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たまの事  6

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「あ、ここからだと移動でギリギリかも」

 腕時計で時間を確認すると思っていたより余裕がないのに気付き、玉生たまおは慌てて日尾野ひびのという表札のある門扉に取り付けられたインターホンを押す。



「おや、これは倉持くらもち様。お久しぶりでございます」

 対応に出て来たのは日尾野の家の執事で、尾見おみというロマンスグレーの温和な紳士だ。
玉生も顔馴染みで随分と良くしてもらっている。

「こんにちは、尾見さん。あの、今は時間がなくて、また明日にでも出直して来ますので、この子をなお君に……っ」
「はい、承りました。それと本日は学園通りのミルクホールでお仕事でございますよね」

 焦る玉生から子猫を包んだタオルを優しく受け取ると、尾見は直ぐ側でアイドリング状態の車の扉を開いた。

寿尚すなお坊ちゃまから、もしも時間がないと判断しましたら、そのままミルクホールまでお送りするようにと仰せつかっておりますので、どうぞご遠慮無く」

 強引さを感じさせない手際で玉生を座席に押し込むと、運転手に「丁寧にお願いしますよ」と声をかけ「では明日。美味しいお八つなどをご用意して、お待ちしております」との言葉と共に静かに扉を閉じた。
慌てて振り返ると一度お辞儀をしてにこやかに見送ってくれるのに、玉生は所在なさ気に宙に浮かせた手と共に頭を下げた。


 車で玉生も知らない近道を通って来たおかげもあって、思ったよりも余裕を持ってバイト先のある学園通りに到着した。

 その玉生のバイト先であるミルクホールは、国の施設に店舗を構える代わりに社会貢献として孤児院から一定の人数を雇い入れているのだが、若者に人気のあるスポットなので当然ながらその競争率は高い。
 玉生の場合は自炊の下地らしきものもあり、簡単なメニューなら作れて混雑時には厨房の方でも戦力になるのが採用の決め手となった。
そんな孤児組の一人によく遅刻して来る者がいる。
それにはちゃんとした理由があり、大遅刻とまではいかないのと仕事熱心で要領も客受けもよく、人手が足りない時などにシフトに入る事などで大目に見られているのだが、それが面白くないのか店員のうちに孤児を全員一緒くたにする人物がいるのだ。
玉生もバスの到着の遅れで遅刻してしまった時、彼女に「いい加減にして。親がいない人ってこれだから」とくどくど嫌味を言われてしまった。
ほかの店員が止めに入り気にしなくて大丈夫だと言ってもらえ、遅刻魔にも「とばっちりでごめんな~」と謝られたが、それ以来やや神経質になってしまいバイト前になると5分ごとに時計を見る癖が付いてしまったのだ。
おかげでこの頃よく寿尚に、「俺も気を付けてやるから、少し落ち着け」と注意されたりもする。
今日もなかなか来ない玉生が、遅刻に気がいって焦っているだろうと予想して、車で送るように尾見に言ってくれたのではないだろうかと思われる。

 自らを猫の従僕と名乗る猫好きの寿尚は、小学校入学時の初対面からずっと玉生を「たま」と呼んで可愛がっているのだ。
その頃は玉生はまだ孤児院に入ったばかりの頃で、ガリガリに痩せていたせいで大きくてギョロリとした目がよけいに子猫を思わされ、視線が合った時から寿尚にとっては「うちの子」なのである。
一学年下の玉生はずっと小柄な事もあり、年の離れた兄弟ばかりの末っ子で大人びた方へ成長した寿尚にとってはそれだけでも庇護し続ける理由になり、今も危なっかしい子猫的な保護対象であるらしい。
実際に今日もこうして気を回してくれたおかげで余裕を持って引き継ぎができ、いい雰囲気で仕事がはじめられる。

 よく寿尚が同乗を勧めてくれるので、すっかり玉生とは顔見知りになった運転手も気の利いた人で、悪目立ちしない様に裏口から少し離れた場所で降ろしてにこやかに「お気を付けて」と声をかけてくれた。
ペコリと頭を下げてお礼を言う玉生が店の裏口から入るまで見届けてくれたのに、くすぐったい気持ちで給仕の制服に着替えて「倉持入りまーす」とカウンターに向かうと、「おお、倉持。参番に胡桃のミルク茶とミルクレープ、あとこのクリームソーダな」とさっそくの仕事だ。

「で、これ運んだら裏回ってキッチン手伝ってくれ。この時間、人手が足りないんだ」

 今日は週末のせいか特に混んでいて、いいタイミングでバイトに入れたと車を出してくれた日尾野の家の人たちに何度目かわからない感謝をしながら、玉生はせっせと労働に励むのであった。
その後は賄いを作る暇も食べる暇もなく「今日は本当にご苦労だったね」と店主が一食分に色を付けた手当てを、安全のため院までまとまって帰る玉生たちに配ってくれたので、それぞれ帰り道で好きな物を買って食べた。
餡饅を半分取られ鯛焼きの半分をよこされながら、『明日、ちゃんと相談しよう』と前向きな気持ちになる玉生だった。

 
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