上 下
19 / 62

あの白球を追いかけろ

しおりを挟む
 あの野球ボールはどこかから飛んできたのか、それともこの家の人の持ち物なのだろうか。悪徳政治家の家族構成は、私の知っている限り、悪徳政治家夫人とその息子だけだ。私がこの家から首尾よく獲物を盗った時に、息子とも対面した。言うまでもなく、私の顔は上手く隠したが。息子の方は顔を隠す必要がなかったので、私のみたところ40歳くらいだった。ということは、親子でキャッチボールをしたにしても、もう何十年も前のことだ。だけどあの野球ボールの汚れ具合からして、そこまでは古くない。というよりも、新品に近い。
 いつの間にか私の視線を追うように、阿部君と明智君も、その野球ボールをガン見している。明智君はあの野球ボールが凶器だろうが何だろうが、持って帰って自分のおもちゃにしようと企んでいるだろう。しかし阿部君は、名探偵の私が注視しているのだから、あの野球ボールが事件と何かしらの関係があると信じているだろう。凶器ではないと信じて疑っていないけど。なぜなら、まがりなりにも阿部君は被害者の誰とも判別のつかない悲惨な顔面を見ている。一つの軟式野球ボールがどこかから飛んできて当たった程度の傷ではなかったはず。被害者の状態を私は見ていないが、阿部君の話を聞いた限りでは、きっとそうだ。
 私だって、あの野球ボールが凶器だなんて確信していない。いや、凶器どころか事件に関係あるとも思わない。あの野球ボールを凶器として使うなら、何度も顔にぶつけるか握って殴打するかだ。効率が悪すぎるな。
 そうだ、とりあえず最初のきっかけが、あのボールとは考えられないだろうか。軟式野球ボールとはいえ、それなりのスピードで当たったなら、なかなかのダメージがある。気絶するまではなくても、痛くて動けない。そこを素手なり適当な大きさの石なりで百叩きだ。腕力に自信のない人でもとどめを刺せる。阿部君に聞かれたなら、この線で行くか。聞かれたならな。
 この推理に現実味を持たせてみよう。被害者と犯人は、ここで立ち話をしていた。すると飛んできたボールが不運なことに被害者を直撃。全然ありえるぞ。
 ただ、こんな阿部君が怪盗の偵察のためにひとまず身を隠そうとした場所で、立ち話なんてするだろうか。ありえるじゃないか。二人の関係が良好ではないなら、ここしかないと言っていいほどの絶好の穴場だ。最も考えられるのが、被害者が犯人を脅迫していたということだ。
 え? それなら完全に悪徳政治家夫人が犯人じゃないか。もともと悪徳な一家なうえに、夫と息子が様々な罪で逮捕され裁判中なのだ。さほど叩かなくてもホコリが出てくる。取っ掛かりとしては悪くない。でも思い込みは禁物だけどな。あのボールがあそこにあるということは、鑑識の人は事件と関係がないと踏んだのだから。たまたまうっかり屋さんの鑑識さんが派遣されて、灯台下暗しをやってしまったかもしれないが。鑑識さんも人間なのだから、誰も責めるんじゃないぞ。かわいそうだし、何よりも鑑識さんが真顔で、あのボールは事件と全く関係がないと断言したらどうするんだ。私が阿部君と明智君から軽く無視されるだろ。
 分かったなら推理を進めるぞ。次にあのボールはどこから来たのかだ。この家の物ではないと、私が論理的な名推理で実証したよな? だから屋敷の高い塀の向こう側から来たとしか考えられない。だけど逮捕されて免職したとはいえ、政治家の家の周囲でボール遊びなんて誰がする? 本当に遊んでいるだけでも、公安が難癖をつけて国家反逆罪とかで逮捕するかもと心配になるのだから。というより悪徳政治家一家が許さないだろう。消費税を上げてやるぞとか言って脅すに決まっている。ということは、まあまあ離れたところから飛んできたのだ。
 確かこの近くに野球ができるくらいの広場がある。私ほどでなくても、そこそこの助っ人外国人クラスの草野球青年なら、ここまで届くはず。ただ、どう考えても、あの高い塀が壁となってボールが直撃はしない。直撃はしないが、屋敷まで飛んで跳ね返って当たったことにするか。屋敷のどこかに、ボールが当たった跡があるはずだ。それも、すごく新しい。なかったらなかったでいい。そんなに真剣に探さないでおこう。なかったのではなく、見つけられなかったとしておかないといけない。それでボールがきっかけとなった推理が、あながち間違いではないぞと思わせられるだろう。私の凡庸な部下たちに。
 問題はボールそのものに、被害者に当たった痕跡があるかどうかだ。あったなら、話が早いし、私の天下がしばらく続く。しかしないなら、今現在の私の名推理が根底から崩れるだけでなく、阿部君と明智君に対して言い訳まで考えないといけない。まあ、言い訳は得意だから気に病むほどではないがな。犯人が地面やらで擦ってしまったとか言えばいいだろう。それで阿部君と明智君は納得する。
 それから、今、私が考えた仮説を披露してあげれば、二人はしばらく私を尊敬し続けてくれるはず。しかし間違った仮説なので、いつかは正直に話さないといけないが。それでも大丈夫だ。捜査とは、こういう可能性のあることを地道に消していくのも大事なのだと言えばいいだけだ。それなりに説得力はあるだろう。間違っても、私の見当違いをいちいちこれでもかとばかりにあげつらわないだろう。少なくとも、私は一つの筋の通った仮説を出したのだから。
 意を決した私は、阿部君と明智君の視線を感じながらボールへ一直線に向かった。明智君、ふざけてボール遊びをするんじゃないぞ。被害者なり犯人なりの痕跡が100パーセントないなら、明智君が汚してくれたらどんなにか嬉しいか。だけどまだ可能性がゼロではないのだ。
 でもまあ、明智君がボールをぐちゃぐちゃにすれば、明智君をとっちめる最高の理由ができるな。日頃の恨みなんて寝たら忘れるようにしてるが、正直なところそんな簡単に忘れられるものではない。そしてあのボールが凶器だろうが事件のきっかけだろうが、もしくは全く関係なかろうが、私はこの事件を解決する根拠のない自信があるのだ。明智君、ボールで遊びたいなら遊んでもいいぞ。
 無言の圧力を加えようと明智君を見たら、阿部君にがっちり押さえられて何か言われている。先手を取られてしまった。この事件を解決したい度で言えば、私や明智君の比なんかではないのだから、阿部君も必死だな。
 もし私と阿部君の置かれている立場が逆だったなら、あのボールはしばらく明智君のテリトリーから離れないだろう。そして約束の1週間が過ぎた後に、半笑いしながら阿部君が優しく手渡してくれる。このボールで自分がやりましたと言って自首するように勧めながら。いや、それはないか。明智君が路頭に迷ってしまう。せいぜい2、3日だな。2、3日の間、私があの手この手で明智君からボールを奪い取ろうとするのを、高みの見物だ。
 私も普段の腹いせに、あのボールをうっかり明智君の前で落としてやろうかな。だめだ、仕返しが想像すらできない。実を結ばない私怨なんて早く忘れないと。事件に集中集中。
 私は、明智君はおろか、おそらく屋敷のどこかから見ている私の中の第一容疑者の悪徳政治家夫人にもじゃまされず、無事にボールにたどり着いた。悪徳政治家夫人は監視カメラでは見ていないだろう。まだダミーだと思わせたいだろうから、スイッチを入れていないはずだ。でもこれで悪徳政治家夫人が犯人でないなら、どうしてダミーだと言ったのだろうか。こういう観点からも、悪徳政治家夫人が犯人だと疑いうる。だけど思い込みは危険だから、すべての証拠が揃うまではあらゆる可能性を視野に入れておこう。
 良いのか悪いのか、あらゆる可能性から、まずはこのボールが外される時が来たようだ。このボールが事件に関係あるかないかで言えば、関係ないように見える。ボールの下の草の押しつぶされ具合からして、昨日今日ここに置かれたものではない。それでも草がたまたまそんな風に成長したのだと言われれば、納得するしかないのだろう。ただ、草の状況だけが判断材料ではないのだ。そう、ボールそのものがきれいなのだ。
 軟式野球ボールが当たると同時に出血するかと言えば、するかもしれないが、しない時の方が多いだろう。だから赤黒い汚れがなくても、事件と関係がないとまでは言えない。しかし、血までとはいかなくても皮脂くらいは残るだろう。ボールに皮脂が付いているかどうかなんて見ても分からないが、もしかしたらそうかもという面影くらいは分からなくもないだろう。滑り止めをきちんと付けたきれいな手のピッチャーが投げて、汚れ一つないバットで打たれて、ここに来たとしかいいようがない。どう見ても、そんなボールだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

友よ、お前は何故死んだのか?

河内三比呂
ミステリー
「僕は、近いうちに死ぬかもしれない」 幼い頃からの悪友であり親友である久川洋壱(くがわよういち)から突如告げられた不穏な言葉に、私立探偵を営む進藤識(しんどうしき)は困惑し嫌な予感を覚えつつもつい流してしまう。 だが……しばらく経った頃、仕事終わりの識のもとへ連絡が入る。 それは洋壱の死の報せであった。 朝倉康平(あさくらこうへい)刑事から事情を訊かれた識はそこで洋壱の死が不可解である事、そして自分宛の手紙が発見された事を伝えられる。 悲しみの最中、朝倉から提案をされる。 ──それは、捜査協力の要請。 ただの民間人である自分に何ができるのか?悩みながらも承諾した識は、朝倉とともに洋壱の死の真相を探る事になる。 ──果たして、洋壱の死の真相とは一体……?

存在証明X

ノア
ミステリー
存在証明Xは 1991年8月24日生まれ 血液型はA型 性別は 男であり女 身長は 198cmと161cm 体重は98kgと68kg 性格は穏やかで 他人を傷つけることを嫌い 自分で出来ることは 全て自分で完結させる。 寂しがりで夜 部屋を真っ暗にするのが嫌なわりに 真っ暗にしないと眠れない。 no longer exists…

ファクト ~真実~

華ノ月
ミステリー
 主人公、水無月 奏(みなづき かなで)はひょんな事件から警察の特殊捜査官に任命される。  そして、同じ特殊捜査班である、透(とおる)、紅蓮(ぐれん)、槙(しん)、そして、室長の冴子(さえこ)と共に、事件の「真実」を暴き出す。  その事件がなぜ起こったのか?  本当の「悪」は誰なのか?  そして、その事件と別で最終章に繋がるある真実……。  こちらは全部で第七章で構成されています。第七章が最終章となりますので、どうぞ、最後までお読みいただけると嬉しいです!  よろしくお願いいたしますm(__)m

嘘つきカウンセラーの饒舌推理

真木ハヌイ
ミステリー
身近な心の問題をテーマにした連作短編。六章構成。狡猾で奇妙なカウンセラーの男が、カウンセリングを通じて相談者たちの心の悩みの正体を解き明かしていく。ただ、それで必ずしも相談者が満足する結果になるとは限らないようで……?(カクヨムにも掲載しています)

戦憶の中の殺意

ブラックウォーター
ミステリー
 かつて戦争があった。モスカレル連邦と、キーロア共和国の国家間戦争。多くの人間が死に、生き残った者たちにも傷を残した  そして6年後。新たな流血が起きようとしている。私立芦川学園ミステリー研究会は、長野にあるロッジで合宿を行う。高森誠と幼なじみの北条七美を含む総勢6人。そこは倉木信宏という、元軍人が経営している。  倉木の戦友であるラバンスキーと山瀬は、6年前の戦争に絡んで訳ありの様子。  二日目の早朝。ラバンスキーと山瀬は射殺体で発見される。一見して撃ち合って死亡したようだが……。  その場にある理由から居合わせた警察官、沖田と速水とともに、誠は真実にたどり着くべく推理を開始する。

どんでん返し

あいうら
ミステリー
「1話完結」~最後の1行で衝撃が走る短編集~ ようやく子どもに恵まれた主人公は、家族でキャンプに来ていた。そこで偶然遭遇したのは、彼が閑職に追いやったかつての部下だった。なぜかファミリー用のテントに1人で宿泊する部下に違和感を覚えるが… (「薪」より)

ロンダリングプリンセス―事故物件住みます令嬢―

鬼霧宗作
ミステリー
 窓辺野コトリは、窓辺野不動産の社長令嬢である。誰もが羨む悠々自適な生活を送っていた彼女には、ちょっとだけ――ほんのちょっとだけ、人がドン引きしてしまうような趣味があった。  事故物件に異常なほどの執着――いや、愛着をみせること。むしろ、性的興奮さえ抱いているのかもしれない。  不動産会社の令嬢という立場を利用して、事故物件を転々とする彼女は、いつしか【ロンダリングプリンセス】と呼ばれるようになり――。  これは、事故物件を心から愛する、ちょっとだけ趣味の歪んだ御令嬢と、それを取り巻く個性豊かな面々の物語。  ※本作品は他作品【猫屋敷古物商店の事件台帳】の精神的続編となります。本作から読んでいただいても問題ありませんが、前作からお読みいただくとなおお楽しみいただけるかと思います。

処理中です...