氷炎の舞踏曲

小桜けい

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「9」白銀の獣、についての記述。

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 目を覚まし、サーフィは驚く。
 昨日までの気だるさや熱が、嘘のようにすっきりと消えていた。

 夢うつつで見たあの赤い輝きは消え、肌の色はいつもと変わらない。
 それでも、どこか以前と違う気がする。
 まるで、身体の内部がそっくり作りかえられたような感覚だった。

 おかしいのは、それだけではなかった。
 衣服はやはり、眠っている間に取り替えられたらしいが、サーフィが着ているのは、ローブでもドレスでもなかった。
 飾り気の少ないブラウスと、男の子のようなキュロットだった。

 こんな服装は、ごく幼い頃、ヘルマンに戦い方を教わっていた時以来だ。
 ドレスでも戦えるようにと、次第に訓練の時もドレスを着たままでいるようになったが、サーフィとしては、本当はこういった動きやすい服装の方が、好きだった。

 窓の外は暗く、もう遅い時刻らしい。
 部屋には鏡が無かったが、テーブルの上にはまた食事が置いてあり、コップの水にサーフィの顔が映る。
 髪はサイドテールに結われていたが、留めているのは黒いビロードのリボンで、髪飾りはテーブルの隅に置かれたままだった。
 ベットの足元には、こげ茶色のロングブーツがそろえて置いてあり、椅子の背には、えんじ色の上着がかけられている。
 どちらもサーフィの物らしく、ピッタリだった。

 身支度を終えると、とても空腹な事に気づいた。体調が良くなったせいなのだろうか。
 残さず食事を食べ終わっても、ヘルマンはまだ現れない。

……来ないほうが、良いはずなのに。

 返って不安で落ち着かない。
 扉には鍵がかかっていたし、右手の枷も外れない。
 仕方なく部屋の中をうろうろしていると、ようやく扉がノックされた。
 入っていたヘルマンが、サーフィの姿を見て微笑む。

「よくお似合いですよ。それと、気分はどうです?すっきりしましたか」
「は、はい」

 戸惑いながら、サーフィは返事をする。
 そして、その後ヘルマンがとった行動に、更に驚いた。
 彼はテーブルの上に乗っていた髪飾りを取り上げ、力任せに壁へ叩きつけたのだ。
 硬い石壁にあたり、赤い宝石に無残なひびが入る。もう一度叩きつけると、紅玉は完全に砕け、細かい無数の破片になった。

「ヘルマンさま!?」

 突然の奇行に、サーフィは立ち尽くす。

「この石はね、魔法石なんですよ」

 手の中に残った赤い破片たちを、ヘルマンは無造作に白衣のポケットへ突っ込んだ。ぽっかり穴があいてひしゃげた金細工は、床に投げ捨てられる。

「魔法石?」

 物心ついた時には、髪飾りはもう毎日付けられていた。
 ルビーでもないし、ざくろ石でもない。美しいが、変わった石だとは思っていたが……。
 首をかしげるサーフィに、ヘルマンが苦笑する。

「十八年前、あの男の依頼で僕が造ったものです……君を監視するためにね」

 あの男、とはカダムの事のようだが、こんな石で監視だなんて、まるで意味がわからない。

「これを付けているかぎり、君と周囲との会話は、全てあの男に筒抜けです。居場所さえもわかってしまう」
「な!?」
「ですから、君が僕に書斎で言った事を、あの男は知っていたのですよ」
「あ……」

 思いもよらなかった事実に、愕然とした。
 以前から、不思議に思っていたのだ。
 カダムはまるで、サーフィの行動を全て知っているような振る舞いをする事が、たびたびあった。それなら、全てつじつまが合う。

「ですが、なぜそれを壊したのです!?」

 しかし、ヘルマンはその質問には答えず、いきなりこう切り出してきた。

「それより、まずは謝らなくてはいけません」

 ニコリと微笑む。

「すみません。僕は君に、嘘をつきました」

「え……?」

 聞き間違いかと思った。

「ヘルマンさまが……嘘を?」

「はい」

「……」

 絶対に、嘘だけはつかない人だったのに……。
 それを、彼がどれほど重要に守っているか知っていただけに、衝撃的だった。
 ヘルマンは、ポケットから例の媚薬が入った瓶を取り出した。

「これは、媚薬ではありません」

「え!?」

「副作用で微熱は出ますが、催淫効果なんか、これっぽっちもありません」

「で……ですが……」

 あんなにも身体が熱く、狂おしいほど淫らな快感を呼び覚まされたのに……。

「思い込み、ですよ」

 どうやらサーフィの表情から、言いたい事がわかったらしい。

「戦場でよく使われる手ですがね。ただ小麦粉を丸めたものを、痛み止めだと信じさせて飲ませると、本当に苦痛が軽減したりする……。くく、君は心底、僕を信用してくれていたのですね」

「では……それは……?」

「未完成のホムンクルスを完成品にする、治療薬です」

「治療?」

「これでもう君は、血を飲む必要はありません。普通の人間と同じです」

「……」

 ポカンと口をあけたまま、言葉もなく、サーフィはヘルマンを見上げた。
 なんて日だろう。

 ヘルマンが嘘をついていて、媚薬は偽物で、そして……そして……自分は血を飲まなくても良くなった!?

 太陽が西から昇ったって、これ以上は驚かない!

「厄介な薬ですよ。三日間、続けて摂取させる必要があるうえ、ホムンクルスの身体が十八歳以上にならなくては効果がありません」

 小瓶を眺めながら、ヘルマンは苦笑する。

「おまけに、摂取のさせかたは品が無い。摂取する前後30分以上は、性的興奮状態を保たないといけませんからね」 

「ヘルマンさま!!」

 自分でも驚くような、悲鳴のような叫び声が上がった。

「どうして……どうして!私のために、誇りを捨てて下さったのですか!?」

 唇が、わなわな震える。

「それでは、それでは……まるで……ヘルマンさまが……」

 緊張と困惑とで、最後は消え入りそうなほど小さな声になってしまった。

「わ、私の味方のようでは、ありませんか……」

「君のため?」

 可笑しそうに、ヘルマンが笑う。

「とんでもない。全部、僕のためです」

「ヘルマンさまの?」

「あまり気が進みませんが、正直に懺悔しますよ」

 はぁ、とヘルマンが深いため息をつく。

「君に治療薬を摂取させるなら、僕がやりたいと……まぁつまり、ちょうどいい口実を設けて、君を抱きたかったのですよ」

「ええっ!?」

「まさか、僕を慈悲深い男だなんて思っていないでしょう?俗物の悪党ですよ。魅力的な女性に欲情を抱き、付け込む隙があればちゃっかり欲求を満たそうと差段をするくらい、平気でやります」

「ヘルマンさまも……私の母を好きだったのですか……」

 思わず出てしまったサーフィの呟きに、ヘルマンが眉をひそめた。

「はぁ?一体、どういう思考回路をしていたら、そうなるんですか?」 

「え!?あ……先ほど、魅力的だと……」

「っ……君という人は……!」

 ヘルマンは額に手を当てて、大きくため息をついた。
 信じがたいものを見るような呆れ顔で、ジロリとサーフィを睨む。

「君の事を言ったのに、決まっているでしょう」

「私……を?」

「僕は、君の母上をロクに存じませんと、申し上げたと思いますがね」

「……」

「僕が知っているのは、君自身だけですよ」

 頭の中がグチャグチャで、なんと言ったらいいか解らない。
 今までずっと、常にサーフィは、「東のサーフィ」の代理人形だった。
 カダムは勿論、それを承知で造ったヘルマンからも、そう見られているものだと思っていたのに……。

「……っ」

 知らず知らずのうちに、涙が頬を伝って、ポタポタと足元に落ちた。

「ヘルマンさま……私……わたしは……っ……なり…たかった……」

 夜毎見る夢に引きずられ、いつのまにか自分自身でさえも、自分が何者なのか、わからなくなってきていた。
 いや、本当は『東のサーフィ』が、羨ましかったのかもしれない。

 最期こそは不遇のものだったが、彼女は父母や友達に囲まれた幸せな子ども時代をすごし、尊敬する主君に使え、愛する男性と結ばれ、いつでも自分を偽ることなく生きた。
 カダムへの恨みを引き継ぐ事で、誰にも必要とされない吸血姫でなく、沢山の人に愛された『東のサーフィ』になりたかったのかもしれない。

(…………)

 サーフィの内側に巣食っていたあの声は、何も言わなかったけれど、小さく微笑まれた気がした。

――――そして、『東のサーフィ』は消えてしまった。

「っ………」 

 ヘルマンは黙って涙を拭ってくれたが、それについては、何も答えなかった。

「……それに、治療薬を作ったのは、君への借りを返すためです」

「私はヘルマンさまに何も……」

「昔、君は僕のケガに泣いてくれたでしょう?あれがね、とても嬉しかった」

「あ……」

 急いでヘルマンが立ち去ったのは、余計な気遣いをしたと、怒らせてしまったのだと、ずっと思っていたのに……。

「そういう事でして。全部、僕の勝手な都合です」

 ヘルマンは、ひょいと肩をすくめた。

「それで、ソフィア王妃にまで、一芝居うって頂きました」

「王妃さまが!?」

 今の会話だけで、もう何度目かにサーフィの目が丸くなる。
 ソフィア王妃は、憎い自分を傷つけるため、ヘルマンを使うように、カダムへ進言したはずだったのではないか!?

「彼女は聡い方です。下種な夫を操るには、自分も同じ下種を装うのが一番だと、よくご存知でいらっしゃる」

「な……なぜ…王妃さまが……」

 憎まれこそすれ、親切にしてもらう理由は見つからない。
 しかも、あのプライドの高い女性が、わざと自分の品位を貶めるような事を口にしたと言うのか。
 だが、ヘルマンはそれには答えなかった。

「血を必要としなくなった君は、もうこの城にすがる必要もない。どこに行くのも自由ですが、一つ仕事を紹介させて頂けませんか?君を雇いたいという方がいらっしゃいます」

「私を?」

 急にアチコチへ話が飛ぶので、内容についていけない。
 その時、扉の外から、コツコツと石畳を歩く足音が聞こえた。
 足音をまったく立てないヘルマンとは違い、女性の靴らしい足音が、はっきり聞こえてくる。

 ヘルマンが扉を開けると、大輪の黒薔薇を思わせる王妃が立っていた。
 黒い巻き毛は地味にまとめられ、着ているドレスもいつものような豪奢な目立つものではなく、黒い簡素なドレスだった。
 しかし、気品というのは、装いではなく本人から発するものだ。

「サーフィ。王都に向かっているイスパニラ軍まで、わらわを護衛しておくれ」

「王妃さま……」

 薄暗い牢獄にはまるでそぐわない、この美しい王妃の登場にも驚いたが、彼女の言葉は更に驚愕的だった。
「王都に、イスパニラ軍が!?」

 ソフィアが王妃になっている事で、シシリーナとイスパニラは、友好条約を結んでいるも同然のはずだ。

「君が知らないのは無理もありませんが、イスパニラは僕の祖国フロッケンベルクと手を組みましてね。シシリーナを乗っ取る事に決めたのですよ」

 まるで、チェスの試合を解析でもするように、平然とヘルマンは言い放つ。

「そんな!」

 それでは、シシリーナという国そのものがなくなるというのだろうか?サーフィの脳裏に、馬車から見た街の光景が広がる。
 連れだって、楽しそうに町を歩いていた人々も、大勢殺されるのだろうか?
 ソフィア王妃は、サーフィの表情から、気持ちを汲み取ったらしい。

「イスパニラの誇りにかけ、一般市民に血を流させる事はせぬ。シシリーナ国がなくなるわけでもない。安心するがいい」

 高貴で気高い王妃は、あでやかに微笑む。

「父は、最初からそのつもりで、わらわをシシリーナへ嫁がせたのだ」

「イスパニラ王が……」

「この国で人民の支持を獲得し、宮廷の弱点を掴み、夫から国を奪って女王となれと命を受け、わらわは嫁いできた」

「……」

「シシリーナ女王となって凱旋するか、惨めな反逆者の躯となって送り返されるか。わらわがイスパニラの地を再び踏めるのは、どちらか一つじゃ」

 ソフィアの告白に、言葉もでなかった。

「我が父王にとっては、娘も政治の駒にすぎぬ」

 さらりと、ソフィアは己の運命を口にした。

「姉もそうであった。何度も他国の王家に嫁がされ、しまいに心を壊し、塔から身を投げてしまった」

「あ……」

 ソフィアの姉が亡くなっているのは知っていたが、くわしい死因までは公表されていなかった。
 自殺などというスキャンダルを嫌った王家が、隠したのだろう。

「わらわとて、この城に来てから何度、自害しようと思ったかわからぬ」

 アーモンド型の瞳に憂いを宿した王妃の顔を見て、サーフィは胸が痛くなった。

 心のどこかでいつも、自分だけが不幸を押し付けられたと思っていた。
 けれど、いつも毅然と見えていたソフィアも、不安でないはすがなかったのだ。
 親の命令で初対面の夫に嫁がされ、頼るものもいない異国の城で、国の乗っ取りに画策しろなどと、普通なら耐えられない。

「しかしな、この無礼者に鼻で笑われて、思いとどまったのだ」

 ジロリと、ソフィアが剣呑な視線でヘルマンを睨む。

「少々、もったいないと思いましてね」

 まるで意に介さず、ヘルマンが微笑む。

「ヘルマンさまが?」

「この男は、どうせ捨てる命なら自分によこせと、ふてぶてしくも要求したのだ」

 剣呑な視線を向ける王妃に、ヘルマンが苦笑した。

「無料奉仕しろとまでは、申しませんでしたよ。随分と、貴女の御用もお聞きいたしました」

「当然であろう。貴様のおかげでわらわは、侍女たち全員の前で、『サーフィにだけは夫を奪われたくない。カダムがサーフィに手出しできぬよう、見張ってくれ』などと、心にもない泣き言を言う羽目になったのだ」

「――――っ!?」

「他にも、大国の娘という立場を笠にきた恐妻となって、カダムがそなたへ手出する機会を与えないよう、あれこれ命令しろなどと……まったく、図々しいにも程がある」

 足元が、またひっくり返った気分だった。
 考えてみれば、カダムがしきたりなど、バカ正直に守るはずは無い。
 サーフィの胸が膨らみ始めた頃から、すでにそういった目で見られてはいた。
 しかし、いつも何かしら邪魔が入っていたため、ぎりぎりで一線を越えずに済んでいたのだ。
 あれは、運が良かっただけだと、ずっと思っていた……。

「まぁ良い。いくら男が権力をふりまわそうと、結束した女たちの敵ではないと証明できて、胸がすいたわ」

 フン、とソフィアは形の良い鼻を上に向ける。

「で……では……私を、その……憎んでおられたのでは……」

 それ聞くと、ソフィアの顔が優しげにほころんだ。
 サーフィが初めて見る表情だった。

「いいや。わらわはいつも、孤独と戦うそなたの姿から、勇気を貰っていた」

「私の……」

「侍女達には、そなたを本気で憎んでると思わせたので、辛い目にあわせてしまったのう。すまなかった」

「とっ、とんでもございません!」

「ヘルマンに要求されたからだけではない。そなたのくじけぬ姿勢に、感服した。」

 そして、表情を改める。

「だからこそ、そなたを護衛に雇いたい」

「王妃さま……」

 ルージュの塗られた魅惑的な唇が、美しくつりあがる。

「すでに、わらわに味方するシシリーナの家臣は十分におる。わらわの『元』夫は、寵姫の心一つつかめない程、人望のない男だったのでな。たやすかったわ」

 ヘルマンが苦笑する。そして、片目を瞑った。

「サーフィ、ベッドの下は見ましたか?」

「いいえ……」

 慌ててベッドの下を覗き込み、細長い布の包を見つけた。
 中身は、サーフィの刀だった。

***


ーー半刻後。
 サーフィはソフィア王妃と一緒に、ヘルマンの家から伸びる地下道を進んでいた。
 十八年間も城に住んでいたのに、こんな地下道があるなど、まるで知らなかった。
 案内をしながら、ヘルマンは小さく笑って答えた。

「そう簡単に見つけられたら、この通路は役に立ちませんよ」

 迷路のような地下道を抜けると、雑木林の中に出た。
 時刻はもう真夜中だ。
 林は、市街地の灯りからも少し離れており、ヘルマンの持つランプ以外は、背の高い木々の葉の間から、月明かりが照らしているだけだ。

 不意に、落ち葉を踏む足音が聞こえた。
 サーフィは刀を構え、ソフィアを守るよう前に立つ。
 ランプの明かりが一つ、木々の合間から近づいてきた。

「サーフィ、心配ありませんよ」

 ヘルマンがそっと、サーフィの腕を押さえる。
 布地越しに触れた低い体温に、ドキリと心臓が跳ね上がった。
 今は、そんな事を考える場合ではないのに……。

「時間通りですね、バーグレイ殿。あとは手はずどおり、お願いいたします」

 ヘルマンが、近づいてきた明かりに声をかける。
 足音の調子から、なんとなくそうではないかと思ったが、やはり現れたのは、女性だった。

「お任せ下さい」

 赤い巻き毛にターバンを巻きつけた、ジプシー風の女性は、生真面目に答える。
 ソフィアはもう、全て了解済みなのだろう。驚く様子も無く、鷹揚に頷いた。

「彼女はアイリーン・バーグレイ。隊商の首領で、何でも運んでくださいます」

 ヘルマンがにこやかに紹介し、手はずを簡単に説明してくれた。
 もうそろそろ、イスパニラ軍の侵攻が、付近の砦に発見され、王都まで知らされる頃だという。

 どのみちこんな時間では、最初から王都を取り囲む城壁の門は閉ざされている。
 だが、伝令と付近の住民達を城壁内に避難させるために、一度は門をあけなくてはならない。
 そのすきに、バーグレイ家の馬車で城壁を突破しろ、という話だった。

 サーフィの役目はもちろん、兵たちの制止から、馬車を守りきることだ。

「どうしようもない事態以外は、兵を殺してはいけません。戦意を喪失する程度に、脅すだけです」

 ヘルマンは、その点を特に強調した。

「シシリーナの国民に、大した被害はでなかった、というのが、あとあと重要になります。圧倒的な実力差があってこそ、出来る芸当ですよ。できますね?」

 心から焦がれ愛し、憎もうと思っても憎めなかった師が、まっすぐにサーフィを見つめて言う。

『できますか?』ではなく『できますね?』と言ってくれた事が、嬉しかった。

「はい!」

 たとえこの方が誰も愛せず、自分を抱いたのは彼の都合だったと言ったとしても、かまわない。
 彼はサーフィを自由にしてくれ、母の代用品でなく、サーフィ自身を欲してくれた。
 その事実は変わらない。
 そしてもう一つの事実も……

 私は、ヘルマンさまを愛している。信頼に応えたい。

 ヘルマンは満足げに頷き、今度はうってかわった、きさくな声音で、アイリーンに話しかけた。

「アイリーン。彼女が、以前お話した、君に推薦したい人材です」

「私を推薦?」

 アイリーンのこげ茶色の目が、品定めするようにじろじろとサーフィを眺める。

「なかなか使えそうな面構えだし、旦那の推薦なら、疑う余地はないけど、規則だからね。審査はさせてもらうよ」

 こちらも、先ほどのビジネスライクな会話とは、まるで調子が変わっていた。

「ところでお嬢ちゃん、吸血姫ってのは、呼称だろ?」

 その呼び名に、ギクリとサーフィの背が強張る。しかし、アイリーンは続けてあっさり言った。

「ヘルマンの旦那から、もう血は必要ないって聞いてる。それに、あんまり気持ちいい呼び名とも思えないね。なんて呼ばれたい?」

「サーフィ、とお呼び下さい」

 サーフィはあわてて一礼し、名乗る。
 母は【サーフィ・カナメ】と東で家名を持っていた。
 だがホムンクルスである自分が持つのは「サーフィ」だけ。
 母とは違う。もうそれを恥じないし、悲しみもしない。
 

「それじゃサーフィ。今夜の仕事で合格点をやれたら、正式にうちの護衛として雇うよ。移動式の隊商暮らしだが、衣食住も完備。もちろん家事は当番制だがね」

「え!?」

 唐突な話に、思わず振り向いてヘルマンの顔を見上げる。
 喰えない男は、ニヤニヤ笑って見返した。

「行き当たりばったりは感心しません、と言いましたがね。永久に家出を止めるように言った覚えはありませんよ」

「ヘルマンさま……」

「どうせなら、徹底的に準備して、笑って出て行くものです」

 思わず刀を握り締めて、サーフィは俯く。
 ヘルマンの顔をこのまま見ていたら、また泣き出しそうになってしまった。

「おや、うちじゃ不満かい?」

「い、いいえっ!とんでもございません!」

 アイリーンに向かって、お辞儀する。

「合格点をいただけるよう、精一杯務めさせて頂きます」

「フフン、たいした自信だ。楽しみにしてるよ」

 アイリーンが、ヘルマンを見てニヤリと笑う。ヘルマンも、不敵に笑っていた。

「当然です。僕の最高傑作ですよ」

「それじゃ、ついといで」

 アイリーンがソフィアに手を貸しながら、雑木林を歩き出す。
 サーフィも続こうとしたが、突然、ヘルマンに引き止められた。

「そうそう、これを渡すのを、忘れていました」

 紙の薬包が、手に押し付けられる。

「処女膜の再生薬ですよ。水に溶いて飲めば、一晩で効きます」

「なっ!?」

「使うか使わないかは、君の自由です。これはまぁ、いわば僕の自己満足ですから」

 そしてヘルマンは、顔をしかめてサーフィから視線をそらした。

「君にいずれ、愛する男性が出来た時、処女でない事で悩まれたりしたら、寝覚めが悪いものですからね」

「……ヘルマン……さま……?」

「我ながら、最低な餞別だと思いますが、僕にできる事は、せいぜいこれくらいです」

「餞別!?あの……ヘルマンさまは……」

 不意に、自分がとんでもない勘違いをしていた事に、気がついた。

「ここでお別れです。もう二度と、会うこともないでしょう」

 やっぱり、嫌な予感はあたった。
 今までの会話から、すぐ気づくべきだったのに……サーフィはヘルマンが、一緒にくるものだと、自分の中で決め付けていたのだ。

「や……嫌……です……」

 思わず、引きつった声が口から漏れた。

「アイリーンはなかなか面倒見の良い女性ですよ。心配ありません」
「……」

 これは、ヘルマンの苦労を台無しにしてしまうわがままだ。
 そう思っているのに、震える足は、いう事を聞かない。薬包を持った手が震える。

「っ……私が……他の人を好きになる日が来ると……?」

「世の中に、男性は星の数ほどいますよ」 

 俯いたサーフィに、そっけない声が降り注いだ。
 涙がポトンと一粒、枯葉の上に落ちた。
 ここ数日、泣いてばかりだ。色々な涙があったが、一番心に突き刺さったかもしれない。 

「……私は、自惚れていたようです」

 手の甲で目端を擦って、無理に笑おうとした。……上手くできなくて、みっともない顔になってしまったけれど。

「魅力的と言ってくださいましたので、もっと一緒にいてくださると、思っていました」 

 ヘルマンが、困ったような顔をした。

「僕は、君の幸せを願っています。それだけですよ」

「え……?」

「そういえば昔、質問に答えられるまでは、君と一緒にいると、約束しましたね」

――約束?

 一瞬間をおいて、遠い昔にした質問を、思い出した。

“ヘルマンさま、愛とは、本当にすてきなものですか?”

 サーフィの頬を、ヘルマンの指先が軽くなでる。

「――Neinいいえ。それが、僕の出した結論です」

 アイスブルーの瞳が、苦しそうに歪んだ。

「麻薬のように中毒性があり、正常な判断を狂わせる……ひどく厄介で、始末におえない感情です」

「……」

 いつでも冷静で計算ずくめの貴方が、そんな感情を抱いたのですか?
 それは……誰に対して?

 しかし、それを口にするまでの勇気を培う時間は、与えられなかった。

「そういう事で、質問に答えると言う約束は果たしました。これでもう、君の傍にいる義務はありません」

『義務』

 突き放すような口調の中で、その単語はひどくサーフィの胸を刺した。

「あ……ありがとうございました」

 やっと、それだけ言えた。唇をかみ締め、ヘルマンに背を向ける。
 歩き出そうとした時、突然後から、強く抱きしめられた。

「……へるまん……さま……?」

「……」

 無言ながら、まるで、行かないでくれと必死で引き止めるように、息も止まりそうなほどきつく腕がまきつく。

「……」

 しかし、耳元でかすかに感じたヘルマンの唇の動きは、やっぱり声にならなくて……。
 抱擁が解かれ、トン、と軽く指先で背を押された。
 今度は、はっきりと聞こえた。

「さようなら、サーフィ。その自由は、君が僕から勝ち取ったものですよ」

 あわてて振り向いた時には、もうヘルマンはきびすを返して立ち去っていく所だった。
 一度も振り返らず。白衣の後姿は闇の中に遠ざかっていく。

「ちょっと、何してんだい!」

 アイリーンにせっつかれ、サーフィは我に返った。
 落ち葉を踏みしめ、急いで二人の女性達の下へ向かう。
 彼女ももうそれ以上は、振り返らなかった。

***


 数十分後。
 シシリーナの王都は、開けた平地にあり、海に面した東側以外は、敵をさえぎる天然の障害物が何も無い。
 よって都市の周りを、長い城壁がぐるりと取り囲んでいる。
 はるか昔に作られたこの頑強な城壁は、今もなお市民たちを守護しており、観光名物にもなっている。

 城壁には、西南北に三つの門が存在するが、今夜は西側の門で、大変な騒ぎが起こっていた。
 何しろ、『西から完全武装の大軍が向かってきた』と、血相を変えた兵の伝令がもたらされたのだ。
 しかもその軍は、“通った後には草木も残さない軍隊アリ”とまで言われている、イスパニラの正規軍らしい。

 攻撃の意志があるないに関わらず、他国の土地に軍隊を侵入させるのは、それだけで立派な侵略行為だ。
 西門を守る守備隊長は、急いで城門を開き、付近の住民を王都の中に避難させるように指示を出したが、首をかしげた。
 ソフィア王女はこの国の王妃とはいえ、他国の王女の妻というのは、人質も同然だ。
 イスパニラ王は、娘を見殺しにする気なのだろうか?

 思案しながらも、隊長は手早く部下に指示を出し続ける。
 敵の軍が到着する前に、門を閉じなければならない。
 城壁の外から、夜中にたたき起こされた人々が、わずかな荷物を掴んで、必死に殺到する。
 城壁の見張り台に立った隊長は、西の地平線から、白いもやが立ち上るのを見つけた。夜闇の中にもはっきり解るそれは、大群の騎馬団がたてる砂煙だ。
 急いで門を閉めるように指示を出した時、ただでさえ大混乱になっている城門内部で、ひときわ大きな騒ぎの音が沸きあがった。
 外から中へと流れている人の波と反対に、市街地の方から、一台の馬車が突然走り出してきたのだ。

「おい!止まれ!!」

 兵達が、大声で怒鳴るが、その馬車は一向にとまらない。それどころか、更に加速する。
 城壁の上であっけに取られた隊長の脳裏に、奇妙な既視感がよみがえる。

 あれは数年前。
 彼が地方から王都に配属され、間もない頃だった。
 国王が市内を視察する際、警護につきそった事があった。
 その時、御者に化けていた悪党に馬車を乗っ取られ、あやうく国王が誘拐されそうになった事件があったのだ。

 結局、王は無事だったが、油断して王の身を危機に晒したと、あの事件の後、彼は王宮からこの門へと左遷されていた。
 それでも彼は、そう無能ではなかったから、今ではこの門を守る隊長になっていたのだ。 

「あ……あ……」

 爆走してくる馬車は、飾り立てた王家のものとはまるで違う。
 頑強な二頭の馬に引かせた馬車は、頑丈さやスピードの効率を重視した、実用的なものだ。
 馬を操る御者は、制服を着た男ではなく、顔を半分隠したジプシー風の女だ。
 それでも……心の奥から震え沸き立つ、あの光景を思い出させるのは……
 馬車を制止しようとした警備兵の槍が、電光石火の速さで半分の長さに切り取られていた。
 嵐にもまれる船よりも揺れる馬車の上に立ち、『彼女』はその芸当をやって見せたのだ。
 闇夜にも輝く白銀の長い髪が、宙になびく。

 『吸血姫サーフィ』が刀を構えていた。神話に聞く戦女神のように美しく。

「撃て!!」

 仕官の一人が命じ、馬に向けて一斉に弓が引かれたが、矢は放たれなかった。
 全ての弓弦は、ブチンと切れる。
 いつのまにか、ギリギリの所まで、切れ目を入れられていたのだ。
 仕方なく、馬に向けて手近な石を投げたものもいたが、まるで意味はなかった。
 その馬車は、馬にまで細かい鎖を編んだ鎧を着せていたのだ。
 あんな奇妙なものは、おそらくフロッケンベルク製品だろう。

 御者の女にも石や槍が投げられたが、サーフィが全て叩き落した。
 御者の腕も、まちがいなく一流以上だった。
 避難してきた一般市民たちを巻き込むことなく、神業の手綱さばきで馬を操る。
 だが、馬車が門にたどり着くよりも、兵達が門の前に固まるのが早かった。
 重い城門を閉めるのにはまだ時間がかかるが、いくら鎧をつけた馬であっても、数十人の兵達が突き出している槍の柵へ突っ込むことは不可能だ。

 だが意外な事に、身構える兵達の目前で、馬車は急に方向を変えた。
 そして、ほんの少しだけスピードの落ちたその瞬間に、ヒラリとサーフィの身体が宙に舞った。
 馬車から飛び降りたのだ。サーフィを残し、馬車は来た道を凄まじい速さで戻っていく。
 兵達の前で、サーフィの手にした刀が、髪と同じ銀色に光る。

「無駄だ……」

 ボソリ、と無意識に隊長は呟いた。
 サーフィではない。部下達に投げた言葉だった。

――あの『獣』に敵うものか。

 彼女が見につけているのは、重たげで装飾過多のドレスとピンヒールの靴ではなく、男装のような動きやすい衣服と実用性の高いブーツだ。
 隊長の目に映るのは、いまや成獣へと進化し、邪魔な枷を外された、美しい白銀の獣の完成形だった。
 サーフィは軽やかにステップを踏み、白刃を翻し、次々に武器を弾き飛ばす。
 しかしあの時と違い、兵達から驚きの悲鳴は上がっても、血と絶叫は上がっていない。
 柄や峰で打たれる程度だったが、あまりにも圧倒的な技量の差を見せ付けられ、戦意を喪失して座り込む。

 足腰から力が抜け、ペタンと隊長も座り込んだ。
 知らず知らずのうちに、頬を涙が伝っている。
 なぜ俺は、あの美しい獣に“バケモノ”と叫び傷つけてしまったのだ……。
 その後悔は決して消えることなく、誰かに告白する事も出来ずに、ずっと彼に小さな痛みを与え続けていた。

 門を守っていた兵達は、もはや無力に等しかった。サーフィが地面を強くけり、跳躍した。
 殆ど閉じかかっている門へ、細身の刀が垂直に向けられる。

 東の国の女戦士が持つ「刀」。
 あの武器の事を、かって東の国へ行った事があるという先輩兵士から聞いた事があった。
 あれは、力任せに相手へ叩きつける大陸の剣とは、まるで違うものだ。
 力でなく技術で敵を討ち取る、世界で一番美しい武器だと……

 そしてかの国で、斬れないものは無いと言われた女性がいたそうだ。
 彼女の刀は、分厚い岩石さえも砕いたらしい。 
 殆ど忘れていた、その女戦士の名前は、「サーフィ」。
 
 隊長の目の前で、頑強な岩の門に刀の切っ先が突き通される。

 硬いダイヤモンドでさえも、必ずどこかにもろい一点があるそうだ。
 その一点へ、刀は正確に突き通った。

 建国以来、不落を誇っていた門に亀裂が入り……音を立てて、崩れ落ちた。


 ……と、少女を置き去りにしていったはずの馬車が、石畳に火花を散らしながら、猛スピードで戻ってきた。
 おそらく、サーフィが道を開くまで、兵に取り囲まれるのを防ぐために走り回っていたのだ。

 馬車が横を通り過ぎる一瞬の後、サーフィはすでに自分の身体を馬車に飛び乗らせていた。
 刹那、城壁を見上げた少女と、目が会った気がした。
 もしかしたら、気のせいだったのかもしれない。どのみち彼女は、自分の事など、覚えていないだろう。
 ただ、あの赤い瞳が、もう悲しみに澱んでいなかったのが、やけに嬉しかった。
 辛苦に澱んでいた瞳は、強い決意と喜びに満ち、更に美しく輝いていた。

 檻から解かれた美しい獣の姿は、そのまま遠ざかり、それを最後に、この王都から永遠に姿を消した。

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