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1巻
1-3
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一分近くは、沈黙があっただろうか。
「あら、返事はどうしたの?」
アナスタシアは手を伸ばし、瞬きすらせずに硬直しているライナーのローブを指先でつついた。途端にライナーが飛び跳ねるようにビクンと身震いする。
「っ! あの、何か聞き間違いをしたようで……」
「では、もっとわかりやすく言ってあげるわ。貴方に一年間、女王の愛人として周囲を騙せと命じたの。フレデリク魔術師が演じていたのと同じようにね」
「……フレデリク魔術師が?」
「その辺りはあとで詳しく説明するわ。とにかく私は煩く言い寄ってくる男たちへ、貴方を倒してから来いとけしかけるから、四六時中つけ狙われるでしょうけれど、頑張って生き残りなさいな」
「生き残……っ!? いえ、ですが、陛下、失礼ながら……」
蒼白となって額に冷や汗を滲ませているライナーに、アナスタシアは口の端を上げてみせた。
「私に対する無礼の処罰なのだから、拒否は許しません。ちなみにフレデリクの時もそうだったけれど、私は貴方もいっさい特別扱いする気はないの。エルヴァスティ伯が来ても、穏便に諭してあげるわ。伯爵家を潰すより、悪い話ではないと思うけれど? 他に何か質問はあるかしら?」
「……ございません。かしこまりました、陛下」
自分が、女王につきまとう男たちを追い払うための生け贄となったのを理解したのだろう。
やや虚ろな目になったライナーに引き換え、アナスタシアは最高にご機嫌だった。
彼を捕獲する気はあったが、ここでの受け答え次第であまりに使えなさそうなら、短い謹慎でも言い渡してさっさと追い出す選択肢もあった。ライナーにとっては不幸な事に、そしてアナスタシアにとっては幸いながら、そうしなくて済んだという訳だ。
アナスタシアは椅子から立ち上がり、隣室に続く扉を開いてライナーを手招きする。
「せっかく来た愛人がすぐに帰るのは不自然でしょう? これから貴方に上手く動いてもらうために話しておく事もあるしね。こちらにいらっしゃい」
ライナーが入室してからまだ二十分と経っていない。アナスタシアは防音の魔法を解き、廊下の衛兵に声をかけた。
「隣の部屋に行くけれど、声をかけないで頂戴ね。彼とゆっくりお話がしたいの」
かしこまりました、と衛兵の返事が聞こえる。これで仕上げだ。
あとは彼らが噂を広め、嘘を真実と思い込ませてくれる。夜遅い時間に女王の部屋へ誰かが訪ねてきたなんていう情報の買い手は大勢いるだろう。
今日の着替えを侍女に手伝わせる時も、一番口の軽い者をさりげなく呼んだ。女王は愛人と寝てもおかしくないような姿だったと、彼女はまくしたてるに違いない。
このために、お喋りで信用のおけない衛兵や侍女を少し残しているのだから、せいぜい役に立ってもらおう。
鼻歌でも歌いたい気分で、アナスタシアは困惑するライナーを連れて隣室へ移り、パタンと大きく音を立てて扉を閉めた。
2 女王の大失敗
私室に入ったアナスタシアはお気に入りの安楽椅子に腰をかけ、テーブルを挟んだ向かいの長椅子に座るようライナーを促す。
「まず、貴方の前任者フレデリクについて話すわ」
ライナーは八年間も隣国にいて、ここ数年の国内事情には少々疎い。
女王の愛人として有名だった『牙の魔術師』フレデリク・クロイツの事は、帰国後初めて聞いたらしい。
フレデリクが異母兄であるのは秘密だ。だから、アナスタシアは彼が信頼のおける幼馴染で、恋愛感情はないが信頼しており、互いに身辺が煩いから恋人関係を装っていたのだと説明する。
そしてフレデリクがある令嬢に恋をし、この役を降りて彼女と結婚した時、彼が女王と関係を持ちつづけるため飾り物の妻を娶ったのだと噂が流れた事など、一連の騒動も話した。
「――そういうご事情でしたか」
納得がいったというライナーに、アナスタシアは満足して頷く。
「ええ。だから今後は、誰かに聞かれたら貴方を愛しているとはっきり公言するわ。貴方もそう言いなさい。一年の契約期間中はここへ何度も呼ぶけれど、そのあとは一切呼ばないし皆にも別れたと言う。その方が、一過性の熱が冷めたと思われやすいでしょう? 宮廷勤めでない貴方とは、それから顔を合わせる必要もなくなるのだしね」
そして、少し考えてから付け加えた。
「でも、そうね……フレデリクのような目に遭いたくなければ、誰かに正式な結婚を申し込むのは、完全に熱が冷めたと周囲が思う頃まで待つか、私が次の役者を手に入れてからになさいね」
ライナーも規定値以上の魔力を持っているのだから、三十歳までに妻を娶らなければならない。
しかし彼はまだ二十五歳。アナスタシアとの契約期間が終わってから、結婚相手を探すのに四年近くは猶予がある。ほとぼりがすっかり消えるのを待っても、焦る事はない。
「ご配慮に感謝いたします」
ライナーは丁重に言ったものの、どこか複雑そうな顔をして、アナスタシアをじっと見つめた。
「陛下。少々、差し出がましい意見を述べても宜しいでしょうか?」
「受け入れるかどうかは保証できないけれど、聞くだけならなんでも聞いてあげるわよ」
アナスタシアは、ニッコリと微笑んで答えた。
あまり図々しい男でもないと思うが、フレデリクの話を聞いて何か要望でも思いついたのだろうか。
しかし、彼の紡いだ言葉は意外なものだった。
「陛下が本当にお好きな相手を選んで王配に据えられれば、心穏やかに過ごせるのではないですか? 伝統を破る事に非難が湧くでしょうが、理解を示してくださる方もいるでしょう。何より、陛下がこのような手段を繰り返すおつもりならば、古き慣習が害悪となっているのは明らかです」
あまりにもバカげた提案に、アナスタシアは思わず安楽椅子の肘置きに爪を立ててしまった。
ビロード生地に、赤く塗った爪が食い込む。
「あらあら、名案ね。言い寄ってくる男には不自由しないもの。でも問題は彼らが、口先では私を褒めそやしていようとも、所詮は女王に気に入られれば優遇されると勘違いしている愚か者ばかりという点だわ。貴方の父親同様にね。そんな輩には指一本触れられたくないから、こんな手段をとる事にしたのを理解してもらえなかったかしら?」
皮肉たっぷりに睨んでやったが、ライナーは怯む様子を見せずに再び口を開く。
「はい。お考えは承知しておりますし、一年間はお約束通りに務めさせていただきます」
アナスタシアをまっすぐに見つめ、彼は穏やかに微笑んだ。
「ただ、陛下はとても美しく、統治者としても優れた方なのですから、中には本当に下心なく陛下自身に惹かれている方もいらっしゃると思います。騒がしさの中に霞んで見えなかっただけかもしれません。陛下がそのような方を見つけましたら、私も微力ながら協力させていただきますので、どうぞお申しつけください」
さらなる彼の言葉に、アナスタシアはいっそう呆れ、ため息を呑み込んだ。
使えそうな男だと思っていただけに、期待を裏切られて落胆したし、それ以上に腹が立った。
「……まぁ、随分と褒めてくれるのね」
苛々とした感情を押し隠し、アナスタシアは一番見栄えが良いと思う微笑みを浮かべた。
そして安楽椅子から立ち上がり、ライナーの座る長椅子に移る。
長椅子は、小柄なアナスタシアなら楽に横たわれるほど広い。
二人で間をあけて座っても十分な余裕があったが、わざと密着する寸前の位置に座った。
「私からこれだけ色々と聞かされても、そんなに優しい事を言ってくれるなんて嬉しいわ。貴方になら、抱かれても平気かもしれないわね」
「陛下!?」
うろたえるライナーを見上げ、アナスタシアは胸のうちで苦々しく呟く。
(どんな奇麗事も、口で言うだけなら簡単よ。本心から私に好意を持つ人間が身内以外いないから、苦労しているというのに。貴方も醜い本性を晒すといいわ)
わかったような口を利くなと、腹が立って仕方ない。
「陛下。失礼ながら、ご自分をもっと大事になさってください」
しかし、不意にライナーが表情を険しくし、低い声を発した。
「魅力的な女性に言い寄られて、悪い気がする男はいません。陛下が本気でないと承知していても、私が許可を得たとつけ込んで、押し倒すかもしれないではありませんか」
丁重な口調だが、まるでタチの悪い悪戯をお説教するような調子だ。
「構わなくてよ。それに、気に入る王配を見つけろと私に提案したのは貴方なのだから、責任持って付き合ってもらうわ」
アナスタシアは極上のつくり笑いを顔に貼りつけたまま、身を乗り出して、いっそうライナーに上体を近づける。
『美しい』とか『優れている』という言葉は、言い寄ってくる男たちから不快な下心混じりの音色で告げられてきた。けれど、ライナーの言葉には微塵もそうした響きがない。
それはきっと、彼がアナスタシアを口先では賞賛しても、手に入れたいとは欠片も思っていないからだ。猫をかぶった理想的な女王からいきなり腹黒い本性を見せられ、他の男を追い払う生け贄として一年間も拘束される事になったのだから、アナスタシアに好感を抱くはずもない。
そう思えば、愚かな奇麗事を言うのも自分を誘うなと窘めるのも、納得がいく。
上手くおだてて他の男を探させるつもりだろうと、アナスタシアは内心でひねくれた笑い声を上げる。
「言い寄られて悪い気はしないのでしょう? 私が嫌になってやめなさいと言うまで、どこでも好きなだけ触れる事を許可します。最後まで止めなければ、本当に抱いても構わないわ」
挑発的に言い放ち、ライナーが躊躇いがちに手を伸ばすのを嘲りの気分で眺める。
ほら、触ってみるがいい。どれだけ口先で奇麗事を言っても、お前の手は触れた瞬間に私をどう思っているか素直に吐いてくれる。
(もういいわ。他の者を探す。貴方の言う事なんか、所詮は理想にすぎないと思い知りなさい!)
アナスタシアは身じろぎもしないまま、強力な衝撃波の呪文を頭の中で組み立てはじめる。
ライナーの手から自分への嫌悪を感じた瞬間に、吹き飛ばしてやると決意していた。
魔法を使用するには基本的に呪文の詠唱、魔方陣の作成、魔道具の使用のどれかが必要となるが、体内の魔力が非常に多ければ、頭の中で呪文を念じるだけで魔法を使う事が可能だ。
もっとも、それが可能な魔力量を持つのは国内でアナスタシアくらいだろうし、こんな芸当ができる事を知る者は殆どいない。
いつでも魔法を発動できる準備を整えたアナスタシアは、長椅子の上で固く握り締めた手に他人の体温が触れるのを感じた……
「――陛下?」
ライナーに首をかしげられ、アナスタシアはハッと我に返る。
(な……ど、どうして!?)
驚愕に目を見開き、唇を戦慄かせる。
右手がとても温かい。青年の大きな両手に持ち上げられ、すっぽり包まれているからだ。
なのに、どうして気持ち悪くないのだろう。この男からは敵意や嫌悪をちっとも感じない。
触れられた瞬間に吹き飛んだのはライナーではなく、アナスタシアが頭の中で組み立てた呪文の方だったらしい。
「手が氷みたいに冷たくなっていますよ。お加減でも悪いのですか?」
温めるように軽く握り込まれても、やっぱり気持ち悪くない……どころか、その温もりが心地良いような気さえする。
「……いいえ。少し冷えやすいだけ。いつもの事よ」
深く息を吸い、声が上擦りそうになるのを必死に堪えた。
呪文を唱えず念じるだけで魔法を使おうとすると、大量の魔力を消費するせいか、一気に体温が下がるのだ。先ほど使おうとした魔法は強力だったぶん、消費も激しい。
「そうですか」
ほっとしたようにライナーが微笑み、アナスタシアの手をあっさり離す。
(あ……)
手が離れると同時になぜか空虚な気分になり、そんな自分にアナスタシアはいっそううろたえた。
(信じられない! しかも、魔法までしくじるなんて……っ)
今まで、触られても嫌悪を感じない相手が一人もいなかった訳ではない。
早くに死に別れた母はもちろん、母の兄である伯父の侯爵やその下で育ったフレデリク、忠実な宮廷魔術師の団長夫妻など、信頼のおける者なら幾人かいる。
けれどライナーは初対面も同然で、長年の信頼関係を築いてなどいない。
それなのに指先が触れた瞬間、予想していた不快感がなかった。それに気づいた時、魔法の発動を止めようとしたのを微かに覚えている。
驚愕して頭が真っ白になり、気づいたらしっかりとライナーに片手を握られていたのだ。
自分の意思で魔法を中断するのと失敗して霧散させるのとでは、魔力の消費量が大きく違う。
霧散させれば、実際に使ったのと同じくらいの魔力を消費してしまう。きちんと中断させれば、これほど体温が下がって疲れるはずはないから、やはり失敗したのだろう。
魔法を失敗するなんて生まれてはじめてでそれこそ信じたくないほど屈辱だったが、それ以上に今、目の前には信じられない存在の男がいる。
(この男はまさか、全部本気で言っていたの?)
アナスタシアは複雑な気分でライナーを見上げた。
彼がお人よしなのは承知していたが、その度合いはアナスタシアの理解を遥かに超えるほど桁違いだったらしい。
ライナーに触れられても平気だった理由は、考えうる限りでただ一つ。
あの奇麗事を本気で言っていたのだ。
腹黒な猫かぶりの女王に利用されるのが嫌だから、王配を据えろと言いだしたのではない。
厄介事を押しつけられているのに、本気でアナスタシアの今後を心配し、女王の座とは関係なく貴女に惹かれる者はきっといると……この男はそれを信じているから、口にした。
(呆れるわ。どこまでお人よしの、甘い男なのよ!)
自分が腹黒く狡猾な事をアナスタシアは恥じていない。そうでなければ生き残れなかった。
けれどこの本性が決して他人に好かれず、警戒されるのは当然だとも思う。アナスタシアが自分へつけ込もうとする他人の下心を決して好かないのと同じだ。
賞賛され愛されるのは、女王としての外向きの顔だけでいい。
宮廷魔術師たちのように、真っ黒い内側を警戒しつつもちゃんと仕えてくれる者だっているから、それで十分だ。内面を知っても「魅力的」だなんて簡単に言う相手は、かえって胡散臭い。
何かの間違いだという思いが消えず、アナスタシアはそろりと左手を持ち上げた。
自分から触ってみれば間違いがはっきりわかるだろうと思ったからだが、胸の中にはチラリと別の感情が覗いている。
ライナーに触れられたのはとても心地良かったから、もう少しそれが欲しいと思ってしまう。
柄にもなく緊張しながら、思い切ってライナーの頬に触れてみた。
指先に触れる感触は他の人間の皮膚と同じはずなのに、やっぱりライナーだと嫌悪感がない。
「陛、ひゃ!?」
アナスタシアは、そのまま彼の頬を摘んで、思い切り引っ張った。
(まったく、なんなのよ! この心臓に悪い男は!)
もの凄く驚かされた名残なのか、まだ心臓がドキドキしている。足元を掬われたような気分だ。
しかもその相手は、自分がアナスタシアをどんなに驚かせたか、欠片も気づいていない。
腹立ち紛れに右手でもう反対の頬も摘んで、ぐにぐに引っ張りまわす。
「へいひゃ! ひゃめてくらさいっ」
しばらく無言でライナーの頬をつねっていたら、しまいに両手首を取られて頬から両手を引きはがされてしまった。
手首を掴まれてもやっぱり気持ち悪くないし、それを離されたら空虚な気分になる。
「陛下がお嫌なのはよくわかりました。そのような事をなさらずとも、もう触れません」
苦笑するライナーをアナスタシアはじろりと睨んだ。
「勝手に、何をわかったつもりなの?」
「え?」
「私から触れても気持ち悪くないか、確かめただけよ」
「では、嫌ではなかったのですか?」
ライナーからキョトンとした顔で言われ、アナスタシアはぐっと言葉に詰まる。
確かに、ライナーに触れても嫌ではなかった……が、それを正直に言うのはもの凄~く癪に障る。
「悪くない……ような気がしたわ」
視線を逸らしつつ、しぶしぶと婉曲な返答をすると、ライナーが僅かに息を呑む気配がした。
「陛下はやはり地位など関係なく、ご自身だけで十分に魅力的だと思います」
ボソリと呟く声にアナスタシアが視線を戻すと、彼が困り切った顔でこちらを見つめていた。
「ですからもう、こうした戯れはおやめください。私とて、一応は男ですし……」
「あら。もしかして、本当に私を抱きたくなって困るのかしら?」
気まずそうに言葉を濁すライナーにアナスタシアは余裕を取り戻し、意地悪く追い討ちをかけた。
思わぬお人よし加減でこちらの調子をくるわせた男を、少しくらい慌てふためかせてやりたい。
「そ、それは……っ」
期待通り赤面するライナーを、アナスタシアはフフンと眺める。
(ま、変わった男には違いないけれど、悪くはないわ)
底抜けのお人よしぶりには驚いたが、そもそも彼がそういう性格でなければアナスタシアから偽の愛人役を押しつけられる事もなかっただろう。
溜飲も下がった事だし、もう帰って良いと告げようとした時だった。
困り切ったように視線をさまよわせていたライナーが、キッとアナスタシアへ向き直る。
「そうです! 先ほどみたいに可愛らしい陛下の姿を見せられたら、そうした欲求にも駆られてしまいます!」
静かな彼から思いもよらぬ力が籠もった声で言われ、アナスタシアは自分の顔の近くで小さな爆発が起こったような気がした。心臓の辺りがきゅうっと疼き、一瞬で耳まで熱くなり、頭にかぁぁと血が上る。
「――は?」
口元を戦慄かせて間の抜けた声を漏らしてしまうと、ライナーが真剣な顔でまた熱弁した。
「陛下はとても可愛らしいので、迂闊に男を挑発なさるのは危険だという事です!」
(繰り返すなっ!! バカァっ!!)
その言葉で、二回目の爆発が起こった。クラクラするくらい、一気に血が頭へ上る。
ライナーの言う事はまったく訳がわからなくて、頭が完全に混乱する。
(なんなのっ!? さっきの……あれの、どこが可愛かったと言うの!)
幼い頃には可愛らしいと褒められた事もあるが、それはいつだってそう見えるようにアナスタシアが振る舞った結果だ。奸智に長けた本性を隠し、陰惨な王家の内情など欠片も知りませんというようなフワフワした笑みを浮かべてやれば、大人は簡単にそう言った。
しかし今のやり取りの中で、ライナーはアナスタシアのどこをどう可愛いなどと思えたのか。
今まで、敵も味方も様々な人間に会った。平凡な相手も、とびきり変わった相手もいた。
けれど、ここまでアナスタシアを呆気にとらせてばかりなのは、間違いなく彼だけだ。
(感覚がおかしいとしか言いようがないわ!)
思わず胸中で叫びつつ、アナスタシアは困惑していた。
ライナーは絶対に変だと思うけれど、自分だってさっきからおかしい。
『可愛らしい』と言われたくらいで顔が熱くなるなんて。しかも胸の辺りが、妙にムズムズする。
思い返せば、最初に手を握られて魔法に失敗してからずっと変で……
(っ! まさか……!)
とある可能性に思い当たり、アナスタシアは冷や汗をかく。
先ほど、よくわからないまま衝撃波の魔法を霧散させてしまったと思ったが、果たして本当にそうだったのだろうか……?
実は、効果は全然違うのに、あの衝撃波の呪文ともの凄く似た魔法があるのだ。
昔、王家の古い書物を漁っていた時に、たまたま見つけた魔法書にそれは書かれていた。
目の前にいる相手に、一時的に自分へ好意を抱かせる魔法だ。アナスタシアがこれを使った事は一度もなく、使うつもりもなかった。
呪文をかけた相手が術者に好意を抱くだけではなく、術者本人も同じように相手へ好意を持ってしまい、おまけに効果が切れるまで解呪ができないという、世にも使えない魔法だからだ。そんなふうに使い勝手が悪いくせに、衝撃波の魔法と同じくらい大量の魔力を消費するとなれば、使いたがる者はいないだろう。
だいたい、ロクサリス王家は長い間、魔術師ギルドに牛耳られていたのだ。貴重な魔法書は全てギルドに持っていかれている。ギルドの書庫に置かれず書き写された様子もないあの魔法書は、秘伝という大層なものではなく、書き取る価値もなかったのだろう。王家の書庫にだけ残っているのは、そういったガラクタのような魔法ばかりだった。
それはともかく、問題は衝撃波の呪文をしくじってから、明らかにアナスタシアの気持ちが変だという事だ。
もしや手を取られて動揺した時、衝撃波の魔法とよく似た呪文の、好意を抱かせる魔法を発動させてしまったのだろうか。
そう考えた瞬間、何もかもが拍子抜けして、ストンと気が抜けてしまった。
(……なんだ。魔法のせいだったのね)
それならば、アナスタシアから触っても全然平気な事に納得できる。
そして手を握られた時に感じた心地良さも、きっと魔法による錯覚だ。だから、妙に顔が熱くなったり、胸がムズムズするのだ。
しかし、そう思うとなぜか酷くがっかりしてしまう。
「……陛下? 大丈夫ですか?」
小刻みに震え出したアナスタシアの手を、不意にライナーが取った。
「っ!」
ドクンと、心臓が大きく鳴る。熱を持った耳がじんじんと痛いくらいだ。
(いいえ、こんなのは錯覚よ。絶対におかしいもの)
とても気持ち良く感じる手を握り締め、アナスタシアは俯いた。
ライナーが困惑したように呟く。
「お加減が悪いのでしたら、人を呼んできますが……」
アナスタシアは黙ってうな垂れたまま、首を横に振る。やたらと腹立たしくなった。
全て魔法の錯覚で片づいたはずなのに、情けなく期待している自分に気がついたからだ。この心地良さは錯覚ではなく、魔法によるものでもないのだと。
(これだから、操心魔法にかかると厄介なのよ! しかも何よ、この中途半端さ! さすが、使えないと魔術師ギルドに放っておかれた魔法なだけあるわね!)
声に出さず、思い切り悪態をついた。
好意を抱くといっても、瞬間的に熱烈な惚れ方をするといった類のものではないようだ。
――はっきり言ってこの時のアナスタシアは、かつてないほどの動揺と混乱に襲われていた。そうでなければ、この先の愚行は決して起こさなかっただろう。
(こんなの本当に、あの駄目な魔法の錯覚だって、証明してやるわ!)
アナスタシアは頭の中で、今度は本当に好意を抱かせる魔法を唱えはじめる。
この魔法は重ねてかける事で効果が倍増するようなものではない。つまり魔法を発動させて自分の気持ちに変化がなければ、先ほどの心地良さは魔法による錯覚という事になる。それを証明しようと焦るあまり、衝撃波の魔法が失敗していた場合には、魔法によってライナーに好意を抱いてしまう可能性がある事に気づきもしなかったのだ。
(これで、錯覚だってはっきり……っ!)
アナスタシアが頭の中で魔法を唱えると共に、ライナーの手に包み込まれた手から薄桃色の光が飛び出して二人の胸に吸い込まれた。
「えっ!?」
アナスタシアは呆然と目を見開く。先ほどは光など出なかった。という事はつまり――
(じゃあ、さっきの心地良さは、魔法のせいじゃなかったの!?)
「陛下、今のは……っ!?」
尋ねかけたライナーが、不意にアナスタシアの手を離し、ローブの胸元を押さえて呻いた。
同時に、アナスタシアの心臓もドクンと大きく跳ねる。
強い酒にでも酔ったような眩暈を覚えつつ、バクバクと不自然に高鳴る心臓を押さえた。
「ちょっとした間違いよ。わ、悪かったわ。解呪はできないけれど一時間程度で消えるそうだし……はぁ……効果も、それほどではないと……」
アナスタシアは説明しようとしたが、やたらと息が上がり、舌がもつれる。
魔力を大量消費して冷えた全身がカッカと急速に火照りはじめ、身体の奥底がジンと痺れるように疼いた。
「あら、返事はどうしたの?」
アナスタシアは手を伸ばし、瞬きすらせずに硬直しているライナーのローブを指先でつついた。途端にライナーが飛び跳ねるようにビクンと身震いする。
「っ! あの、何か聞き間違いをしたようで……」
「では、もっとわかりやすく言ってあげるわ。貴方に一年間、女王の愛人として周囲を騙せと命じたの。フレデリク魔術師が演じていたのと同じようにね」
「……フレデリク魔術師が?」
「その辺りはあとで詳しく説明するわ。とにかく私は煩く言い寄ってくる男たちへ、貴方を倒してから来いとけしかけるから、四六時中つけ狙われるでしょうけれど、頑張って生き残りなさいな」
「生き残……っ!? いえ、ですが、陛下、失礼ながら……」
蒼白となって額に冷や汗を滲ませているライナーに、アナスタシアは口の端を上げてみせた。
「私に対する無礼の処罰なのだから、拒否は許しません。ちなみにフレデリクの時もそうだったけれど、私は貴方もいっさい特別扱いする気はないの。エルヴァスティ伯が来ても、穏便に諭してあげるわ。伯爵家を潰すより、悪い話ではないと思うけれど? 他に何か質問はあるかしら?」
「……ございません。かしこまりました、陛下」
自分が、女王につきまとう男たちを追い払うための生け贄となったのを理解したのだろう。
やや虚ろな目になったライナーに引き換え、アナスタシアは最高にご機嫌だった。
彼を捕獲する気はあったが、ここでの受け答え次第であまりに使えなさそうなら、短い謹慎でも言い渡してさっさと追い出す選択肢もあった。ライナーにとっては不幸な事に、そしてアナスタシアにとっては幸いながら、そうしなくて済んだという訳だ。
アナスタシアは椅子から立ち上がり、隣室に続く扉を開いてライナーを手招きする。
「せっかく来た愛人がすぐに帰るのは不自然でしょう? これから貴方に上手く動いてもらうために話しておく事もあるしね。こちらにいらっしゃい」
ライナーが入室してからまだ二十分と経っていない。アナスタシアは防音の魔法を解き、廊下の衛兵に声をかけた。
「隣の部屋に行くけれど、声をかけないで頂戴ね。彼とゆっくりお話がしたいの」
かしこまりました、と衛兵の返事が聞こえる。これで仕上げだ。
あとは彼らが噂を広め、嘘を真実と思い込ませてくれる。夜遅い時間に女王の部屋へ誰かが訪ねてきたなんていう情報の買い手は大勢いるだろう。
今日の着替えを侍女に手伝わせる時も、一番口の軽い者をさりげなく呼んだ。女王は愛人と寝てもおかしくないような姿だったと、彼女はまくしたてるに違いない。
このために、お喋りで信用のおけない衛兵や侍女を少し残しているのだから、せいぜい役に立ってもらおう。
鼻歌でも歌いたい気分で、アナスタシアは困惑するライナーを連れて隣室へ移り、パタンと大きく音を立てて扉を閉めた。
2 女王の大失敗
私室に入ったアナスタシアはお気に入りの安楽椅子に腰をかけ、テーブルを挟んだ向かいの長椅子に座るようライナーを促す。
「まず、貴方の前任者フレデリクについて話すわ」
ライナーは八年間も隣国にいて、ここ数年の国内事情には少々疎い。
女王の愛人として有名だった『牙の魔術師』フレデリク・クロイツの事は、帰国後初めて聞いたらしい。
フレデリクが異母兄であるのは秘密だ。だから、アナスタシアは彼が信頼のおける幼馴染で、恋愛感情はないが信頼しており、互いに身辺が煩いから恋人関係を装っていたのだと説明する。
そしてフレデリクがある令嬢に恋をし、この役を降りて彼女と結婚した時、彼が女王と関係を持ちつづけるため飾り物の妻を娶ったのだと噂が流れた事など、一連の騒動も話した。
「――そういうご事情でしたか」
納得がいったというライナーに、アナスタシアは満足して頷く。
「ええ。だから今後は、誰かに聞かれたら貴方を愛しているとはっきり公言するわ。貴方もそう言いなさい。一年の契約期間中はここへ何度も呼ぶけれど、そのあとは一切呼ばないし皆にも別れたと言う。その方が、一過性の熱が冷めたと思われやすいでしょう? 宮廷勤めでない貴方とは、それから顔を合わせる必要もなくなるのだしね」
そして、少し考えてから付け加えた。
「でも、そうね……フレデリクのような目に遭いたくなければ、誰かに正式な結婚を申し込むのは、完全に熱が冷めたと周囲が思う頃まで待つか、私が次の役者を手に入れてからになさいね」
ライナーも規定値以上の魔力を持っているのだから、三十歳までに妻を娶らなければならない。
しかし彼はまだ二十五歳。アナスタシアとの契約期間が終わってから、結婚相手を探すのに四年近くは猶予がある。ほとぼりがすっかり消えるのを待っても、焦る事はない。
「ご配慮に感謝いたします」
ライナーは丁重に言ったものの、どこか複雑そうな顔をして、アナスタシアをじっと見つめた。
「陛下。少々、差し出がましい意見を述べても宜しいでしょうか?」
「受け入れるかどうかは保証できないけれど、聞くだけならなんでも聞いてあげるわよ」
アナスタシアは、ニッコリと微笑んで答えた。
あまり図々しい男でもないと思うが、フレデリクの話を聞いて何か要望でも思いついたのだろうか。
しかし、彼の紡いだ言葉は意外なものだった。
「陛下が本当にお好きな相手を選んで王配に据えられれば、心穏やかに過ごせるのではないですか? 伝統を破る事に非難が湧くでしょうが、理解を示してくださる方もいるでしょう。何より、陛下がこのような手段を繰り返すおつもりならば、古き慣習が害悪となっているのは明らかです」
あまりにもバカげた提案に、アナスタシアは思わず安楽椅子の肘置きに爪を立ててしまった。
ビロード生地に、赤く塗った爪が食い込む。
「あらあら、名案ね。言い寄ってくる男には不自由しないもの。でも問題は彼らが、口先では私を褒めそやしていようとも、所詮は女王に気に入られれば優遇されると勘違いしている愚か者ばかりという点だわ。貴方の父親同様にね。そんな輩には指一本触れられたくないから、こんな手段をとる事にしたのを理解してもらえなかったかしら?」
皮肉たっぷりに睨んでやったが、ライナーは怯む様子を見せずに再び口を開く。
「はい。お考えは承知しておりますし、一年間はお約束通りに務めさせていただきます」
アナスタシアをまっすぐに見つめ、彼は穏やかに微笑んだ。
「ただ、陛下はとても美しく、統治者としても優れた方なのですから、中には本当に下心なく陛下自身に惹かれている方もいらっしゃると思います。騒がしさの中に霞んで見えなかっただけかもしれません。陛下がそのような方を見つけましたら、私も微力ながら協力させていただきますので、どうぞお申しつけください」
さらなる彼の言葉に、アナスタシアはいっそう呆れ、ため息を呑み込んだ。
使えそうな男だと思っていただけに、期待を裏切られて落胆したし、それ以上に腹が立った。
「……まぁ、随分と褒めてくれるのね」
苛々とした感情を押し隠し、アナスタシアは一番見栄えが良いと思う微笑みを浮かべた。
そして安楽椅子から立ち上がり、ライナーの座る長椅子に移る。
長椅子は、小柄なアナスタシアなら楽に横たわれるほど広い。
二人で間をあけて座っても十分な余裕があったが、わざと密着する寸前の位置に座った。
「私からこれだけ色々と聞かされても、そんなに優しい事を言ってくれるなんて嬉しいわ。貴方になら、抱かれても平気かもしれないわね」
「陛下!?」
うろたえるライナーを見上げ、アナスタシアは胸のうちで苦々しく呟く。
(どんな奇麗事も、口で言うだけなら簡単よ。本心から私に好意を持つ人間が身内以外いないから、苦労しているというのに。貴方も醜い本性を晒すといいわ)
わかったような口を利くなと、腹が立って仕方ない。
「陛下。失礼ながら、ご自分をもっと大事になさってください」
しかし、不意にライナーが表情を険しくし、低い声を発した。
「魅力的な女性に言い寄られて、悪い気がする男はいません。陛下が本気でないと承知していても、私が許可を得たとつけ込んで、押し倒すかもしれないではありませんか」
丁重な口調だが、まるでタチの悪い悪戯をお説教するような調子だ。
「構わなくてよ。それに、気に入る王配を見つけろと私に提案したのは貴方なのだから、責任持って付き合ってもらうわ」
アナスタシアは極上のつくり笑いを顔に貼りつけたまま、身を乗り出して、いっそうライナーに上体を近づける。
『美しい』とか『優れている』という言葉は、言い寄ってくる男たちから不快な下心混じりの音色で告げられてきた。けれど、ライナーの言葉には微塵もそうした響きがない。
それはきっと、彼がアナスタシアを口先では賞賛しても、手に入れたいとは欠片も思っていないからだ。猫をかぶった理想的な女王からいきなり腹黒い本性を見せられ、他の男を追い払う生け贄として一年間も拘束される事になったのだから、アナスタシアに好感を抱くはずもない。
そう思えば、愚かな奇麗事を言うのも自分を誘うなと窘めるのも、納得がいく。
上手くおだてて他の男を探させるつもりだろうと、アナスタシアは内心でひねくれた笑い声を上げる。
「言い寄られて悪い気はしないのでしょう? 私が嫌になってやめなさいと言うまで、どこでも好きなだけ触れる事を許可します。最後まで止めなければ、本当に抱いても構わないわ」
挑発的に言い放ち、ライナーが躊躇いがちに手を伸ばすのを嘲りの気分で眺める。
ほら、触ってみるがいい。どれだけ口先で奇麗事を言っても、お前の手は触れた瞬間に私をどう思っているか素直に吐いてくれる。
(もういいわ。他の者を探す。貴方の言う事なんか、所詮は理想にすぎないと思い知りなさい!)
アナスタシアは身じろぎもしないまま、強力な衝撃波の呪文を頭の中で組み立てはじめる。
ライナーの手から自分への嫌悪を感じた瞬間に、吹き飛ばしてやると決意していた。
魔法を使用するには基本的に呪文の詠唱、魔方陣の作成、魔道具の使用のどれかが必要となるが、体内の魔力が非常に多ければ、頭の中で呪文を念じるだけで魔法を使う事が可能だ。
もっとも、それが可能な魔力量を持つのは国内でアナスタシアくらいだろうし、こんな芸当ができる事を知る者は殆どいない。
いつでも魔法を発動できる準備を整えたアナスタシアは、長椅子の上で固く握り締めた手に他人の体温が触れるのを感じた……
「――陛下?」
ライナーに首をかしげられ、アナスタシアはハッと我に返る。
(な……ど、どうして!?)
驚愕に目を見開き、唇を戦慄かせる。
右手がとても温かい。青年の大きな両手に持ち上げられ、すっぽり包まれているからだ。
なのに、どうして気持ち悪くないのだろう。この男からは敵意や嫌悪をちっとも感じない。
触れられた瞬間に吹き飛んだのはライナーではなく、アナスタシアが頭の中で組み立てた呪文の方だったらしい。
「手が氷みたいに冷たくなっていますよ。お加減でも悪いのですか?」
温めるように軽く握り込まれても、やっぱり気持ち悪くない……どころか、その温もりが心地良いような気さえする。
「……いいえ。少し冷えやすいだけ。いつもの事よ」
深く息を吸い、声が上擦りそうになるのを必死に堪えた。
呪文を唱えず念じるだけで魔法を使おうとすると、大量の魔力を消費するせいか、一気に体温が下がるのだ。先ほど使おうとした魔法は強力だったぶん、消費も激しい。
「そうですか」
ほっとしたようにライナーが微笑み、アナスタシアの手をあっさり離す。
(あ……)
手が離れると同時になぜか空虚な気分になり、そんな自分にアナスタシアはいっそううろたえた。
(信じられない! しかも、魔法までしくじるなんて……っ)
今まで、触られても嫌悪を感じない相手が一人もいなかった訳ではない。
早くに死に別れた母はもちろん、母の兄である伯父の侯爵やその下で育ったフレデリク、忠実な宮廷魔術師の団長夫妻など、信頼のおける者なら幾人かいる。
けれどライナーは初対面も同然で、長年の信頼関係を築いてなどいない。
それなのに指先が触れた瞬間、予想していた不快感がなかった。それに気づいた時、魔法の発動を止めようとしたのを微かに覚えている。
驚愕して頭が真っ白になり、気づいたらしっかりとライナーに片手を握られていたのだ。
自分の意思で魔法を中断するのと失敗して霧散させるのとでは、魔力の消費量が大きく違う。
霧散させれば、実際に使ったのと同じくらいの魔力を消費してしまう。きちんと中断させれば、これほど体温が下がって疲れるはずはないから、やはり失敗したのだろう。
魔法を失敗するなんて生まれてはじめてでそれこそ信じたくないほど屈辱だったが、それ以上に今、目の前には信じられない存在の男がいる。
(この男はまさか、全部本気で言っていたの?)
アナスタシアは複雑な気分でライナーを見上げた。
彼がお人よしなのは承知していたが、その度合いはアナスタシアの理解を遥かに超えるほど桁違いだったらしい。
ライナーに触れられても平気だった理由は、考えうる限りでただ一つ。
あの奇麗事を本気で言っていたのだ。
腹黒な猫かぶりの女王に利用されるのが嫌だから、王配を据えろと言いだしたのではない。
厄介事を押しつけられているのに、本気でアナスタシアの今後を心配し、女王の座とは関係なく貴女に惹かれる者はきっといると……この男はそれを信じているから、口にした。
(呆れるわ。どこまでお人よしの、甘い男なのよ!)
自分が腹黒く狡猾な事をアナスタシアは恥じていない。そうでなければ生き残れなかった。
けれどこの本性が決して他人に好かれず、警戒されるのは当然だとも思う。アナスタシアが自分へつけ込もうとする他人の下心を決して好かないのと同じだ。
賞賛され愛されるのは、女王としての外向きの顔だけでいい。
宮廷魔術師たちのように、真っ黒い内側を警戒しつつもちゃんと仕えてくれる者だっているから、それで十分だ。内面を知っても「魅力的」だなんて簡単に言う相手は、かえって胡散臭い。
何かの間違いだという思いが消えず、アナスタシアはそろりと左手を持ち上げた。
自分から触ってみれば間違いがはっきりわかるだろうと思ったからだが、胸の中にはチラリと別の感情が覗いている。
ライナーに触れられたのはとても心地良かったから、もう少しそれが欲しいと思ってしまう。
柄にもなく緊張しながら、思い切ってライナーの頬に触れてみた。
指先に触れる感触は他の人間の皮膚と同じはずなのに、やっぱりライナーだと嫌悪感がない。
「陛、ひゃ!?」
アナスタシアは、そのまま彼の頬を摘んで、思い切り引っ張った。
(まったく、なんなのよ! この心臓に悪い男は!)
もの凄く驚かされた名残なのか、まだ心臓がドキドキしている。足元を掬われたような気分だ。
しかもその相手は、自分がアナスタシアをどんなに驚かせたか、欠片も気づいていない。
腹立ち紛れに右手でもう反対の頬も摘んで、ぐにぐに引っ張りまわす。
「へいひゃ! ひゃめてくらさいっ」
しばらく無言でライナーの頬をつねっていたら、しまいに両手首を取られて頬から両手を引きはがされてしまった。
手首を掴まれてもやっぱり気持ち悪くないし、それを離されたら空虚な気分になる。
「陛下がお嫌なのはよくわかりました。そのような事をなさらずとも、もう触れません」
苦笑するライナーをアナスタシアはじろりと睨んだ。
「勝手に、何をわかったつもりなの?」
「え?」
「私から触れても気持ち悪くないか、確かめただけよ」
「では、嫌ではなかったのですか?」
ライナーからキョトンとした顔で言われ、アナスタシアはぐっと言葉に詰まる。
確かに、ライナーに触れても嫌ではなかった……が、それを正直に言うのはもの凄~く癪に障る。
「悪くない……ような気がしたわ」
視線を逸らしつつ、しぶしぶと婉曲な返答をすると、ライナーが僅かに息を呑む気配がした。
「陛下はやはり地位など関係なく、ご自身だけで十分に魅力的だと思います」
ボソリと呟く声にアナスタシアが視線を戻すと、彼が困り切った顔でこちらを見つめていた。
「ですからもう、こうした戯れはおやめください。私とて、一応は男ですし……」
「あら。もしかして、本当に私を抱きたくなって困るのかしら?」
気まずそうに言葉を濁すライナーにアナスタシアは余裕を取り戻し、意地悪く追い討ちをかけた。
思わぬお人よし加減でこちらの調子をくるわせた男を、少しくらい慌てふためかせてやりたい。
「そ、それは……っ」
期待通り赤面するライナーを、アナスタシアはフフンと眺める。
(ま、変わった男には違いないけれど、悪くはないわ)
底抜けのお人よしぶりには驚いたが、そもそも彼がそういう性格でなければアナスタシアから偽の愛人役を押しつけられる事もなかっただろう。
溜飲も下がった事だし、もう帰って良いと告げようとした時だった。
困り切ったように視線をさまよわせていたライナーが、キッとアナスタシアへ向き直る。
「そうです! 先ほどみたいに可愛らしい陛下の姿を見せられたら、そうした欲求にも駆られてしまいます!」
静かな彼から思いもよらぬ力が籠もった声で言われ、アナスタシアは自分の顔の近くで小さな爆発が起こったような気がした。心臓の辺りがきゅうっと疼き、一瞬で耳まで熱くなり、頭にかぁぁと血が上る。
「――は?」
口元を戦慄かせて間の抜けた声を漏らしてしまうと、ライナーが真剣な顔でまた熱弁した。
「陛下はとても可愛らしいので、迂闊に男を挑発なさるのは危険だという事です!」
(繰り返すなっ!! バカァっ!!)
その言葉で、二回目の爆発が起こった。クラクラするくらい、一気に血が頭へ上る。
ライナーの言う事はまったく訳がわからなくて、頭が完全に混乱する。
(なんなのっ!? さっきの……あれの、どこが可愛かったと言うの!)
幼い頃には可愛らしいと褒められた事もあるが、それはいつだってそう見えるようにアナスタシアが振る舞った結果だ。奸智に長けた本性を隠し、陰惨な王家の内情など欠片も知りませんというようなフワフワした笑みを浮かべてやれば、大人は簡単にそう言った。
しかし今のやり取りの中で、ライナーはアナスタシアのどこをどう可愛いなどと思えたのか。
今まで、敵も味方も様々な人間に会った。平凡な相手も、とびきり変わった相手もいた。
けれど、ここまでアナスタシアを呆気にとらせてばかりなのは、間違いなく彼だけだ。
(感覚がおかしいとしか言いようがないわ!)
思わず胸中で叫びつつ、アナスタシアは困惑していた。
ライナーは絶対に変だと思うけれど、自分だってさっきからおかしい。
『可愛らしい』と言われたくらいで顔が熱くなるなんて。しかも胸の辺りが、妙にムズムズする。
思い返せば、最初に手を握られて魔法に失敗してからずっと変で……
(っ! まさか……!)
とある可能性に思い当たり、アナスタシアは冷や汗をかく。
先ほど、よくわからないまま衝撃波の魔法を霧散させてしまったと思ったが、果たして本当にそうだったのだろうか……?
実は、効果は全然違うのに、あの衝撃波の呪文ともの凄く似た魔法があるのだ。
昔、王家の古い書物を漁っていた時に、たまたま見つけた魔法書にそれは書かれていた。
目の前にいる相手に、一時的に自分へ好意を抱かせる魔法だ。アナスタシアがこれを使った事は一度もなく、使うつもりもなかった。
呪文をかけた相手が術者に好意を抱くだけではなく、術者本人も同じように相手へ好意を持ってしまい、おまけに効果が切れるまで解呪ができないという、世にも使えない魔法だからだ。そんなふうに使い勝手が悪いくせに、衝撃波の魔法と同じくらい大量の魔力を消費するとなれば、使いたがる者はいないだろう。
だいたい、ロクサリス王家は長い間、魔術師ギルドに牛耳られていたのだ。貴重な魔法書は全てギルドに持っていかれている。ギルドの書庫に置かれず書き写された様子もないあの魔法書は、秘伝という大層なものではなく、書き取る価値もなかったのだろう。王家の書庫にだけ残っているのは、そういったガラクタのような魔法ばかりだった。
それはともかく、問題は衝撃波の呪文をしくじってから、明らかにアナスタシアの気持ちが変だという事だ。
もしや手を取られて動揺した時、衝撃波の魔法とよく似た呪文の、好意を抱かせる魔法を発動させてしまったのだろうか。
そう考えた瞬間、何もかもが拍子抜けして、ストンと気が抜けてしまった。
(……なんだ。魔法のせいだったのね)
それならば、アナスタシアから触っても全然平気な事に納得できる。
そして手を握られた時に感じた心地良さも、きっと魔法による錯覚だ。だから、妙に顔が熱くなったり、胸がムズムズするのだ。
しかし、そう思うとなぜか酷くがっかりしてしまう。
「……陛下? 大丈夫ですか?」
小刻みに震え出したアナスタシアの手を、不意にライナーが取った。
「っ!」
ドクンと、心臓が大きく鳴る。熱を持った耳がじんじんと痛いくらいだ。
(いいえ、こんなのは錯覚よ。絶対におかしいもの)
とても気持ち良く感じる手を握り締め、アナスタシアは俯いた。
ライナーが困惑したように呟く。
「お加減が悪いのでしたら、人を呼んできますが……」
アナスタシアは黙ってうな垂れたまま、首を横に振る。やたらと腹立たしくなった。
全て魔法の錯覚で片づいたはずなのに、情けなく期待している自分に気がついたからだ。この心地良さは錯覚ではなく、魔法によるものでもないのだと。
(これだから、操心魔法にかかると厄介なのよ! しかも何よ、この中途半端さ! さすが、使えないと魔術師ギルドに放っておかれた魔法なだけあるわね!)
声に出さず、思い切り悪態をついた。
好意を抱くといっても、瞬間的に熱烈な惚れ方をするといった類のものではないようだ。
――はっきり言ってこの時のアナスタシアは、かつてないほどの動揺と混乱に襲われていた。そうでなければ、この先の愚行は決して起こさなかっただろう。
(こんなの本当に、あの駄目な魔法の錯覚だって、証明してやるわ!)
アナスタシアは頭の中で、今度は本当に好意を抱かせる魔法を唱えはじめる。
この魔法は重ねてかける事で効果が倍増するようなものではない。つまり魔法を発動させて自分の気持ちに変化がなければ、先ほどの心地良さは魔法による錯覚という事になる。それを証明しようと焦るあまり、衝撃波の魔法が失敗していた場合には、魔法によってライナーに好意を抱いてしまう可能性がある事に気づきもしなかったのだ。
(これで、錯覚だってはっきり……っ!)
アナスタシアが頭の中で魔法を唱えると共に、ライナーの手に包み込まれた手から薄桃色の光が飛び出して二人の胸に吸い込まれた。
「えっ!?」
アナスタシアは呆然と目を見開く。先ほどは光など出なかった。という事はつまり――
(じゃあ、さっきの心地良さは、魔法のせいじゃなかったの!?)
「陛下、今のは……っ!?」
尋ねかけたライナーが、不意にアナスタシアの手を離し、ローブの胸元を押さえて呻いた。
同時に、アナスタシアの心臓もドクンと大きく跳ねる。
強い酒にでも酔ったような眩暈を覚えつつ、バクバクと不自然に高鳴る心臓を押さえた。
「ちょっとした間違いよ。わ、悪かったわ。解呪はできないけれど一時間程度で消えるそうだし……はぁ……効果も、それほどではないと……」
アナスタシアは説明しようとしたが、やたらと息が上がり、舌がもつれる。
魔力を大量消費して冷えた全身がカッカと急速に火照りはじめ、身体の奥底がジンと痺れるように疼いた。
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