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しおりを挟む1 蛇王さまがやってきた
うららかな春の昼下がり。
森の奥へ続く小道を、一人の紳士が歩いていた。黒い帽子に黒いマント。片手には黒いトランクケース。黒い上等な革靴で規則正しく地面を踏む間、彼はわずかな音すら立てない。臆病な森ねずみでさえ、彼がすぐ後ろを通り抜けるのに気づかないほどだ。
そうして新緑の香る木漏れ日の中を優雅に移動していた紳士は、やがて目当ての家を見つけて足を止めた。
古いが居心地の良さそうな丸太造りの二階家だ。広い庭は見事な薬草園。窓辺やテラス、ベランダにも栽培用のポットが置かれ、薬草たちがすくすくと育っている。まるでおとぎ話に出てくる善良な魔女の住み処のようだ。
そんな家と薬草園をグルリと囲むのは、白いペンキを塗った木製の垣根。正面には簡素な門が一つ。
そしてその傍らには『トリスタ薬草園』と彫られた木製の看板が堂々と掲げられていた。
紳士がじっくりと看板を眺めていると、ふと風が吹き抜け、心地好い香りが彼を包む。
期待通りの香りに紳士は目を細めて一つ頷き、薬草園の方へ視線を向ける。
春の陽射しの下で、つばの広い麦わら帽子をかぶった少女が、柳の籠を片手に薬草を摘んでいた。
年のころは十八、九といったところか。帽子の下に見える可愛らしい横顔は、ぷっくりした唇と美しい紫色をした大きな瞳が印象的だ。栗色の髪はうなじで一つに束ねられ、レモン色のリボンが飾られている。
シンプルなスカートとブラウスの上には、作業用らしきエプロン。身体つきはほっそりとしているものの、貧弱ではない。古い歌を楽しげに口ずさんでいる彼女からは、生き生きとした生命力が伝わってくる。
少女を遠目に眺めていた紳士はもう一度頷くと、門に続く小石の多い道を音も立てず歩いていった。
「――失礼。オルディ・トリスタ氏はご在宅でしょうか?」
薬草園の手入れをしていたメリッサは、唐突にかけられた声に振り返った。驚いて取り落としそうになった籠を、すんでのところで抱え直す。声の主は、垣根の向こうに立っている男性のようだ。
ついさっきまで周囲には誰もおらず、足音も聞こえなかったのに、当たり前のように彼はそこにいた。
「あ……祖父は半月前に亡くなりました……」
メリッサが答えると、今度は紳士の方がギョッとしたような声をあげた。
「亡くなられた!?」
「……ええ」
なるべく冷静に話そうと思うのに、どうしても声が詰まってしまう。
半月前の夜、いつもと変わらない様子で床に入った祖父は、翌朝には眠るように亡くなっていた。
駆けつけた医師は寿命だと診断し、理想的な最期だと慰めてくれたが、それでも大好きな祖父との別れはもっと遅くあってほしかった。
「……そうでしたか」
紳士は呻くように呟き、しばし沈黙する。やがて俯いて胸に手を当て、死者を悼む礼をした。
驚愕と落胆を露わにする紳士を、メリッサは慎重に観察した。
紳士は、その上品な口調と物腰にふさわしく、身なりも気品に満ちていた。
手には小綺麗な白い手袋をはめ、洒落た金ボタンで留めた黒いマントやその下に見えるシャツとズボンも、こんな田舎ではまず見ない高級そうな品だ。
ただ、これだけ暖かい日にしては、少々着込みすぎているような気がした。マントだけでも暑そうなのに、首にも白いマフラーをグルグル巻くという徹底ぶり。少しでも皮膚を外気に晒したくないと言わんばかりの完全防備だ。
おまけに黒い中折れのソフト帽を目深にかぶり、顔も大きなマスクで覆い隠しているので、どんな顔立ちをしているのか、歳もいくつほどなのかまったく分からない。
紳士は紳士でも、〝ものすごく怪しい紳士〟である。
ふと帽子の陰から左右違う色をした鋭い瞳がチラリと見え、メリッサは身震いした。
何しろこの家は村からも離れているし、最後の肉親だった祖父を亡くしてからは、ここで一人きりで暮らしている。危険が迫っても助けが来る可能性は低い。
しかし見た目は怪しくとも、死者を悼む紳士の様子に嘘は感じられない。何よりメリッサには近いうちに祖父を訪ねてくる予定の人物に心当たりがあった。
「もしかして、バジルさんですか?」
祖父の古い友人の名前を口にすると、鋭く見えた両目が、驚くほど柔和に細められた。
「ああ、良かった。オルディから、私のことを聞いておられるのですね?」
紳士は嬉しくて堪らないというように頷いた。
「申し遅れました。バジルです。オルディを祖父とおっしゃるということは、貴女がメリッサ嬢ですね」
「は、はい……」
奇妙な来訪者の正体が判明し、メリッサの身体の緊張が一気に解ける。
バジルは、祖父が青年だったころ近隣諸国を巡り、薬草栽培の技術を学んでいた際に知り合った人だそうだ。今は失われた栽培技術や種子を求め、地下深く埋まっている古代遺跡に潜ったり、そこにいる猛獣と戦ったりと共に無茶をした仲だと言うから、もっとこう……祖父のように、頑強で野性味溢れる人物だと思っていたのに。
「お会いできて光栄です」
そんなメリッサの胸の内など知らず、バジルは野性味などまるで感じさせない優雅な仕草で片手を差し出した。
「オルディのお孫さんが、こんなに美しいお嬢さんだとは。彼が手紙でいつも貴女の自慢をしていたのも当然ですね」
「そんな……」
メリッサは赤面した。社交辞令とはいえ、こんなに上品な相手から惜しみなく賞賛されると、気恥ずかしくなってしまう。
ともあれメリッサは、土と薬草の汁で汚れていた自分の手をエプロンで綺麗に拭き、白い手袋を恐々と握る。
自分の手が火照っているのだろうか、やけにヒンヤリとした体温を手袋ごしに感じる。メリッサは棺に入った祖父の手に触れた時のことを思い出した。
――まるで死人の体温だ。
しかし命ある証拠に、優しく手を握り返されて、ハッと我に返る。
「その……本当によく来てくださいました。よろしければ中にお入りください」
遠くからはるばるやってきた客人と、いつまでも垣根越しに話すわけにはいかない。
どぎまぎしながら手を離し、メリッサは彼を家の中へと促した。
応接間などという立派なものはないので、客人を迎えたのは、きちんと片付けておいた居間だ。
「バジルは本名ではないのですが、どうかそうお呼びください。メリッサ嬢」
丁重に言う彼から、黒いマントを預かって壁にかける。自分の麦わら帽子と庭仕事用のエプロンは、廊下に造りつけた専用の棚にしまった。そこには祖父の帽子と上着が未だにかかっている。
「分かりました。では私のことも、ただのメリッサにしていただけますか?」
『メリッサ嬢』などと、貴族の令嬢のように呼ばれるのは照れくさくて敵わない。冷やした薔薇水をテーブルに出しながら、ふふふと笑ってそう頼む。そんなメリッサに、ソファーに腰掛けたバジルも釣られたように笑い声をあげた。
「分かりました。ではメリッサ、私のことを、どこまで聞いておられますか?」
そう尋ねる彼は、帽子とマスクを未だに付けたままだ。マフラーも外さないところを見ると、防寒のためというより身体を見られたくないのだろうか。メリッサはふとそんなことを思ったが、特に触れずに話し始めた。
「祖父が若い頃にお世話になったことと、それから……」
半年ほど前のことだ。メリッサは祖父から、この薬草園に古くからの親友を迎えるつもりだと聞かされた。
その親友という人は現在非常に多忙な職についており、休暇もままならない身らしい。彼との数々の冒険の後、故郷に戻って薬草園を開いた祖父も、そう長くは家を空けられないため遊びに行くこともできず、この数十年間はずっと手紙のやりとりだけだったそうだ。
しかし少し前の手紙に、彼が長期の休職を考えているとあったので、その間この薬草園を手伝いながら一緒に暮らすよう勧めたい、と祖父は言った。もし彼が承諾してくれれば、数年はここにいることになるだろう、とも。
『……もちろん、メリッサが構わなければの話だが』
豪胆でいつも陽気な祖父は、珍しく気弱な調子で孫娘の答えを窺う。そうして、その友人は魔物の半人半蛇であることを告げたのだ。
ラミアに人狼、吸血鬼といった魔物たちは、世界各地に点在する特別な泉から生まれる。それらは古代文明の遺物で、泉と言っても、硬い石のごとき素材で周りを固めた人工の池のようなものだ。いつ、どのようにしてできたのかは誰も知らない。
彼ら――魔物は人と似た姿ではあるが、半身が蛇であったり翼があったりと明らかに異形であり、なおかつ超越した能力を持つ。そんな魔物たちを忌み嫌い、討伐の対象とする国も多い。当然ながら、魔物の泉を壊そうとする者も絶えなかった。
だが、泉の縁を囲う特殊素材はどれほどの衝撃を加えてもヒビすら入らず、埋めてしまおうと土石を入れても底なしに呑み込まれる。中を探ることさえもできなかった。そこから生まれた者以外がそのトロリとした泉の水に触れると、焼け爛れて溶けてしまうのだから。
そんな泉の不気味さが、魔物への嫌悪感を余計に強めたのかもしれない。
しかし人間と魔物は、まったく共生できないわけではないのだ。
メリッサの住むトラソル王国は、ラミアの王が統べる国、キリシアムと隣接しており、交易も盛んだ。こんな田舎では滅多に見かけないが、少し大きな町にいけば、ラミアの商人や旅人が当たり前にいて、そこに住む人間たちと上手くやっている。
祖父も友人がラミアであることを恥じたのではなく、メリッサと面識のない相手をここに住まわせてもよいものかと心配しただけだろう。
ちなみに、トラソル王国は魔物の中でも特にラミアと友好が深い。そこには地理的な条件の他に、歴史的な背景も関係していた。
――数ある魔物の泉の中に、ラミアのみを生み出す泉が存在する。この泉は海辺にある古代文明の神殿内にあり、そしてその一帯はかつてある人間の王国に支配されていた。
ラミアは上半身が人間、下半身が蛇の魔物であり、その下半身を人間の脚に変化させることもできる。また寿命は人間と同じ程度だが、成人した姿で泉から生まれ、朽ちるまでその若い姿と体力を保つという。
もう一つ大きな特徴として、彼らは海中でも呼吸ができ、泳ぎも非常に上手い。よって、真珠作りや漁業における働き手として求められ、人間のもとで隷属を強いられていた時代もあった。そのの当時のラミアたちは随分とひどい扱いをされたようだ。
だが、三百年ほど昔。一人のラミアが同族たちの運命を変えた。
後に『不死の蛇王』と呼ばれることになる彼は、その名の通り焼かれようと斬られようと決して死なず、仲間を統率して人間たちに戦いを挑み、長らく続いていた支配関係を覆したのだ。
蛇王の狡猾なところは、あえて人間の全てを敵に回さなかったことだろう。彼は自分たちを支配していた国の人間だけを敵とみなし、他の国々とは積極的に友好関係を築いた。
当時ラミアたちを支配していた強国は、豊かな海産物で得た富と武力によって、周辺の七つの小国たちを押さえつけていたが、蛇王はそんな小国の統治者たちを言葉巧みに煽りたて、一斉蜂起を促したのだ。
結果。
この広い地域で覇権を誇っていた強国は、歴史に名前だけ残して完全に滅んだ。そして蛇王は協力してくれた国々に対し、その泉のある海辺の一帯だけをラミアの完全独立国として認めさせ、残りの領地を諸国に譲渡したのだ。
その領地を分配して富を得た国々は、蛇王との末永い友好を望んだ。一方それまで虐げられ、人間を憎んでいたラミアたちも、自由を得られたのは諸国の協力があってこそと蛇王に説得され、彼らと対等な立場での交易を開始した。
そしてラミアの国、キリシアムを樹立した不死の蛇王は、海辺を見下ろす小高い神殿の奥深くで、今もなおその地を治めているのだという――
こうした歴史もあって、今でもトラソル国はラミアに対し人間と変わらぬ扱いを保証し、キリシアムもまた、トラソルを初めとする人間の国々からの留学生を積極的に受け入れたりしているというわけだった。
若かりし日の祖父も、薬草研究のためにキリシアムに滞在していたらしい。そこでバジルと出会って意気投合し、三年ほど彼の家で過ごさせてもらったそうだ。
そのバジルであるが、彼は少しばかり変わった体質で、レモンバーム入りのハーブティーを毎日飲む必要があるという。
ちなみにレモンバームの別名は『メリッサ』。祖父はどうしてか、孫である自分にそのハーブの名をつけたのだ。
この薬草は、とりたてて高価でも稀少でもない。生命力が強く、地域によっては道端に生えていることすらある。祖父はキリシアムでも、野生化したレモンバームをよく見かけたらしい。
しかしバジルが言うには、同じ植物でも育て方によって味は大違いだそうだ。
彼は祖父の育てた『メリッサ』入りのハーブティーを大層気に入り、毎日のようにご馳走になる代わりに、祖父が稀少な薬草の栽培を学ぶ上で随分と力を貸してくれたという。彼と出会わなければ、満足のいく薬草園は造れなかったと、祖父は遠い目をしてよく話したものだ。
そんな姿を見ていたメリッサが、その友人の滞在に嫌と言うはずもない。
メリッサの大好きなこの薬草園の恩人というなら、自分にとっても恩人だ。それに、祖父の人を見る目は、薬草栽培の腕と同じくらい確かである。メリッサは、人だろうと魔物だろうと、祖父と二人で新しい家族を歓迎するつもりだった。
メリッサの返事を聞くと、祖父はさっそく手紙を出して友人を招待し、いつ来ても構わないようにと大張り切りで部屋を整え始めた。
だが皮肉なことに、祖父は友人の到着を待たずして亡くなってしまう。メリッサは祖父の急逝を彼に知らせようとしたが、手紙のやり取りをしていたにもかかわらず、不思議と彼の住所を示すものは一つも見つからなかった。
だからメリッサは、彼が来てくれるのをただただ待っていたのだった。
「――祖父は貴方がいらっしゃるのを、本当に楽しみにしていました。ですから、祖父が遺してくれたこの薬草園に、あなたが滞在してくださるのであれば私も嬉しいです」
メリッサはそう話を締めくくり、まっすぐに目の前の魔物を見つめる。
一方、バジルはやや面食らったようだった。
「本気ですか? 貴女とは初対面ですし、オルディが亡くなっているのでしたら、遠慮した方がいいかと思いましたが……」
帽子の陰から、二色の瞳がまじまじとメリッサを見つめ返してくる。
メリッサはしっかりと頷くものの、ふと居心地が悪くなって密かに膝の上でスカートを握りしめる。
バジルに予定通り滞在してほしいのは事実だが、もしかしたら祖父が望んでいたからというより、自分が寂しいだけなのかもしれないと気づいたからだ。彼から祖父との思い出話を聞き、最後の肉親を亡くした心の隙間を埋めようとしているのではないか。
そんなことを考えていると、ソファーの向かいで身動きする気配がした。
メリッサが顔を上げると同時に、バジルが帽子を取る。すると前髪の一部にオレンジ色のメッシュが入った、やや長めのダークブロンドが現れた。続いて顔のほとんどを覆っていたマスクが外される。
その瞬間、メリッサは息を呑んだ。
予想よりはるかに整った顔立ちに、額の一部と右目の下を覆う暗い金色の蛇鱗。祖父の友人というからにはそれなりの年齢だろうが、ラミアである彼はやはり若々しい青年に見える。切れ長の目つきは鋭いものの、温和な表情がそれを打ち消し、優しげな印象を与えていた。
二色の瞳は、右目が灰色で左目は青。その透明感のある独特の青は、祖母の形見であるオパールのブローチをはめ込んだよう。こんなに美しい瞳がこの世に存在するなど、メリッサはこれまで想像もしなかった。
だがメリッサを硬直させたのは、それらのことではなかった。
心の中で思い切り叫ぶ。
――顔色、悪っっっっ!!!!
バジルの肌は、まるで死人のような土気色なのだ。表情は穏やかに微笑んでいるのに、あまりにも顔色が悪いので、今にも倒れそうに見える。
「具合でも悪いんですか……っ!?」
思わずうろたえて立ち上がると、バジルは苦笑して軽く手を振った。
「いえ。これは生まれつきの肌色なのですよ」
「え……? そ、そうでしたか。すみません……」
メリッサは赤面してソファーに座り直し、身を縮める。
非常に失礼なことを言ってしまった。恥ずかしくて、このまま消えてしまいたくなる。
恐縮していると、「気にしないでください。よく言われますから」と、こっちが慰められた。
それを聞いて、あのマフラーやマスクは、やはり肌を隠すためのものだったのだと悟る。
「……それより、これからお話しすることはもう少し貴女を驚かせてしまうかもしれません」
そう言ったバジルは、どこか人の悪い笑みを浮かべながら、自身の唇に指を軽く押し当てる。まるで子どもに内緒の話だと言い聞かせるように。
「先ほども言ったように、バジルは私のあだ名でしてね。本名はバジレイオスと申します」
「……はい?」
思わず間の抜けた返事をしてしまう。
メリッサには今日までラミアに知り合いはいなかったが、それと同じ名を持つ、〝超〟がつくほど有名なラミアを一人だけ知っていた。メリッサでなくとも、この周辺の国々に住む者なら誰でも知っているだろう。
『不死の蛇王・バジレイオス』
ラミアたちを解放した建国の英雄であり、一つの大国を滅ぼした狡猾な蛇の魔物。三百年も生き続け、隣国キリシアムを治めている伝説の王の名だ。
「バジ……って、え? そ、その……偶然、ですよね?」
そう尋ねつつもメリッサは、子どもの頃に学校で習ったことを思い出す。
ラミアたちは敬愛する蛇王を憚って、泉から生まれてくる新たな同族に『バジレイオス』と名づけることは決してないそうだ。
つまり、その名を持つラミアはこの世にただ一人……
中腰になって動揺しているメリッサに、バジル――本名バジレイオス氏は優雅な微笑みを向けた。
「何しろ三百年も働きづめでしたので、いい加減骨休めをしたくなりましてね」
そのにこやかな顔を見つめながら、メリッサは何度も唾を呑み込んだ。一国の王であれば、確かに休暇もままならない多忙な職だが……
「そ、それじゃ本当に……」
――蛇王さまですか? という問いは言葉にならなかった。一層深められた彼の笑みが、「そうだ」と言っていたからだ。
ああ……さすが祖父の親友だと、なんとなく納得してしまった。祖父もこうして、人を驚かせるのが大好きだった。
「オルディが亡くなったと聞いた時は、ここに滞在するのは諦めようと思いましたが、貴女のおかげで素敵な休暇がとれそうです」
そう言ってバジルは手袋を外し、土気色のヒンヤリした手でメリッサの荒れた手を取る。そしてまるで高貴な姫君に接するように、冷たい唇をその甲に落とした。
「これからしばらくお世話になります。メリッサ」
『――おじいちゃんは、魔物の泉を見たことがあるの?』
幼いメリッサは、大きな目をさらに大きく見開いて祖父を見上げた。
『ああ。キリシアムに行った若い頃、ラミアの泉を特別に見せてもらった』
祖父は酒を一口飲み、遠い昔を懐かしむように目を細める。
その頃のオルディ・トリスタは髪こそ白くなってきたものの、筋骨隆々の体躯は依然として逞しく、老いなど微塵も感じさせなかった。日がな一日薬草園で元気に働き、晩ご飯の後になると大好きな酒を片手に、孫娘に色々な話を聞かせるのだ。
その日も彼は孫娘とソファーでくつろぎながら、昔の冒険話をしていた。
『古代遺跡にはいくつも行ったが、あれは格別に不思議なもんだったぞ。だだっぴろい部屋に丸い泉がいくつもあってな。水は綺麗なオレンジ色で、大きさは……これくらいだ』
祖父は両腕を広げて見せた。大きいなぁと、メリッサは感心しながら質問を続ける。
『じゃぁ、おじいちゃんが見せてもらったのは、蛇王さまの生まれた泉なのね?』
メリッサが通う村の学校には熱心な歴史の教師がいて、隣国の蛇王さまのことも色々と教えてくれるのだ。
『その通りだ。よく知っているな』
大きな手でよしよしと頭を撫でられ、メリッサは顔中に笑みを広げた。
『もしかしておじいちゃん、泉を見せてもらった時に、蛇王さまにも会った?』
『ん? ああ……まぁ、な』
『うわぁ、すごい! ねぇねぇ! 蛇王さまと、どんなお話をしたの!?』
興奮して尋ねたものの、祖父は困ったような顔で笑い、不意に天井の照明を指差した。
『そうそう、知っているか? 鉱石木も魔物の泉と同じで、古代文明が造り出したんだぞ』
『ええ!?』
はぐらかされたことにも気づかず、メリッサは新しい話に飛びついた。
鉱石木とは、森の中だろうと都の中心だろうと、どこにでも生えてくる植物だ。最初は細い緑の蔓にすぎず、他の木や家の壁、塀などに張りついているが、すぐにそのまま太い茶色の木となってそれらを締め上げ、しまいには石壁をもやすやすと破壊してしまう。
そんな物騒な植物だが、そのかさついた木肌の中からは『発光鉱石』と呼ばれる不思議な光る実が採れる。それが『鉱石木』の名の由来だった。
発光鉱石には様々な色があり、その石の色と表面に刻み込んだ魔法文字の組み合わせによって、火を起こしたり物を冷やしたりと様々な効果を得られる。
今こうして天井に吊るしたガラス球の中で夜の居間を照らしているのも、発光鉱石に魔法文字を刻んで造った鉱石ビーズだ。
鉱石ビーズがなければ、蝋燭やランプの小さな明かりで我慢するしかないし、冷蔵庫もコンロも使えない。洗濯装置だって鉱石ビーズで動かしているのだから、衣類を洗うのも一苦労になるだろう。
『まぁその古代文明も、岩石群とこの鉱石木に滅ぼされちまったらしいがな……』
メリッサを膝に抱えつつ、祖父は話を続けた。
――古代文明が栄えていた頃、地面は今よりもずっと低い位置にあり、その上ずっと狭かったそうだ。
しかしある日、天から巨大な岩石群が降ってきて多くの建物を破壊し、鉱石木の研究所をも潰してしまった。
それまで研究所内でのみ栽培・管理されていた鉱石木は、外界へと放たれた途端、凄まじい勢いで繁殖を始め、たった数日で残っていた建物を全て侵食していったという。そして、複雑に絡み合った木の合間を瓦礫や木屑が埋めていき、長い年月をかけて地面を高く盛り上げたのだ。
ただし魔物の泉のある建物だけは、なぜか岩石も落ちなければ鉱石木も近付かず、ほとんど無傷で残ったらしい。だがこの混乱の中、あまりにも多くのものが失われたため、今では泉の原理を知る者も、造られた理由を知る者も残っていない。
そして泉は、己を生み出した文明が滅びてしまったことなど意に介さず、今もただ黙々と魔物を生み出し続けているのだ……
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