氷炎の舞踏曲

小桜けい

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〔0〕 孤独なウロボロスについての記述

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――賑やかな王宮の夏至祭から、漆黒の髪の少年はこっそり抜け出した。

 嘘つきばかりで醜い人間たちの宴に付き合うのも、今夜はもう我慢の限界だ。
 彼と踊りたがる良家の姫は無数にいたが、気位が高くて下心丸出しの女達に、まるで魅力は感じなかった。

……でも、宴から上手く抜け出した所で、彼の楽園はもう無い。

 王妃の命により、改装という名目で瓦礫の山にされてしまった書庫の跡に、黒髪の少年は立ち尽くす。
 王宮の図書室に移動され残した本が、一冊転がっていた。拾い上げて埃を払う。

「ヘルマン、君ってウロボロスみたいだ」

 その声に、黒髪の少年――ヘルマンは振り向いた。

「ウロボロス?」

「われとわが身を喰らう、万物の蛇だよ。君は知っていると思った」

 背後に、正装をした金髪の少年が立っていた。
 愛嬌のある顔立ちだが、病気がちのせいで肌は青白く、痩せている。
 彼はヘルマン以上に宴から抜け出るなど許されない立場のはずだが、こっそり追いかけてきたのだろう。

「知っておりますよ。フリーデリヒ殿下。錬金術の本も一通りは読みました」

「ただのフリッツにしてよ。半分でも兄弟だし、歳も同じなんだから」

「……」

「ごめん。僕の母上が、君の大事な書庫を……」

「この書庫は、僕の所有物ではありませんし、王妃様のおっしゃる通り、老朽化が進んでおりました。どうぞお気になさらず」

 そしてヘルマンは、手にした本を瓦礫へと投げ捨てた……口元に、凍てついた冷笑を浮かべて。

「あ!」

「どうでも宜しいのですよ。失くして困るものなど、何一つ持ってはおりませんので」

 丁重な返答に、フリッツが叱られた子犬のような顔をする。
 それを見て、ヘルマンはわずかに眉をひそめる。プイと横を向いて、苛立ったような声で、話題を変えた。

「それで、僕がウロボロスとは、どういう意味です?――――フリッツ」

「ああ!そうそう」

 屈託のない笑みを浮かべ、王妃の息子は、パタパタとヘルマンに駆け寄った。

「ウロボロスは、自分の尾を食べて生きるんだろ?」

「ええ」

「他の存在に頼らない。何でも一人でできる君と、似てるなぁって」

「それは、お褒め頂いているのですか?」

「絶賛してるんだよ。今日のパーティーだって、女の子は皆、君に一声でもかけられるのを、亀みたいに首を伸ばして待ってる!君の事を、皆が認めてる!」

「……特に、嬉しくもありません」

「次の王には、君がなるべきだって、あちこちで話が出てたよ」

「はぁ、そうですか」

 少々呆れたような顔で、ヘルマンは異母兄を眺める。

「貴方の立場からすれば、そんな話を嬉しそうにするのは、少々おかしいと思いますが」

「そりゃ、立場からすればね」

 フリッツは、おどけた調子で肩をすくめた。

「ただ、僕の心は、『人には向き不向きがある。王位はヘルマンに押し付けて、フリッツは南の国で音楽家になるのが一番だ』って言ってるんだ」

「貴方にこの国の寒さは向かない事も、芸術の才能がある事も知っておりますが、そんなバカげた声には、耳を塞ぐべきですよ」

「やった!僕のピアノ、褒めてくれるんだ!?」

「……話の都合の悪い部分を、無視しないでいただけますか」

「あはは、ごめん。でも、嬉しかったんだ」

 ペロリと舌を出して、フリッツは笑う。

「僕は、君みたいに何でも完璧にはできないけど、音楽は本当に好きだから」

 呆れ顔で、ヘルマンはため息をついた。

「まぁ、正確に譜面どおりに弾くなら、僕にもできますが、貴方のように周囲の心を打つような演奏はできませんね」

「うわぁ、どうしたの!? 今日は大絶賛してくれるじゃないか!」

「僕はいつも、事実しか申し上げませんよ」

「今夜の夜会だってさ、僕はあいさつ回りよりも演奏をやりたかったんだ」

「踊り手からすれば嬉しいかもしれませんが、王妃様は許さないでしょうね」

 実際、今夜の演奏者は酷かった。
 急な代打らしいが、王宮での演奏に緊張したのか、間違えてばかりだったのだ。

「うん……。ピアノの方を見ただけで、ものすごくおっかない顔をされちゃったよ」

「当たり前です」

 夏の心地よい夜風が吹き抜けて、二人の髪を揺らす。

「そうだなぁ。ヘルマンでも……ダンスは、できないかもしれない」

 ふと、宮殿の灯りを眺めながら、フリッツが呟いた。

「え?」

「いくら君でも、ダンスは一人じゃ踊れない。パートナーがいなきゃ」

「おっしゃりたい事が、よく解りません」

「なんていうか……ウロボロスだって、他の生物と繋がりたい時が、あるかもしれない」

 少々言い辛そうに、フリッツは頭を掻いた。

「ヘルマンは、一人で何でもできちゃうけど……その……さっき、とても寂しそうに見えた」

「……」

「ねぇ。誰かに一緒にいて欲しくなったら、ダンスに誘えばいい。いつも強がってカッコつけてる君にも、それならできるだろ」

 あんまり驚いて、すぐに返答もできなかった。
 穴が開くほど、フリッツを凝視する。

「――――くっく。あはは……あっはっは!!」

 そしてヘルマンは、いつもの彼らしくもなく、ケラケラと子どもっぽい調子で笑い転げた。

「なるほど、とても良い事を学ばせて頂きました。フリーデリヒ王太子殿下」

「フリッツだって!」

「もし、そんな日が来たら、せいぜいカッコつけて、ダンスに誘う事にします」

 そして、ヘルマンはきびすを返し、スルリと優雅にフリッツの横を通り抜ける。
 小さく、低い声で囁いた。

「……いずれなんらかの形で、借りはお返しはいたします」

***

……若い頃の夢を見ていた事に、年老いた王は気がついた。
 夢の中では、自分は、『彼』になっていた。そんな事はありえなく、ただの夢のはずなのに、なぜか本当にあの時の『彼』の気持ちが、わかった気がした。
 老齢の身体はどんより重く、死期が迫っている事がはっきり解る。
 だが、恐ろしくは無い。
 生まれつき病弱で、二十歳まで生きられるかどうかという医者の見立てだったのに、孫の顔まで見れた。
 王位の後継者もきちんと定めたし、すべき事は済ませた。
 あとはたった一つ……『彼』に会うだけだ。

 部屋の中は静まり返っている。
 付き添いの医者や親族に、わがままを言って部屋から出て行ってもらった。
 だって、他の人がいたら、『彼』はこないだろうから。

「……ヘルマン。やっぱり来てくれたね」

 いつのまにか、寝台の傍らに静かに立っていた青年に、王は声をかける。
 漆黒の髪と紺碧だった瞳は、濃いグレーの髪と氷河のようなアイスブルーの瞳に変わっている。
 けれど、その他は若い青年のまま、彼の身体は時を留めていた。

「兄上に、きちんとお別れを言うのが礼儀かと思いましてね」

 にこやかな笑顔で、彼は言う。

 自分は別れの言葉も言わずに、黙って姿を消したくせに!
 十数年も経ってからひょっこり現れるまで、何回、彼を懐かしんで泣いた事か!

 ……悔しいから、絶対に言いはしないけど。

「息子に“手紙”の事を話したよ。きっと、あの子にも届く日が来るから」

 それを聞くと、彼は形のいい眉をひそめた。

「図々しい。郵便配達の真似事も、これでやっと終りのはずです」

「僕が死んだって、ウロボロスは、この国の守護神でいてくれるはずさ。全てのにかけて誓ってもいい」

 すっかり少年の口調に戻り、老王は横たわったまま、愉快そうにヘルマンを見上げた。

「……」

 彼はさらに眉をひそめ、プイと横を向く。とてもとても、悔しそうに。

「守護神などいませんよ。王をそそのかし、大陸諸国を荒らしまわって金をまきあげさせた、悪党がいただけです」

「でも、その悪党がいなかったら、わずかな鉱山と畑さえ、他の国に奪い取られ、とっくに民は飢え死にしていたよ。何度も、攻め込まれる寸前で、あの手紙が国の危機を救った」

「……」

「それもまた『事実』じゃないかな」

「あの手紙を書いた悪党は、この国が栄えようと滅びようと、どうだっていいのです。神も人間も……誰も必要とせず愛さない男でしてね」

「うん」

「ただ、貴方に借りがある。それだけだと、申しておりました」

「うん」

「……まぁ、伝えておきますよ。貴方がこの国の存続を望んでいて、少しばかり手を借りたがっている、と」

「ありがとう」

「手紙が届くかどうかは、保証できませんよ」

 ヘルマンが肩をすくめた。

「届くさ、絶対ね」

「大した自信です」

「……ハハ」

 もう、しゃべるのも大変だったけれど、なんとか笑ってみせた。
 手紙は、届くに決まっている。
 自分で気づいていないんだろうけど、彼の冷静で冷酷な心の奥底には、ちゃんと感情が息づいてるから。

(君はあの夜、僕に心底腹を立てた。そうだろ?君は悔しかったんだ!初めて僕に心を揺さぶられて、負けたんだから!)

 あの夜……フリッツを見た彼の瞳は、氷の奥底で燃え続ける、青く激しい炎のようだった。
 何でもできる彼を、今でもとても尊敬しているし、憧れている。
 けれど自分達は、王位こそ奪い合わなかったけど、生まれた瞬間からライバルだった。
 もっと仲良く共に歩める道もあったかもしれないけれど、結局はこんな奇妙な形で、生涯を着かず離れずですごした。

――まぁ、これはこれで悪くなかった。

 それに最後の最後で、もう一度、彼の心の琴線を、もう一度ゆさぶってやったんだから!

「……」

 心残りはもう何もなくなったから、安心して眼を瞑る。
 そして心の中で、祈った。
 神から見放された不毛の地で生まれ、神と全ての人間を見放した、この孤独な美しいウロボロスの為に。
 神ではなく、彼を支えひと時の安らぎを与えていた書物たちに、祈った。

――どうぞいつの日か、彼が『せいぜいカッコつけて』誰かをダンスに誘えますように。

 閉じた瞼の上に、ヒヤリと冷たい手が、そっと置かれた。


「おやすみなさい……フリッツ」

 ***

 ――ホールでは、楽士団が新たな曲を奏でだした。

「素敵な曲ですね。なんと言いますの?」
  
 サーフィがヘルマンに尋ねる。
 この国の舞踏会では馴染みの曲だが、彼女は初めて耳にしたのだろう。

「氷炎の舞踏曲。……フロッケンベルク15代目国王。『芸術王』と呼ばれたフリーデリヒ王の作曲したものです」

「国王陛下が作曲を?」

「くく……まぁ、風変わりな御仁でした」

 演奏者たちは、華やかな魔法灯火の下で踊る客達を、見事な演奏で喜ばせ、自分達も楽しそうに楽器を奏でている。
 その光景を眺めながら、ヘルマンはポツリと呟く。

「僕は、この曲が結構好きですよ」

(――フン。結局お前も、ただの平凡な人間に落ちたってとこか)

 ヘルマンの背後から、例の幻の男がそっと囁く。
 冷たい冷たい氷の息を吹きかけながら……。

 眼を瞑り、意識の中だけで振り向いた。
 どこまでも白く冷たい雪闇の中で、幻の男と向き合う。

(ええ。僕は最初から、ただの平凡な人間でしたよ。孤独が辛くて、寂しくてたまらなかった)

(……)

(僕は認めたんですから、君も偽りは止めたらいかがですか?)

(……気づいてたんだね)

(ええ)

 長身の男はふっと縮まり、黒髪に紺碧の瞳をした少年になる。
 まだ人間で……小さな子どもだった頃の、ヘルマン自身だった。

(忠告してあげているんだよ)

 剣呑な視線で、子どもは淡々と告げる。

(あの女も、いずれは裏切る。人は皆、嘘つきだ)

(彼女も完璧じゃない。嘘をつく事だって、あるかもしれませんね)

(だったら、心を許すべきじゃない。常に優位を確保すべきだ。弱みを見せちゃいけない)

(別に、裏切られても、かまいませんよ)

(……どうでも良いっていうの?)

(いいえ。そうじゃありません)

 静かに、ヘルマンは目の前の子どもに……遠い昔に、氷の魔物に捧げ凍てつかせてしまった自分に、語る。

(もし裏切られたら、僕は傷つくし、怒るでしょう。けれど、彼女が自分の意思でそうしたのなら、最後にはきっと許します)

(なんで……っそんな……っ!)

(彼女を、愛しているからです)

 その返答は、明らかに子どもを動揺させた。

(で、でも……!君は不老不死だ!彼女はあっという間に老いて死ぬ。そうしたら君はまた一人に……)

(君は本当に、臆病な子どもですね)

 両眼を細め、ヘルマンは子どもの黒髪をなでた。

(君は……他人事のように、言ってくれるんだね。でも、僕は……)

(君は僕自身、ですよね。僕が幼い頃に魔法で作り上げた、月光の精霊を使った僕の分身です。そして君のいた大切な書庫を壊され、君が消滅したと思い何もかもどうでもよくなった僕は、君の記憶まで捨て去ったはずだったのに……)

(僕が書庫を壊された時に一度、君を忘れてしまったせいだ。あれで君は心を凍りつかせて壊れたんだから、少しだけ償おうとしたんだ)

 不貞腐れた表情で、子どものヘルマンが呟いた。

(ええ。。そして、僕がもう二度と傷つかないように、ずっとその氷で守ってくれていましたね)

(……でも、君はも失う恐怖を乗り越えてサーフィを得た。僕はいらないみたいだ)

 泣き出しそうな顔の子どもを、抱きしめた。

(な……っ!?)

(いらないなんて、そんなわけないでしょう)

(だって……)

(君は、僕自身なんですから。決して僕を裏切らない。永遠に一緒にいてくれる、唯一の存在ですよ)

(……)

(臆病で、寂しがりで、カッコつけ屋ですが……くく)

 心底おかしくて、小さく笑った。

(困ったものですね。僕は……そんな自分が、けっこう好きです)



「ヘルマンさま?」

 キョトンとした顔のサーフィに、微笑む。

「……いえ。少し、考え事をしておりました」

 そして、情熱的な炎色の瞳をした妻に、氷河色の瞳をした錬金術師は、『せいぜいカッコつけて』手を差し出した。

「さぁ、踊っていただけますか?僕の愛しい人」
 

  ********************************************************



 寒い寒い書庫の中。
 魔法の火で身体は温まっても、心は冷えつく一方だった。
 ある日、書物から知った魔法で、もう一人の自分を創った。
 もう一人の「僕」は、あの狭い書庫の中でのみ存在できた。
 たくさん話をし、一緒に笑った。「二人」で寄り添って温まった。
 外の世界に引きずり出されてからも、何度も会いに行った。

 成長する本物の僕。
 いつまでも子どもの。書庫の「僕」。
 書庫が壊された時、「僕」は消えてしまったと思い、絶望した。
 全てに期待する事をやめ、何よりも愛していた本を投げ捨てた。
 自分を守るため、心を凍てつかせる道を選んだ。
 
 不老不死の薬を飲んで、朦朧とした意識の中……氷の魔物に囁かれた。

 あの言葉を、やっと思い出した。

『生かしてやろう。もう一人のお前が、自分を凍らせろと申し出たからね。……お前を助けたいそうだ』

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