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第六話 カラスの使者
しおりを挟む侯爵家に帰ると、何やらピリピリした空気を感じた。
怒っている人を遠巻きにして避けているような雰囲気の悪さ。
何かあったのかしらと思っていた私はあまりにも暢気だった。
「ユフィリア! ユフィリア・ローゼンハイム!」
「はい、お義母様」
侯爵家の玄関ホールは広く、中央に二階へ続く大階段がある。
お義母様はそこから降りてきて声高に私を呼んだ。
……すごく怒ってる?
「あなた、一体なんてことをしてくれたの!」
「はい? 私は何もしておりませんが……」
「とぼけないで! 法皇庁に通報したでしょ!?」
「法皇庁……?」
法皇庁はアカシア教団を母体とした宗教組織だ。
デラリスの国教でるアカシアは国のいたるところに教会があり、貧民への炊き出しや司祭の管理、祭事の進行、結婚式の取りまとめなど、さまざまなことを行っている。アカシアは家族とは共に支え合うものであり、家庭内暴力などは禁忌としている。確かに、私のことが耳に入れば動いてくれるかもしれないけど。
(ことを荒立てたら実家に迷惑がかかるから言わなかった)
「私は別に何も──」
「奥様……申し訳ありません。わたしです」
「……シェリー?」
振り返ると、シェリーは震える声で告白した。
「わたしが法皇庁に通報しました。奥様に対する態度が見ていられなくて」
「……そう、なの」
私は咄嗟に言葉が出てこなかった。
シェリーが私を思って法皇庁に通報したのは明らかだ。
私も最近のお義母様の言動にはうんざりしていたし、責める気にはなれない。
「ありがとう、シェリー」
「奥様……」
お義母様は一喝した。
「こそこそ喋ってないで、なんとか言ったらどうなの! あなたのせいでわたくしの顔は丸つぶれよ! あの司祭共に疑いの目を向けられる屈辱! どうしてくれるの!?」
私はシェリーの前に出た。
「通報したのは私です。具体的に何があったかは知りませんが、疑われるようなことがあるほうがどうかと思いますわ」
「なんですって」
「お義母様は私を教育してくださっていたんだと思いましたけど、実はやましいことがあるのですか?」
「この……」
──……ぱぁんっ!
頬を張り飛ばされた。
視界が明滅する。りぃん、と耳鳴りがした。
シェリーが悲鳴をあげた。
「奥様っ!」
「よくもっ! 田舎者の分際で! このわたくしに!」
再び逆の手を張り飛ばされる。
じんじんと痛む頬。ぐわんぐわんと頭で警鐘が鳴り響く。
醜い怒りに歪んだ蒼の瞳が私を見下ろしていた。
「アルマーニ家の恩を忘れて! あなたの言うとおり、教育が必要なようね!」
がし、と髪の毛を掴まれる。
「奥様!」
「邪魔よ」
助けてくれようとしたシェリーが突き飛ばされた。
「きゃあ!」
「シェリー!」
……痛い!
抵抗しようとジタバタ藻掻いたけど、すごい力に抵抗できなかった。
髪の毛だけで人間を引っ張るなんて、まるで人間じゃないみたい。
お義母様は狭苦しい使用人部屋まで私を連れていき、投げ捨てた。
「あなたは一週間此処に閉じ込めておくから、そのつもりで居なさい!」
(一週間も!?)
ばたん!と扉が閉められた。
鍵を閉める音。咄嗟に扉に縋りつく。ノブを回す。がちゃがちゃ音がする。
「お義母様! お義母様! 出してください、お願いします!」
「大奥様、おやめください! こんなのやりすぎ……きゃぁ!」
「シェリー!? シェリー!!」
心臓が縮み上がった。
大好きなシェリーが怖い思いをしていたらと思うと居てもたっても居られなかった。
「お義母様、私が悪かったです。お願いします。シェリーは、シェリーには何もしないで……」
「食事も与えないように。一週間飲まず食わずでも生きていけるでしょ。ロレンスには体調不良だと言っといて」
「かしこまりました」
扉の外から人が離れていく気配がする。
どん、どん。私がどれだけ扉を叩いても誰も応えてくれない。
シェリーは? シェリーは本当に大丈夫なの?
「出して……誰か……ここから出してよぉ」
まさかお義母様がここまでするなんて……。
視界が滲む。自分の無力と、どうしようもない閉塞感。
いつ崖に落ちるか分からない霧の中を進んでるみたいな。
「あなた……助けて」
こんな時に助けてくれるはずの夫はどこにも居ない。
そもそも、此処にいても助けてくれる保証なんてどこにもなかった。
──それからどれくらい経っただろう。
窓辺から差し込む光が茜色から月光に変わり、静寂が侯爵家を包み込んでいた。
ズキ、と涙が枯れ果てた私は痛みに悶える。
扉を叩きすぎて拳が痛い。動かすだけでヒリヒリする……。
(今、何時かしら……)
私は後ろを仰ぎ見た。月の光が残酷に部屋に降り注いでいる。
誘われるように窓に近付く。二階からは高くて、とてもじゃないけど降りられない。
「シェリー……」
最悪、私のことはどうなってもいい。
家族の反対を押し切って自分の意思で家を飛び出し、ロクでもない家に囚われたのだから自業自得だ。最初は優しい夫でよかったなんて思ってたし。
けれども、私を追いかけてこの家に来て、私を思って通報してくれるシェリーだけは無事で居て欲しかった。
「どうしよう……どうしたらいいの……」
空から何かが近づいて来たのはその時だった。
ばさり、ばさりと音を立てて近づいてくる黒い塊。
それはカラスだった。
カラスは窓のそばまで近づくと、こつんと窓を叩く。
『大丈夫ですか?』
私はぽかんとした。
「カラスが喋った!?」
『俺です、侯爵夫人。ルガール・ダカールです』
「ダカール公爵……? もしかして、魔法ですか?」
カラスはこくんと頷く。
『少し気になることがありまして、使い魔をやりました』
「気になること……」
『お困りですか?』
私は息を呑んだ。
「……はい。困っています」
『手助けは必要でしょうか?』
「…………はい」
本当はよその男性に手を借りるのは悪いことだと分かっている。
けれども、この部屋は侯爵家の裏側に位置してるから、帰って来た夫に助けを求めることも出来ないし、このままじゃシェリーがどんな目に遭わせられるか分からない。使用人に平気で鞭を振るうお義母様だ。私を支えてくれるあの子を処分しようとしてもおかしくない。
「助けてほしいです。私の友達を……侍女のシェリーを助けてください」
カラスは呆れたように「カァ」と鳴いた。
『まったく、あなたという人は』
窓を開ける。腕を差し出すと、カラスが腕に止まって来た。
『言うに事欠いて自分のことより侍女のことですか』
「だって、あの子は大事な家族だから」
『……いいでしょう。あなたも侍女も助けて差し上げます』
カラスが翼を広げ、宙に浮かび上がる。
ひゅぅう……と足元から風が吹いてきて、私の足元に魔法陣が浮かび上がった。
かぁ、とカラスが鳴く。
「きゃ!?」
次の瞬間、私の視界は温かい光に包まれた。
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