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1巻

1-1

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   プロローグ 


 とある春の日。ロクサリス国の王都にて、結婚式が行われていた。
 魔術師ギルドの荘厳そうごんな祭儀場では、建国以来数多あまたの王侯貴族が婚礼の儀を挙げてきた。ゆったりと浮遊する魔法灯火の下で、白髪の老師が、祭壇へ誓約の魔術書を載せる。
 列席者の見守る中、鮮やかな緋色ひいろの髪の男が、祭壇の書に手を置いた。

「フレデリク・クロイツは、ウルリーカ・チュレクの夫として、婚姻を正式なものと認めます」

 通称『きばの魔術師』フレデリク・クロイツは、誓いの言葉を述べ終わると書から手を離した。
 礼装用の宮廷魔術師のローブがとても良く似合っている。細身のやさおとこだが脆弱ぜいじゃくさはなく、全身に生き生きとした力強い生命力をみなぎらせていた。今年で三十歳になるというが年齢より随分と若く見えるのは、そのせいだろうか。
 隣に立つ花嫁……ウルリーカ・チュレクは、ヴェールの下から彼の横顔をチラリと見上げる。
 すると、真面目な顔で正面を向いていたフレデリクが、不意に視線だけをウルリーカに向けた。綺麗な深緑色の瞳は柔らかな微笑をたたえ、彼がこの婚礼を心底から喜んでいるように見える。
 その優しげな視線が居心地悪くて、ウルリーカは慌てて自分のドレスへ視線を落とした。
 ドレープをたっぷりとあしらった純白の花嫁衣裳は、急ごしらえとは思えないほど美しく上等な品だ。華やかだがゴテゴテ飾りすぎる事もなく、十九歳という花盛りな年齢のウルリーカを、より可憐かれんにみせていた。エメラルドを飾った銀の宝飾類も、ヘーゼル色の髪と瞳に良くえている。
 これらは夫となるフレデリクからの贈りものだが、何もこれほど豪華な品を用意しなくても良いのに……と、ウルリーカは恐縮してしまう。
 彼は自分を妻とするものの、その胸の内ではほかの女性を愛している。しかも、国中の誰よりも魅力的で優れた女性をだ。その女性を正式な妻にする事は、流石さすがの彼でも無理だったから、男爵家の出来損ない令嬢として有名なウルリーカを、お飾り妻にするだけなのに――
 ズキリと胸が痛み、つい憂鬱ゆううつな考えに落ちこみそうになったが、寸前でハッと我にかえった。
 もう決心したはずだ。こうなったら意地でも、幸せな人生を送ってやると。
 お飾りの妻で結構。彼がほかの誰と愛をはぐくもうが、最初からわかっていた事と割り切って気にしない。むしろこれ幸いと、一人で好きな学問に没頭させてもらおう。
 引き結んでいた唇を開き、ウルリーカも誓約の書に手を置いて誓いの言葉を述べる。

「ゥ……ウルリーカ・チュレクは……フレデリク・クロイツの妻として、婚姻を正式なものと………………認めます」

 ――毅然きぜんと胸を張って、堂々と言うつもりだった誓いの言葉は、しかし、とても小さく震えたものになってしまった。



   1 魔力のない娘


 ――事の発端は、一ヶ月前。
 うららかな春の日差しの中。ウルリーカはあぜ道を走る馬車に揺られながら、窓の外に広がる、のどかな麦畑を見つめていた。
 チュレク男爵領は、ロクサリス王都から程近く、面積こそ狭いが、良質な大麦が毎年収穫出来る。チュレク家は古くから麦酒ビールの醸造によって財を成してきたのだ。
 青々とした麦の若穂が春風にそよぐ光景は心地良いものだったが、ウルリーカは瞳にそれを映しながらも、気分が晴れなかった。ほかの事で頭を占められているのだ。

(お母様が私を呼びよせるなんて、何があったのかしら?)

 うれいを秘めた彼女の横顔は、よく見ればかなり美しい。だが惜しい事に、つややかな髪は、飾りのないピンで簡素にまとめられただけ。ほっそりした手足に豊かな胸という女性らしい体型は、襟の詰まった衣服にすっかり隠されている。
 そんな彼女は一見、いかにも地味で面白みのない、堅苦しそうな女性に見えた。


 ウルリーカは、チュレク男爵家のれっきとした長女である。
 しかし、家督は双子の妹が継ぐ事が決まっており、彼女自身は一年前から王都に住んでいる。実家から独立し、裕福な商家の七歳になる娘の住みこみ家庭教師を務めていた。
 実家が没落した訳でもないのに、貴族の娘が平民階級の家で家庭教師をするなど……と、伝統と格式を重んじるこの国の貴族たちからは失笑されている。けれども、ウルリーカは気にしないようにしていた。
 幼い頃から学問は好きだし、教え子は素直な可愛い女の子、商家の夫妻も気のいい人たち。誰が何と言おうと、自分で選んだ幸せな生活なのだ。ウルリーカは自分でたてた人生計画に満足していた。
 ところが今朝、実家を出て以来音信不通だった母から、大事な話があるのですぐに帰るようにと、唐突な手紙が届いたのだ。
 手紙を持って迎えに来た実家の御者に、お嬢様を連れて帰らなければ、奥様から解雇されると泣きつかれる始末。
 仕方なく雇い主に理由を話して臨時の休みを貰い、しぶしぶと帰省する事になったのである。
 ウルリーカが家を継がず、家庭教師として働いているのには、訳がある。それは彼女が『出来損ない』だからだ。
 ――ロクサリス王国は別名、魔法国とも呼ばれている。古くから魔法によって栄え、大陸のどの国よりも多くの魔力持ちが住んでいるためについた名前だ。
 魔力というものは基本的に、生まれつきの才能である。
 もちろん魔法を使うためには、魔術書を読んだり、師について学ぶ必要がある。
 しかし結局のところ、どのくらい強力な魔法を使えるようになるかは、生まれ持った魔力の量によって決まってしまう。魔力を持たない者が、努力で魔力を身につける事は出来ない。
 それゆえにロクサリスでは、持って生まれた魔力の量が多いほど、『他者よりも優れた存在』とみなされた。王家を筆頭に、貴族の家督を継ぐ者は、一定以上の魔力を持つ事が必須とされている。
 基本的に、子どもの魔力量は両親が持っている魔力の量と相関する。
 ところがまれに、優れた魔法使いの親から魔力を持たない子が生まれたり、魔力なしの平民の家に、驚くほど多くの魔力を持つ子が生まれるケースがあった。
 そこでロクサリス国民は、平民でも貴族でも、三歳になると魔力を測る事になっている。
 ウルリーカと双子の妹ベリンダも、三歳になった日に測定試験を受けた。
 魔力を持つ者同士の間には子どもが出来にくい。貴族の家に双子が生まれるのはとても珍しかった。それゆえ、チュレク家姉妹の魔力測定は当時、国中の人々の注目を集めたそうだ。
 その日、魔力測定器の腕輪がウルリーカに示したのは、わずか六という残酷な数値。この国の貴族であれば、最低でも千の値は持っていなければならないのに。
 これでは死にもの狂いで魔法を学んでも、小さな火花を起こすのがせいぜいだ。
 両親にとって幸いだったのは、妹のベリンダが千七百という優秀な数値を出した事だろう。
 ロクサリスの法律により家督はベリンダが継ぐと決められた。同時にウルリーカの名前は、男爵家の出来損ない令嬢として、国中に広まってしまったのだ。
 ――まわしい記憶を心の奥へ押しこめているうちに、馬車は実家の館へ到着した。
 ウルリーカは馬車から降りて、一年ぶりの我が家を見上げる。チョコレート色の屋根をした三階建ての瀟洒しょうしゃな屋敷は、何も変わっていない。正面玄関の扉脇には、ベルの代わりに真鍮製しんちゅうせい鸚鵡おうむがいる。おうは、真鍮しんちゅうの止まり木の上から、ぎょろりとこちらをにらんでいた。
 魔法のかかったこの鸚鵡おうむは、とんでもなく意地が悪い。両親や妹のベリンダ、魔法使いである貴族には愛想がいいくせに、ウルリーカが一人で扉の近くにいると、口汚くののし嘲笑ちょうしょうするのだ。

「アッチイケ! ウルリーカ!」

 案の定、鸚鵡おうむ真鍮しんちゅうの翼をバタつかせて耳障みみざわりな金切り声をあげ始めた。

「デキソコナイ、ウルリーカ! ウラヘイケ! デキソコナイ、ウルリーカ!」

 わめき続ける鸚鵡おうむを前に、ウルリーカは深く息を吸った。
 ――私がいつまでも、たかが失礼な鸚鵡おうむの悪態に泣く小娘だと思うなら大間違いよ。もうきちんと自立している大人。お前なんかが言う事に、傷つかない。
 手提げかばんから母の手紙を取り出し、鸚鵡おうむくちばしの先につきつける。

「今日はお母様の命令で帰ってきたの。私は正式な客人よ。だ ま り な さ い」

 主人の筆跡を目にした途端、鸚鵡おうむはピタッとくちばしを閉ざして動きを止めた。
 こうして見ると、ただの古ぼけた真鍮しんちゅうの飾りだ。この鸚鵡おうむに何度も泣かされ、おびえ続けていた昔の自分が、我ながら滑稽こっけいに思えてくる。
 実家の陰鬱いんうつな思い出から一つ解放された気がして、ウルリーカは心がすっと楽になった。
 そうだ。もう母の前でも、身を縮め息をひそめる必要はない。魔力がなくても堂々と生きれば良い。
 七年前の夜に、緋色ひいろの髪をした素敵な魔術師から勇気と自信を貰い、ここまで自分の幸せを掴む事が出来たのだから。
 心も軽く、ウルリーカは扉を開けようとしたが、それよりも早く内側から扉が開いた。

「お出迎えが遅れまして、大変申し訳ございません。ウルリーカお嬢様」

 扉を開けたのは年老いた家令で、彼は汗を拭きながら頭を下げる。それを見てようやく、ウルリーカは奇妙な事に気づいた。
 商家の暮らしにすっかり馴染んで忘れていたが、この家の礼儀正しい家令が、馬車まで出して迎えに行かせた相手を玄関で出迎えないなど、珍しい。

「気にしなくていいのよ。それより、お母様が急に私を呼ぶなんて、何かあったの?」

 顔色が悪く落ち着かない様子の家令に、声をひそめて尋ねた。

「……お嬢様。奥様からのお話ですが、どうか冷静にお聞きなさるよう……」

 家令がささやいている途中で、奥から扉の開く大きな音が聞こえた。

「ウルリーカ! 待っているのに、何をグズグズしているの。早くいらっしゃい!」

 母がたっぷりしたドレスの裾を揺らしながら駆けよってくる。驚いた事に、非常に上機嫌でウルリーカの手をとり、居間の方へと引きずっていった。

「喜ばしい事にね、貴女へ求婚があったのよ!」

 玄関の鸚鵡おうむそっくりな母の甲高かんだかいさえずりに、ウルリーカは耳を疑った。そして、続く言葉に、さらに驚愕きょうがくさせられる。

「求婚してくださった方は、宮廷魔術師のフレデリク・クロイツ様。有名な方だから、貴女でも知っているでしょう?」

 黙って、ただ頷いた。
 七年前の夜会で、たった一度、話した、あの緋色ひいろの髪の魔術師だ。それ以来、ずっと心に秘め続けている初恋の相手でもある。
 しかし、嬉しいとは思えなかった。
 彼が自分に求婚など、何かの間違いか悪い冗談としか思えない。
 フレデリクは侯爵家の遠縁と聞く。本人に爵位はないが、宮廷魔術師という職は、男爵位に匹敵する名誉のあるものだ。そのうえ人当たりの良い性格で容姿も申し分ない。結婚適齢期の女性ならば、まず放っておかない好条件の持ち主である。
 そんな彼が、魔力のない出来損ない令嬢である自分に求婚など……いや、たとえウルリーカではなく、爵位も魔力も文句なしに高いご令嬢が求婚されたとしても、まず信じないだろう。
 ――だって彼は、この国をべる若く美しい女王の幼馴染おさななじみであり、今では公認の愛人なのだから。
 言葉もなく、呆然と母を凝視していると、彼女は不服そうに柳眉りゅうびを吊り上げた。

「返事も出来ないなんて、相変わらず駄目な子ねぇ! 説明するから、とにかく座りなさい」

 母は居間の長椅子にウルリーカを押しこむと、向かいに座ってとめどなくしゃべり始めた。
 要訳すると、フレデリクから昨日、父を通して縁談が持ちこまれたらしい。
 父も、最初は何かの間違いかと思って断った。しかし、彼は確かにウルリーカへの求婚だと言い、支度金として十分な金額を渡されたという。
 さらに、ウルリーカさえ良ければ、来月にでも式を挙げたいとまで言っているそうだ。

「……これでようやく貴女も屈辱的な職を辞められるのよ。昔の反抗は許してあげるから、この家にも自由に戻っていいわ。嬉しいでしょう?」

 甘ったるい声で締めくくられ、ウルリーカはかなりムっとした。

『魔力なしの貴族娘に、縁談など来る訳がないのだから、家庭教師にでもなりなさい』

 と、幼い頃から自分に繰り返し言い聞かせてきたのは、母なのに。
 もっとも母は、本気で娘を家庭教師にするつもりはなく、没落貴族の子どもでも相手に、時々ボランティアで教師の真似事をすれば良いと主張していた。
 家庭教師は、家督を継がず嫁にも行かない貴族の娘がなれる数少ない職業だ。けれども、魔力なしのウルリーカが、高名な貴族の家に雇われるはずはない。かといって、何もさせずにいるのは、世間体が悪いと思っただけなのだ。
 しかし、ウルリーカは母の意に反して、平民階級の裕福な商家に住みこみで雇われる事を決めた。
 母は激怒したが、ウルリーカもその時ばかりは折れず、家出も同然に飛び出した。結果的に自分の選択は正しかったと、今でも思っている。
 世間体をつくろい、貴族社会にびるなど、それこそ屈辱的だ。
 誰に何と言われようが、この職業できちんと自立出来ている事に、ウルリーカは誇りを持っている……とは言うものの、それを母に主張しても無駄なのは、十分身にみていた。
 困った事に、母に悪気はないのだ。
 彼女は自分が、慈悲深い地上の女神だと信じて疑わない。今も、自分は間違いを犯した娘を寛大にも許してあげていると、本気で思っているのだろう。
 母の言葉にカチンときたウルリーカは、少し冷静になれた。
 ウルリーカは、メイドが置いていった茶を一口飲み、驚愕きょうがくのあまり干からびていた喉をうるおす。そして、ため息混じりに返答をした。

「何かの間違いでは? ……お母様も、彼と女王陛下のお噂をご存知かと思いますが」

 父が勘違いをしたとは思い難いが、それを自分に伝えているのが、母というのが問題だ。なにしろ母は、よく話を自分に都合の良いようにじ曲げて解釈したり、早とちりしたりする。
 フレデリクとの恋仲が周知されているアナスタシア女王は、まだ二十二歳という若さ。
 彼女が戴冠たいかんしたのは、わずか五歳の時。当時、王家は暗闘あんとうが絶えず、父王と異母兄いぼけいたちが争いの末に急逝きゅうせいしたため、たった一人残った王位継承者が彼女だ。
 幼い女王は、補佐官たちの助けを借りながら熱心に国政を学び、今では名実ともに立派な女王へと成長した。
 高い魔力を持ちながらおごる事なく、統治者として厳しく己を律し、情には厚いが不正には厳しい。そのうえ容姿も非常に美しく、金の巻き毛は陽の光を紡ぎあげたように輝き、きらめく瞳は最上級の宝石さえかすむと言われている。そんな彼女は貴族からも平民からも今や、絶大な支持を得ていた。
 ウルリーカは、女王陛下と直接言葉を交わした事などない。けれども、王宮の夜会や国事で遠目に見ただけでも、息を呑むほど美しく妖艶ようえんな女性だと思った。
 当然ながら、そんな女王へ愛を捧げたいという男性は、国内外からあとを絶たない。だが、自分に厳しい彼女だけに、男性へ要求する水準も高いのだろう。どんな相手に甘い言葉をささやかれても、はなもひっかけなかったらしい。
 ところがある日、宮廷の園遊会にて女王は、自分へ捧げる詩をつくってきた貴族の青年へ、『私を好きにしたければ、フレデリク・クロイツに勝ってきなさいな』と、非常に楽しげに言ったそうだ。そこから一気に噂が広まった。
 女王がはっきりと、フレデリクを愛していると宣言した訳ではない。その貴族青年の話自体も、人から人へと伝わるうちに、尾ひれがついているだろう。
 しかし、フレデリクが昔から女王と親しいのは事実だし、恋仲という話が王都中を駆け回るようになっても、二人とも否定しないそうだ。噂の信憑性しんぴょうせいは高い。
 もっとも、フレデリクは女王の愛人だという事をかさに着たりせず、女王も彼を特別待遇はしていない。それが、彼と女王の評判をあげていた。
 ――そういった情報は、王都に住んでいれば自然と耳に入るから、ウルリーカは、フレデリクが自分に求婚するなど信じられないのだ。

(フレデリク様の名をかたった詐欺さぎという可能性もあるわ)

 ウルリーカがそう口にしかけた時、母はコロコロと笑いながら、一通の封筒をテーブルの上に差し出した。

「あら、私とした事が、言い忘れていたわ。求婚は女王陛下の紹介状つきだったのよ」

 白い封筒はすでに開封されていたが、金の封蝋ふうろうには確かに、王家の紋章が押されている。ウルリーカが慎重に便箋を取り出して開くと、一匹の蝶がヒラリと飛び出した。

「きゃっ!?」

 思わず便箋を取り落としそうになったが、よく見れば半透明の美しい蝶は、魔法使いが自分の声でメッセージを届ける時に使う、伝令魔法だ。
 伝令魔法の形は人によって違うが、女王の伝令魔法は蝶の形をしていると聞いた事があった。
 ヒラヒラと羽ばたく美しい蝶から、流麗な女性の声が聞こえてくる。

「――チュレク男爵。ロクサリス女王・アナスタシアの名において……」

 それは紛れもなく、王宮の夜会や国事の演説でいく度か聞いた、女王陛下の声だ。
 魔法の蝶は淡々とした声音で、フレデリクをウルリーカの伴侶として推薦するむねを告げ終わると、紙の中へ戻った。
 白紙だった便箋に、薄い金色の蝶が判で押されたように張りつく。ウルリーカは震える手でそれを封筒に戻した。

「ほら、ご覧なさい。私が言ったとおりでしょう」

 母が勝ち誇った表情を浮かべ、それからもったいぶった調子で咳払いをした。

「良い事? フレデリク様の妻になるといっても、あくまでそれは形だけの事ですからね。くれぐれも、自惚うぬぼれてでしゃばったりしないように。陛下と彼の邪魔にならないよう、貴女がぶんをわきまえてつつましく暮らせば、全て上手くいくのよ」
「……どういう意味でしょうか?」

 上機嫌な母の不穏な言葉に、ウルリーカは嫌な予感を覚えて声をうわらせた。

「ほら、お芝居にもよくあるじゃないの。貴女も一緒に観た、あれよ……」

 ――そう言って母が口にした芝居の題名を聞き、ウルリーカは冷水を浴びせられたように、身体が冷えていくのを感じた。
 母は観劇が大好きで、特に恋物語には目がなかった。好みの芝居は、公演期間中に何度も観に行くし、娘たちにも同行を強要する。
 母が非常に気に入っていたその芝居は、互いに家督を継がなくてはならない身にある貴族の男女が恋に落ち、正式な結婚が出来ない立場ゆえに苦しむというものだった。
 主役の二人は悩んだ末、男がことさら愚鈍ぐどんな女を選んで、婚姻を結ぶ。頭の悪い、金銭さえ与えておけば、夫に関心を払わず遊び呆けるような御しやすい相手と……。一方、女は結婚せず、家督だけを継ぐ。そして二人は、男の愚かな妻を上手くあしらい、正式には結ばれないながらも子供も授かり、真に愛する相手と、幸せな人生を送りました。めでたしめでたし――そんな筋書きだ。
 ――つまり、あの芝居に例えるならば、主役の二人は女王とフレデリク。そしてウルリーカは愚鈍ぐどんなお飾り妻だと、母はそう言いたいのか。
 こんな物語が流行するのは、ロクサリスの特殊な法律に起因する。ロクサリスでは、一定以上の魔力を持つ男性は、三十歳までに妻帯する事を義務づけられていた。
 高い魔力を持つ者ほど子どもに恵まれにくいための少子化対策だ。
 そのような事情なので、男性貴族は複数の相手と婚姻を結ぶ事も認められている。
 一方で、女性貴族に結婚の義務はない。かわりに、家督を継ぐ女性は、未婚のまま複数の恋人と交遊し、婚外子を産む事が多い。その場合、子どもに法律上の父親は存在しない事になる。子どもの父親はわかりづらく、揉め事の原因となる可能性が高いためだ。
 王家においては、それがさらに顕著になる。王が男性であれば、複数の后を持って後継者を生ませてきた。女王であれば、伝統的に父親不在の跡継ぎを産む。
 ロクサリス建国以来、女王は何人か存在するが、女王の夫は一人も存在しないのだ。
 フレデリクは、どれほど女王と愛しあっていようと、公的に結ばれる事は出来ない。
 それなのに、今年で三十歳になる彼は、誕生日までに妻をめとらなければならない。
 だから彼は、その心に女王を抱きつつも、国法に反しないために形だけの妻を迎える……それを女王も了承して紹介状を書いたと、そういう事になるのだろうか。
 あまりの話にウルリーカは頭を強打されるに似た衝撃を覚えた。

「そのような事を、フレデリク様がなさると……?」

 ウルリーカはうめいた。膝に置いた両手を、指が白くなるほど硬く握る。ところが母ときたら、まるで娘の方がおかしな態度だというみたいに、キョトンと小首を傾げた。

「貴女も、陛下と彼が恋仲だと聞いているでしょう? 陛下は彼を愛していても、安易に王配へ据える訳にはいかないし、いつまでも彼を独り身にさせておく事も出来ないもの。このやり方はとても賢いと思うわ」

 自分の娘がおとしめられているというのに、憤慨どころか賞賛する母に、ウルリーカは絶句した。
 同時に、とうに愛想をつかしたと思っていたのに、まだ自分はこの人へ、どこかしら期待をしていたのだと思い知った。それもたった今、霧散むさんした訳だが。
 おまけに、どれほど信じたくないと思っても、今回ばかりは母の主張が正しそうだ。

(フレデリク様が……あの人が、そんな真似を……本当に?)

 緋色ひいろの髪をした青年魔術師の優しい笑みを思い出し、ウルリーカの瞳に涙がこみ上げる。
 ――フレデリクと会ったのは、ウルリーカが十二歳の時だ。それは王宮で開かれた、女王陛下の十五歳の誕生日を祝う夜会だった。
 盛大な夜会には国中の貴族や著名人が招待され、城のきらびやかな舞踏ホールと大広間は、着飾った人々で満員となっていた。
 楽団が優美な曲を奏で、礼装用のローブを着た宮廷魔術師たちは会場の安全に気を配りつつ、出席者たちを楽しませるため様々な魔法を披露している。
 ウルリーカも妹のベリンダと一緒に、父母に連れられて参加した。
 派手なうたげが大好きな母は、自分と娘たちのドレスも、いつもより豪華なものを新調する気合のいれようだ。
 伯爵家の出身であるチュレク男爵夫人は、娘時代にはその華やかな美貌びぼうで、常に社交界の耳目を集めていたそうだ。それが商才こそあるものの、容姿は今一つえない男爵の父と結婚した時には、随分と周囲を驚かせたらしい。
 もっとも、ウルリーカとベリンダには、その理由がわかる気がする。
 いつでも自分が主役でありたい母にとって、経済力が十分あり、自分のいいなりになる目立たない夫は、まさに理想の伴侶。そして娘たちの存在も、彼女には己を輝かせるアクセサリーなのだ。
 その夜も母は、自分の産んだ双子の娘たちに、色違いの揃いのドレスを着せ、美しく着飾った自分の両脇に添える。そして、意気揚々とご婦人方の輪に飛びこんだ。

『――ええ、この子たちが双子ですのよ。髪や目の色は違いますが、顔立ちは似ているでしょう?』

 大広間の一角で、母はさっそく領地から来たばかりだという貴族たちに話しかけ、談笑を始めた。
 双子など滅多にいないロクサリス貴族の中で、揃いのドレスを着たウルリーカとベリンダは、いつも一際耳目を集める。
 扇で口元を上品に隠した母は、自分と同じ髪と瞳の色を受け継いだベリンダへ、誇らしげな視線を向ける。

『特に、ベリンダは私の娘時代にそっくり。ただ、私は兄が家督を継ぎましたので気楽な身でしたけれど、男爵家を継ぐこの子は、そうもいきませんわ。教育面では厳しくしつけておりますのよ。もっと自由に遊ばせてあげたいとも思いますが、甘やかすだけが親の愛ではございませんものね』

 一気にまくしたてる母は、一体いつ息継ぎをしているのか不思議だ。
 取り巻く貴族たちが『そのお気持ち、わかりますわ』とか『立派なお考えですのね』などと、感心してみせると、母はいっそう笑みを輝かせる。
 そして、その場にいた青年貴族の一人が、ベリンダにうやうやしくダンスを申しこむと、母は大喜びで愛娘を押しやった。
 爵位を継ぐベリンダは、いずれ出来るだけ良い条件の男性と結婚するか、多くの殿方から寵愛ちょうあいを受けるかを選ぶ事になる。どちらにせよ、今から社交界に顔を売っておきなさい、というのが母の持論だった。
 ウルリーカも、つくり笑いを顔に貼りつけてベリンダを見送った。

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