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第三十八話 凶犬、愛に死す。

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 真夜中の肌寒い風が吹きつけてくる。
 車窓から流れる景色を眺めながら、焦りが募っていた。

「ルアン、まだなの!?」

 御者のほうに叫ぶと、ルアンは悲鳴じみた声で叫び返してくる。

「無茶を言わないでください! 塀が高い豪邸なんて第一地区には山ほどあるんです!」
「それでも分かるでしょ!」
「ラピス、落ち着け。ルアンも困ってる」
「黙りなさい。私に話しかけないでくれる?」
「扱いがひどい!?」

 当たり前でしょ。何を言ってるんだか。
 自分が私に何をしたのか忘れたとは言わせないわよ。
 今、こうして同じ竜車に乗ってやってるだけでも感謝してほしいものだわ。

(って、今はこの皇子アホはどうでもいい)

「早くしないとあいつが──」

 その時だった。
 轟音が響きわたった。
 地響き。何かが砕かれるような音、続いて悲鳴。

 竜車が嘶きをあげて急停車し、危うく車体に頭をぶつけそうになる。
 慣性のせいで壁に手をついた私は慌てて車窓から外を覗いだ。

「……あ」

 空に煙が上がっている。
 第一地区の目抜き通りに居た者達は何事かと囁き、騎士団に通報を始めていた。

(あそこだ)

「ルアン!」
「分かってます!」

 ルアンが鞭を振るうと、竜車は再び動き出した。
 閑静な住宅街をものすごいスピードで駆け抜けていく。
 目的地に到着すると、民家の壁が崩れて、その向こうに血の海が広がっていた。

「……殿下、騎士団への対応をお願いします。僕は周辺住民の対応を」
「……分かった」

 ──間に合わなかった。

 ひと目でそう断じるほどの、凄惨たる有様。
 数十人の男たちが倒れ伏す戦場のただなかにあいつは居た。

「……ジャック?」

 よろりと、近づいて。

「ジャックっ!」

 私は駆け出した。
 瓦礫の山を越えて、死屍累々の山を越えてあいつの下へ。

「ジャック、ジャック……お前、生きてるんでしょうね!」

 生きている──とは言えない有様だった。
 明らかに出血多量で、全身には裂傷が刻まれ、骨が見えている傷すらある。
 応急処置が効く段階じゃない。それでも私は常備薬の蓋を外した。

「ねぇ、起きなさいよ」

 ぷるぷると手が震えて薬を取り落としそうになる。
 血を止める薬をかけつつ、骨が見えている場所は包帯を巻きつける。
 ジャックの顔は青白くて、今にも死んでしまいそうなほど呼吸がかぼそい。
 まだ生きてるけど、もう……

「起きてよ……」

 あぁ、だめ。
 死の匂いがする。お母様が死んだ時と同じ匂い。

「やだ……」

 ジャックの頬に触れる。
 いつも口悪く反撃してくるほっぺたは怖いほど冷たくて。

「ねぇ……死なないでよ……死んじゃ嫌よ……」
「……」
「ねぇってば!」
「………………勝手に殺すんじゃねぇーよ」
「ジャック!?」

 まぶたを震わせ、ジャックが薄眼をあけた。
 生きてる。まだ生きてる。
 それだけで、胸の底から言い知れない喜びが沸きあがってくる。

「お、お前、生きてるなら早くそう言いなさいよ! 待ってなさい。今すぐ治療所に連れて行くから」
「……ラピス、どこにいんだ?」

 ひゅっ、と私は息を呑んだ。
 ジャックの瞳は焦点が合ってない。ここではないどこかを見てるようだった。
 声も掠れていて、いつもの覇気はどこにもない。

「何も見えねぇ……俺ぁ……死んだ、のか……?」
「……っ、ぁ、ぐ」

 開きかけた口を、閉じる。
 言いたいことは無数にあって、そのどれもこの場に相応しくないように思えて。
 私はただ、ジャックの手を強く握る事しか出来なかった。

「ここにいるわ」
「……ラピス?」
「私はここにいる。ねぇ、私を見てよ。いつもみたいに噛みつきなさいよ」

 左手で手を握りながら、右手で顔を動かす。
 ジャックは私を見ているようで、私を見ていなくて。それでも。

「泣いてる、のか」
「泣いてない……」
「どこの誰だよ……テメェを泣かせたの……ぶっ飛ばしてやる……」

 威勢よく言いながら、その手には力が全く入っていない。
 うわごとのように呟いたジャックを見て私の視界は滲んだ。

「なんでよ……」

 そんな時じゃないのに、訊かずにはいられなくて。

「なんでお前がこんなことしなきゃいけないのよ」

 ジャックは本来、私とは何の関係もなかったはずだ。
 私たちはただ居場所のない空虚な心を埋め合っていた関係で、一緒に薬屋をやっていくうちに相棒と呼べるようにはなかったかもしれないけど、命を懸けるほどの関係じゃない。こいつが自分の命を犠牲にしてでも私を助けたい理由が分からなかった。

「……夢の中でも馬鹿だな」

 ジャックは力なく笑った。

「そんなの、好きだからに決まってんだろ」
「……え」
「好きじゃねーやつのためにここまで出来るかよ……」

 ……好き? ジャックが? 私を?

「なんで」
「お前に、救われたから」
「救った……」
「覚えてなくても、いい」

 ジャックの顔が私のほうを向く。
 それはただの偶然だったかもしれないけれど、その目は私をしっかり見ていた。

「惚れた女の為だから、なんだって出来んだよ」

「泣いてほしくねーんだ」

「笑っててほしい」

「えらそーに説教して、」

「幸せになって欲しい」

「そのためならすべてを懸けられる。なんだって出来んだ」

 ジャックの言葉は引力のように私の顔を持ち上げた。
 血の海に倒れているのはジャックだけじゃない。ルイスや、バラン家の嫡男──大陸一の剣士と謳われた男までいる。この全員を、ジャックが倒したというのか。

「なぁ……ラピス」
「……」
「俺は、お前に相応しい男になれたかな……」
「……っ」
「お前の隣に、立ってもいいかな……」

 もう我慢できなかった。

「──馬鹿っ!!」

 私は叫んでいた。

「お前は愚か者よ! 私は、お前みたいな男が全部を懸ける価値のある女じゃないの! がさつだし、口は悪いし、すぐ手が出るし、意地っ張りだし、片付けも出来ないし、洗濯も掃除も料理も出来ない! 血筋と顔と頭がいいだけのダメ女なのよ!」
「……うん、知ってる」

 ジャックは子犬のように口元を緩めた。

「そういうところも、好きだ」
「ぁ」
「お前の、ダメなところも、いいところも」

 ジャックの手が私の頬に伸びる。
 凶犬と恐れられる男の手が頬を優しく撫でた。

「全部、好きなんだ」
「……っ」
「………………あぁ。やっと言えた」

 嬉しそうに笑って、

「もうこれで……いいや……」

 ジャックの手から力が抜ける。
 その手が落ち切る前に、私は掴んだ。

「よくない」

 馬鹿だ。私は、大馬鹿だ。
 今分かった。この時になって、ようやく分かった。

 私にとってこいつは、かけがえのない半身なんだ。
 傍に居て当たり前の存在。隣にいてくれるだけで力が出てくる人。

 こいつが居るから、私は前に進めた。
 どんなに無茶をしても、こいつが絶対について来てくれるって信じてたから。

 最初は小さな存在だったのに、いつの間にか大きくなっていた。

 ラディンに聞かれた。こいつは私の何なのかと。
 私は答えた。相棒だと。
 嘘だ。そんなの嘘だ。ジャックは相棒なんかで収まらない。

 こいつは、私の、大切な。

「よくないわよ。どこにも行かないで」
「……」
「私を置いて行かないでよ……ねぇ」
「……」

 ジャックは動かない。
 その手から完全に力が抜けて、顔から生気が消えていく。

「お願い……」

「お前が居なきゃ、嫌よ」

 ジャックは動かない。
 その身体はもう、死に近付きすぎている。

「ぁ、あぁあ……」

 くしゃりと顔が歪む。ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。
 どうしてもっと早く言わなかったんだろう。

 私はもう、こいつが居なきゃ生きていけないのに。
 冷たくなった体を抱きしめて、ただただ涙が零れた。

「うわぁあああ……うわぁあああああ……」








 どれくらい経っただろう。

「──ラピス!」

 突然、背中に鋭い声を浴びた。
 振り返ると、滲んだ視界の向こうにお兄様がいた。
 お兄様の後ろには騎士団もいる。皆が血の海に息を呑んでいた。

「これは……」
「お兄様……」

 私は縋るように言った。

「ジャックが……やだよ……助けて……誰か助けてよぉ……」
「……っ」
「また、私のせいで。わ、私のせいで、お母様も……!」
「ラピス」

 お兄様は私のほうにすたすたと歩いて来て、ジャックを検分する。
 もうほとんど温もりも残っていない身体に触れ、ぎゅっと唇を噛みしめた。
 そして懐から何かを取り出し、ジャックの胸に突き刺した。
 思わず悲鳴をあげた。

「お、お兄様……なにしてるの」
「皇族と四大貴族の後継者にのみ許される魔薬だ。人間を仮死状態にする」
「仮死状態……?」

 見れば、ジャックの身体が薄い光の膜に包まれていた。
 私でも知らない薬の効果……たぶん国家機密に値する情報。

「助かるかどうかは知らん。だが、公爵家の研究室なら助ける材料があるかもしれん──父上に頼れば」
「……」

 私はゆっくりとジャックを見た。
 お兄様を見る。どうする、とその目が問いかけている。
 私の意地と、ジャックの命。どっちが大事かなんて分かり切っていた。




 ◆◇◆◇




 ──アヴァロン帝国帝都
 ──ツァーリ公爵邸。

 竜車を降りて、慎重にジャックを下ろしながら玄関の前に立つ。
 お兄様が扉を開けると、お父様が両手を組んで待ち構えていた。

「父上」
「話は既に聞いている」
「……」

 約二か月ぶりに見るお父様は相変わらず眼光が鋭い。
 黒髪赤目のツァーリ当主はお兄様とルアンを見て、最後に私を見た。

「ラピス。貴様は勘当した身で我が家の敷居を跨ごうというのか」
「……っ、わ、わたしだって……」
「父上。今は言い争ってる場合ではありません」

 お兄様は私の前に出て言った。

「私は次期公爵家当主として、妹の恩人を助けたい。力を貸してくれませんか」
「……」
「父上、僕からもお願いします」

 私の後ろからルアンが進み出る。

「姉上は確かにやりすぎた面もありましたが、すべてはバース子爵令嬢とルイス皇子殿下の策謀によるものです。僕の目を覚まさせてくれました……ですから、その、姉上に手を貸してあげてくれませんか」
「……」

 お兄様とルアンの視線が私に向く。
 本音を言うならこんな人に謝りたくはない。
 お母様が死んだときに仕事をしていた人間に頭を下げるなんて死んでも嫌だ。

 でも。

 私は担架に乗せられたジャックを見て唇を結ぶ。
 拳をぎゅっと握って、前に出て、腰を深く曲げた。

「お願い、します……ジャックを、助けさせてください」
「……」

 一拍の沈黙。
 お父様はため息を吐いた。

「食事はとっていたのか」
「え? え、えぇ……ジャックが作ってくれてたから」
「睡眠はとれてるんだろうな」
「……うん」
「そうか」

 呟き、お父様は踵を返した。

「ならいい」
「え」
「部屋は残してある……好きに使え」
「……」
「急ごう、ラピス。薬の効果も永遠じゃない」

 お兄様に背中を叩かれてハッと我に返る。
 私は離れにある研究室にジャックを運び込み、治療を始めた。
 傷口を閉じて、傷だらけの身体を拭き、血液を輸血する。

 幸いにして、なんとか一命はとりとめたけど──

 いつまで経っても、ジャックは目を覚まさなかった。



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