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1巻
1-3
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「お前なぁ! 一人暮らしの家に、よく知らない男を泊めるとか……いくら色気がなくても、一応は女って自覚を持て! 村の宿にでも泊まってもらえばよかっただろうが!」
背の高い彼に詰め寄られ、メリッサは半ば仰け反ってフェンスに押し付けられる形になった。フェンスに絡む薔薇は、あまり棘を持たない種類だから痛くはないが、伸びていた枝に引っ掛かった帽子が脱げて足元に落ちた。
「で、でも、バジルさんは元々、しばらくここに住む予定だったのよ。おじいちゃんが招待したんだから」
メリッサが両手を振って、必死で言い訳をすると、エラルドは呆気に取られたような顔をした。
「は? なんだよ、それ」
俺は聞いてないぞ、とばかりに剣呑な視線で咎められ、メリッサは慌てて口を押さえる。
生前、祖父に『まだ理由は言えないが、バジルが来ることは誰にも内緒だぞ』と言われていたから、あえて教えていなかったのだ。
けれどメリッサにとってエラルドは、小さな頃から兄のような存在だった。困ったことや分からないことは何でも彼に相談したし、隠し事なんかしたことはなかった。その彼にさえバジルのことを黙っていたのは、事情が事情とはいえ、なんだかとても悪いことをした気がする。
「黙っててごめんなさい。でも、バジルさんはずっと、すごく大変な仕事をしていて、やっと休暇を取ることになったの。だからおじいちゃんも、静かに休ませてあげたかったみたいで……」
後ろめたい気分で、メリッサはモゴモゴと呟いた。
「おじいちゃんはもういないけど、なんていうか……かなりのお歳だし、顔色もすっごく悪かったから、予定通りに滞在してもらった方がいいかと……ここの薬草が、身体に合っているらしいの」
バジルに対して非常に失礼なことを言っている気もするが、とりあえず嘘ではない。
するとエラルドが、今度は苛立ったような溜め息をついた。
「……メリッサ。うちの店に住み込みして手伝いをする気はないか?」
「え?」
「姉貴たちが嫁に行ったから、家にはちょうど空き部屋があるし、親父たちもお前なら大歓迎だってさ」
唐突な言葉に、メリッサはまじまじとエラルドを見上げた。薔薇の芳香と春の日差しの中、少し怒りっぽい幼なじみは、やけに真剣な顔をしていた。
祖父が亡くなった後、村人たちは残されたメリッサを心配し、村へ引っ越すようにと何度か勧めてきた。ここのように、村から離れたところに住む農家は他にも何世帯かあるが、どれも大家族で、雇い人なども一緒に暮らしている。森の奥の一軒家に少女一人で暮らすというのは、さすがに危なっかしく見えたのだろう。
村で住み込みの仕事を紹介しようとしてくれた人や、知り合いが嫁を探していると言って、結婚という思わぬ選択肢まで提示してくれた人もいる。
だが、この薬草園を閉めて村で暮らすなど考えられないと、どれも丁重に断っていたのだ。
「……気持ちは嬉しいけど、私には薬草園があるから」
他の人たちにしたのと同じ答えを返すと、エラルドの表情がまた険しくなった。そして春の花が満開の薬草園を、忌々しげに睨みつける。
「薬草くらい少しなら村でも育てられるし、そのバジルさんだって、他に療養地を探してもらえばいい。お前がじいさん思いなのは知ってるけどな、いつまでもここに縛られることはないだろ」
「私は縛られてなんか……」
ズキリと胸が痛んだ。
エラルドは少々口が悪いし怒りっぽいけれど、根は優しいことは知っている。一人になったメリッサを心配してくれていることも。
彼は理解できないだけなのだ。メリッサがどんなにここを好きかということを。
やるせない思いに、黙ってエプロンをぎゅっと握りしめていると、エラルドは気まずそうに顔を逸らし、身体を離す。
「気が変わったら、いつでも言えよ」
俯くメリッサに、不機嫌そうな声がかけられた。
やがて馬車が動き出す音が聞こえ、その音がすっかり遠ざかっても、メリッサは動けなかった。そのままフェンスに寄りかかっていると、不意にバジルの声がした。
「なかなか良さそうな青年ですね。メリッサの恋人ですか?」
いつの間にかすぐ隣にいた彼に、今のやり取りを聞かれてしまったかと焦る。が、バジルは素知らぬ顔でメリッサの麦わら帽子を拾い上げ、汚れを払って差し出してきた。
「い、いえ。ただの幼なじみで……」
メリッサは急いで帽子をかぶり、広いつばを両手で掴んで引き下ろした。
実際、エラルドとメリッサが恋仲だったことはない。村の学校に通っていた頃から、成績優秀で見た目も良かったエラルドは、村の少女たちにかなり人気があった。反してメリッサは地味で目立たない方だったし、肉づきもさほど良くはない。エラルドはそんな彼女のことをいつも色気がないと評価し、以前メリッサのことが好きなんだろうと友人にからかわれた時などは、ものすごく怒っていた。
それでもこうして何かと気にかけてくれるのは、祖父が彼の両親と親しく、エラルド自身もメリッサのことを妹のように思っているからだろう。
「……おじいちゃんはきっと、私が村に行っても、怒らないと思うんです」
帽子の陰に顔を隠して呟く。動揺しているせいで『祖父』ではなく、言い慣れた呼び方になってしまった。
「ええ。そうでしょうね」
せせらぎのように流麗で静かな声が、帽子の上に落ちてくる。
「数十年も手紙のやり取りしかしていなかった私が言うのも何ですが……たとえ自分にとって宝物でも、この薬草園が貴女の檻になるようなら、オルディはとっくにここを閉めていたと思います」
「……」
「でも……そうではないのでしょう? ですから、私はメリッサの薬草園に、遠慮なく滞在させていただきますよ」
帽子から手を離して顔を上げると、祖父の親友が優しい笑みを浮かべていた。そして、やや申し訳なさそうに咳払いをする。
「勝手に話を聞いて失礼しました。……確かに幼なじみ君の申し出も、考える価値は十分にあると思います。けれどそれは、メリッサがこれからよく考えて選べばいいこと。今すぐ薬草園を閉める必要などないということです」
「……はい」
メリッサはもう一度、帽子を深く引き下ろして短く答えた。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。勝手にこみ上げてくる涙を零すまいと、何度も瞬きをした。
それから十日あまりが経った。
気持ちのいい快晴の朝、バジルは鉱石木で傷んだフェンスの修理をしていた。フェンスの向こうではメリッサが、程よく育った薬草をせっせと籠に摘んでいる。
――見た目は、オルディに似ていないな。
メリッサを見た時の、バジルの最初の感想はそれだった。
オルディに似ていたら、もっとこう……猪のように頑丈そうな娘だっただろう。繊細で可愛らしい顔立ちは、彼の手紙に書かれていたように、彼の妻と息子の嫁からいい所を上手く受け継いだものに違いない。
性格も大人しい部類で、猪突猛進とか豪胆とか、そういった単語がピッタリだったオルディとは大違いのようだ。それでも、熱心に薬草の手入れをしている横顔には、時折亡き友人の面影が重なる。
そんなメリッサをそっと眺め、バジルはこの休暇を取るに至ったいきさつを思い出していた。
――魔物はどの種も、一定の知能や知識を有して生まれてくる。その程度には個体差があるが、最低でも泉から出てすぐに自活できるぐらいはあるものだ。具体的には、生まれた泉付近で使われている言語や、同族間の決まりごとなどである。
魔物は赤子の姿で生まれることはなく、成長速度や寿命に関しても人間のそれとはまったく違う。もっとも幼い姿で生まれるのは人狼だが、それでも幼児の姿であり、数年で成人となる。
そしてラミアという種は最初から成人の姿で生まれ、生涯をその姿で過ごす。よって当然のことながら、彼らの国には赤子も幼児も老人も存在しない。人間からすれば、とても異常なことではあるのだが。
もう遠い昔。バジル――バジレイオスも、他のラミアたちと同じように、生温かい羊水のような泉の中を漂っていた。やがて意識が芽生えたが、その時にはすでに知能や知識を持っていた。
それらを誰に教えられたのかは、分からない。ただ、深い深い泉の底から真っ黒い水の中をゆっくり浮かび上がる頃には、自分が『王の種子』だと理解していた。
泉が黒く染まった時に生まれる魔物は出来損ない、というのが一般的な認識だが、それは誤解である。
泉が黒く染まるのは、その泉から生まれる種族の王が誕生しようとする時。
王の種子はその種を統べるために、非常に頑強な生命力と優れた特殊能力を併せ持つ。
だが、彼らはそもそも泉から無事に生まれてくる確率が非常に低い。特殊な能力を宿す過程で身体が耐え切れず、大抵は泉から出る前に死ぬか、出た瞬間に溶け崩れてしまうのだ。
バジレイオスは、その稀少な成功例――ラミアという種では初めて無事に生まれた王の種子だった。王の種子は、無事に生まれても、身体や基礎能力に一部の欠陥を持つらしい。バジレイオスの場合は、死人のごとき身体がそれだろう。
遠い高山地帯には鳥人の王もいると聞くが、他の魔物については明らかではない。
ともあれ、バジレイオスはラミアたちの王として生まれ、国を興し、ラミアが人間と共存できる体制を整えた。
彼は最初、とりたてて人間が好きだったわけではない。脆弱で、数が多いのだけが取り得で、彼の同族たちを虐げていた種だ。
彼には、当時ラミアたちを支配していた大国の王侯貴族を皆殺しにすることも可能だった。しかし彼の目的は、一時的な報復ではなく、ラミアという種をこの世界で末長く繁栄させることである。
よって、彼はあえて回りくどい道を取った。周囲の人間の国々と利害の一致をはかった上で共に戦を起こし、大国を滅ぼしたのだ。簡単ではなかったが、やりがいはあった。
やがてキリシアムを建国すると、引き続き人間たちと友好関係を結び、平和な国づくりを目指した。そうしてひたすら政務に励むうちに、いつしか二百五十年は優に経っていた。
その頃に、ふと気づいたのだ。いや、意識しないようにしていただけで、もう随分と前からこの疑問は心の底で燻っていたのかもしれない。
――いつまで自分は、王を務めればいい?
長寿を誇る吸血鬼や九尾猫なら、数百年単位で生きることも珍しくない。しかしラミアは魔物の中でも短命であり、せいぜい七~八十年だ。
バジレイオスの周囲にいるラミアの顔は、この二百五十年ですっかり入れ代わった。それも一度ではなく、二度三度と代わっている。変わらないのは自分だけだ。
そんなバジレイオスを周囲はいっそう崇めて神格化し、彼以外の王など考えようともしなかった。
それもまた、王の種子に課せられた定めなのかもしれないと、自分を納得させようとしたこともある。いつか次の蛇王が生まれるまで、この身体が朽ちないよう注意を払い、仲間を守り続けることが自分の義務なのだと……
それでも心に残る違和感と言い尽くせぬ疲労はつのる一方で、バジレイオスは次第に塞ぎこむことが多くなった。いっそレモンバームの摂取を止め、朽ちてしまおうか――古代遺跡の廃墟でぼんやりとそう考えていた時に、一人の人間に会ったのだ。
トラソル王国からやってきたという青年は、バジレイオスを見るとその顔色の悪さに驚き、彼がラミアの王とも知らずに、急ごしらえの焚き火で薬草茶を淹れてくれた。
そんな青年にバジレイオスは、別に具合が悪いわけではなく、自分の置かれている立場に悩んでいただけなのだと話し、自分の身分を明かした。
初対面の……しかも人間であるその青年に、今まで誰にも言えなかった心の重荷を、つい打ち明けてしまったのは、我ながら不思議だった。
そして驚くほど豪胆で親しみやすい雰囲気を持ったその青年は、蛇王の話を聞き終わると、納得したとばかりに言ったのだ。
『なんだ、やっぱり具合が悪いんじゃねーか。不死の蛇王さまでも、心の風邪は引くんだな。あんたを慕う奴らのためにも、潰れる前に休暇を取れよ』と。
そう言って彼が差し出してくれたレモンバームの薬草茶は、信じられないほど美味しかった。
あの瞬間、バジレイオスは決意したのだ。
自分の心が澱み切ってしまう前に、なんとしても休暇を取ろうと。
そしてようやく休暇が取れた今、あの時の青年――オルディが亡くなっていたのは、まったくの予想外だった。さらに驚いたのは、一見大人しそうな彼の孫娘が、それでも自分に滞在を勧めてくれたことだ。自分は彼女と初対面だったというのに。
「今年は天候がいいから薬草がよく育ちます」
メリッサが振り向き、たちまち満杯になってしまった籠を嬉しそうに見せる。
「どれも立派なものですね」
バジルはにこやかに相槌を打った。
最初はバジルの正体に驚き、態度がややぎこちなかった彼女も、数日経った今では随分打ち解けてくれた。
非常に喜ばしいことだとバジルは頷き、ふと自分の足先に視線を落とす。今日はある事情から巻き布に裸足ではなく、ズボンと大きめの長靴姿だった。
――く……足が、気持ち悪い!
考え事にふけってしばし忘れていたが、両脚をぬっぷり包むなんとも言いがたいムズムズ感に、改めて眉根が寄りそうになる。
オルディが用意してくれたというシャツも麦わら帽子も非常に気に入っているが、メリッサに頼んで納屋から探してきてもらったこの長靴は、最悪の一言に尽きた。
もちろん、長靴に断じて罪はない。単にラミアという種族が、靴という存在を受け入れられないだけなのだ。
そして、バジルの身体はいくら傷つけられても痛みなど感じないのに、この不快感だけははっきりと感知するようだ。
ここに来る時に履いてきた革靴もかなり気持ち悪いと思ったが、あれはまだマシだったのだと思い知る。キリシアムからここまで、数日間の旅路を我慢できる程度だったのだから。
対してふくらはぎまでを覆う長靴の攻撃力は予想以上で、今すぐにでも脱ぎ捨てたくて堪らない。それをぐっと堪えて、バジルは黙々とフェンスの修理を再開する。
「……エラルド、今日は遅いなぁ」
メリッサが背伸びをして村の方角を眺めながら呟いた。
今日は例の幼なじみの青年が配達に来る日である。メリッサが言うには、彼の来るのはほぼ同じ時刻だそうだ。
(早く来てくれませんかねぇ……)
新しく並べた木板へトントンと釘を打ちこみつつ、バジルも心の中で訴える。
こんなに無理をして長靴に耐えているのは、エラルドに姿を見せるためなのに。
どうやらあの青年は、〝メリッサと一緒に住んでいる〟相手が、気になって仕方ないらしい。
メリッサは気付いていないようだが、エラルドは明らかに彼女に恋をしており、先日の申し出はプロポーズも同然だ。
そんな相手が、突然自分の知らない男と暮らし始めたら、危機感を覚えるのは当然だろう。あの口ぶりから察するに、彼は生前のオルディを随分信頼していたようだから、バジルが彼の旧知ということで、かろうじて我慢しているに違いない。
バジルは長い人生経験から、あの年頃の青年が恋心をこじらせると厄介になるのは知っていたし、自分のせいでメリッサと彼が気まずくなるのも本意ではない。
とにかくバジルが彼の前に一度姿を見せて、少し話でもすれば落ち着かせられるだろう。顔は見せられないが、話の通じる相手と分かればそれだけで違うものだ。
そのためにも前回同様ラミアとバレないよう、手袋とマスクを用意し、さらには念を入れてラミアなら絶対に履くのを拒否するであろう長靴に耐えているのだ。
しかし、どうにも足がぞわぞわする。一度脱いで、エラルドの馬車が来たら急いで履こうとも思ったのだが、脱いでしまったら果たして再びこれに足を突っ込めるかどうかは疑問である。
そうこう思い悩んでいると、ようやく馬車の音が聞こえてきた。
「あ、来た!」
メリッサが籠を置いて門の方に走り、バジルもポケットからマスクと手袋を取り出して振り向く。すると、森の小道をいつもより速度を上げて駆けてくる馬車が見えた。
「悪い、遅くなったな。出掛けに車軸が……」
門の前で馬車を止めたエラルドは、焦った声と共に御者台から飛び降りる。と同時に、バジルの存在に気づいたらしい。
「……あんた、誰だ? ここで何してるんだよ」
目深にかぶった麦わら帽子とマスクで、バジルの顔はすっかり隠れている。しかも今日はもう夏と言っていいほどの暑さなのに、首元にマフラーまで巻いて肌を覆い隠していた。
そんな彼を上から下まで眺めたエラルドの声には、当然のことながら不信感がたっぷり含まれている。
「エラルド! バジルさんは今、フェンスの修理を手伝ってくれてたの!」
メリッサがエラルドの半袖シャツの袖をくいくいと引き、慌てて説明する。
「初めまして、バジルと申します。訳あって、こちらに滞在させていただいているところでしてね」
バジルが手袋をはめた手を差し出すと、エラルドはやや素っ気ない調子だが握手を返してくれた。
「あんたが……そうか、療養中だとか?」
手袋越しに伝わる冷たい体温に驚いたようで、エラルドは離した手の平をチラッと見てから、バジルの顔を覆うマスクにじっと視線を注ぐ。
「ええ、そんなところです」
ただし、療養しているのは身体ではなく心の方――とは言わず、バジルは曖昧に答えた。
「ふぅん。修理を手伝えるんなら、それなりに元気なんだな」
そう言ったエラルドの視線はバジルではなく、傍らのメリッサに向けられていた。先日、いかにも重病人らしくバジルのことを説明したからだろう。
「え!? う、うん! バジルさんに手伝ってもらえるから、とっても助かるの」
いきなり水を向けられたメリッサは、慌てふためいた様子で頷く。
「それにね、バジルさんはすごく物知りだし、料理も上手だし、礼儀正しい紳士で、それから……」
盛大に褒めそやされ、バジルはさすがに気恥ずかしくなって咳払いした。
メリッサとしては、エラルドを安心させるためにバジルを持ち上げたのかもしれないが、一言ごとにエラルドのこめかみがヒクヒクと痙攣しているのが分かる。
「……すみませんが、メリッサ。エラルド君も急いできて喉が渇いているでしょうから、飲み物を持ってきていただけませんでしょうか?」
「ああ、頼む。急がなくていいから、少し冷やしてくれ」
バジルの意図を汲み取ったらしく、エラルドも唸るように言う。
「あ! そうだよね、気がつかなくて!」
両手を打ち合わせたメリッサは、パタパタと家の中に駆け戻っていった。その後ろ姿を見送ると、エラルドが苛立たしげにバジルを見る。
バジルは長身の部類だが、この青年もほぼ同じくらいの背丈だ。荷運びの仕事もしているせいか、引き締まった体格で顔立ちもいい。
「私に、何か言いたいことがあるのではと思いまして」
バジルが切り出すと、エラルドは薬草園の方へ顎をしゃくった。
「ご名答。メリッサはあれで、意外と頑固なんだ。じいさんが亡くなって一人きりになっても、こっちに薬草園があるから村には住めないって、再三の誘いを全部断っちまう」
「彼女は、この薬草園を愛しておりますからね」
バジルの率直な答えが、どうやらエラルドは気に入らなかったらしい。形のいい眉がギリッと吊り上がる。
「そんなことは知ってるさ。けどな、ここから一番近い農家だって、歩いて三十分はかかるんだぞ。この辺は熊や猪もよく出るし、動物ならまだしも妙な奴が押し入ってきたら、アイツはどうなる? 薬草園と自分と、どっちが大事なんだよ!」
メリッサの気持ちを慮るが故に本人へは強く言えない――そんな鬱積が一度に噴き出たのだろう。語気を荒くしたエラルドが、バジルをきつく睨む。
「オルディじいさんがいるうちは心配なかった。あの人なら熊の方が逃げていくくらいだ。けど……バジルさんはじいさんの親友でも、じいさんとまったく同じじゃないだろ!?」
彼の心境は、手に取るように分かった。
バジルがここに滞在する限り、メリッサはますます薬草園から離れようとはしなくなるだろう。その責任を取れるのか、療養中の身でオルディのようにメリッサを守れるのかと言いたいのだ。
「君の言い分はもっともですが……薬草園については他の誰でもなく、メリッサ自身が判断することです」
バジルは至極冷静に事実を述べた。エラルドも間違っていないし、薬草園にも罪はない。だからこそ、誰もが満足する答えなど出ないのだ。
ちょうどその時扉が開いて、グラスを三つ載せたお盆を手に、メリッサが姿を現した。エラルドがギクリと顔を強張らせて口を閉じる。
「お待たせ!」
ニコニコの笑顔を見ると、どうやら二人の声は聞こえていなかったようだ。
メリッサは、なみなみとグラスに入った冷水が零れないよう、慎重にお盆の上を見つめながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そんな彼女を眺めつつ、バジルはシャツのポケットを軽く探った。次の瞬間、取り出したものをメリッサの足元目がけて素早く指先で弾き飛ばす。
そして何事もなかったかのように話を続けた。
「それから……私は出来る限り、メリッサの身を守ります。それがオルディとの約束でもありますし」
「……そうか」
バジルが弾き飛ばしたものと、その先にあったものを凝視していたエラルドが、掠れた声で呟いた。
一方、グラスに集中していたメリッサは、バジルの動きなどまるで気づかずにそろそろと歩き続け、ようやく二人のところまで到達した。
「エラルド? はい」
メリッサがお盆を差し出すと、エラルドはグラスを一つ取り上げ、一息に飲み干した。
バジルもグラスを受け取り、エラルドから見えないよう顔を背けてマスクを外し、素早く飲む。
「助かった……喉が渇いて死にそうだったからな」
エラルドが疲れたような声とともに、空のグラスを盆に戻した。
「今日は暑いもんね。ロザリーにも飲ませてあげなくちゃ。持ってこようか?」
メリッサが言うと、木陰で大人しく馬車に繋がれていた牝馬が、もっともだと言うように軽くいなないた。
「ああ、頼む」
エラルドはそう言うと、さっさと荷台から小麦粉の袋などを下ろし始め、バジルもそれを手伝う。
食料品が全て納められ、馬がメリッサから貰った水を思う存分飲んだところで、エラルドは御者台に乗り込んだ。
それを見たメリッサはいつものように、彼を見送ろうと馬車の横に立つ。
ところが手綱を鳴らしかけたエラルドは、急に手を止めて、メリッサをじっと眺めた。
「……そういや、顔色が良くなったな」
「え?」
「じいさんが亡くなったばかりの時は、ずっと死にそうなツラしてたぞ」
「そ、そうだったの!?」
メリッサは驚いて頬に手を当てる。
落ち込んでいたのは確かだが、そんなにひどい顔をしていたのだろうか。
「良かったな、ちょうどバジルさんが来て」
なぜか少し不貞腐れたような声でエラルドは言い、メリッサの後ろにいるバジルへと視線を移した。しかしそのまま何も言わずにまた前を向くと、手綱を鳴らして馬車を走らせていった。
背の高い彼に詰め寄られ、メリッサは半ば仰け反ってフェンスに押し付けられる形になった。フェンスに絡む薔薇は、あまり棘を持たない種類だから痛くはないが、伸びていた枝に引っ掛かった帽子が脱げて足元に落ちた。
「で、でも、バジルさんは元々、しばらくここに住む予定だったのよ。おじいちゃんが招待したんだから」
メリッサが両手を振って、必死で言い訳をすると、エラルドは呆気に取られたような顔をした。
「は? なんだよ、それ」
俺は聞いてないぞ、とばかりに剣呑な視線で咎められ、メリッサは慌てて口を押さえる。
生前、祖父に『まだ理由は言えないが、バジルが来ることは誰にも内緒だぞ』と言われていたから、あえて教えていなかったのだ。
けれどメリッサにとってエラルドは、小さな頃から兄のような存在だった。困ったことや分からないことは何でも彼に相談したし、隠し事なんかしたことはなかった。その彼にさえバジルのことを黙っていたのは、事情が事情とはいえ、なんだかとても悪いことをした気がする。
「黙っててごめんなさい。でも、バジルさんはずっと、すごく大変な仕事をしていて、やっと休暇を取ることになったの。だからおじいちゃんも、静かに休ませてあげたかったみたいで……」
後ろめたい気分で、メリッサはモゴモゴと呟いた。
「おじいちゃんはもういないけど、なんていうか……かなりのお歳だし、顔色もすっごく悪かったから、予定通りに滞在してもらった方がいいかと……ここの薬草が、身体に合っているらしいの」
バジルに対して非常に失礼なことを言っている気もするが、とりあえず嘘ではない。
するとエラルドが、今度は苛立ったような溜め息をついた。
「……メリッサ。うちの店に住み込みして手伝いをする気はないか?」
「え?」
「姉貴たちが嫁に行ったから、家にはちょうど空き部屋があるし、親父たちもお前なら大歓迎だってさ」
唐突な言葉に、メリッサはまじまじとエラルドを見上げた。薔薇の芳香と春の日差しの中、少し怒りっぽい幼なじみは、やけに真剣な顔をしていた。
祖父が亡くなった後、村人たちは残されたメリッサを心配し、村へ引っ越すようにと何度か勧めてきた。ここのように、村から離れたところに住む農家は他にも何世帯かあるが、どれも大家族で、雇い人なども一緒に暮らしている。森の奥の一軒家に少女一人で暮らすというのは、さすがに危なっかしく見えたのだろう。
村で住み込みの仕事を紹介しようとしてくれた人や、知り合いが嫁を探していると言って、結婚という思わぬ選択肢まで提示してくれた人もいる。
だが、この薬草園を閉めて村で暮らすなど考えられないと、どれも丁重に断っていたのだ。
「……気持ちは嬉しいけど、私には薬草園があるから」
他の人たちにしたのと同じ答えを返すと、エラルドの表情がまた険しくなった。そして春の花が満開の薬草園を、忌々しげに睨みつける。
「薬草くらい少しなら村でも育てられるし、そのバジルさんだって、他に療養地を探してもらえばいい。お前がじいさん思いなのは知ってるけどな、いつまでもここに縛られることはないだろ」
「私は縛られてなんか……」
ズキリと胸が痛んだ。
エラルドは少々口が悪いし怒りっぽいけれど、根は優しいことは知っている。一人になったメリッサを心配してくれていることも。
彼は理解できないだけなのだ。メリッサがどんなにここを好きかということを。
やるせない思いに、黙ってエプロンをぎゅっと握りしめていると、エラルドは気まずそうに顔を逸らし、身体を離す。
「気が変わったら、いつでも言えよ」
俯くメリッサに、不機嫌そうな声がかけられた。
やがて馬車が動き出す音が聞こえ、その音がすっかり遠ざかっても、メリッサは動けなかった。そのままフェンスに寄りかかっていると、不意にバジルの声がした。
「なかなか良さそうな青年ですね。メリッサの恋人ですか?」
いつの間にかすぐ隣にいた彼に、今のやり取りを聞かれてしまったかと焦る。が、バジルは素知らぬ顔でメリッサの麦わら帽子を拾い上げ、汚れを払って差し出してきた。
「い、いえ。ただの幼なじみで……」
メリッサは急いで帽子をかぶり、広いつばを両手で掴んで引き下ろした。
実際、エラルドとメリッサが恋仲だったことはない。村の学校に通っていた頃から、成績優秀で見た目も良かったエラルドは、村の少女たちにかなり人気があった。反してメリッサは地味で目立たない方だったし、肉づきもさほど良くはない。エラルドはそんな彼女のことをいつも色気がないと評価し、以前メリッサのことが好きなんだろうと友人にからかわれた時などは、ものすごく怒っていた。
それでもこうして何かと気にかけてくれるのは、祖父が彼の両親と親しく、エラルド自身もメリッサのことを妹のように思っているからだろう。
「……おじいちゃんはきっと、私が村に行っても、怒らないと思うんです」
帽子の陰に顔を隠して呟く。動揺しているせいで『祖父』ではなく、言い慣れた呼び方になってしまった。
「ええ。そうでしょうね」
せせらぎのように流麗で静かな声が、帽子の上に落ちてくる。
「数十年も手紙のやり取りしかしていなかった私が言うのも何ですが……たとえ自分にとって宝物でも、この薬草園が貴女の檻になるようなら、オルディはとっくにここを閉めていたと思います」
「……」
「でも……そうではないのでしょう? ですから、私はメリッサの薬草園に、遠慮なく滞在させていただきますよ」
帽子から手を離して顔を上げると、祖父の親友が優しい笑みを浮かべていた。そして、やや申し訳なさそうに咳払いをする。
「勝手に話を聞いて失礼しました。……確かに幼なじみ君の申し出も、考える価値は十分にあると思います。けれどそれは、メリッサがこれからよく考えて選べばいいこと。今すぐ薬草園を閉める必要などないということです」
「……はい」
メリッサはもう一度、帽子を深く引き下ろして短く答えた。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。勝手にこみ上げてくる涙を零すまいと、何度も瞬きをした。
それから十日あまりが経った。
気持ちのいい快晴の朝、バジルは鉱石木で傷んだフェンスの修理をしていた。フェンスの向こうではメリッサが、程よく育った薬草をせっせと籠に摘んでいる。
――見た目は、オルディに似ていないな。
メリッサを見た時の、バジルの最初の感想はそれだった。
オルディに似ていたら、もっとこう……猪のように頑丈そうな娘だっただろう。繊細で可愛らしい顔立ちは、彼の手紙に書かれていたように、彼の妻と息子の嫁からいい所を上手く受け継いだものに違いない。
性格も大人しい部類で、猪突猛進とか豪胆とか、そういった単語がピッタリだったオルディとは大違いのようだ。それでも、熱心に薬草の手入れをしている横顔には、時折亡き友人の面影が重なる。
そんなメリッサをそっと眺め、バジルはこの休暇を取るに至ったいきさつを思い出していた。
――魔物はどの種も、一定の知能や知識を有して生まれてくる。その程度には個体差があるが、最低でも泉から出てすぐに自活できるぐらいはあるものだ。具体的には、生まれた泉付近で使われている言語や、同族間の決まりごとなどである。
魔物は赤子の姿で生まれることはなく、成長速度や寿命に関しても人間のそれとはまったく違う。もっとも幼い姿で生まれるのは人狼だが、それでも幼児の姿であり、数年で成人となる。
そしてラミアという種は最初から成人の姿で生まれ、生涯をその姿で過ごす。よって当然のことながら、彼らの国には赤子も幼児も老人も存在しない。人間からすれば、とても異常なことではあるのだが。
もう遠い昔。バジル――バジレイオスも、他のラミアたちと同じように、生温かい羊水のような泉の中を漂っていた。やがて意識が芽生えたが、その時にはすでに知能や知識を持っていた。
それらを誰に教えられたのかは、分からない。ただ、深い深い泉の底から真っ黒い水の中をゆっくり浮かび上がる頃には、自分が『王の種子』だと理解していた。
泉が黒く染まった時に生まれる魔物は出来損ない、というのが一般的な認識だが、それは誤解である。
泉が黒く染まるのは、その泉から生まれる種族の王が誕生しようとする時。
王の種子はその種を統べるために、非常に頑強な生命力と優れた特殊能力を併せ持つ。
だが、彼らはそもそも泉から無事に生まれてくる確率が非常に低い。特殊な能力を宿す過程で身体が耐え切れず、大抵は泉から出る前に死ぬか、出た瞬間に溶け崩れてしまうのだ。
バジレイオスは、その稀少な成功例――ラミアという種では初めて無事に生まれた王の種子だった。王の種子は、無事に生まれても、身体や基礎能力に一部の欠陥を持つらしい。バジレイオスの場合は、死人のごとき身体がそれだろう。
遠い高山地帯には鳥人の王もいると聞くが、他の魔物については明らかではない。
ともあれ、バジレイオスはラミアたちの王として生まれ、国を興し、ラミアが人間と共存できる体制を整えた。
彼は最初、とりたてて人間が好きだったわけではない。脆弱で、数が多いのだけが取り得で、彼の同族たちを虐げていた種だ。
彼には、当時ラミアたちを支配していた大国の王侯貴族を皆殺しにすることも可能だった。しかし彼の目的は、一時的な報復ではなく、ラミアという種をこの世界で末長く繁栄させることである。
よって、彼はあえて回りくどい道を取った。周囲の人間の国々と利害の一致をはかった上で共に戦を起こし、大国を滅ぼしたのだ。簡単ではなかったが、やりがいはあった。
やがてキリシアムを建国すると、引き続き人間たちと友好関係を結び、平和な国づくりを目指した。そうしてひたすら政務に励むうちに、いつしか二百五十年は優に経っていた。
その頃に、ふと気づいたのだ。いや、意識しないようにしていただけで、もう随分と前からこの疑問は心の底で燻っていたのかもしれない。
――いつまで自分は、王を務めればいい?
長寿を誇る吸血鬼や九尾猫なら、数百年単位で生きることも珍しくない。しかしラミアは魔物の中でも短命であり、せいぜい七~八十年だ。
バジレイオスの周囲にいるラミアの顔は、この二百五十年ですっかり入れ代わった。それも一度ではなく、二度三度と代わっている。変わらないのは自分だけだ。
そんなバジレイオスを周囲はいっそう崇めて神格化し、彼以外の王など考えようともしなかった。
それもまた、王の種子に課せられた定めなのかもしれないと、自分を納得させようとしたこともある。いつか次の蛇王が生まれるまで、この身体が朽ちないよう注意を払い、仲間を守り続けることが自分の義務なのだと……
それでも心に残る違和感と言い尽くせぬ疲労はつのる一方で、バジレイオスは次第に塞ぎこむことが多くなった。いっそレモンバームの摂取を止め、朽ちてしまおうか――古代遺跡の廃墟でぼんやりとそう考えていた時に、一人の人間に会ったのだ。
トラソル王国からやってきたという青年は、バジレイオスを見るとその顔色の悪さに驚き、彼がラミアの王とも知らずに、急ごしらえの焚き火で薬草茶を淹れてくれた。
そんな青年にバジレイオスは、別に具合が悪いわけではなく、自分の置かれている立場に悩んでいただけなのだと話し、自分の身分を明かした。
初対面の……しかも人間であるその青年に、今まで誰にも言えなかった心の重荷を、つい打ち明けてしまったのは、我ながら不思議だった。
そして驚くほど豪胆で親しみやすい雰囲気を持ったその青年は、蛇王の話を聞き終わると、納得したとばかりに言ったのだ。
『なんだ、やっぱり具合が悪いんじゃねーか。不死の蛇王さまでも、心の風邪は引くんだな。あんたを慕う奴らのためにも、潰れる前に休暇を取れよ』と。
そう言って彼が差し出してくれたレモンバームの薬草茶は、信じられないほど美味しかった。
あの瞬間、バジレイオスは決意したのだ。
自分の心が澱み切ってしまう前に、なんとしても休暇を取ろうと。
そしてようやく休暇が取れた今、あの時の青年――オルディが亡くなっていたのは、まったくの予想外だった。さらに驚いたのは、一見大人しそうな彼の孫娘が、それでも自分に滞在を勧めてくれたことだ。自分は彼女と初対面だったというのに。
「今年は天候がいいから薬草がよく育ちます」
メリッサが振り向き、たちまち満杯になってしまった籠を嬉しそうに見せる。
「どれも立派なものですね」
バジルはにこやかに相槌を打った。
最初はバジルの正体に驚き、態度がややぎこちなかった彼女も、数日経った今では随分打ち解けてくれた。
非常に喜ばしいことだとバジルは頷き、ふと自分の足先に視線を落とす。今日はある事情から巻き布に裸足ではなく、ズボンと大きめの長靴姿だった。
――く……足が、気持ち悪い!
考え事にふけってしばし忘れていたが、両脚をぬっぷり包むなんとも言いがたいムズムズ感に、改めて眉根が寄りそうになる。
オルディが用意してくれたというシャツも麦わら帽子も非常に気に入っているが、メリッサに頼んで納屋から探してきてもらったこの長靴は、最悪の一言に尽きた。
もちろん、長靴に断じて罪はない。単にラミアという種族が、靴という存在を受け入れられないだけなのだ。
そして、バジルの身体はいくら傷つけられても痛みなど感じないのに、この不快感だけははっきりと感知するようだ。
ここに来る時に履いてきた革靴もかなり気持ち悪いと思ったが、あれはまだマシだったのだと思い知る。キリシアムからここまで、数日間の旅路を我慢できる程度だったのだから。
対してふくらはぎまでを覆う長靴の攻撃力は予想以上で、今すぐにでも脱ぎ捨てたくて堪らない。それをぐっと堪えて、バジルは黙々とフェンスの修理を再開する。
「……エラルド、今日は遅いなぁ」
メリッサが背伸びをして村の方角を眺めながら呟いた。
今日は例の幼なじみの青年が配達に来る日である。メリッサが言うには、彼の来るのはほぼ同じ時刻だそうだ。
(早く来てくれませんかねぇ……)
新しく並べた木板へトントンと釘を打ちこみつつ、バジルも心の中で訴える。
こんなに無理をして長靴に耐えているのは、エラルドに姿を見せるためなのに。
どうやらあの青年は、〝メリッサと一緒に住んでいる〟相手が、気になって仕方ないらしい。
メリッサは気付いていないようだが、エラルドは明らかに彼女に恋をしており、先日の申し出はプロポーズも同然だ。
そんな相手が、突然自分の知らない男と暮らし始めたら、危機感を覚えるのは当然だろう。あの口ぶりから察するに、彼は生前のオルディを随分信頼していたようだから、バジルが彼の旧知ということで、かろうじて我慢しているに違いない。
バジルは長い人生経験から、あの年頃の青年が恋心をこじらせると厄介になるのは知っていたし、自分のせいでメリッサと彼が気まずくなるのも本意ではない。
とにかくバジルが彼の前に一度姿を見せて、少し話でもすれば落ち着かせられるだろう。顔は見せられないが、話の通じる相手と分かればそれだけで違うものだ。
そのためにも前回同様ラミアとバレないよう、手袋とマスクを用意し、さらには念を入れてラミアなら絶対に履くのを拒否するであろう長靴に耐えているのだ。
しかし、どうにも足がぞわぞわする。一度脱いで、エラルドの馬車が来たら急いで履こうとも思ったのだが、脱いでしまったら果たして再びこれに足を突っ込めるかどうかは疑問である。
そうこう思い悩んでいると、ようやく馬車の音が聞こえてきた。
「あ、来た!」
メリッサが籠を置いて門の方に走り、バジルもポケットからマスクと手袋を取り出して振り向く。すると、森の小道をいつもより速度を上げて駆けてくる馬車が見えた。
「悪い、遅くなったな。出掛けに車軸が……」
門の前で馬車を止めたエラルドは、焦った声と共に御者台から飛び降りる。と同時に、バジルの存在に気づいたらしい。
「……あんた、誰だ? ここで何してるんだよ」
目深にかぶった麦わら帽子とマスクで、バジルの顔はすっかり隠れている。しかも今日はもう夏と言っていいほどの暑さなのに、首元にマフラーまで巻いて肌を覆い隠していた。
そんな彼を上から下まで眺めたエラルドの声には、当然のことながら不信感がたっぷり含まれている。
「エラルド! バジルさんは今、フェンスの修理を手伝ってくれてたの!」
メリッサがエラルドの半袖シャツの袖をくいくいと引き、慌てて説明する。
「初めまして、バジルと申します。訳あって、こちらに滞在させていただいているところでしてね」
バジルが手袋をはめた手を差し出すと、エラルドはやや素っ気ない調子だが握手を返してくれた。
「あんたが……そうか、療養中だとか?」
手袋越しに伝わる冷たい体温に驚いたようで、エラルドは離した手の平をチラッと見てから、バジルの顔を覆うマスクにじっと視線を注ぐ。
「ええ、そんなところです」
ただし、療養しているのは身体ではなく心の方――とは言わず、バジルは曖昧に答えた。
「ふぅん。修理を手伝えるんなら、それなりに元気なんだな」
そう言ったエラルドの視線はバジルではなく、傍らのメリッサに向けられていた。先日、いかにも重病人らしくバジルのことを説明したからだろう。
「え!? う、うん! バジルさんに手伝ってもらえるから、とっても助かるの」
いきなり水を向けられたメリッサは、慌てふためいた様子で頷く。
「それにね、バジルさんはすごく物知りだし、料理も上手だし、礼儀正しい紳士で、それから……」
盛大に褒めそやされ、バジルはさすがに気恥ずかしくなって咳払いした。
メリッサとしては、エラルドを安心させるためにバジルを持ち上げたのかもしれないが、一言ごとにエラルドのこめかみがヒクヒクと痙攣しているのが分かる。
「……すみませんが、メリッサ。エラルド君も急いできて喉が渇いているでしょうから、飲み物を持ってきていただけませんでしょうか?」
「ああ、頼む。急がなくていいから、少し冷やしてくれ」
バジルの意図を汲み取ったらしく、エラルドも唸るように言う。
「あ! そうだよね、気がつかなくて!」
両手を打ち合わせたメリッサは、パタパタと家の中に駆け戻っていった。その後ろ姿を見送ると、エラルドが苛立たしげにバジルを見る。
バジルは長身の部類だが、この青年もほぼ同じくらいの背丈だ。荷運びの仕事もしているせいか、引き締まった体格で顔立ちもいい。
「私に、何か言いたいことがあるのではと思いまして」
バジルが切り出すと、エラルドは薬草園の方へ顎をしゃくった。
「ご名答。メリッサはあれで、意外と頑固なんだ。じいさんが亡くなって一人きりになっても、こっちに薬草園があるから村には住めないって、再三の誘いを全部断っちまう」
「彼女は、この薬草園を愛しておりますからね」
バジルの率直な答えが、どうやらエラルドは気に入らなかったらしい。形のいい眉がギリッと吊り上がる。
「そんなことは知ってるさ。けどな、ここから一番近い農家だって、歩いて三十分はかかるんだぞ。この辺は熊や猪もよく出るし、動物ならまだしも妙な奴が押し入ってきたら、アイツはどうなる? 薬草園と自分と、どっちが大事なんだよ!」
メリッサの気持ちを慮るが故に本人へは強く言えない――そんな鬱積が一度に噴き出たのだろう。語気を荒くしたエラルドが、バジルをきつく睨む。
「オルディじいさんがいるうちは心配なかった。あの人なら熊の方が逃げていくくらいだ。けど……バジルさんはじいさんの親友でも、じいさんとまったく同じじゃないだろ!?」
彼の心境は、手に取るように分かった。
バジルがここに滞在する限り、メリッサはますます薬草園から離れようとはしなくなるだろう。その責任を取れるのか、療養中の身でオルディのようにメリッサを守れるのかと言いたいのだ。
「君の言い分はもっともですが……薬草園については他の誰でもなく、メリッサ自身が判断することです」
バジルは至極冷静に事実を述べた。エラルドも間違っていないし、薬草園にも罪はない。だからこそ、誰もが満足する答えなど出ないのだ。
ちょうどその時扉が開いて、グラスを三つ載せたお盆を手に、メリッサが姿を現した。エラルドがギクリと顔を強張らせて口を閉じる。
「お待たせ!」
ニコニコの笑顔を見ると、どうやら二人の声は聞こえていなかったようだ。
メリッサは、なみなみとグラスに入った冷水が零れないよう、慎重にお盆の上を見つめながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そんな彼女を眺めつつ、バジルはシャツのポケットを軽く探った。次の瞬間、取り出したものをメリッサの足元目がけて素早く指先で弾き飛ばす。
そして何事もなかったかのように話を続けた。
「それから……私は出来る限り、メリッサの身を守ります。それがオルディとの約束でもありますし」
「……そうか」
バジルが弾き飛ばしたものと、その先にあったものを凝視していたエラルドが、掠れた声で呟いた。
一方、グラスに集中していたメリッサは、バジルの動きなどまるで気づかずにそろそろと歩き続け、ようやく二人のところまで到達した。
「エラルド? はい」
メリッサがお盆を差し出すと、エラルドはグラスを一つ取り上げ、一息に飲み干した。
バジルもグラスを受け取り、エラルドから見えないよう顔を背けてマスクを外し、素早く飲む。
「助かった……喉が渇いて死にそうだったからな」
エラルドが疲れたような声とともに、空のグラスを盆に戻した。
「今日は暑いもんね。ロザリーにも飲ませてあげなくちゃ。持ってこようか?」
メリッサが言うと、木陰で大人しく馬車に繋がれていた牝馬が、もっともだと言うように軽くいなないた。
「ああ、頼む」
エラルドはそう言うと、さっさと荷台から小麦粉の袋などを下ろし始め、バジルもそれを手伝う。
食料品が全て納められ、馬がメリッサから貰った水を思う存分飲んだところで、エラルドは御者台に乗り込んだ。
それを見たメリッサはいつものように、彼を見送ろうと馬車の横に立つ。
ところが手綱を鳴らしかけたエラルドは、急に手を止めて、メリッサをじっと眺めた。
「……そういや、顔色が良くなったな」
「え?」
「じいさんが亡くなったばかりの時は、ずっと死にそうなツラしてたぞ」
「そ、そうだったの!?」
メリッサは驚いて頬に手を当てる。
落ち込んでいたのは確かだが、そんなにひどい顔をしていたのだろうか。
「良かったな、ちょうどバジルさんが来て」
なぜか少し不貞腐れたような声でエラルドは言い、メリッサの後ろにいるバジルへと視線を移した。しかしそのまま何も言わずにまた前を向くと、手綱を鳴らして馬車を走らせていった。
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