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みんなの協力があってこそ、作戦は完成されるのかもしれない
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私は余裕で塀の上部に手をかけようとした。しかし、ふと思い出してしまう。ジャンプしても届かないと判断したわけではないからな。変な誤解はしないでくれるかい。思い出したのは、随分前に阿部君パパを怪盗団の二軍に入れてあげたことだ。
阿部君と明智君にリーダーの私が低姿勢で謝ってから、急いで阿部君パパを呼びに行った。その場で交渉したかったのは山々だけど、阿部君と明智君を待たせるわけにはいかない。怖いからではなく、いや怖いからか、私がいない間に何をしでかすか想像できないからだ。
みんなが見ている前で上から目線で命令するのは、阿部君パパの自尊心を傷つけるかもしれない。なのでリーダーの私は、二軍の阿部君パパにも低姿勢でお願いする。それでもあえて一軍の阿部君明智君とは差をつけるために、目立たないように右手の親指をポケットに入れながらだ。左手は後頭部に添えておいた。
「阿部君パパ、すまないが、ほんの少しだけ手伝ってくれないか? 阿部君パパの人間離れした怪力を使わせてくれ。手を組んで私の足を空に向かって押してくれるだけでいい。もちろん靴は脱ぐし。ほら、このオシャレな手袋を貸してあげるぞ」
「私は、しがない俳優なので。怪力なんてとてもとても」
そう言いながらも阿部君パパは、私が差し出した手袋を猫パンチよろしく奪い取っていく。色は違うが、娘とお揃いの手袋は気に入ったようだ。貸すだけのつもりだったのに。どうやら今日の私は素手でミッションに臨まなければならなくなった。明智君だって素手でも文句を言わないのだから、私だって……。
「いや、それはおだてただけで、別にそれほど力は必要ない。ただ土台になってくれれば、それでいい」
ここからは耳打ちだ。阿部君と明智君には内緒にしてあるからだ。
「一軍に上がりたいだろ? 二軍はなんでも経験しないといけないぞ」
「ああー、怪盗団の二軍に入れてもらっていたことを、すっかり忘れてましたよ。だって全く活動がないじゃないですか」
「しょうがないだろ。阿部君パパは暇でも、阿部君ママが忙しいんだから。平等に扱ってあげないとな」
「そ、それはそうですね。だけど私はたまたま最近仕事がないだけですからね。それだけは言っておきますよ」
「分かった分かった。それで手伝ってくれるんだな?」
「もちろんです。喜んで手伝いますよ」
「よし。せっかくだから、お前にもう少し動いてもらおうか?」
「はい、リーダー! なんでも言ってください」
やけに必死だな。一軍に上がりたいのは分かるが、そのくせ今の今まで怪盗に関して何も言ってこなかったくせに。せめて収入だけでも阿部君ママに近づきたいのだな。その気持ち分かるぞ。よし、この事件が終わったら、手頃な所に盗みに連れて行ってやるか。ついでに勢いで阿部君と明智君にも発表してやろう。いちいち内緒話は疲れるし、初老の男がイチャイチャしているみたいで気持ち悪いもんな。
いや待てよ。取り分が減るから、明智君は大反対する。阿部君はわがままを言いづらくなるから、聞こえないふりをする。うーん、難しい。この私が解決策を見いだせないなんて、あってはならない。なので、忘れよう。今が大事だ。
まだ何も言ってないのに、阿部君と明智君が不審者を見るように私を見ている。二人の予知能力が発動しているのか? 嘘だ。そんなものは、ない。私がなかなかミッションに入らないので、怖気づいたと思われているだけだ。せめて口で言ってくれないだろうか。反論も言い訳もできないじゃないか。とりあえず内緒話は止めて、普通に話そう。二軍に関する話さえしなければいいだけだ。
「私たちがミッションを終えるまでに、少しの間でいいから警備についているあの警察官を入り口である大きな門から遠ざけてくれないか? できるだろ?」
「はい、簡単なことです。昼間に会っていて面識があるので。何を話したかは聞かないでください」
「ああ……」
こいつがあの警察官をパシリに使い、アンパンと牛乳を買いに行かせた上に、代金1万円を私に請求させたのを、私が知らないと本気で思ってないよな。都合の悪い事はすぐに忘れるのも、怪盗にとっての才能になる……わけないだろ。だけど、私は忘れよう。その方が精神的に良い。それに幸せだ。明智君と阿部君を見ていたら分かる。
阿部君パパが何か話している。言い訳か? ある意味被害者の私が忘れたのだから、いちいち蒸し返すなよ。うん? 違う。ああ、阿部君パパがする陽動作戦の説明か。聞いておかないとな。それに1万円の事はすぐにでも忘れよう。私に、阿部君や明智君のような高等テクニックを使えるのだろうか。
「事件解決のために、リーダーに言われて監視カメラの位置を確認しに来たとか言えば。ダミーとはいえ、場所を把握しておきたいと。加害者は必ずしもダミーだと知っているわけではないですからね」
「おお。なかなか良いアイデアだな。きちんと筋も通ってるし。それで連れ出して一緒に確認するんだな?」
「はい。あのわがまま捜査官たちが、是が非でも今日のうちに知りたいとごねていると言えば。全然怪しくないし、私に同情までしてくれて一緒に確認してくれますよ」
少し引っかかる言葉があったが、あの警察官を説得するためのものだろう。まさかこいつの本心ではないよな。阿部君と明智君も流しているし……なぜか私を睨んでいる。阿部君パパの二軍生活は長引きそうだ。
私は器の大きさを見せて、事なかれ主義で続けた。
「うむ。では、私たちが中に忍び込んだらすぐに実行してくれ。私たちは10分もあれば済むと思うが、阿部君パパの陽動作戦は念には念を入れてゆっくり1時間くらいかけてくれよ。と言わなくても、これだけの大きな家の周囲を歩くんだから、普通にそれくらいはかかるか。それでも万一私たちが門を出るのが目に入ったら、なんとか警察官の目を逸らせてくれ」
「分かりました。でもどうして入った時と同じように塀を越えないんですか? 私がいなくても、これだけの家なら足場になるような物がいくらでもあるでしょ」
「あるにはあるが、それを使うことによって侵入経路が知られてしまうだろ。次に忍び込む時の道が一つ遮断されてしまうじゃないか。お前の娘がまだまだここでたくさんの物を盗む気満々なんだぞ」
「あっ……。ひまわり、大丈夫だ。門から出られるから安心しなさい」
「まあ、それは大した理由ではない。標的なんていくらでもいるからな。一番の理由は、ひと仕事終えた後に、ゆっくりのんびり堂々と門から出るって、かっこいいだろ?」
「えっ……。じょ、冗談でしょ?」
「何を言ってるんだ。お前の娘と明智君を見てみろ」
「全力で警察官を引き止めます」
想像していたよりも高い塀のためにミッションが序盤から軽く躓いている間に、通行人がやってくる足音が聞こえてきた。時間が時間なだけに驚くことではない。私は冷静に車に戻るだけだ。素人同然の阿部君パパは焦って走り出す。逆に不自然に見えるというのに。阿部君は舌打ちをして、通行人に向かって何か悪口を言ってから車に戻る。通行人にはぎりぎり聞こえ……たかもしれない。明智君は横着して塀にへばりつく。普通のゴールデンレトリバーでも目立つのに、タイガーマスクのような覆面で変装しているゴールデンレトリバーは目立ちすぎる。はずなのに、通行人は何事もなく歩き去った。塀に描かれた落書きだと思ったのかもしれない。真相を知りたいが、明智君が見つからなかっただけで満足しておこう。
そして今度こそと思って車から出ようとしたら、遠くの方からまた一人の通行人がやってきた。リスクは冒したくないので、我慢強く待つだけだ。ついでに明智君を車に回収する。心配な事がないわけではない。待つのが苦手な人間と犬が一人と一頭いるのだ。一人は、せっかち、一頭は、飽きっぽいと違いはあるが。なので、結果私が一番焦ってしまう。
それでも天は私に味方してくれるようになっている。誰が何と言おうと、主人公は私なのだからな。何かためになる話をして気を紛らわせてあげようと、私の生い立ちでも聞かせようとしたちょうどその時、辺りは静けさに包まれた。しばらくは通行人が来ないということだ。私は戦国時代の武将になったつもりで、威勢よく号令をかけた。
阿部君は飲みかけの缶コーヒーを飲み切るか後で飲むか判断できない状態で、車から出た。明智君はうたた寝しようとしていたところを、私に引きづり出された。阿部君パパは、私の声に驚きうっかりハンドルに体重をかけてクラクションを鳴らしてしまった。幸い、警察官はおろか暇な野次馬候補も現れなかったが。
「阿部君、そのコーヒーを飲むくらいの時間はある。明智君、頼りにしているぞ。阿部君パパ、ミスは誰でもする。いかに挽回できるかで成長するものだ。阿部君パパはできる人だろ」
「はいっ!」「ワンッ!」「はいっ!」
阿部君はコーヒーを一気に飲み干し、空き缶を悪徳政治家宅に投げ入れた。道端にポイ捨てはだめだからな。明智君は、私に見えないように大あくびをしてすっきりした。普段は堂々と私の目の前であくびをするのに。
そして万年二軍の……一軍候補の阿部君パパはやる気の塊となって、軽々と私を塀の上に上げてくれた。すぐさまロープの束を優しく投げてくれる。私がほとんど動かないでキャッチできる絶妙な所に。いつの間に用意したのか、私はいちいち詮索しない。言葉一つで人間はこんなにも動けるという良い見本だ。阿部君パパの将来に一筋のか細い光が差した……かどうかまでは分からないが。
塀の上でロープをほどき下に垂らすと、これまた素早く阿部君パパが明智君の体にほとんど負荷がかからないように縛ってくれた。私が引っ張ると同時に明智君は塀を垂直に歩くようにして、難なく塀の上に上がってくる。ロープを外してあげると、明智君は待ち切れないとばかりに颯爽と飛び降りた。うたた寝をしなくてよかったな、明智君。していたら、寝ぼけて着地に失敗して、顔面が酷いことになっていたぞ。
次は一番厄介な阿部君だ。私も飛び降りて安定感のある地面でロープを支えたいところだけど、塀で擦れてロープが切れるのを危惧して、塀の上から動かなかった。阿部君が明智君に比べて重いからではない。阿部君が自力でロープを伝ってくれるならいいのだけれど、そんな疲れることはしない。なのでロープにしがみついている阿部君を、私は自慢の腕力で引っ張らないといけないのだ。
阿部君パパは、その間、見張りだ。長く感じただろう。娘に一言「少しはよじ登る努力をしろ」とか言ってくれればいいのに、と私は思う。しかし阿部君パパは何も言わない。阿部君をよく知っている阿部君パパは、言っても無駄だと知っているからだ。阿部君パパの名誉のために言っておくが、決して過保護に育てたわけではない。阿部君は生まれながらに、阿部君なのだ。それで説明は十分だろう。
そんな誰も得をしない叱咤激励よりも、最も優先すべき事があると、阿部君パパは信じている。見張りに集中して、万一誰かが来たなら、何か口実を作って足止めをする事だ。口実と言っても、時間を聞くのが精一杯だろうか。いや、迷子になったふりをして、交番の場所でも聞くかもしれない。筋金入りの方向音痴だと、口癖のように何度も言い訳をしながら。「向こうに警察官が立ってましたよ」と言われても、あれは人形でしたと言い張るだろう。必死になれば、言い訳なんていくらでも出てくるものだ。
しかし、阿部君パパは言い訳を考える必要がなかったのだ。運良く通行人がいなかったのもあるが、この私がすごく頑張ったから。阿部君は自分が一番頑張ったと信じているが。本気でな。だから誰もたしなめない。阿部君の機嫌が悪くなるうえに、たしなめた者が八つ当たりの最大被害者になるだけだ。もちろんそれ以外の者にも八つ当たりはやって来る。
阿部君と明智君にリーダーの私が低姿勢で謝ってから、急いで阿部君パパを呼びに行った。その場で交渉したかったのは山々だけど、阿部君と明智君を待たせるわけにはいかない。怖いからではなく、いや怖いからか、私がいない間に何をしでかすか想像できないからだ。
みんなが見ている前で上から目線で命令するのは、阿部君パパの自尊心を傷つけるかもしれない。なのでリーダーの私は、二軍の阿部君パパにも低姿勢でお願いする。それでもあえて一軍の阿部君明智君とは差をつけるために、目立たないように右手の親指をポケットに入れながらだ。左手は後頭部に添えておいた。
「阿部君パパ、すまないが、ほんの少しだけ手伝ってくれないか? 阿部君パパの人間離れした怪力を使わせてくれ。手を組んで私の足を空に向かって押してくれるだけでいい。もちろん靴は脱ぐし。ほら、このオシャレな手袋を貸してあげるぞ」
「私は、しがない俳優なので。怪力なんてとてもとても」
そう言いながらも阿部君パパは、私が差し出した手袋を猫パンチよろしく奪い取っていく。色は違うが、娘とお揃いの手袋は気に入ったようだ。貸すだけのつもりだったのに。どうやら今日の私は素手でミッションに臨まなければならなくなった。明智君だって素手でも文句を言わないのだから、私だって……。
「いや、それはおだてただけで、別にそれほど力は必要ない。ただ土台になってくれれば、それでいい」
ここからは耳打ちだ。阿部君と明智君には内緒にしてあるからだ。
「一軍に上がりたいだろ? 二軍はなんでも経験しないといけないぞ」
「ああー、怪盗団の二軍に入れてもらっていたことを、すっかり忘れてましたよ。だって全く活動がないじゃないですか」
「しょうがないだろ。阿部君パパは暇でも、阿部君ママが忙しいんだから。平等に扱ってあげないとな」
「そ、それはそうですね。だけど私はたまたま最近仕事がないだけですからね。それだけは言っておきますよ」
「分かった分かった。それで手伝ってくれるんだな?」
「もちろんです。喜んで手伝いますよ」
「よし。せっかくだから、お前にもう少し動いてもらおうか?」
「はい、リーダー! なんでも言ってください」
やけに必死だな。一軍に上がりたいのは分かるが、そのくせ今の今まで怪盗に関して何も言ってこなかったくせに。せめて収入だけでも阿部君ママに近づきたいのだな。その気持ち分かるぞ。よし、この事件が終わったら、手頃な所に盗みに連れて行ってやるか。ついでに勢いで阿部君と明智君にも発表してやろう。いちいち内緒話は疲れるし、初老の男がイチャイチャしているみたいで気持ち悪いもんな。
いや待てよ。取り分が減るから、明智君は大反対する。阿部君はわがままを言いづらくなるから、聞こえないふりをする。うーん、難しい。この私が解決策を見いだせないなんて、あってはならない。なので、忘れよう。今が大事だ。
まだ何も言ってないのに、阿部君と明智君が不審者を見るように私を見ている。二人の予知能力が発動しているのか? 嘘だ。そんなものは、ない。私がなかなかミッションに入らないので、怖気づいたと思われているだけだ。せめて口で言ってくれないだろうか。反論も言い訳もできないじゃないか。とりあえず内緒話は止めて、普通に話そう。二軍に関する話さえしなければいいだけだ。
「私たちがミッションを終えるまでに、少しの間でいいから警備についているあの警察官を入り口である大きな門から遠ざけてくれないか? できるだろ?」
「はい、簡単なことです。昼間に会っていて面識があるので。何を話したかは聞かないでください」
「ああ……」
こいつがあの警察官をパシリに使い、アンパンと牛乳を買いに行かせた上に、代金1万円を私に請求させたのを、私が知らないと本気で思ってないよな。都合の悪い事はすぐに忘れるのも、怪盗にとっての才能になる……わけないだろ。だけど、私は忘れよう。その方が精神的に良い。それに幸せだ。明智君と阿部君を見ていたら分かる。
阿部君パパが何か話している。言い訳か? ある意味被害者の私が忘れたのだから、いちいち蒸し返すなよ。うん? 違う。ああ、阿部君パパがする陽動作戦の説明か。聞いておかないとな。それに1万円の事はすぐにでも忘れよう。私に、阿部君や明智君のような高等テクニックを使えるのだろうか。
「事件解決のために、リーダーに言われて監視カメラの位置を確認しに来たとか言えば。ダミーとはいえ、場所を把握しておきたいと。加害者は必ずしもダミーだと知っているわけではないですからね」
「おお。なかなか良いアイデアだな。きちんと筋も通ってるし。それで連れ出して一緒に確認するんだな?」
「はい。あのわがまま捜査官たちが、是が非でも今日のうちに知りたいとごねていると言えば。全然怪しくないし、私に同情までしてくれて一緒に確認してくれますよ」
少し引っかかる言葉があったが、あの警察官を説得するためのものだろう。まさかこいつの本心ではないよな。阿部君と明智君も流しているし……なぜか私を睨んでいる。阿部君パパの二軍生活は長引きそうだ。
私は器の大きさを見せて、事なかれ主義で続けた。
「うむ。では、私たちが中に忍び込んだらすぐに実行してくれ。私たちは10分もあれば済むと思うが、阿部君パパの陽動作戦は念には念を入れてゆっくり1時間くらいかけてくれよ。と言わなくても、これだけの大きな家の周囲を歩くんだから、普通にそれくらいはかかるか。それでも万一私たちが門を出るのが目に入ったら、なんとか警察官の目を逸らせてくれ」
「分かりました。でもどうして入った時と同じように塀を越えないんですか? 私がいなくても、これだけの家なら足場になるような物がいくらでもあるでしょ」
「あるにはあるが、それを使うことによって侵入経路が知られてしまうだろ。次に忍び込む時の道が一つ遮断されてしまうじゃないか。お前の娘がまだまだここでたくさんの物を盗む気満々なんだぞ」
「あっ……。ひまわり、大丈夫だ。門から出られるから安心しなさい」
「まあ、それは大した理由ではない。標的なんていくらでもいるからな。一番の理由は、ひと仕事終えた後に、ゆっくりのんびり堂々と門から出るって、かっこいいだろ?」
「えっ……。じょ、冗談でしょ?」
「何を言ってるんだ。お前の娘と明智君を見てみろ」
「全力で警察官を引き止めます」
想像していたよりも高い塀のためにミッションが序盤から軽く躓いている間に、通行人がやってくる足音が聞こえてきた。時間が時間なだけに驚くことではない。私は冷静に車に戻るだけだ。素人同然の阿部君パパは焦って走り出す。逆に不自然に見えるというのに。阿部君は舌打ちをして、通行人に向かって何か悪口を言ってから車に戻る。通行人にはぎりぎり聞こえ……たかもしれない。明智君は横着して塀にへばりつく。普通のゴールデンレトリバーでも目立つのに、タイガーマスクのような覆面で変装しているゴールデンレトリバーは目立ちすぎる。はずなのに、通行人は何事もなく歩き去った。塀に描かれた落書きだと思ったのかもしれない。真相を知りたいが、明智君が見つからなかっただけで満足しておこう。
そして今度こそと思って車から出ようとしたら、遠くの方からまた一人の通行人がやってきた。リスクは冒したくないので、我慢強く待つだけだ。ついでに明智君を車に回収する。心配な事がないわけではない。待つのが苦手な人間と犬が一人と一頭いるのだ。一人は、せっかち、一頭は、飽きっぽいと違いはあるが。なので、結果私が一番焦ってしまう。
それでも天は私に味方してくれるようになっている。誰が何と言おうと、主人公は私なのだからな。何かためになる話をして気を紛らわせてあげようと、私の生い立ちでも聞かせようとしたちょうどその時、辺りは静けさに包まれた。しばらくは通行人が来ないということだ。私は戦国時代の武将になったつもりで、威勢よく号令をかけた。
阿部君は飲みかけの缶コーヒーを飲み切るか後で飲むか判断できない状態で、車から出た。明智君はうたた寝しようとしていたところを、私に引きづり出された。阿部君パパは、私の声に驚きうっかりハンドルに体重をかけてクラクションを鳴らしてしまった。幸い、警察官はおろか暇な野次馬候補も現れなかったが。
「阿部君、そのコーヒーを飲むくらいの時間はある。明智君、頼りにしているぞ。阿部君パパ、ミスは誰でもする。いかに挽回できるかで成長するものだ。阿部君パパはできる人だろ」
「はいっ!」「ワンッ!」「はいっ!」
阿部君はコーヒーを一気に飲み干し、空き缶を悪徳政治家宅に投げ入れた。道端にポイ捨てはだめだからな。明智君は、私に見えないように大あくびをしてすっきりした。普段は堂々と私の目の前であくびをするのに。
そして万年二軍の……一軍候補の阿部君パパはやる気の塊となって、軽々と私を塀の上に上げてくれた。すぐさまロープの束を優しく投げてくれる。私がほとんど動かないでキャッチできる絶妙な所に。いつの間に用意したのか、私はいちいち詮索しない。言葉一つで人間はこんなにも動けるという良い見本だ。阿部君パパの将来に一筋のか細い光が差した……かどうかまでは分からないが。
塀の上でロープをほどき下に垂らすと、これまた素早く阿部君パパが明智君の体にほとんど負荷がかからないように縛ってくれた。私が引っ張ると同時に明智君は塀を垂直に歩くようにして、難なく塀の上に上がってくる。ロープを外してあげると、明智君は待ち切れないとばかりに颯爽と飛び降りた。うたた寝をしなくてよかったな、明智君。していたら、寝ぼけて着地に失敗して、顔面が酷いことになっていたぞ。
次は一番厄介な阿部君だ。私も飛び降りて安定感のある地面でロープを支えたいところだけど、塀で擦れてロープが切れるのを危惧して、塀の上から動かなかった。阿部君が明智君に比べて重いからではない。阿部君が自力でロープを伝ってくれるならいいのだけれど、そんな疲れることはしない。なのでロープにしがみついている阿部君を、私は自慢の腕力で引っ張らないといけないのだ。
阿部君パパは、その間、見張りだ。長く感じただろう。娘に一言「少しはよじ登る努力をしろ」とか言ってくれればいいのに、と私は思う。しかし阿部君パパは何も言わない。阿部君をよく知っている阿部君パパは、言っても無駄だと知っているからだ。阿部君パパの名誉のために言っておくが、決して過保護に育てたわけではない。阿部君は生まれながらに、阿部君なのだ。それで説明は十分だろう。
そんな誰も得をしない叱咤激励よりも、最も優先すべき事があると、阿部君パパは信じている。見張りに集中して、万一誰かが来たなら、何か口実を作って足止めをする事だ。口実と言っても、時間を聞くのが精一杯だろうか。いや、迷子になったふりをして、交番の場所でも聞くかもしれない。筋金入りの方向音痴だと、口癖のように何度も言い訳をしながら。「向こうに警察官が立ってましたよ」と言われても、あれは人形でしたと言い張るだろう。必死になれば、言い訳なんていくらでも出てくるものだ。
しかし、阿部君パパは言い訳を考える必要がなかったのだ。運良く通行人がいなかったのもあるが、この私がすごく頑張ったから。阿部君は自分が一番頑張ったと信じているが。本気でな。だから誰もたしなめない。阿部君の機嫌が悪くなるうえに、たしなめた者が八つ当たりの最大被害者になるだけだ。もちろんそれ以外の者にも八つ当たりはやって来る。
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