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1.26〈壊れ行く世界〉
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◇ ◇ ◇
「萌花、落ち着いて聞いて欲しい。お前の……お母さんが、今日……亡くなった」
小学校3年生の時、お父さんが私の肩を両手で支えるようにして目の前にしゃがみ込み、珍しく真面目な顔でそう言った。
「お母さん無くなったの? 消えちゃったの?」
その時の私には、『亡くなった』と言う単語の意味が分からなかった。
今にして思うと、言葉の意味と現実はどちらでも大した違いはなかったけど。
お父さんは悲しそうに笑って「そうだ」と頷いた。
私、萌花の両親は、この日から遡ること2年前に離婚している。
それはお母さんがネットゲーム依存症になり、家族からも心が離れてしまい、ゲームの世界から帰ってこなくなってから、わずか3ヶ月目のことだった。
まだ小学校に上がりたてだった私は育児放棄同然の対応しかしてもらっていないとはいえ、それでもお母さんと離れて暮らすのは嫌だったけど、お父さんと離れて暮らすよりは全然いいと思って黙って従うことにした。
ここで聞き分けのない悪い子になったら、お父さんまで居なくなってしまいそうな気がしたからだ。
時々笑ってくれたり抱きしめたりしてくれるお母さんの事は好きだった。だからお母さんが怒ったり殴ったり、私が居ないように振る舞うのは、全て私が悪いことをしたせいだと考えていた。
それでもやっぱり、お母さんの顔色だけを伺ってビクビクと生活するその頃の私にとって、ありったけの愛情を注いでくれるお父さんは私の生きる意味の全てだった。
黙って従ったのが良かったのか悪かったのかは分からない。私がわがままを言えば、もしかしたら両親は離婚せずに済んだのかもしれない。でも少なくとも私はお父さんと一緒に居られるその生活は嫌いじゃなかった。
だからたぶん私の選択は間違ってなかったんだと今でも思っている。
「……お母さんは本当にゲームの世界に行っちゃって、萌花とお父さんの居るこっちの世界からは無くなっちゃったんだ。悲しいけど、お母さんは大好きなギャラクシー・ファンタジア・オンラインの世界へ行けたんだよ」
悲しいけど、悲しいことじゃないんだ。とお父さんはいつもの様に私を抱きしめてくれた。
それからほどなくして、お父さんに紹介された『新しいお母さん』と一緒に、私たちは今住む新しいお家へと引っ越すことになった。
新しいお母さんは優しくて美人で料理も上手。お父さんも笑っていることが多くなったし、転校した学校で友達もできたし、私は新しい生活にすぐに慣れた。
親友になった早苗や芽衣と一緒にいると凄く楽しい。
お母さんも、私が「お菓子がもう一個食べたい」「テレビでアニメを見たい」なんて、ほんのちょっとずつわがままな事を言うようになると、前のお母さんとは逆に喜んでくれた。
私は変わったんだ。もう我慢しなくていいんだ。
そして私は、今の……本当の萌花になれた。
……そうか、前のお母さんって『GFO事件』で亡くなった死者49人のうちの一人だったんだ。
今まですっかり忘れていた小さいころの記憶を鮮明に追体験して、私は全てを思い出した。
どうりで私がGFOやりたいって言った時、お父さんが慌てた訳だわ。
あの時はお母さんが説得してくれて、お父さんも『学校の勉強を疎かにしないこと』『家族との時間を優先すること』……あとなんだっけ?
とにかく幾つかの約束をして、やっとゲームの設定をしてもらえたんだっけ。
「萌花、必ずお父さんとお母さんの所に戻ってくるんだよ」
イマース・コネクタに最後の設定をしながら、そう言ったお父さんの真面目な顔は今でもはっきり覚えてる。
完全没入型とは言え、たかがゲームに大げさだなぁと思ったけど、あれはお父さんの心からの言葉だったんだろうな。
そう言えば、そろそろゲームを終わらせてお父さんとお母さんと3人でご飯食べなきゃ。
また芽衣たちの話を教えてあげなきゃ。お肉屋さんでハムカツを買食いしたことも、来月からの甘城屋の新メニュー「抹茶ジェラートガレット」のことも教えてあげよう。
……あれ? でもなんだっけ? なにか大事な約束を忘れているような気がする……。
「萌花」
耳元で囁かれた自分の名前を呼ぶ声に、淡い痛みと幸せに縁取られた夢から、萌花は……ゆっくりと目を覚ました。
◇ ◇ ◇
目を開いた萌花の視界に最初に飛び込んできたのは炎。
周囲360度、のしかかるように燃え盛る炎は、まるで溶岩の壁のようにどっしりとした質量を持って渦巻いていた。
次に目に入ってきたのは、黒い短髪、黒い瞳、引き結ばれた唇。
シユウ72は、さも当然のように萌花を抱きかかえ、炎の中にゆったりと浮んでいる。
「気がついたか」
萌花のステータスを確認しているのだろう、手を伸ばせば触れられるほどの距離で彼女の目をじっと見つめるシユウに、彼女は戸惑い、頬を染めた。
「ちょっ……なんで抱っこしてるの?! 降ろして!」
シユウ72の顔を両手で押し返すようにして萌花は体をよじり逃れようとする。
頬を押されてむにっと変顔にされたシユウ72は、それでも表情を変えずに萌花を支え続けた。
「今は無理だ。私から離れたら萌花は炎のダメージで死んでしまう。それから、ここは空中だ。萌花には空中浮揚のスキルが無い。だから降ろすことは出来ない」
彼は冷静に説明し、それを聞いて周囲を確認した萌花は、とりあえず手を引っ込めて大人しく抱かれたままになる。
頬に感じる熱が自分の体から出ているものか、周囲の炎によるものかわからず、彼女はなんとか意識をシユウ72とは別の所に移そうと、一生懸命他の事を考えはじめた。
「えっと……とにかくどこか降りられる所に移動して」
「了解した」
シユウ72は萌花をお姫様抱っこしたまま無表情にそう答え、ゆっくりと空中を移動する。
周囲は一面の赤色なのだが、移動するにつれぬるぬると万華鏡のように周囲を滑るそれは数千数万の微妙に異なる「赤色」を見せ、萌花は一口に「赤」と呼んでいる色の多様性に目を奪われた。
「……あ、ところでケンタさんは? ……じゃなかった。ケンタさんと早苗と芽衣は? あと……もえさんとシユウさんとエリックさんも」
「皆それぞれ男が女を連れて避難したのを確認している。死者は居ない」
「……そっか。良かった」
シユウ72の『男が女を連れて』と言う言い方は好きじゃない表現だったが、とりあえず皆無事のようなので言葉遣いなどと言う些細なことについて彼女は許容する。
炎の壁を抜け、未だに濡れている湖の橋の上まで移動したシユウは、炎を防いでいたシールドを解除して、その苔生す石畳の上に萌花を下ろした。
ケンタから、いや、正確にはもえから借りているドレスの裾が汚れないように、萌花はスカートを両手でつまんでヒザ下くらいまでまくり上げる。
周囲を見回すと、避難してきた早苗や芽衣が思ったより近くに居ることに気付いた。
「みんな無事なのね! 良かっ――」
声をかけようとして、彼女の声は詰まる。
周囲に無数の黒いウィンドウを広げ、次々と流れるログをさも面白いモノを見ているかのように声を上げて笑いながら見つめるシユウと、その腕に抱かれて明滅しながらぐったりしている早苗の姿が目に入ったのだ。
その光景は狂気に溢れて見えた。
こちらを認めた芽衣が早苗たちから離れるように萌花に駆け寄り、その後ろにピッタリとエリックが続く。
彼女たちがこちらへ移動したことで、必然的に2人だけ離れた場所に置いてけぼりにされた形のシユウと早苗の姿を4人は声もかけられぬままただ見つめた。
――ザザッ。
シユウの目の前、橋の上の空間に突然ブロックノイズが走る。
同時にそこからニュッと突き出した銀色の刀身は、真っ直ぐにシユウへと向かった。
涙をながすほどに笑うシユウは、まるでそれを予期していたかのように障壁を張る。
重い電車が急ブレーキを掛けたような嫌な音が辺りに響き、刀とともにノイズから飛び出してきたケンタが、空中で体を捻って橋の上に着地した。
「くそっ! あつもりさんっ! コイツ動き速くなってるっすよ!」
ケンタの言葉と同時に、背後に発生したノイズから何発もの銃弾がシユウを襲う。
しかしそれも障壁に弾かれ、彼にはなんの損害も与えない。
「古の盟約により出でよ、猛けき暴風の王! 旋風」
こんな時でもシユウは『かっこいい呪文詠唱』をやめない。
詠唱の最初から実際に呪文が効果を表すまでのタイムラグにより攻撃魔法の到来を予期することが出来たもえは、ノイズの中からいち早く飛び出し、湿った石畳の上を転がってそれを避けた。
「いくら速度が速くても、そんなに予備動作が長い呪文なんか喰らいませんよ!」
立ち上がりざま、回避しにくい足元へ追加の銃弾を撃ち込む。
早苗を抱えたまま飛び退り、攻撃を避けたシユウの横腹を、ケンタの刃が薙ぎ払った。
「良い連携だ」
「カスミダチの剣戟を受け止めるんすか?!」
[レアリティ9]神威御剣カスミダチの切っ先は、シユウの右腕の金の篭手に受け止められている。
GFO世界において、最強の攻撃力を持つその最高レベルの剣戟は、躱された事はあれ受け止められたことはない。
振り上げられた篭手に剣を弾かれ、ケンタは空中でトンボを切って距離をとった。
『おかしいクマ。奴の使う魔法以外の全ての魔法の威力が弱まっているクマ』
ケンタの体に幾重もの強化魔法を重ね掛けしたあつもりの声が通信端末から漏れ出す。
その声と同時に、その時GFOに接続している全てのプレーヤーの視界にメッセージが表示された。
『UPDATE COMPLETED SUCCESSFULLY』
『アップデートは正常に完了しました』
『更新已成功完成』
皆訳も分からずその空中に浮かぶメッセージを眺める。
動きの止まった人々の中で、ただ一人シユウだけが笑い続けていた。
『聞け!』
くくくっと笑いをこらえながらシユウが叫ぶ。
その声はGFOに今現在接続している100万人以上のプレーヤー全員の通信装置に、問答無用で鳴り響いた。
『今、GFOは新たな世界に生まれ変わった! 新たな世界! 新たなルール! だが安心していい。新たなルールとは言っても、今までとそう大きく変わるものではない』
自らの言葉が、それを聴くすべての者たちに浸透するのを待つように、シユウは言葉を切り大きく息を吸った。
『最も大きな新ルールは、ログアウトは即ち現実の死を意味する。ただそれだけだ』
――ざわっ
世界の空気が変わる。
よろめいたもえはケンタに肩を支えられ、ただシユウを見つめる。
「壊してしまった……」
もえの唇から、小さなつぶやきが漏れた。
自らが親友と呼べる者たちと命をかけて救ったこの世界を、自らの作り出したボットが壊してしまったのだ。
「壊した? ちがうぞ創造主。俺は人間になりたかっただけなのに、運営がそれを許さなかったんだ。俺はただの人間になりたかった。その願いが叶わないなら――」
シユウの腕の中、その言葉を聞いていた早苗は、以前彼が語ってくれた望みを思い出す。
――人間になりたい。それが叶わないなら俺は心を持たないただのプログラムになってしまいたいんだ。
気弱にも感じるそんな言葉が、早苗の頭の中でリフレインした。
「――その願いが叶わないなら、全ての人間を俺と同じプログラムにしてやる! これでボットも不死者も、そして人間も全て同じ……プログラムだ!」
もえの世界がぐらりと傾き、暗転する。
周囲全ての者たちが見守る中、シユウは高笑いを響かせ、早苗とともに何処へともなく消え去ったのだった。
「萌花、落ち着いて聞いて欲しい。お前の……お母さんが、今日……亡くなった」
小学校3年生の時、お父さんが私の肩を両手で支えるようにして目の前にしゃがみ込み、珍しく真面目な顔でそう言った。
「お母さん無くなったの? 消えちゃったの?」
その時の私には、『亡くなった』と言う単語の意味が分からなかった。
今にして思うと、言葉の意味と現実はどちらでも大した違いはなかったけど。
お父さんは悲しそうに笑って「そうだ」と頷いた。
私、萌花の両親は、この日から遡ること2年前に離婚している。
それはお母さんがネットゲーム依存症になり、家族からも心が離れてしまい、ゲームの世界から帰ってこなくなってから、わずか3ヶ月目のことだった。
まだ小学校に上がりたてだった私は育児放棄同然の対応しかしてもらっていないとはいえ、それでもお母さんと離れて暮らすのは嫌だったけど、お父さんと離れて暮らすよりは全然いいと思って黙って従うことにした。
ここで聞き分けのない悪い子になったら、お父さんまで居なくなってしまいそうな気がしたからだ。
時々笑ってくれたり抱きしめたりしてくれるお母さんの事は好きだった。だからお母さんが怒ったり殴ったり、私が居ないように振る舞うのは、全て私が悪いことをしたせいだと考えていた。
それでもやっぱり、お母さんの顔色だけを伺ってビクビクと生活するその頃の私にとって、ありったけの愛情を注いでくれるお父さんは私の生きる意味の全てだった。
黙って従ったのが良かったのか悪かったのかは分からない。私がわがままを言えば、もしかしたら両親は離婚せずに済んだのかもしれない。でも少なくとも私はお父さんと一緒に居られるその生活は嫌いじゃなかった。
だからたぶん私の選択は間違ってなかったんだと今でも思っている。
「……お母さんは本当にゲームの世界に行っちゃって、萌花とお父さんの居るこっちの世界からは無くなっちゃったんだ。悲しいけど、お母さんは大好きなギャラクシー・ファンタジア・オンラインの世界へ行けたんだよ」
悲しいけど、悲しいことじゃないんだ。とお父さんはいつもの様に私を抱きしめてくれた。
それからほどなくして、お父さんに紹介された『新しいお母さん』と一緒に、私たちは今住む新しいお家へと引っ越すことになった。
新しいお母さんは優しくて美人で料理も上手。お父さんも笑っていることが多くなったし、転校した学校で友達もできたし、私は新しい生活にすぐに慣れた。
親友になった早苗や芽衣と一緒にいると凄く楽しい。
お母さんも、私が「お菓子がもう一個食べたい」「テレビでアニメを見たい」なんて、ほんのちょっとずつわがままな事を言うようになると、前のお母さんとは逆に喜んでくれた。
私は変わったんだ。もう我慢しなくていいんだ。
そして私は、今の……本当の萌花になれた。
……そうか、前のお母さんって『GFO事件』で亡くなった死者49人のうちの一人だったんだ。
今まですっかり忘れていた小さいころの記憶を鮮明に追体験して、私は全てを思い出した。
どうりで私がGFOやりたいって言った時、お父さんが慌てた訳だわ。
あの時はお母さんが説得してくれて、お父さんも『学校の勉強を疎かにしないこと』『家族との時間を優先すること』……あとなんだっけ?
とにかく幾つかの約束をして、やっとゲームの設定をしてもらえたんだっけ。
「萌花、必ずお父さんとお母さんの所に戻ってくるんだよ」
イマース・コネクタに最後の設定をしながら、そう言ったお父さんの真面目な顔は今でもはっきり覚えてる。
完全没入型とは言え、たかがゲームに大げさだなぁと思ったけど、あれはお父さんの心からの言葉だったんだろうな。
そう言えば、そろそろゲームを終わらせてお父さんとお母さんと3人でご飯食べなきゃ。
また芽衣たちの話を教えてあげなきゃ。お肉屋さんでハムカツを買食いしたことも、来月からの甘城屋の新メニュー「抹茶ジェラートガレット」のことも教えてあげよう。
……あれ? でもなんだっけ? なにか大事な約束を忘れているような気がする……。
「萌花」
耳元で囁かれた自分の名前を呼ぶ声に、淡い痛みと幸せに縁取られた夢から、萌花は……ゆっくりと目を覚ました。
◇ ◇ ◇
目を開いた萌花の視界に最初に飛び込んできたのは炎。
周囲360度、のしかかるように燃え盛る炎は、まるで溶岩の壁のようにどっしりとした質量を持って渦巻いていた。
次に目に入ってきたのは、黒い短髪、黒い瞳、引き結ばれた唇。
シユウ72は、さも当然のように萌花を抱きかかえ、炎の中にゆったりと浮んでいる。
「気がついたか」
萌花のステータスを確認しているのだろう、手を伸ばせば触れられるほどの距離で彼女の目をじっと見つめるシユウに、彼女は戸惑い、頬を染めた。
「ちょっ……なんで抱っこしてるの?! 降ろして!」
シユウ72の顔を両手で押し返すようにして萌花は体をよじり逃れようとする。
頬を押されてむにっと変顔にされたシユウ72は、それでも表情を変えずに萌花を支え続けた。
「今は無理だ。私から離れたら萌花は炎のダメージで死んでしまう。それから、ここは空中だ。萌花には空中浮揚のスキルが無い。だから降ろすことは出来ない」
彼は冷静に説明し、それを聞いて周囲を確認した萌花は、とりあえず手を引っ込めて大人しく抱かれたままになる。
頬に感じる熱が自分の体から出ているものか、周囲の炎によるものかわからず、彼女はなんとか意識をシユウ72とは別の所に移そうと、一生懸命他の事を考えはじめた。
「えっと……とにかくどこか降りられる所に移動して」
「了解した」
シユウ72は萌花をお姫様抱っこしたまま無表情にそう答え、ゆっくりと空中を移動する。
周囲は一面の赤色なのだが、移動するにつれぬるぬると万華鏡のように周囲を滑るそれは数千数万の微妙に異なる「赤色」を見せ、萌花は一口に「赤」と呼んでいる色の多様性に目を奪われた。
「……あ、ところでケンタさんは? ……じゃなかった。ケンタさんと早苗と芽衣は? あと……もえさんとシユウさんとエリックさんも」
「皆それぞれ男が女を連れて避難したのを確認している。死者は居ない」
「……そっか。良かった」
シユウ72の『男が女を連れて』と言う言い方は好きじゃない表現だったが、とりあえず皆無事のようなので言葉遣いなどと言う些細なことについて彼女は許容する。
炎の壁を抜け、未だに濡れている湖の橋の上まで移動したシユウは、炎を防いでいたシールドを解除して、その苔生す石畳の上に萌花を下ろした。
ケンタから、いや、正確にはもえから借りているドレスの裾が汚れないように、萌花はスカートを両手でつまんでヒザ下くらいまでまくり上げる。
周囲を見回すと、避難してきた早苗や芽衣が思ったより近くに居ることに気付いた。
「みんな無事なのね! 良かっ――」
声をかけようとして、彼女の声は詰まる。
周囲に無数の黒いウィンドウを広げ、次々と流れるログをさも面白いモノを見ているかのように声を上げて笑いながら見つめるシユウと、その腕に抱かれて明滅しながらぐったりしている早苗の姿が目に入ったのだ。
その光景は狂気に溢れて見えた。
こちらを認めた芽衣が早苗たちから離れるように萌花に駆け寄り、その後ろにピッタリとエリックが続く。
彼女たちがこちらへ移動したことで、必然的に2人だけ離れた場所に置いてけぼりにされた形のシユウと早苗の姿を4人は声もかけられぬままただ見つめた。
――ザザッ。
シユウの目の前、橋の上の空間に突然ブロックノイズが走る。
同時にそこからニュッと突き出した銀色の刀身は、真っ直ぐにシユウへと向かった。
涙をながすほどに笑うシユウは、まるでそれを予期していたかのように障壁を張る。
重い電車が急ブレーキを掛けたような嫌な音が辺りに響き、刀とともにノイズから飛び出してきたケンタが、空中で体を捻って橋の上に着地した。
「くそっ! あつもりさんっ! コイツ動き速くなってるっすよ!」
ケンタの言葉と同時に、背後に発生したノイズから何発もの銃弾がシユウを襲う。
しかしそれも障壁に弾かれ、彼にはなんの損害も与えない。
「古の盟約により出でよ、猛けき暴風の王! 旋風」
こんな時でもシユウは『かっこいい呪文詠唱』をやめない。
詠唱の最初から実際に呪文が効果を表すまでのタイムラグにより攻撃魔法の到来を予期することが出来たもえは、ノイズの中からいち早く飛び出し、湿った石畳の上を転がってそれを避けた。
「いくら速度が速くても、そんなに予備動作が長い呪文なんか喰らいませんよ!」
立ち上がりざま、回避しにくい足元へ追加の銃弾を撃ち込む。
早苗を抱えたまま飛び退り、攻撃を避けたシユウの横腹を、ケンタの刃が薙ぎ払った。
「良い連携だ」
「カスミダチの剣戟を受け止めるんすか?!」
[レアリティ9]神威御剣カスミダチの切っ先は、シユウの右腕の金の篭手に受け止められている。
GFO世界において、最強の攻撃力を持つその最高レベルの剣戟は、躱された事はあれ受け止められたことはない。
振り上げられた篭手に剣を弾かれ、ケンタは空中でトンボを切って距離をとった。
『おかしいクマ。奴の使う魔法以外の全ての魔法の威力が弱まっているクマ』
ケンタの体に幾重もの強化魔法を重ね掛けしたあつもりの声が通信端末から漏れ出す。
その声と同時に、その時GFOに接続している全てのプレーヤーの視界にメッセージが表示された。
『UPDATE COMPLETED SUCCESSFULLY』
『アップデートは正常に完了しました』
『更新已成功完成』
皆訳も分からずその空中に浮かぶメッセージを眺める。
動きの止まった人々の中で、ただ一人シユウだけが笑い続けていた。
『聞け!』
くくくっと笑いをこらえながらシユウが叫ぶ。
その声はGFOに今現在接続している100万人以上のプレーヤー全員の通信装置に、問答無用で鳴り響いた。
『今、GFOは新たな世界に生まれ変わった! 新たな世界! 新たなルール! だが安心していい。新たなルールとは言っても、今までとそう大きく変わるものではない』
自らの言葉が、それを聴くすべての者たちに浸透するのを待つように、シユウは言葉を切り大きく息を吸った。
『最も大きな新ルールは、ログアウトは即ち現実の死を意味する。ただそれだけだ』
――ざわっ
世界の空気が変わる。
よろめいたもえはケンタに肩を支えられ、ただシユウを見つめる。
「壊してしまった……」
もえの唇から、小さなつぶやきが漏れた。
自らが親友と呼べる者たちと命をかけて救ったこの世界を、自らの作り出したボットが壊してしまったのだ。
「壊した? ちがうぞ創造主。俺は人間になりたかっただけなのに、運営がそれを許さなかったんだ。俺はただの人間になりたかった。その願いが叶わないなら――」
シユウの腕の中、その言葉を聞いていた早苗は、以前彼が語ってくれた望みを思い出す。
――人間になりたい。それが叶わないなら俺は心を持たないただのプログラムになってしまいたいんだ。
気弱にも感じるそんな言葉が、早苗の頭の中でリフレインした。
「――その願いが叶わないなら、全ての人間を俺と同じプログラムにしてやる! これでボットも不死者も、そして人間も全て同じ……プログラムだ!」
もえの世界がぐらりと傾き、暗転する。
周囲全ての者たちが見守る中、シユウは高笑いを響かせ、早苗とともに何処へともなく消え去ったのだった。
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