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第二話 孤独な悪女
しおりを挟む「旦那様はひどすぎます!」
翌朝、私の髪を梳かす侍女がぷっくりと頬を膨らませた。
童顔で亜麻色の二つ括りにする彼女は私よりも怒っている。
「お嬢様……じゃなくて、奥様がどれだけ旦那様のためにお心を砕いているのか知りもしないで! あんな風に言う必要あります!? 女を何だと思ってるんですか!?」
「しぇ、シェリー、ちょっと抑えて」
「いーえ! このシェリー・レンブラン、奥様の代わりにぷんすこ怒ります! 元はといえば奥様が怒らないからですからね! わたし、もう怒ったんですから!」
シェリーは気が強いわけじゃなく、むしろ普段は優しくて穏やかな子なのだけど、ここぞという時はすごく怒る。義母のメイドがどこに潜んでいるか分からない以上、本当は声を抑えてほしい。でも、なんだか夫よりも大切にされている気がして、私は諫める気に慣れなかった。仕方なく苦笑で済ませる。
「ありがとう、シェリー。あなたがそう言ってくれるだけで十分よ」
ぱっちりとした飴色の目が可愛らしいシェリーは、実家からついて来てくれた唯一の侍女だ。シェリーが居なかったらとっくに心が折れていただろう。
(昔から侯爵家に仕える侍女たちはお義母様の命令に絶対服従だし、ね)
一時期シェリーの母が急病で離れた時があったが、その時のことは思い出したくもない。食事は腐ったパンと豆のスープに、朝は冷たい水を用意され、服は穴だらけ……。義母に部屋へ閉じ込められてしまった時、夫は一度も助けてくれなかった。
「だからこそあなたには自分を大切にしてほしい。私のせいで色々大変でしょうから」
「お嬢様……」
シェリーが私のせいで辛い目に遭っていることは知っている。私は見かけるたびに助けるようにしているし、シェリーを私室の隣に置くなど可能な限り防いでいるつもり。でもこの子は優しいから、きっと他の使用人に何をされても言わないだろう。シェリーは瞼にうっすらと涙をにじませて、涙を拭いながら忠言してくれる。
「あんな男、別れたらいいんです。アレは奥様のためにならない男です」
「こらこら」
まったくこの子は、言ってる側から。
「ほんとのことですもん」
ふん、とシェリーは顔を背ける。
私だって、その考えが浮かんだことはあるけど。
「無理よ。うちはあの人に借金があるもの」
実に一千万ギル。
鉱山事業で失敗したロンバード伯爵家の借金の総額である。
一時期は家門の終わりを覚悟したけど、私を花嫁にくれるなら支度金として借金を肩代わりすると申し出てくれたのがアルマーニ侯爵家だった。
(つまり、私につけられた金額は一千万……)
花嫁としては破格の値段だけれど、実家の伯爵家は縁談を渋った。
私を売るくらいなら貴族位を返上して破産する。家族全員がそう言っていたけれど、実際問題、世間知らずな家族が今さら貴族以外の生き方が出来るとは思えなかったし、身を粉にして働いている家族を見ているのが辛くて、私は家を飛び出すように縁談を承諾した。アルマーニ家からしても、ほどほどに家格が高くて操りやすそうな花嫁を望んでいたのだろう、と今になっては思う。それにしては一千万は高すぎる気がするけれど。
「アルマーニ家には借りがある。それに……離婚はアカシア教の戒律に反するしね」
デラリス帝国は唯一神アカシアを主とするアカシア教を国教としている。
その教えによれば、夫婦とは神が結び付けた尊いものであり、神の結び付けたものを人がほどくことは不信心に当たるらしい。要は、離婚を禁じているのだ。法律上、よっぽどの理由がなければ離婚は出来ない。今回の場合、私がどれだけお義母様やロレンスのことを言っても取り合ってくれないだろう。
(この国じゃ、ただでさえ女性の地位が低いんだし)
「お嬢様……」
鏡に映る悲痛そうな侍女の顔に私は再び苦笑をこぼした。
「そんな顔しないで。今でこそ冷え切った関係だけど、最初は仲が良かったもの」
そう、嫁いでから三年はロレンスも優しかった。舞踏会ではちゃんとエスコートしてくれたし、結婚披露宴で甘く微笑まれた時は嬉しかった。初夜もきちんと一緒に過ごしてくれて、破瓜の痛みに悶える私の頭を優しく撫でてくれた。街に行ってデートした時はカチコチで、不器用に手を握って来たことを覚えている。あの頃は彼のそんな仕草が可愛くて、この人の花嫁になれてよかったと思っていたものだ。幸せな思い出は、ちゃんと私の中に残っている
(いつからかしら、こうなったのは)
義父が亡くなってからロレンスの仕事が忙しくなって。
望んでいるのに中々子供が出来なくて、義母にぐちぐち言われ始めて。
私も焦って彼を求めて、疲れている彼はそれを拒絶して……。
今では私たちの関係はすっかり変わってしまった。
あの頃のときめきなんて残っていない。
私はただ一人、壊れかけた吊り橋のロープを両手でつかんでいる。
「……わたしの前では、我慢しないでくださいね」
シェリーの手が後ろから伸びてきて、優しく抱きしめられる。
「いざとなったら、わたしが命に代えても奥様をお守りしますから」
「うん……」
私はシェリーの手に触れて微笑んだ。
「ありがとう。シェリー」
「いーぇー。私は奥様の筆頭侍女ですから!」
「ふふ、そうね」
たった一人しかいない侍女だけど。
この子がいてくれるから、私はまだ頑張れる。
たとえ、夫から必要とされない女であっても──。
二時間後、お義母様から今日の舞踏会で着るドレスが届いた。
◆◇◆◇
レガリア大陸西部にあるデラリス帝国は海沿いに面しており、他大陸からやって来た者達によって構成される開拓国家だ。東に聳え立つ凍てつき山脈から流れるダンテ川の渓流はデラリスに豊穣の土地を与え、北側のガンジス山脈が敵国の侵入を防いでいる。南にある大いなる森は不老をもたらす薬草や魔を含んだ岩など、魔塔の活性化にもつながり、デラリスを強靭な国家へと押し上げていた。
そんなデラリスの建国を支えた貴族の一つ、アルマーニ侯爵家の舞踏会は優雅で華やかだと国内でも名高い。
侯爵家の庭園は魔塔から取り寄せたランプが飾られ、招待客に心地よい光をもたらしている。海産物をふんだんに使った料理はきらきらと輝き、高級肉のステーキはいつでも焼きたてが食べられるようミディアムレアで、石の皿で焼いて食べるライブクッキング形式。提供されるワインですらお金がかかっており、庶民では一生手が出せない銘柄ばかりが並ぶ。そしてその華となるのが、流行の最先端を行くと言われるマダム・キャロラインのドレスお披露目だ。
「ごきげんよう、皆さま」
陽の光を纏う金色の髪はきらきらと艶めいている。真珠細工のような白磁の肌には皺一つなく、大胆に肩を出した青空色のドレスは彼女の金色を華やかに彩っていた。エスコート役である紳士は自慢げに鼻を高くしている。主催者が舞踏会に入場した瞬間、その場にいる者達が感嘆の息をこぼした。
「まぁ見て……アルマーニ夫人、今日も綺麗……」
「同じ四十代とは思えない若々しさよね。すごいわ……」
「今回のエスコートはユルケン男爵令息ね。美形と美形が並んで目の保養だわぁ」
先代侯爵夫人でありながら、アルマーニ夫人と言えば彼女のことを指す。
流行の最先端をいく彼女の服に貴婦人たちは目を皿にして釘付けになった。一体どこで仕上げた服なのか、どんなドレスなのか、お金はいくらかけたのか、服飾師は誰か、デザイナーは云々……。
「それに比べて」
尊敬と畏敬に満ちていた視線が一気に冷え込み、侮蔑と嘲笑へと様変わりする。
「アルマーニ侯爵夫人の入場です!」
来訪を告げられた夫人の登場は、会場の空気を変えた。
まぁ、私のことなんだけど。
「……」
目が、刺さる。
私を見下す目、蔑む目、笑い物にして楽しんでる目。
ありとあらゆる負の視線に晒されて心臓が縮み上がりそうだった。
「やっぱりアルマーニ夫人は……ねぇ。なんというか、まだ未熟よねぇ」
「今日もエスコートなしなんて。夫婦仲が悪いという噂は本当のようね」
「護衛でもいいから連れてきたらいいのに」
「どうする? あの子がルガール卿みたいな人を連れてきたら」
「ないない! あの『青牡丹の君』が女性を連れてくるわけないわよ」
「それもそうね。なんたってユフィリア嬢だもの」
くすくす、くすくす。
さながら私は、魑魅魍魎の巣に飛び込んだひな鳥だった。
大人しく捕食されるのを待つしかなく、彼らの嘲笑に抗う術もない。
(……やっぱり来てくれなかった)
夫と最後にパーティーに参加したのはいつ頃だろう。
もうずいぶんと、彼の腕に触れていない気がする。夫が出席できない時は誰かにエスコートを頼むものだけど、あいにく私は実家と疎遠になっているし、侯爵家の騎士に護衛を頼もうものならお義母様に浮気を疑われ責め立てられるに決まっている。要するに詰んでいるのだ。私は。
「見て! あの服! すごい色だわ」
「あんなに赤くて派手なドレスを着てくるなんて。ずいぶんと派手好きなのね」
「似合ってないのが分からないのかしら。センスがすごいわ」
今日の私の服は赤い生地に宝石をちりばめた派手なドレス。
金にものを言わせたような、悪趣味なドレスだ。
もちろん私の趣味じゃない。お義母様が着てくるように言ったものである。
その理由は──
「まぁ! その服は何なの、ユフィリア嬢」
私が噴水の近くに行くと、お義母様が近づいてきた。
じろじろと私の服を見た彼女はニヤリと口の端をあげ、
「こんな派手な服を着て来るなんて! 羞恥というものを知らないの?」
その理由は、お義母様が社交界で自分を見せ付けるため。
「侯爵夫人になってそのセンスはちょっと……あなたは侯爵夫人としてのまだ自覚が足りないようね」
周りに聞こえるような大声でお義母様は言った。
「ほんと、あなたには困ったものだわ。そんなに宝石をじゃらじゃらつけて、侯爵家の事情も考えずに無駄使いばっかり! そんなのだからロレンスもあなたに見向きしないのよ。分かる?」
宝石を付けるように言ったのはお義母様の指示。
これでもシェリーと一緒にバレないように減らしたつもりだし、無駄遣いばかりしているのはお義母様のほう。私は侯爵家の会計を担当しているけど、何度言ってもドレスや宝石を買うことをやめてくれなかった。ロレンスにやめるように伝えてもなしのつぶて。そのうち会計担当の立場すら奪われて、「母上に任せればいい」と言われるようになった。
けれども、社交界はお義母様の独壇場だ。
莫大な財産を持つアルマーニ侯爵家の主人の言葉に周りは感化されてしまう。
「つまり、夫から相手にされないから散財してるってこと?」
「キャロライン夫人がアルマーニ侯爵夫人に虐められてるというのは本当のようね」
「侯爵家の面目丸つぶれよ! あのような悪女、よく家に置いているものね」
何も知らない癖に、好き勝手言ってくれるわね。
「皆さま、およしになって。きっと田舎から来たばかりで教育が足りなかったの。わたくしの不徳の致すところよ」
「まぁ、キャロライン夫人……」
私の株は急降下し、義母であるキャロライン夫人の株は急上昇。
舞踏会場は『寛大でお優しいキャロライン様』を讃える礼拝堂のようだった。
(もういや……こんなところ……)
反論したくても出来ない。お義母様の目に見られるだけで震えが走る。
事実として夫は傍におらず、心の支えであるシェリーは平民出身だからと入場を許されなかった。
うららかな日差しは冷たく、私の心を不安の風が吹き抜けていく。
がたがた、とワイングラスが揺れた。
ぱりん! とグラスがひび割れ、光の粒が頭上に渦を巻く。
「きゃあ! な、なに?」
「何かの催しもの?」
「いま、突然グラスが割れたわよね? どういうこと?」
お義母様が顔色を変えて私に詰め寄ってきた。
「もういいわ。あなたは中に入ってなさい!」
きょとん、と瞬いた。
「……いいんですか?」
「わたくしの言うことが聞けないの?」
本当にいいんだ……。
「いえ、それでは失礼します」
ふ、と。
途端に私の心は安らぎを取り戻す。
家に入っていい。お義母様と顔を合わせなくていい。
たったそれだけのことで、砂漠で水を与えられたみたいな気分になった。
(……そういえば、さっきの音は何だったのかしら)
「早く入りなさい!」
「はい」
まぁ、いい。
お義母様の気が変わらないうちに、早く退散するとしよう。
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