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第二十五話 旅立ち
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ロレンスが我を取り戻すのにたっぷり一分ほどの時間を要した。
山ほどの石を見つめて、彼は消え入りそうに呟く。
「……まさか、魔法石?」
「えぇ、これがどれほどの純度のものか、あなたなら分かると思うけど」
アルマーニ侯爵領の英雄であるロレンスだ。
戦場で何度も魔法石を見ているだろうし、その価値も分かるはず。
これからの時代、戦術的に必要なのは魔法だ。と口癖のように言っていたもの。
「こんな、これほどの量、一体どこで」
「私、稀人っていうものらしいの。聞いたことある?」
「……確か、精霊の末裔だとか」
「不思議に思わなかった? 血統主義のお義母様が家格が下の私に一千万の支度金を出したこと」
「……」
侯爵家の実質的な運営をしていたのはお義母様だ。
ロレンスが私を欲しいと言って、お義母様がお金を出したことになるけど、いくら母親絶対主義だったロレンスでも疑問くらい思ったことはあるはずだ。いくら裕福な家だからといって、あの人が家格が下の女に一千万もの支度金を出すことなんてあり得ない。お義母様は私の血を混ぜてポーションを作り、社交界での地位を築き上げた……と、ルガール様から聞いた。
「これ全部で一千万以上の値打ちがあるわ」
「……っ」
ルガール様の所にいた時からコツコツと作り上げた魔法石。
上手く行かなかったものもあるから一千万もあるかは正直怪しい。
本当はその半分くらいかもしれないけど、そこはハッタリも含めていた。
(嘘なんてつきたくないけど……こうでも言わなきゃこの人は頷かないし)
「私たちが政略結婚って言ったわよね」
ハッ、とロレンスは顔を上げる。
「あ、あぁ」
「じゃあ政略結婚の価値がなくなったら、それでおしまいでしょ?」
政略結婚同士で結びついた家は、その価値が無くなれば破談になる。
実際、そうして婚約破棄された事例は何度もあり、私もその例を出してみた。
もちろん私たちの場合は離婚で、アカシア教の戒律のせいで基本的に離婚禁止の法律があるし、婚約破棄のように気軽にできるものではないけど……。
(お義母様の噂が流れている今だから、世間は私たちに味方する)
必要であれば、この人を傷つけても私は離婚したい。
もう、絶対に分かり合えない。
この人は私が許せる一線を越えてしまったから。
「待って……待ってくれ」
ロレンスは縋るように言った。
迷子で震える子供のような顔で懇願する。
「俺はお前が傍にいないと駄目なんだ……だから、ここに居てくれ。頼む」
「……あなた、気付いてる?」
「なにが?」
「あなたは私に此処にいてほしいって言うけれど。私が居なきゃダメだって言うけれど……」
私は容赦なく突き放した。
「『愛している』とは、一回も言っていないのよ」
「……っ!!」
ロレンスの顔に激震が走る。
「ちがっ」
「いいえ、違わないわ」
私は首を振った。
「あなたはただ所有欲を手放せないだけ。私が自分のモノじゃなくなるのが嫌なんでしょう? だから、お義母様から逃げ出してからじゃないと私にも気づかなかった」
「ぁ……」
「私がお義母様にどんな仕打ちを受けたか知ってる?」
顔を洗う洗面器にぞうきんの搾り汁を入れられた。
雑穀パンの中にすり潰した虫が入っていたと知った時はもう食べた後だった。
社交界のパーティーで笑い者にされない日はなかった。
だって、この人が隣にいなかったから。
私は何度も助けを求めた。一緒にパーティーに出てほしいと言った。
それを面倒、嫌いだ、と跳ねのけたのはあなたでしょう。
お義母様にされた嫌がらせを挙げればキリがない。
ほんの一部をロレンスに告げると、彼は悔しそうに唇を歪めて俯いた。
机の上で震える拳がぎゅっと握りしめられた。
「それは、悪かったと思ってる。でも、だから心を入れ替えて」
「あなたが心を入れ替えても、もう遅いわ」
だってもう、気付いてしまったから。
私の気持ちは、この人にはないってことを。
「離婚しましょう、あなた」
「……」
再び沈黙のとばりが降りてきて、私はそっと息をついた。
(……言いたいことは、全部言ったかしら)
ルガール様のことは言っていない。
あの燃えるような口付けの味も、背徳感も、胸にしまい込んでいる。
卑怯だとは思うけど、先に過ちを犯したのはロレンスだ。
(いくらなんでも、ここまで言えば納得してくれるでしょ)
一千万もの支度金は返した。先に浮気したのはあちらのほう。
夜の関係は七年以上持っておらず、姑に虐められた私は被害者といっていい。
デラリス帝国の法律でも、ここまで条件がそろっていれば離婚が認められるはず。
……はずなのだけど。
「いやだ……」
「え?」
ロレンスは唸るように呟き、そして顔を上げた。
「離婚なんてしない。お前は俺のものだ!」
「なっ」
「奥様!」
ロレンスが私を無理やり引っ張ろうとしたその時だった。
私とロレンスの間に光が瞬き、ロレンスは吹き飛んだ。
「ぐぁ!?」
壁に激突したロレンスに私は呆然とする。
ロレンスはうろたえながら私の横を見た。
「そいつは……精霊、か?」
それは光の玉──精霊だった。
私の前に浮かぶ精霊は怒りを表明するように赤く瞬いていた。
「たすけて、くれたの?」
精霊は私の周りを回転し、ぴょん、と目の前で跳ねる。
なんだか喜んでるみたいで、ちょっと嬉しくなる。
ルガール様が遣わしてくれたのかな?
ううん、きっとこれはこの子の意思だ。
「ありがとう、精霊さん」
「精霊ごときが、俺の女を奪うつもりか!」
「あのね、ロレンス。私は「もの」じゃないわ」
さっきまで円満に済まそうとしていた私はもうすっかり冷めてしまった。
暴力は……暴力だけはだめだ。
冗談じゃなくて、本当に怖い。
ロレンスが暴力を使って無理やり私に迫ろうというなら、私にも考えがある。
「あなたが離婚しないというなら、今までのことを法皇庁に訴えるわ」
「……!?」
侯爵としての社交を『面倒だ』と私に押し付けていたロレンスだ。
きっとお義母様がどんな風に言われているかも知らないのだろう。
けれども、英雄として法皇庁の権力は知っている。
お義母様が通報したシェリーを地下牢に閉じ込めたことからも分かるように、法皇庁が介入した侯爵家をどんな風に思うかは想像に難くない。
「お前、俺を脅すつもりか……?」
「さっき私を脅したのはあなたよね?」
ロレンスは黙り込んだ。
私か、侯爵としての地位か。
選択を突き付けた私にロレンスは答えを出した。
「分かった……分かったよ、離婚だ、離婚! さっさと出ていけ!」
「ありがとう。じゃあ準備に何日か貰って……」
「何を言ってる。今すぐ出ていけ! お前はもう俺の妻じゃないんだろう!?」
「……そうね」
(本当は侯爵夫人の仕事の引継ぎがあるのだけど……)
それも要らないと言われたなら、もういいや。
アルマーニ侯爵当主の命令に従った私は離婚誓約書にサインをもらった。
「さようなら、アルマーニ侯爵」
「……」
ロレンスは返事をしなかった。
私は溜息をついて立ち上がり、応接室を出る。
(どうしよう……一日で出て行くとは思わなかったから、荷物を用意してないわ……)
それに、外はもう夜で、真っ暗だ。
真夜中に出て行くなんて夜逃げみたいだし、夜道も危ない気がする。
夜盗に襲われたら私なんてひとたまりもない。
(一日だけ宿に泊まろうかしら。でも荷物は……)
と、そんな私の心を読んだかのようにシェリーが耳元に囁いた。
「奥様、大丈夫です。荷物は全部に準備してあります」
「え?」
「もちろん家具はありませんが、それはあちらで用意して頂くということで!」
茶目っぽく笑うシェリーに私は呆れ混じりに笑った。
「もう、そんなにここが嫌だったの?」
「はい──奥様──じゃなかった、お嬢様に相応しいとは思えませんでした」
シェリーは何日か滞在しても、一日で出て行ってもいいようにどちらも用意していたらしい。
あまりにも用意周到な侍女に私は苦笑するしかなかった。
ありがたい。でも、そんなに嫌な思いをさせていたと思うと申し訳なくも思う。
トランク数台の荷物を引いて私は侯爵家の敷地を出た。
振り返る。十年間過ごしたこの家とも、ようやくお別れだ。
「……さようなら」
悲しみはなかった。寂しさも、怒りすらなかった。
ようやくこの場所から解放される──。
そんな気持ちだけがあって、私の胸は未来への希望が詰まっていた。
私はもう、自由なんだ。
山ほどの石を見つめて、彼は消え入りそうに呟く。
「……まさか、魔法石?」
「えぇ、これがどれほどの純度のものか、あなたなら分かると思うけど」
アルマーニ侯爵領の英雄であるロレンスだ。
戦場で何度も魔法石を見ているだろうし、その価値も分かるはず。
これからの時代、戦術的に必要なのは魔法だ。と口癖のように言っていたもの。
「こんな、これほどの量、一体どこで」
「私、稀人っていうものらしいの。聞いたことある?」
「……確か、精霊の末裔だとか」
「不思議に思わなかった? 血統主義のお義母様が家格が下の私に一千万の支度金を出したこと」
「……」
侯爵家の実質的な運営をしていたのはお義母様だ。
ロレンスが私を欲しいと言って、お義母様がお金を出したことになるけど、いくら母親絶対主義だったロレンスでも疑問くらい思ったことはあるはずだ。いくら裕福な家だからといって、あの人が家格が下の女に一千万もの支度金を出すことなんてあり得ない。お義母様は私の血を混ぜてポーションを作り、社交界での地位を築き上げた……と、ルガール様から聞いた。
「これ全部で一千万以上の値打ちがあるわ」
「……っ」
ルガール様の所にいた時からコツコツと作り上げた魔法石。
上手く行かなかったものもあるから一千万もあるかは正直怪しい。
本当はその半分くらいかもしれないけど、そこはハッタリも含めていた。
(嘘なんてつきたくないけど……こうでも言わなきゃこの人は頷かないし)
「私たちが政略結婚って言ったわよね」
ハッ、とロレンスは顔を上げる。
「あ、あぁ」
「じゃあ政略結婚の価値がなくなったら、それでおしまいでしょ?」
政略結婚同士で結びついた家は、その価値が無くなれば破談になる。
実際、そうして婚約破棄された事例は何度もあり、私もその例を出してみた。
もちろん私たちの場合は離婚で、アカシア教の戒律のせいで基本的に離婚禁止の法律があるし、婚約破棄のように気軽にできるものではないけど……。
(お義母様の噂が流れている今だから、世間は私たちに味方する)
必要であれば、この人を傷つけても私は離婚したい。
もう、絶対に分かり合えない。
この人は私が許せる一線を越えてしまったから。
「待って……待ってくれ」
ロレンスは縋るように言った。
迷子で震える子供のような顔で懇願する。
「俺はお前が傍にいないと駄目なんだ……だから、ここに居てくれ。頼む」
「……あなた、気付いてる?」
「なにが?」
「あなたは私に此処にいてほしいって言うけれど。私が居なきゃダメだって言うけれど……」
私は容赦なく突き放した。
「『愛している』とは、一回も言っていないのよ」
「……っ!!」
ロレンスの顔に激震が走る。
「ちがっ」
「いいえ、違わないわ」
私は首を振った。
「あなたはただ所有欲を手放せないだけ。私が自分のモノじゃなくなるのが嫌なんでしょう? だから、お義母様から逃げ出してからじゃないと私にも気づかなかった」
「ぁ……」
「私がお義母様にどんな仕打ちを受けたか知ってる?」
顔を洗う洗面器にぞうきんの搾り汁を入れられた。
雑穀パンの中にすり潰した虫が入っていたと知った時はもう食べた後だった。
社交界のパーティーで笑い者にされない日はなかった。
だって、この人が隣にいなかったから。
私は何度も助けを求めた。一緒にパーティーに出てほしいと言った。
それを面倒、嫌いだ、と跳ねのけたのはあなたでしょう。
お義母様にされた嫌がらせを挙げればキリがない。
ほんの一部をロレンスに告げると、彼は悔しそうに唇を歪めて俯いた。
机の上で震える拳がぎゅっと握りしめられた。
「それは、悪かったと思ってる。でも、だから心を入れ替えて」
「あなたが心を入れ替えても、もう遅いわ」
だってもう、気付いてしまったから。
私の気持ちは、この人にはないってことを。
「離婚しましょう、あなた」
「……」
再び沈黙のとばりが降りてきて、私はそっと息をついた。
(……言いたいことは、全部言ったかしら)
ルガール様のことは言っていない。
あの燃えるような口付けの味も、背徳感も、胸にしまい込んでいる。
卑怯だとは思うけど、先に過ちを犯したのはロレンスだ。
(いくらなんでも、ここまで言えば納得してくれるでしょ)
一千万もの支度金は返した。先に浮気したのはあちらのほう。
夜の関係は七年以上持っておらず、姑に虐められた私は被害者といっていい。
デラリス帝国の法律でも、ここまで条件がそろっていれば離婚が認められるはず。
……はずなのだけど。
「いやだ……」
「え?」
ロレンスは唸るように呟き、そして顔を上げた。
「離婚なんてしない。お前は俺のものだ!」
「なっ」
「奥様!」
ロレンスが私を無理やり引っ張ろうとしたその時だった。
私とロレンスの間に光が瞬き、ロレンスは吹き飛んだ。
「ぐぁ!?」
壁に激突したロレンスに私は呆然とする。
ロレンスはうろたえながら私の横を見た。
「そいつは……精霊、か?」
それは光の玉──精霊だった。
私の前に浮かぶ精霊は怒りを表明するように赤く瞬いていた。
「たすけて、くれたの?」
精霊は私の周りを回転し、ぴょん、と目の前で跳ねる。
なんだか喜んでるみたいで、ちょっと嬉しくなる。
ルガール様が遣わしてくれたのかな?
ううん、きっとこれはこの子の意思だ。
「ありがとう、精霊さん」
「精霊ごときが、俺の女を奪うつもりか!」
「あのね、ロレンス。私は「もの」じゃないわ」
さっきまで円満に済まそうとしていた私はもうすっかり冷めてしまった。
暴力は……暴力だけはだめだ。
冗談じゃなくて、本当に怖い。
ロレンスが暴力を使って無理やり私に迫ろうというなら、私にも考えがある。
「あなたが離婚しないというなら、今までのことを法皇庁に訴えるわ」
「……!?」
侯爵としての社交を『面倒だ』と私に押し付けていたロレンスだ。
きっとお義母様がどんな風に言われているかも知らないのだろう。
けれども、英雄として法皇庁の権力は知っている。
お義母様が通報したシェリーを地下牢に閉じ込めたことからも分かるように、法皇庁が介入した侯爵家をどんな風に思うかは想像に難くない。
「お前、俺を脅すつもりか……?」
「さっき私を脅したのはあなたよね?」
ロレンスは黙り込んだ。
私か、侯爵としての地位か。
選択を突き付けた私にロレンスは答えを出した。
「分かった……分かったよ、離婚だ、離婚! さっさと出ていけ!」
「ありがとう。じゃあ準備に何日か貰って……」
「何を言ってる。今すぐ出ていけ! お前はもう俺の妻じゃないんだろう!?」
「……そうね」
(本当は侯爵夫人の仕事の引継ぎがあるのだけど……)
それも要らないと言われたなら、もういいや。
アルマーニ侯爵当主の命令に従った私は離婚誓約書にサインをもらった。
「さようなら、アルマーニ侯爵」
「……」
ロレンスは返事をしなかった。
私は溜息をついて立ち上がり、応接室を出る。
(どうしよう……一日で出て行くとは思わなかったから、荷物を用意してないわ……)
それに、外はもう夜で、真っ暗だ。
真夜中に出て行くなんて夜逃げみたいだし、夜道も危ない気がする。
夜盗に襲われたら私なんてひとたまりもない。
(一日だけ宿に泊まろうかしら。でも荷物は……)
と、そんな私の心を読んだかのようにシェリーが耳元に囁いた。
「奥様、大丈夫です。荷物は全部に準備してあります」
「え?」
「もちろん家具はありませんが、それはあちらで用意して頂くということで!」
茶目っぽく笑うシェリーに私は呆れ混じりに笑った。
「もう、そんなにここが嫌だったの?」
「はい──奥様──じゃなかった、お嬢様に相応しいとは思えませんでした」
シェリーは何日か滞在しても、一日で出て行ってもいいようにどちらも用意していたらしい。
あまりにも用意周到な侍女に私は苦笑するしかなかった。
ありがたい。でも、そんなに嫌な思いをさせていたと思うと申し訳なくも思う。
トランク数台の荷物を引いて私は侯爵家の敷地を出た。
振り返る。十年間過ごしたこの家とも、ようやくお別れだ。
「……さようなら」
悲しみはなかった。寂しさも、怒りすらなかった。
ようやくこの場所から解放される──。
そんな気持ちだけがあって、私の胸は未来への希望が詰まっていた。
私はもう、自由なんだ。
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