蛇王さまは休暇中

小桜けい

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1巻

1-2

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『……』

 じっと聞き入っていたメリッサは、いつの間にかこわっていた身体をブルッと震わせた。

『おおっと、すまん!』

 気づいた祖父が、焦った声をあげてメリッサを抱きしめてくれる。

『どうも、酔いすぎたらしい……メリッサに聞かせるには向かん話だった』

 グラスをテーブルの中央に押しやり、祖父は弱り切ったようにつぶやいた。

『悪かったなぁ。怖い夢を見なけりゃいいが……』
『ううん。面白かった! それに、もし怖い夢を見ても、おじいちゃんがいるから平気!』

 メリッサも丸太のように太い祖父の腕をぎゅっと抱きしめ返す。
 早くに両親を亡くし、半年前に祖母も持病で亡くしてからは、祖父と二人きりの生活だった。それでも大好きなこの腕が心細さも寂しさも和らげてくれる。
 しかしメリッサが大きくなるにつれ、祖父の腕はだんだん柔らかく、フニフニした感触になっていき……


 目を覚ましたメリッサは、いつの間にか自分が、丸まった布団を抱きかかえながらベッドで寝ていることに気づいた。

「ふぁ……」

 大きな欠伸あくびと伸びをしてから起き上がり、カーテンを開ける。ちょうど朝日が昇り始めた頃だった。
 朝は少し苦手だ。起きられないわけではないが、顔を洗うまではどうにも頭がはっきりしない。ぼうっとしたまま部屋を出ると、階下からかすかな物音が聞こえてきた。

(珍しいなぁ。おじいちゃんが早く起きてる……)

 いつもは布団をぎ取るまで起きないのに……と、寝ぼけまなここすりながら階段を下りて居間の扉を開ける。

「ん~。おはよう……」

 おじいちゃん、と続けようとしたメリッサは、その場で硬直した。

「おはようございます。メリッサ」

 ソファーで本を読んでいたバジルが、優雅に挨拶をする。清潔そうな白いシャツを着て、すでにきちんと身なりを整えている紳士を前に、寝ぼけていたメリッサの頭は瞬時に覚めた。

「きゃああああ!! すみません!!」

 悲鳴をあげて居間から飛び出し、人生最高の速度で部屋へ駆け戻る。
 バタンと閉めた扉に背中をつけたメリッサは、バクバクしている心臓を押さえた。

(そ、そうだった! おじいちゃんの夢を見たから、寝ぼけて……)

 バジルに会ったことで無意識に小さな頃のことを思い出し、それであんな夢を見たのだろう。

(おじいちゃん……)

 祖父はもういないのだと改めて思い知らされ、胸が締めつけられる。もっともっと一緒にいてほしかった。教えてほしいことだって、まだ山ほどあった。
 とりわけ今は、痛切に教えをいたいことがある。
 ――私、あの寝ぼけ姿を見せちゃった後で、どんな顔して蛇王さまに会えばいいの……っ!?


 不死の蛇王バジレイオスにはいくつもの逸話があるが、特に有名なのは、彼が泉から生まれた時の話だ。
 当時泉のある一帯は、まだ人間の王国の支配下にあった。泉は常に人間の兵たちに見張られており、そこから生まれたラミアもすぐさま捕獲されては奴隷として連れていかれた。
 兵たちは鉱石ビーズを付けた武器で魔物の身体をしびれさせ、手足や首にかせをつける。そうして自由を奪ってから、その身体に奴隷としての登録番号の焼印やきいんほどこすのだった。
 そんなある日。泉の一つがボコボコと泡立ち、魔物の誕生が近いことを見張りの兵に告げた。
 兵たちは首枷と鉱石ビーズを埋め込んだ棍棒こんぼうを持って泉に近付いたが、すぐに落胆した。鮮やかなオレンジ色の泉が、みるみるうちにどす黒く変色していったからだ。
 世界中に点在する魔物の泉はどれも似たような形だが、満たす水の色はそれぞれ違い、生まれる魔物の種類も違う。だが、どの泉もたまにこうして黒く変色することがあった。
 その際生まれる魔物はいつも出来損できそこないで、最初から死骸となって生まれてくるか、生きていてもすぐに身体が溶け崩れてしまう。
 この時泉に浮かび上がったラミアも、すでに死んでいると思われた。彼は固く目をつむったままピクリとも動かず、肌の色はまるで生気を感じさせなかったからだ。呼吸も脈もなく、当時の兵の日誌には、『溶解こそしなかったが完全な死体であり、念のために首を斬って廃棄した』と記されていた。
 しかし、後に不死の蛇王と呼ばれるラミアは、神殿裏の草地に廃棄された後、人気ひとけがなくなるのを待って起き上がり、斬られた首を自分で繋げた。
 そして彼は枷も登録番号の焼印も施されず、まんまと人間の手を逃れることができた。そして同胞たちを自由にするため、暗躍あんやくを開始したのだった。


 ――この顔色に、兵たちはあざむかれたのね……無理もないわ。
 食卓の向かいに座っている蛇王さまをこっそり眺め、メリッサは内心で頷く。
 その顔はきちんと表情を浮かべるし、肌にはちゃんと張りもある。が、そこをいろど土気色つちけいろには、やはり死の雰囲気があった。……かといって、物語に出てくるゾンビのような化物的なおぞましさは一切ない。
 ティーカップを傾け、レモンバームとミント、ローズヒップなど、数種類のハーブをブレンドした爽やかな香りのお茶を楽しむさまには、気品がにじみ出ている。
 フォークやナイフを使って食事をする姿も、亡き祖父や自分とは比べものにならないほどに上品だ。
 そういえば今朝方メリッサはいきなり大失敗してしまったが、幸いにも彼女よりはるかに年齢と経験を重ねているバジルにとっては、気にもならないことだったらしい。
 その後着替えて恐る恐る顔を合わせた時には、何事もなかったように振る舞ってくれ、心底救われたものだ。
 気品溢れる蛇王さまの向かいで、メリッサは使い慣れたフォークを精一杯お行儀よく操り、新芽を使ったサラダを食べる。
 頑丈な木で造られたテーブルにはサラダの他、パンにスープに焼いたベーコン、それからバジルが作ってくれた、キリシアムで朝食によく食べられるというオムレツも載っていた。
 これらの朝食はメリッサとバジルが一緒に作ったものだが、実のところ彼に朝食作りを手伝うと言われた時はしばし悩んだ。高名な蛇王さまに食事など作らせていいものだろうか。
 だが、『今は王を休業しているし、生きるために必要な食事作りは、とても立派な仕事だと思っている』と、柔らかく押し切られてしまった。
 どうやら彼はいくさや政治以外に、料理も得意らしい。スープの塩加減ときたら絶妙だし、レモンの皮と香草を混ぜ込み、オリーブオイルで焼いたトマト入りのオムレツは、口の中に入れた時のふわふわ感がたまらない。
 何事にもソツがないとはこういうことを言うのかと、メリッサはただただ感心するばかりだ。
 それにとても礼儀正しい紳士で、昨夜も彼のために用意しておいた部屋に案内すると、非常に感じよく褒めてくれた。
 正体を明かされた時はそれこそ腰が抜けそうなほど驚いたけれど、こうして見ると彼は理想的な同居人なのかもしれない。
 しかし、どうしても気がかりな点が一つある。

「あの、バジ……ルさん。聞いてもいいですか?」

 しばらく迷った末に、メリッサはフォークを置いて声をかけた。

「はい。なんでしょうか?」
「あなたがここにいるのを、他の方たちは知っているんですか? なんというか、その……何かあった時のために……」

 慎重に言葉を選んで尋ねると、蛇王はにこやかに目を細めた。

「念のため、一人だけ教えてありますが、よほどのことがない限り誰にも言わないようにと固く口止めをしています」

 なんとなく予想していた答えだが、メリッサは思わず絶句する。その向かいで、蛇王はカップを置いて姿勢を正すと、こう付け加えた。

「表向きには、現在の私はやまいで伏せっていることになっています。それでこのまま何事もなく国政が回るようなら、病死と公表する予定です。ご存知かもしれませんが、死んだふりは私の得意技でしてね」

 しれっと逸話を持ち出しながら言う彼に、眩暈めまいを覚えた。
 ――ちょ……っ! それって完全に退職の前準備ですよね!? 蛇王さま、休暇どころか辞める気満々じゃないですか!! 

「でも、貴方あなたがいなくなったら、困る人たちがいるんじゃ……」

 メリッサはあわてふためき、思わず椅子から腰を浮かせた。隣国の一平民が口を出す問題ではないのかもしれないが、彼を迎え入れた身としては、片棒をかついでしまった気分なのだ。
 バジルはそんなメリッサを眺めて苦笑する。

「ご心配なく。メリッサにもこの薬草園ハーブガーデンにも、決して迷惑はかけないと誓います」
「い、いえ。そういう意味では……」

 言葉に詰まっていると、彼は物憂ものうげな溜め息をついた。

「私がいなくなると困る……実は、そこが問題なのですよ」
「……え?」
「そもそも、同じ者が三百年も国王を務めるなど、異常だと思いませんか? どこの組織でも、上に立つ者はいずれ代わります。それによって組織が良くなるか悪くなるかはともかくとして、代わるのが当然なのです」
「そ、それは、そうですけど……不死の王がいらっしゃるなら……仕方ないのでは?」

 いつの間にか真剣な光を帯びていた二色の瞳を前にして、メリッサは小声で答える。

「……ええ。私の後継を頼んだ者にも、散々そう言われました。万が一の事態に備えて居所を教えるという条件で、引退を了承してもらいましたがね」

 そう言ってバジルは、海辺の故郷を思い起こすように、窓の外に広がる青空をちらと見る。が、すぐにまたメリッサに視線を戻した。

「私は不死と呼ばれておりますが、最初から死んでいるという方が正解かもしれません」
「死んで……?」

 しっかりと動き、飲んで食べている相手にそんなことを言われ、首をかしげてしまう。顔色の悪さや低い体温から、死体のようだと思ったのは事実だが、実際に死んでいるとまでは思えない。

「メリッサ。私の手は、やけに冷たいと思ったでしょう?」
「あ、はい……」

 ズバリと言い当てられて、メリッサは頷いた。

「ラミアは元々体温が低いのですが、私の身体はその中でも特別で、脈も呼吸も普段は必要としません。そしてこの身体は、レモンバームを定期的に摂取しなければ、ちてしまうでしょう」

 とんでもなく奇妙な体質を告白したバジルは、にこやかにハーブティーのカップを持ち上げて見せた。

「それで、レモンバームのお茶を飲まれていたのですか……」

 メリッサは祖父がよくどこかに乾燥させたレモンバームの小包を送っていたのを思い出す。あれはきっと、彼に送っていたのだ。メリッサの言葉に、今度は彼が頷く。

「ええ。私にも身体を動かすために必要なものはありますし、皆が思うほど万能でもありません。国を建てた頃はそれを理解してくれる者が多くいましたが、皆とうに亡くなりました」

 メリッサからすれば十二分に万能に見える蛇王は、そう言って表情を曇らせる。

「周りは変わっても、私だけは変わらずに生き残り……時が経てば経つほど、過大評価されるようになりましてね。このまま王であり続けるのは、私のためにも国のためにもならないと判断したのです」

 少し悲しげにバジルは言い、最後に「動かない水はよどむものです」と付け加えた。

「そう、ですか……」

 メリッサはつぶやき、上げかけていた腰を改めて下ろした。
 いいかげんなことは言えなかった。三百年もの間国を治めてきた彼の心の痛みは、不死でも王でもない自分が理解できるものではない気がした。
 メリッサとて幼い頃に両親と祖母を亡くし、半月前に祖父を亡くした時の痛みは、どれも痛烈に胸に残っている。長く生きてきたバジルは、自分などよりはるかに多くの別れをこれまで経験してきたことだろう。
 食卓の中央にあるポットに手を伸ばし、澱んだ水になりたくなかった蛇王さまのカップに、ハーブティーをもう一杯注いだ。


 朝食の片付けを終えた後、バジルが薬草園ハーブガーデンの手伝いをすると言うので、メリッサは祖父が彼のために用意していた、新しい麦わら帽子と麻のシャツを取り出した。
 ズボンや長靴は用意されていなかったが、これはバジルがラミアだからだ。
 ラミアは下半身を人間の脚や蛇の尾に自在に変えられる。そのためどちらの姿になってもいいように、男性もズボンではなく丈の長いチュニックや巻きスカートのようなものを身に付けている。
 靴や靴下は彼らにとって非常に不快なもののようで、人間の脚の時も素足のままだ。雪の積もる真冬でさえも、町で見かけるラミアたちは靴底の薄いサンダルしか履いていない。
 朝一番に寝ぼけ顔で出ていった時には気づく余裕がなかったが、バジルも今日はシャツに脛丈すねたけの黒い布を腰に巻いて、土気色つちけいろの足はやはり裸足はだしだった。昨日人間風の衣服や靴を身に付けていたのは、道中で正体を隠すためだったそうだ。

「サイズが合うといいのですが」

 そう言って水色のシャツを手渡すと、バジルはそれを広げて、うれしそうに目を細めた。

「大丈夫だと思いますよ……ほら、さすがはオルディだ」

 彼は片方の袖を腕に当てて見せ、親友が自分の体格をきちんと覚えていたことを証明してみせる。続けて帽子も受け取ると、それらを抱えていそいそと二階の自室に向かった。
 メリッサはふと嫌な予感がして、頑丈な木の手すりに寄りかかりながら、階段を上っていく彼を見上げる。
 程なくして、着替えを終えたバジルが下りてきた。

「どうですか、メリッサ」

 腰の巻き布はそのままだが、シャツを着替えて麦わら帽子をかぶり、満面の笑みを浮かべている。そんな蛇王さまを見て、メリッサは固まった。
 先ほどの予感は、見事に当たってしまったのだ。
 ――どうしよう、おじいちゃん。まったく似合わない!!
 素朴な麦わら帽子は、端整な顔立ちとは上手く共存できないものなのだろうか? それともこれはにじみ出る気品のせいだろうか…… 
 蛇王さまと麦わら帽子のチグハグ感は凄まじく、いっそ彼の持参した中折れ帽に取り替えてあげたくなった。
 だが本人は大層ご満悦で、窓ガラスに映る姿を覗き込み、帽子の位置を調整したりしている。

「え、えっと……じゃ、庭に行きましょうか」

 メリッサは、これからファッションコンテストに行くわけじゃなし、と特に言及することなく自分の帽子をかぶり、そそくさと玄関に向かう……と、滑るようにメリッサを追い越したバジルが、玄関の扉をさっと開いた。

「……」
「どうぞ?」

 そう言って開いた扉を片手で押さえて、にこやかにメリッサをうながす。

「……えーと……ありがとう、ございます……」

 そんな紳士に小声で礼を言ったメリッサは、急いで玄関を通り抜けた。
 生まれながらの王侯貴族であればこういったことには慣れているのかもしれないが、しがない田舎娘いなかむすめには心臓に悪いと、こっそり溜め息をつく。

「今日も天気が良さそうですね」

 しかし朝からメリッサの心臓を騒がせっぱなしにしている犯人は、いたってのんに青空を見上げている。
 美しく優雅なその横顔は相変わらず死人のような色なのに、驚くほど生き生きとした表情を浮かべており、メリッサはつい目を奪われた。

「メリッサ、どうかしましたか?」

 その視線に気づいたらしく、不意にバジルがこちらを向いた。ハッと我に返り、あわてて麦わら帽子のつばを引き下げて赤くなった顔を隠す。

「い、いえ……」

 やっぱり蛇王さまと暮らすのは、心臓に悪いと思う。
 けれど、朝から誰かとこんなに話をしたのは、祖父が亡くなって以来だ。
 起きてから、一度も涙を流さなかった朝も。


 トリスタ薬草園ハーブガーデンはごく小ぢんまりとしているものの、薬草の種類は非常に充実していた。ミントやラベンダーといった代表的なハーブはもちろん、栽培が難しい稀少な植物も取り揃えている。地植えだけでなく、棚に置いたポットでも多種の薬草が栽培され、寒さに弱い薬草用に小規模な温室もしつらえていた。今はちょうど、ローズオイルやジャム用に栽培されている薔薇ばらが咲き誇っていて、一際高い芳香が外まで漂ってくる。

(うーん……バジルさんに手伝ってもらうこと……)

 はたして蛇王さまに何をしてもらったらいいのか。メリッサはしばし頭を悩ませていたが、幸いにも自分で答えを出す必要はなかった。

「……薬草園よりも先に、家の周りの鉱石木を抜いた方が良さそうですね」

 丸太でできた家の外壁にビッシリと鉱石木が絡みついているのを見て、バジルがそう言い出してくれたからだ。祖父が、亡くなる前日に全て引き抜いて綺麗にしてくれたのに、たった半月でひどい有様になっている。

「あ……お願いしてもいいですか?」

 葬儀以来、薬草園の手入れだけはきちんとしていたけれど、こういった鉱石木の除去などはすっかり忘れていた。
 古代文明を滅ぼしたというだけあり、鉱石木の生長速度は凄まじい。そして奇妙なことにその速度は、人が密集する地域ほど速いのだ。住人の多い町であれば、たった二週間ほど駆除をおこたっただけで町中が鉱石木で覆い尽くされると言われるほど。
 この森の中の一軒家でさえも半月放っておいただけで、緑の侵略者が一階の窓に入り込みそうな勢いだった。鉱石木から取れる発光鉱石は生活に欠かせないものだが、住居を破壊されては元も子もない。
 鉱石木の一部は、すでに手首ほどの太さになっていて、こうなると力自慢の男でも引き抜くのは難しい。おのかノコギリで切るしかないだろう。

「何か、切る道具を持ってきますね」

 そう言って納屋なやに向かおうと振り返りかけたメリッサは、そのままポカンと口を開けて立ち尽くした。バジルが鉱石木の一番太い箇所を掴み、大してりきむことなく、片手で引き抜いたからだ。

「これくらいなら道具は必要ありませんよ」

 にこやかに言い、次の木をまた軽く引き抜くさまに、メリッサは唖然あぜんとするばかりだ。
 彼はそこそこ背が高く、貧弱さは感じない身体だが、どちらかというと細身の部類。腕の太さなど祖父の半分ほどしかないのに……

「……力、あるんですね……」

 せめてもう少し気の利いた褒め言葉が出てこないものかと思うが、パクパクと口を開け閉めしたあげくに、ようやく出てきたのがそれだった。
 バジルはニコリと笑うと、次々に鉱石木を抜き、傍らに積み上げていく。素早く力強い動きだが、乱暴ではない。家をいためないように気を配ってくれているのがよく分かった。
 目の前の光景をしばし見るともなしに見つめていたが、やがてメリッサは自分も仕事をしなければと思い直す。そこで普通の雑草でも抜こうかとかがみ込んだ時だった。
 馬のいななきとひづめの音、それに馬車の車輪が立てる賑やかな音が聞こえてきた。
 背伸びをして、観賞用の薔薇ばらが絡むフェンスの向こうに目をらすと、よく見知った馬車が村の方から森の道を抜けて近付いてくる。
 御者台ぎょしゃだいに座っている黒髪の青年は、馬車屋の息子エラルドだ。メリッサとは同い年であり、村の学校でも一緒だった。

「嘘っ!? なんで!?」

 エラルドの家は、主に馬車類や馬具の修理を請け負う店だが、村から少し離れて点在する農家などに日用品や食料品の配達もしている。メリッサの家にも毎週月曜日に来てくれることになっているが、今日は木曜だ。この薬草園ハーブガーデンの奥には一軒も家はないから、目的地はここで違いないだろう。

「どうかしましたか?」
「バジルさん、隠れて!」

 あわてふためいたメリッサは、首をかしげているバジルの腕に飛びつき、家の裏手に向かってぐいぐい引いた。

「エラルド……あの馬車の人ですけど、きっとここに来るんです!」

 今立っている場所は家の前を通る道からは見えないが、馬車を降りて玄関口まで来れば自然と視界に入ってしまう。

「そうですね。蛇王の死亡告知が広まるまではできるだけ滞在を隠しておきたいところです」

 病気ということになっている蛇王さまは、気まずそうにつぶやいた。
 特徴のありすぎるバジルの素顔を見られるのは、非常にまずい。脚を蛇に変えていなくても、顔に少しあるうろこでラミアだとすぐに分かるはずだ。
 エラルドはおしゃべりではないが、誰か一人にでも話してしまうと、狭く退屈な村ではあっという間に広まってしまう。
 この付近では珍しいラミアが、森の中の薬草園にいたというだけでも十分話題になるだろうに、さらに土気色つちけいろの肌をした美形という珍しい風貌とくれば、なおさら盛り上がるに違いない。万が一ではあるが、その噂が遠くまで広がり、蛇王の特徴を知っている者の耳に届かないとも限らないのだ。
 彼とてそんな危険を承知しているからこそ、昨日はわざわざ変装してきたのだろう。

「では、少々失礼します」

 軽く会釈えしゃくをした彼の脚が陽炎かげろうのように揺らいだかと思うと、一瞬で太く長い蛇の尾に変わる。
 ラミアたちが下半身を変化させる際、どうして元の脚よりもはるかに長い蛇の尾になるのか、メリッサは前々から不思議でたまらない。暗い金色のうろこに覆われた蛇の半身は、すくなくとも七~八メートルはありそうだ。
 バジルは家の丸太壁に手をかけ、金の蛇尾を素早くくねらせる。かと思うと、次の瞬間には地上から彼の姿が消えていた。

「えっ!?」

 驚いたメリッサが上を見上げると、開いていた二階の窓から、にこやかにバジルが手を振っていた。森で暮らしているので、蛇が素早く木に登る姿くらい何度も見たことがあるが、今のは登る姿すら見えないほどの速さだった。
 この素早さなら、エラルドが玄関口に着いてからでも楽々と隠れることができただろう。余計なお世話だったかと思いつつ、メリッサは急いで門の方に駆けていく。  
 ちょうど馬車が家の前に着いたところで、御者台ぎょしゃだいのエラルドが肩で息をしているメリッサを不思議そうに見下ろしてくる。

「そんなにあわててどうした」
「ううん、ちょっと。それより、今日は配達の日じゃないのに……薬草がいるの?」
「いや。養鶏場ようけいじょうへ配達に行ったついでだ」

 エラルドは御者台から降り、馬を手近な木に繋ぎながらうなるように返事をした。いつもメリッサに対してはなぜか怒りっぽい男だが、今日はすこぶる機嫌が悪いらしい。

「ふぅん……?」

 メリッサは首をかしげた。ついでと言うが、ここと養鶏場は村を挟んで反対方向だ。

「養鶏場のご隠居さんから、黒ずくめの見かけない男が昨日、村の方に歩いていくのを見たって聞いたんだよ」

 ギクッと、メリッサは背筋をこわらせた。
 ほら、これだから田舎の情報網はあなどれない!
 冷や汗たらたらのメリッサを眺め、エラルドはさらに眉をひそめた。

「でもそんなヤツは村には来てないし、ここの途中の家でも知らないって言ってたから、もしかしてここに来ていないかと思ってな」
「え……ああ! バジルさんのことね! おじいちゃんの親友なの! 私も会ったのは初めてだけど、すごく紳士で礼儀正しい人だから、びっくりしちゃった!」

 ――一番驚いたのは、蛇王さまだったことだけどね!
 ポンと手を叩いて説明したが、不自然なほど明るい大声になってしまった。

「……じいさんの知り合いだったのか。まあ、それなら……」

 ふぅっと息を吐いたエラルドは、まるで一気に力が抜けたという様子でつぶやいた。しかし、すぐにまた不機嫌そうな顔になってメリッサをにらみ、家の方へあごをしゃくる。

「まさか、ソイツをここに泊めたのか?」
「そうよ。遠慮していたけど、私が泊まるように勧めたの」

 正直に答えたら、途端にエラルドの表情がギリギリとけわしくなった。
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