラの覆面にヒョウ柄のワンピースなのだ。オシャレを優先したのだ。なんか悔しいが、阿部君はそれでも自由自在に走って飛び回れる。飛び降りるのが無理なだけだ。精神的な理由で。
 そういうわけで、阿部君には是が非でも、自力で地面に飛び降りてもらわなければならない。実はプラス材料がある。以前の怪盗のミッション中に、同じような事があったのだ。塀を乗り越えて忍び込むのは怪盗の基本中の基本なのだから、あってもおかしくはないのだけれども。なので一回阿部君は無事に着地をして、成功体験として記憶にも体にも残っている。
 それでも私と明智君は不安でいっぱいだった。おそらく阿部君自身が一番不安だっただろう。だけどやるしかない。やらないと、怪盗引退の危機に陥るし、何よりも私にバカにされる。阿部君のプライドが、それだけは許さないのを、私は知っている。なので、私と明智君と自分自身の心配をよそに、阿部君はほんの1メートルを飛び降りた。いや、正確には手を離した。映画の主人公が追手から逃げるために決死の覚悟で滝壺に飛び込む雰囲気を、全身全霊で表しながら。
 生真面目な人なら、例え1メートルでも危険でないことはないと、私を諭すだろう。別に反論する気はない。時間の無駄だ。私たちは怪盗を生業にしているのだから、世間一般の安全第一主義及び何らかの事故にあった場合の責任転嫁とは無縁なのだ。
 話を進めると、決死の覚悟がほんの数秒前にあったことなんて記憶にない私たちは、悪徳政治家の家にゆっくり近づいていった。一応補足しておくか。今のところは、全員無傷だ。心配してくれてありがとう。
「そろそろドッグフードを袋から出してもいいんじゃないですか?」
 ちょうど出そうとしていた時に言われると、反抗したくなるものだけど、私は素直に阿部君に従う。間違っても、「さっきまでお荷物だったくせに、指図するんじゃねえよ」なんて言わない。心で思うだけだ。
「そうだね。阿部君と明智君は、私のそばにいるかい? それとも離れて……」
 既に私の声の届かない所にいた二人が、返事を返すはずがない。しかし、そんなに犬が恐いのだろうか。私は阿部君と明智君の方が恐いが。あいつらは自分たちの恐ろしさを知らないのか。不思議だ。
 悲しいかな、ミッション中に一人にされるのはなれているので、私は驚きもせず怒りもせず背負っていたリュックサックからドッグフードの入っている袋を取り出した。個包装されているドッグフードの袋は20袋持ってきている。疑問に思った人がいるようなので説明しておかないとな。ドッグフードが一つの袋に10粒だけなんてありえないよな。答えから言おう。この何もかもが規格外のドッグフードは一粒の大きさがゴルフボールくらいあるからだ。なっ? 一袋に10粒が妥当だろ。袋を開けドッグフードを3粒だけ手のひらに乗せ、忍び足で屋敷の方へ近づいていった。
 はっきり言って不安しかない。あの犬は飼い主である夫人に気づかれずに外に出られるのだろうか。出たら出たで、静かに私の元まで来てくれるのだろうか。来たら来たで、ドッグフードだけに目が行き無我夢中で食べてくれるのだろうか。私は一撃で仕留められるだろうか。唯一自信があるのは、このドッグフードに気づくということだ。何度も言うが、それだけのドッグフードなのだから。
 もう一つ不安があった。この家の半径1キロメートルくらいなら楽に匂いが届く。その範囲内にいる犬が大騒ぎしないように祈るしかないな。おそらく世間の犬たちの間でも、あの犬の家は特別だと知れ渡っている。だから、あんな美味しそうなドッグフードが食べられるのだと達観しているはず。うん、ポジティブに行こう。あの犬は夫人に気づかれずに私の手にあるドッグフードまで音も立てずにやって来て、セレブの犬らしく上品に静かに食べる。まるで置き物のようになっている犬を、私は自慢の空手チョップで難なく仕留める。私が立てた作戦なのだから、間違いなんて起こるはずがない。
 失いかけていた自信を取り戻し一歩足を進めると、何かに当たった。柔らかい。確かめなくとも分かるが、無意識に目が行く。やはり、夫人の犬だ。どうしよう? 私はこの犬を見くびっていたようだ。考え事をしていたとはいえ、こんな近くに来ていることに全く気づかなかった。それに私からしたら足が当たっただけかもしれないが、この犬からしたら蹴られたのだ。それでも鳴き声一つ出さずに、私をじっと見つめている。いや、睨んでるのか。これは、まずい。怒りのあまり声が出ないのだ。こんな時こそ落ち着こう。私は、まだ無事なのだから。
 この犬はチワワだな。昼間に聞こえた鳴き声から導き出していたように、やはり小型犬だった。チワワって確かかわいい見た目に反して獰猛ではなかっただろうか。いや、ただの噂だ。だって、こんなにかわいいじゃないか。でも一応教育しておくか。獰猛なのはだめだぞ、めっ!
 心の中で叱ってたしなめたので、この子はもうただのかわいい愛玩動物だ。と、都合よくいくのだろうか。阿部君明智君、助けておくれ。やって来るわけがない。仕方がない。開き直って戦ってやる。手加減はしないからな。かかってきなさい。
 ……。うん、どうした? なぜかかってこない? かかってこないなら、こちらからとは、私の主義が許さない。私はあくまでも私に危害を加えようとする者に対してだけ、暴力を振るうと決めているのだ。と、心のなかで言っていても意味がないな。このチワワに説明してやるか。なんかやりづらいな。
 うーん、またまた改めて見ると、かわいい顔をしているじゃないか。それにさっきは恐怖のあまり睨まれていると感じたが、何かを訴えているように見える。涙目だし。いや、チワワはそういうところがある。自在に涙目を作れると聞いたことがあるぞ。油断しないからな。油断はしないが何もしないのも間が持たないな。
 あっ。あー。なるほど。そういうことか。そうじゃないか。いきなり対面したから、ついついすっかり忘れていた。ドッグフードじゃないか。よし、待ってろよ。すぐにあげるからな。しかしお利口さんだな。明智君とえらい違いだ。明智君なら、とっくに私の手からもぎ取り、ポケットに忍ばせた分も引き釣り出し、リュックサックにある分はリュックサックごと脅し取っているところだぞ。比べるのは、やってはいけない事だな。それぞれの良い所があるし。何よりも個性は大事だ。くだらない事を言ってないで、この子に早くドッグフードをあげよう。
「ほら、お食べ」
「クーン……」
 おおー。幸せそうだな。私まで幸せな気分になってきたじゃないか。よくもまあ悪徳政治家の家にいて、こんな良い子に育ったなあ。反面教師になってくれたのだろうか。それとも柄にもなく、この子のことを考えて、躾だけは真面目にやったのだろうか。どちらでもいいか。こんなにかわいいのだから。
 おおー、食べたのかい。よしよし。すぐに追加するからね。
「ほらっ。美味しいかい?」
「クーン……」
 か、かわいい。連れて帰りたくなるじゃないか。でもそれは犯罪だな。怪盗は、誘拐という下の下の犯罪をするわけがない。でも明智君と交換してくれるように必死で頼めば……ないな。私が夫人の立場なら、明智君なんてただでもいらない。……。あっ、いや、その、明智君の事を何も知らないと仮定してだからな。見た目だけで判断するなら、いらないということだ。……。今、私は何気にすごく酷いことを言ってしまった。明智君、ごめんよ。おっ、またまたおかわりかい? ちょっと待ってね。
「ほらっ。いくらでもあるからね」
「クーン……」
「リィ-ダァ-……」「ヮ-ォ-……」
 ん? 誰か私を呼んだか? いや、空耳だ。それとも、もしやこのかわいいチワワの心の声が、私に聞こえたとか? そうかもしれない。よしよし、おかわりだね。
「はい、どうぞ。おいちいでちゅかー?」
「クーン……」「おえっ……」「ヴォエッ……」
 ん? 何か雑音が背後から聞こえたような。一応確かめておくか。このチワワに何かあったら大変だもんな。私が命にかえて守ってあげるからね。
 私は何が襲ってきてもいいように集中力を高め素早く振り向いた。すると世にも恐ろしい悪の権化が……。
「うおっ。阿部君明智君、なぜこんな所にいるんだ?」
「はあー?」「ワンー?」
 なぜイライラしているんだろう? そんなことどうでもいいか。こいつらにも、このかわいいチワワを見せてやろう。すぐにご機嫌さんになるぞ。悪よ、浄められたまえ……。
「このチワワを見てごらん。かわいいぞー」
「リーダー、大丈夫ですか? こんなタイミングでボケてしまって。ボール奪取作戦は無期延期ですね?」
「え? あっ、ああー、忘れてた。いや、違う違う。忘れるわけないじゃないか。阿部君と明智君をリラックスさせてあげようと。なにせ久しぶりの怪盗だからな。……。そんな目で見ないでくれるかい。阿部君明智君、すぐに盗ってきてくれ」
「そりゃあ、盗ってきますけど。早いとこ、その犬を気絶させてくださいよ」
「こらっ。怒るぞ。なんて酷いことを。貴様たちには人の心がないのか? 明智君は犬の心と言うのか? 意味合いが変わるかもしれないから、人の心で統一するぞ。それで……」
「はあー。明智君、ボールを盗りに行こうか。食べられるとしても。リーダーだけだよ」
「ワンッ!」
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