鋼将軍の銀色花嫁

小桜けい

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1巻

1-1

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   プロローグ


『ばあや、みて! シルヴィアのおてて、みて!』

 嬉しくて楽しくて、暖炉の前にしゃがみこんだまま、ばあやを大声で呼んだ。
 あの時はまだ幼く、塔の外に広い世界があることも、自分の手が異形いぎょうということも知らなかった。
 無知だったからこそ、を綺麗だと思い、ただ喜んだ。
 振り向いたばあやが悲鳴をあげ、持っていた皿が床に落ちて粉々になる。

『シルヴィア様!! なんということ……っ!!』

 駆け寄ってきたばあやに抱き上げられ、暖炉から引きがされてしまう。
 ――あれ? シルヴィアのおてて、すごくきれいだったのに、もどっちゃった。つまんないの。ねぇ、もういっかい…………ばあや? どうして、ないてるの? 


 ――ねぇ、ばあや。どうしてシルヴィアのおてては、みんなとちがうの?



   1 出会い


 ――シルヴィア・フローレンス・アルブレーヌ伯爵令嬢など、今夜限りで消え去ってしまおう。


 初秋の月は明るく、夜風が城の喧騒けんそうを運んでくる。
 背の高い雑草の合間を、一人の少女が必死に隠れ進んでいた。長い銀髪はショールで包んでいるが、絹の手袋やほっそりした身体を包む若草色のドレスは、汚れてビリビリに裂けている。透けるように白い頬も、今は様々な感情で紅潮していた。
 早く早く。一刻も早く。一歩でも遠くに逃げなければ。今頃父の命を受けて、召使や兵達が城内を捜し回っているはずだ。城外に捜索の手が伸びるのも、時間の問題だろう。
 ドレスのすそがまた小枝に引っ掛かった。かさ張るパニエは脱いでいたが、塔に住んでいた時に着ていた質素な服ほど軽快には動けない。苛立ちを込めて絹のスカートを引っ張ると、繊細せんさいなレース糸がぶつりと切れて、だらしなくぶら下がった。
 このドレスを含め、父からご機嫌取りに寄越された衣装は、どれもこれも上等な品だった。レースや刺繍ししゅうで華やかに飾られたドレスの美しさに息を呑み、初めて触れる絹の手触りを心地良いと思ってしまった。
 ――でも、こんな服、もういらない。
 シルヴィアは唇を噛み締め、肩越しに小さく振り返った。薄い水色の瞳に、父の居館が映る。
 その周りには尖塔の細いシルエットがいくつも月明かりに浮かんでいた。目をらせば離れたところに一つだけ、ポツンと細長い塔がある。
 十八年間、あんな小さな場所で暮らしていたのか。あそこを出て父の住む居館に移ったのは、たった三ヶ月前のことなのに、もう何年も経っているような気がする。
 退屈な塔からずっと外に出たいと願っていたけれど、今はあの暮らしがなつかしい。シルヴィアをいつもなぐさめてくれた、優しいばあやに会いたい。
 ばあやは亡き母が伯爵家にとついでくる際、一緒についてきた侍女だった。母はシルヴィアを産んだ数日のちに亡くなり、それからずっと、ばあやが実母同然に育ててくれたのだ。
 しかし、ばあやは三ヶ月前に突然、シルヴィアの唯一の肉親である父、アルブレーヌ伯爵の命で、強制的に故郷へ送り返されてしまった。
 そして呆然としているシルヴィアには、有無を言わさず結婚が命じられた。この結婚は、伯爵家の一人娘であるお前の義務だと言われた時は、唖然としたものだ。
 ――生まれてから十八年間ずっと、私を化物として離れの一塔に閉じ込めて、父と呼ぶことすら許さなかったのに?
 その言葉をすんでのところで呑み込んだのは、まだ自分がほんの少し、父親に甘い期待を抱いていたせいだろう。自分のことを娘だと思ってくれているのだと――
 そして塔から城の居館へと住居を移され、伯爵令嬢としてあるべき礼儀作法を叩き込まれる生活が始まった。以来、シルヴィアを取り巻く環境は何もかも変わってしまった。
 結婚相手について父からは北国フロッケンベルクの将軍であることと、名はハロルド・グランツであるということしか告げられなかったが、城の召使達は話好きで、色々な噂が自然と耳に入ってきた。
 結婚とは言っても、父が投資に失敗して作った借金を相手側が清算することが条件となっている。つまりシルヴィアは売り飛ばされるも同然にとつぐのだった。結納金ゆいのうきんとして提示された額は、借金を全て返しても余りあるほどらしい。
 その話を耳にした時、シルヴィアはショックを受けるより、むしろ深く納得してしまった。よほどの事情がなければ、父が自分を嫁がせるなどあり得ない。
 ともかくハロルド・グランツ将軍は、かなり有能な男らしかった。
 平民出身の一兵卒でありながら、数々の武勇をたてて、若くして実力で将軍職に就いた猛者もさだと言う。『鋼将軍はがねしょうぐん』というのが通り名で、戦場においてはがねやいばのように敵を斬り裂くことからついた名らしい。数年前までは自軍を率いて各地の戦場を駆け回っていたが、今はフロッケンベルクの王から王領地の一部を任され、代理領主となっている。結婚後はシルヴィアもその地に住むことになるのだろう。
 塔の外の広い世界に憧れていたとは言っても、遠い北国へたった一人で嫁ぐのは不安でたまらなかったし、何よりシルヴィアはこの結婚に欠片かけらも夢を抱けなかった。
 ハロルドのように平民階級から成功した野心家が、莫大な結納金と引き換えに貧窮ひんきゅうした貴族の娘をめとるといった、いわば金で爵位を買うような真似をするのは、よくある話だそうだ。しかしそれなら、自国で妻を探してほしい。外国の田舎貴族を娶ったところで、大した恩恵はあるまい。
 それとも召使達が笑いながら予想していたように、自国の貴族や他国の名家からは相手にされないほどのひどい男で、妻も余りどころを買うしかなかったのだろうか?

(きっとそうよね……そうでなければ、私を選ぶはずがないもの……)

 何しろシルヴィアは年頃になっても、肖像画の一枚も描かれなかった。急ごしらえで肖像画が描かれたのは、結婚を申し込まれた後だ。
 つまり彼は、シルヴィアの性格どころか容姿も何も知らないまま、大金を払って結婚を申し込んだということになる。貴族でさえあれば、妻がどんな女性でも構わないのだろうか。
 そう思うとシルヴィアの胸は痛んだが、それでも一度は受け入れようとしたのだ。
 この三ヶ月間、自分に結婚を承諾させるためだけだとしても、あの父が、時折は優しい素振りを見せてくれていたから。美しいドレスや美味しいお菓子を貰うより、はるかに嬉しかった。
 ああ、だから、ほんの少しだけ……信じかけてしまったのだ。これから金と引き換えに嫁がせるのだとしても、自分を娘と思い直してくれたと。
 ――つい先ほど、家畜以下の化物としか見られていないと、改めて思い知らされるまでは。

(ハロルド様には、申し訳ないと思うけれど……)

 顔も知らぬ北の将軍は、明日の朝には城へ花嫁を迎えに来る予定となっていた。その時、シルヴィアが逃げたと知ればきっと激怒するだろう。父が勝手にした約束とはいえ、遠い北国からはるばるやってくるのに、無駄足にさせてしまうのは心が痛む。
 しかし彼とて、めとった後でシルヴィアの秘密を知れば、ひどく後悔するはずだ。

(それとも、お父様のように命じるのかしら?)

 ――この、おぞましい化物の手を斬り落とせ。どうせ家柄目当ての結婚だ。子を産む部分の他は必要ない……と。
 手袋をめた両手を固く握り合わせ、シルヴィアは身を震わせる。

(……さようなら、お父様。私は遠い場所で、身よりのないただの娘として、ひっそりと生きていきます)

 わずかに見える塔の尖端を睨み、胸中で別れを告げた。
 どのみち自分が、まともな結婚など出来る身体でないことは、生まれた時から明白だった。これからもずっと人目を避け、隠れ住むのがお似合いだ。


 どれほど歩いただろう。煙の臭いがし、話し声と馬のいななきが聞こえた。
 草むらが途切れ、シルヴィアはいつの間にか、小さな丘の上に立っているのに気づく。なだらかな傾斜の下には木立に囲まれた草地があり、何台かの幌馬車ほろばしゃが止まっている。
 野営の焚き火を囲んでいるのは、マントを羽織った旅装束の男達だ。

(きっと、隊商の人達だわ……)

 幸運の女神が微笑む気配に、シルヴィアは胸を高鳴らせた。
 アルブレーヌ伯爵領は大陸の主街道から外れているため、旅人も単独ではあまり通らない。遠い地からの品物や情報を運ぶのは、幌馬車で隊列を組み、行商をする旅商人達だ。塔の一番高い窓からは、よく街道を旅する隊商の列が見えたものだ。
 それに、外に出られないシルヴィアのためにと、ばあやは城の図書室からよく本を持ってきてくれたのだが、その中には気の利いた隊商が主人公達を助けるという話もあった。シルヴィアは、広い世界を生き生きと描いたその挿絵や物語にいつも夢中になっていたのだ。 


 間近に見る本物の隊商は、こんな状況でなければもっと感動的に見えただろう。それでも塔からは小さな虫のようにしか見えなかった幌馬車は、こうして近くで見るとずっと大きくて頑丈そうで、世界のどこにでも行けそうに思えた。

(あの人達に頼めば、ばあやのところまで連れて行ってもらえるかしら……)

 城から逃げた時はそれこそ死に物狂いだったし、自分自身もすごく怒っていたから、これからは何でも一人でやってみせると意気込んでいた。
 しかし、このアルブレーヌ領が属するシシリーナ国はとても広い。その上ばあやの故郷は、ミヨン地方という遠い場所らしいのだ。シルヴィアは旅どころか、城の敷地から出たのも今夜が初めてだ。正直言って、どの道がミヨンに続いているのかも分からない。
 あの隊商に頼んで、近くまで一緒に連れて行ってもらった方が確実だろう。もし断られても、道だけなら教えてくれるかもしれない。

(……上手に頼めると良いけれど)

 焚き火を囲む男達を眺め、シルヴィアは緊張に身を硬くする。この三ヶ月で、どうにか他人との会話にも慣れてきたが、まだ初対面の人と話をするのは怖くてたまらなかった。

「あっ」

 勇気を出して茂みから身を乗り出した時、木の根につまずいた。
 動きづらいドレスをまとった上に、疲労と緊張で強張っていた身体は姿勢を立て直すことが出来ず、そのまま視界が横に回転する。枯葉が舞い散り、シルヴィアは短い悲鳴をあげ、丘の斜面を転がり落ちた。

「誰だ!?」

 焚き火を囲んでいた男達が跳ね起き、枯葉にまみれて転がり落ちてきたシルヴィアに険しい視線を向ける。

「お、驚かせて、ごめんなさい……」

 シルヴィアはほどけかかったショールを直して謝った。グラグラ回っていた目が落ち着いてくると、こちらを向いて剣を構えている男達の姿が、はっきり見えた。そこそこ若い者から中年にさしかかった者まで、七、八人ほどいる。皆一様に目つきが悪く、薄汚れた身なりに無精ひげを生やしており、あまり近づきたいと思えるような者達ではなかった。

「なんだ、マヌケな小娘が落っこちてきただけだ」

 一人が息を吐き、剣をさやに収める。残りもそれに従い、遠慮のない笑い声をあげた。

「……失礼しました」

 シルヴィアは、恥ずかしいのとあちこち痛いのを我慢して立ち上がった。
 人を見た目で決めつけるのは良くないということは身をもって知っているが、この男達の無遠慮な視線は非常に居心地が悪い。それに、転げ落ちた相手を笑いものにするなんて、実際良い人達ではなさそうだ。
 道を尋ねるのは他の人にしようと決めて歩き出したが、草地の外れまで行ったところで、男の一人が追いかけてきて唐突にシルヴィアの手首を掴んだ。

「きゃあっ!?」
「まぁ、待ちなよ。こんな時間に、娘さんが一人でどこへ行くんだ? 家出か? 寝床を探してるなら、良いところを紹介してやるぜ」

 ニヤつきながら話しかける中年男の息があまりにも臭くて、思わず顔をしかめてしまった。手を振りほどこうとしたが、放してもらえない。男はシルヴィアの泥だらけになったドレスを眺め、口笛を吹いた。

「ボロ服かと思ったら、ご大層なドレスを着てるじゃねぇか。アンタ何者だ? この手袋も絹だろうが。どれ、よく見せて……」

 手袋を外されそうになり、シルヴィアの全身が総毛立そうけだつ。

「いやあっ!!」

 とっさに金切り声をあげて、握られていない方の手を振り回した。

「ぐっ!?」

 本当に偶然だし、男も油断していたのだろう。シルヴィアの振り上げた手は、男の眼球をまともに引っ掻いてしまった。
 うめき声とともに男が手を放し、両手で顔を覆う。男の仲間達は一瞬、あっけに取られたようだったが、すぐに笑い声をあげてはやし立てた。

「あ、あ……ごめんなさい……その……」

 しどろもどろに謝りながらシルヴィアは後ずさるが、許してもらえそうにないことは、雰囲気ですぐに感じ取った。男が片手で顔を押さえたまま、憤怒ふんぬの形相で腰に手をやる。そこには剣とむちがくくりつけてあり、男はその長く太い革鞭を手に取った。

「行儀の悪い姫さんだ。そんな女にうってつけの場所に連れてってやるが、その前に俺が、たっぷり礼儀を仕込んでやるよ」

 ひゅっとうなりを立てて鞭が振り上げられ、シルヴィアは悲鳴すらあげられずしゃがみ込んで目をつむる。
 しかし、素早く駆け抜ける空気の揺らぎを感じた瞬間、痛みの代わりに男の絶叫がシルヴィアの耳を打った。

「……?」

 恐る恐る目を明けると、目の前には信じられない光景が広がっていた。
 鞭を手にしていた男は、血塗ちまみれで地面に転がり息絶えていた。そして若い長身の男が、男達からシルヴィアを守るように、こちらに背を向けて立ちはだかっている。
 目を瞑っている一瞬の間に、どこから飛び出したのだろうか。旅人らしく軽装に地味な灰色のマントを羽織り、大きな幅広の剣を油断なく構えている。
 殺された男の仲間達が一斉に腰の剣を抜き放ち、突然の乱入者を睨みつけた。

「後ろの茂みに飛び込め」

 長身の男は、振り返りもせずにシルヴィアへ命じた。シルヴィアは声も出せず、ただ頷く。そして男の頑丈そうなブーツが地面を蹴ると同時に、死に物狂いですぐ後ろにあった茂みに飛び込んだ。
 顔や手足にチクチクと小枝が刺さったが、背後で鳴り響く怒号と剣撃の恐ろしさに比べれば、そんな痛みは取るに足らない。

(だ、誰か助けを呼ばなくちゃ……あんなに大勢いるのに……)

 茂みの中で縮こまりながらシルヴィアはうろたえたが、小枝の隙間から後ろの様子を覗き見て、すぐにそれが杞憂きゆうであったことを知った。
 長身の男は大剣を凄まじい速度で操り、取り囲む数人の敵をまたたく間に斬り裂いていく。まるで剣と男が、一つの強力な武器のようだった。生まれて初めて見る本物の戦いは恐ろしく、シルヴィアは何度か目を瞑ったが、長身の男が気になってまたすぐ開いてしまう。
 やがて最後の悲鳴と血飛沫ちしぶきがあがり、立っているのは長身の男だけになった。彼は息を整えて剣を収めると、シルヴィアが隠れる茂みに大股で近づいてくる。

「……嫌なものを見せたな。大丈夫か?」

 茂みをかき分けて覗き込まれ、息が止まりそうになった。

「は……はい」

 ガクガクと震える足で立ち上がると、その足に茂みの枝が絡まってよろめいてしまい、男に抱き止められた。長身とは思っていたが、改めて並ぶとシルヴィアの背は男の胸元までしかない。彼の大きな手はゴツゴツと硬く、日焼けした腕も太くたくましい。

「ありがとうございます……あなたは、大丈夫ですか?」
「ああ。怪我はない」

 見上げると、わずかに届く焚き火の赤い光が、男の精悍せいかんな顔を照らしている。まだ三十路みそじは迎えていないだろう。濃い鉄色の髪は短く刈られ、意思の強そうな彫りの深い顔立ちは、やや強面こわもてに見える。だが、同色の瞳は優しそうなきらめきをたたえ、腕の中のシルヴィアを見つめていた。
 とく、とく……と、麻の簡素なシャツ越しに男の鼓動が伝わる。どちらかと言えば無骨な部類で、シルヴィアが夢見ていたような絵本の王子様の姿とはかけ離れているのに、とても素敵に見えた。胸が締めつけられるような、もどかしい感覚に襲われる。
 先ほどまで強張り血の気の引いていた頬が熱くなる。きっと恥ずかしさのあまり、顔は真っ赤になっているはずだ。髪を包んだショールで、顔もほとんど隠れていたのは幸いだった。

「それより……どうしてこんな時間に、一人で出歩いている? ああいう奴らに目を付けてほしいと言っているようなものだぞ」

 シルヴィアの心境も知らず、男が今度は少しばかりとがめるように言った。

「あいつらはこの付近の数ヶ国で、指名手配になっている連中だ。この国の警備に連絡をするから、近くの村までついでに送ろう」
「えっ!?」

 思わぬ申し出に、シルヴィアはギクリと身を震わせて男から離れる。

「い、いえ、私は、その……」

 あわてふためいて言い訳を探していると、不意に猟犬を駆り立てるラッパの音が風に乗って鋭く響いてきた。あれを吹くのは父の城を警護する兵達で、彼らは今、必死にシルヴィアを捜しているはずだ。
 オロオロと周囲を見回し、薄暗い木立の中をどこに向かって逃げれば良いものかと決めかねていると、男が声をひそめて尋ねた。

「あれはアルブレーヌ伯爵の兵達だが……見つかるとまずいのか?」
「あの、私は、ただ……」

 焦りで舌が乾き、口内に張りついて上手くしゃべれない。男はうろたえるシルヴィアを見下ろし、髪を包むショールを大きな手でそっとでた。

「訳を話してみろよ。事情によってはかばうかもしれないぞ」

 低い穏やかな声に、心臓が大きく鼓動した。胸を締めつけられるような感覚が、再びシルヴィアを襲う。一瞬、この見知らぬ人に何もかもを訴え、泣きながらすがりついてしまいたい衝動に駆られた。
 たった一人きりの味方だったばあやがいなくなり、不安で寂しくてたまらなかった。
 名前も知らない会ったばかりの相手に、心を取り込まれてしまいそうになる。
 しかしシルヴィアは、張り詰めた糸が切れる寸前で耐えた。

「ごめんなさい。どうしても話せないの」

 打ち明ける代わりに、シルヴィアはドレスの隠しから美しい真珠の指輪を取り出して、その旅人とおぼしき男に見せた。

「お願いです。この指輪をあげますから、ミヨン地方に私を連れて行ってください。どうしても会いたい人がいるのです!」
「ミヨンに? おいおい、いきなりそう言われても……」

 目を丸くして困惑する男に、必死で頼んだ。
 古いが高価なこの指輪は、ばあやが亡き母から預かったらしい。くれぐれも形見ではないと、母は言っていたそうだ。

『形見としてしまえば、娘はどれほど困窮こんきゅうしようと売るのを躊躇ためらうでしょう。だからこれは、この先困難な人生を歩むシルヴィアが必要な時に使うための、ただの指輪です』

 ばあやは涙まじりにその言葉を告げ、指輪を大切にするように……しかし本当に必要な時には躊躇わず使うようにと教えてくれた。

「これは、母が私に残してくれたもので……他にお金は持っていないのです」

 居館の部屋には、将軍から花嫁宛に贈られた宝飾品がいくらでもあったが、結婚を放棄して逃げる以上、それらに手をつけるわけにはいかない。シルヴィアが代価として渡せるのは本当にこれだけだった。
 指輪を差し出す手が震える。引っ込めてしまいたいと、どれほど思ったことか。
 けれど今こそが、本当に必要な時だ。こんなに強い人なら、どんな危険な道のりでも平気だろう。何よりもシルヴィアは、自分でも気づかないうちに、彼ともっと一緒にいたいと思い始めていたのだ。

「お願いです! 途中まででも構いませんから……」

 指輪を再度突き出した時、強い風が吹いた。緩んでいたショールがほどけ、飛び出した銀髪シルバーブロンドが風になびき、月光を受けて燦然さんぜんと輝く。

「あっ」

 飛んでいきそうになったショールをあわてて掴んで振り向けば、男は唖然とした顔でシルヴィアを凝視ぎょうししていた。そして何度か口を開け閉めしたかと思うと、唇を固く引き結び、軽く顔をしかめてフイと背けてしまった。

「あの……?」

 何か怒らせてしまったのかとおろおろしていると、男は深く息を吐いてシルヴィアに向き直った。はるか高い位置から投げかけられる視線が、今度はやけに鋭く突き刺さる。

「道理で兵から身を隠したがるわけだ……アルブレーヌ伯爵令嬢、でしたか」

 知るはずもない名を男に呼ばれ、シルヴィアの全身が凍りつく。
 男の声がわずかに上ずっていたような気がしたが、今のシルヴィアに気にする余裕はなかった。
 男は地面に片膝をつき、握ったこぶしを胸の中央に押し当てる。確かこれは、フロッケンベルクの騎士が行う貴人への礼だ。

「申し遅れました。ハロルド・グランツと申します。シルヴィア・フローレンス・アルブレーヌ伯爵令嬢……貴女あなたに結婚を申し込んだ者です」

 慇懃いんぎんな言葉と硬い声で、シルヴィアをめとる北国の将軍はそう名乗った。

「そんな……」

 ――なんという、最悪の初対面だろう。
 陸に揚げられた魚のようにあえぐシルヴィアを、立ち上がった将軍――ハロルドが険しい顔で見下ろす。
 城の猟犬達のえる声と馬のひづめの音が、徐々に近づいてくる。

「い、いやっ!」

 もつれそうになる足を動かして逃げようとしたが、あえなく手首を掴まれ捕らえられた。
 知らない男に手首を掴まれたのはこれで二回目だが、最初の男とは比べ物にならない力だった。ハロルドの手ははがねで出来ているのかと思うほど硬く、手袋の上からでも指のあとがつきそうだ。

「貴女が逃げるのも無理はない。平民あがりの一将軍が、爵位目当てに求婚……こんな男を軽蔑するのは当然だ」

 深い溜め息交じりの声音に胸が痛み、思わず抵抗をやめてシルヴィアは男の長身を振り仰いだ。
 一方的な縁談を嫌悪したのは事実だが、シルヴィアが逃亡するに至ったのは、そんな理由からではない。

「ハロルド様を、軽蔑してはおりません」

 怖かったが勇気を出して告げると、ハロルドはシルヴィアの手首を放し、片眉を軽く吊り上げた。

「大切な形見を見知らぬ男に差し出してまで、逃げようとしたのに?」
「それは……」

 言い訳をしようとしたが、すげなく手を振ってさえぎられた。

「貴女がどれほど嫌がろうと、もう決まったことだ。気の毒だが、諦めてくれ」

 感情のこもらない冷淡な言葉に、震える足が崩れ落ちそうになる。
 見知らぬ娘には優しそうに見えたこの将軍もやはり、妻にする貴族娘には意思や感情など求めていないのか。
 全身から気力が失われていく。ついにその場に倒れそうになったシルヴィアを、ハロルドのたくましい腕が支える。もう振り払う気にもなれなかった。
 その時、丘の上から松明たいまつを持った騎馬の一団が駆け下りてきて、シルヴィア達を取り囲んだ。父の城を警護する騎兵達だ。
 騎兵達は転がっている死体に驚き、警戒もあらわにハロルドへ槍の先を向ける。

「この方は伯爵家の姫君だ! 失礼などしていないだろうな!」

 馬上で怒鳴る年配の騎士隊長を、ハロルドがわずらわしそうに見上げた。

「自分の婚約者を保護しただけだ」

 彼はシルヴィアを兵の一人にたくし、腰に下げていた剣を見せる。剣のつかには、鮮やかな青地に黒い蛇と白い鳥を配置した、フロッケンベルクの国章が刻みこまれていた。それは北国において将軍の地位を表す剣だと、シルヴィアも聞いたことがあった。
 不審者扱いした相手が、姫をめとりに来た将軍と知った隊長は蒼白になり、兵達も顔を見合わせる。

「グランツ将軍でございましたか、大変な失礼を。シルヴィア様は、散歩で道に迷い……伯爵様も大変心配しておりまして……」

 馬から飛び降りた隊長が、言い訳を始めた。

「分かった、分かった。姫が無事で何よりだ」

 ハロルドが呆れたように頷き手を振ると、騎士達は恐縮した様子で礼をした。そのうちの一人がそそくさと馬を降り、シルヴィアを引き受けるために近づいてくる。
 シルヴィアはうつむいたまま、精一杯声を絞り出した。

「お願いです、ハロルド様。どうかこの結婚は、考え直してください」
「シルヴィア様!? 何をおっしゃるのですか!」

 隊長の叱責しっせきに、シルヴィアの身体がビクンと震える。


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