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第一話 姑の悪意
しおりを挟む「──ユフィリア嬢。子供はまだかしら?」
何気なく放たれた義母の一言に私の心臓は凍り付いた。
お茶会の席に水を打ったような静けさが訪れる。
ティーカップの水面に映る自分の唇が、ぎゅっと閉じられた。
「早く孫の顔が見たいわ。ロレンスとはうまくやってるの?」
私は作り笑いを浮かべて顔をあげた。
「頑張ってはいるのですが……申し訳ありません、お義母様」
「謝るようなことじゃないですけども。わたくしはあなた達が心配なのよ」
おっとりと金髪の巻き毛をいじりながら義母は言う。
既に四十後半に差し掛かろうという年齢だが、厚い化粧が皺を隠している。派手な宝石をつけた指先がきらりと光る。心配だという口調とは裏腹に、その声の端々には嘲笑が透けて見えた。
「アルマーニ侯爵家には後継ぎが必要でしょう? そのために年若くて聡明なあなたをお嫁に迎えたのだけど、田舎者のあなたに妻の役目を果たせているのか心配でたまらなくて。だって、もう十年にもなるのに子供の気配すら見られないんだもの。いくら夫が戦争に出かけていたからといって、これじゃあなたが周りからどんな目で見られるか……ねぇ皆さま?」
お茶会の場にいた貴婦人たちは次々と同意する。
既に一児や二児の母になった彼女たちは余裕そうに頷いた。
「その通りですわ、アルマーニ夫人。子供を授かることは貴婦人の努めですもの」
「母親にならなきゃ女に価値なんてないしねぇ……」
「特にユフィリア様の場合は事情が事情ですし。そうでしょう?」
政略結婚によってアルマーニ侯爵家の令息と結ばれた私には家門存続のために後継者作りが求められた。建国に大きく貢献したアルマーニ侯爵家で直系の血筋を退いているのは夫のロレンス一人で、彼がいないと血筋の価値は下がり、社交界での権威も下がってしまうからだ。
(私だって……子供は欲しいけど)
カップの水面に目を落とし、私は自分の頬を触った。
──もう、三十歳だ。
まだ皺こそないけど二十代の張りには及ばず、年々体力の衰えを感じる。
身体は細いし、太ってはいないけど、瑞々しい若さが遠のいて久しい。
お父様はゆずりの空色の目が不安そうになっているのを見て、私は溜息をついた。
結婚して最初の三ヶ月、半年くらいは出来にくいのかなくらいには思っていた。
けれども、常に夜のお努めを強いられてると気が滅入って来るし、夫も子供を求める私に飽き飽きしたのか、最近は夜帰ってくるのも遅く、「疲れてるから」と拒絶される始末。そんなことが何度も続いて、何度も拒絶されるのが嫌になって、三年も経てばご無沙汰になり、五年前に夫が戦争に行って、帰って来てから二年間、一度もしていない。
「ロレンスが迷惑をかけていないといいけど。まさかユフィリア嬢に問題があるわけでもないしねぇ」
そしてそれは、義母であるキャロライン様には公然の秘密として知られていた。
ねちねちとした皮肉を聞くのは、これでもう何百回目だろう。
貴女なんて嫁に迎えなければよかった……そんな声が聞こえてくるようだった。
「そういえば、先日の舞踏会ではエスコートなしで入場されたのだとか」
「ユフィリア様、何か問題を抱えてらっしゃるの? 私たちでよければ相談に乗りますよ」
相談と言いつつ弱味を握る。社交界とはそういう場所だ。
もしも私が本当に相談したら、次の日には国中の貴婦人が私の醜聞をワインの肴にしているだろう。自分たちと比較して、ああはなりたくないよね、なんて話ながら見下して、見世物にされるのがオチだ。
……そんなのごめんよ。
「お心配ありがとうございます、皆さま」
私はただ、曖昧に笑ってやり過ごすことしか出来なかった。
(今日の夜、あの人に相談しようかしら)
妻が笑いものにされてると知れば、あの人だって──
◆◇◆◇
アルマーニ侯爵家は大陸南部の国境に領地を構える上級貴族だ。
魔獣を相手に人々を守る領地の騎士団は精強と名高く、近年はお義母様──キャロライン夫人によるポーション事業が成功し、莫大な財産を持つ貴族に成り上がった。
夫であるロレンスは魔獣戦争に駆り出され、英雄となって帰って来た。
自ら前線に立つことから部下たちからの信頼も厚く、評価も高い。
私はそんな夫の仕事熱心なところを尊敬もしていたけど、それゆえの弊害もあった。
夫が帰ってくるのは真夜中。
昼日中に活動する私はとっくに寝ている時間なのだ。
けれど、私は夫との時間を持ちたくて遅くまで起きて、夕飯を一緒に食べていた。
本当は肌に障るから夜食べるのは控えたいのだけど……。
夫と接する時間はこの夕食くらいだから、頑張って起きていた。
「今日もお疲れ様。仕事はどうだった?」
「別に普通だ」
ロレンス・アルマーニ。
金髪で見目の整った夫は体つきもがっしりしている。
青碧の目つきは敵国の兵士も怯んだと言われるほど鋭い。
そんなロレンスはあまり喋らないほうで、話を振るのはいつも私からだけど、必死に振った会話もすぐに夫のほうから切られてしまって、続いたことはあまりない。
「……そっか」
私もそれ以上何も話せなくなって、黙り込んでしまう。
結局ベッドに入っても何もしない、というのがいつものパターンだ。
だけど、今日の私は一味違っていた。
(が、頑張るのよ、私。恥ずかしいけど、こういうことはちゃんと話さなきゃ)
「ねぇ、あなた。あの……」
「今日はやけに話しかけてくるな。欲しいものでもあるのか?」
鋭い一言に私は息を呑んだ。
間違ってはいない。ここ最近、私から話しかけることも少なくなっていた。
冷え切った関係を戻そうと頑張らなくなったのはいつからか、もう覚えていない。
「うん……」
でも頷いた。
欲しいものは、ある。
「あのね」
フォークの縁をなぞりながら、意を決して頼んでみる。
「子供が欲しいの」
ロレンスは顔を顰めた。
ここで怯んでは負けだ。私は矢継ぎ早に続ける。
「私たち、そろそろ結婚して十年になるでしょ? 最近はご無沙汰だったし、私だってもう若くないのよ。子育てをするのは早いほうがいいって聞くし……だから」
「勘弁してくれ」
ロレンスは鬱陶しそうに首を振った。
心の底から嫌がる、それは拒絶の仕草だった。
「ただでさえ仕事で疲れてるのに、なんでわざわざ疲れるような真似しなきゃいけないんだ」
「でも……戦争から帰ってきて落ち着いたらって、七年前言ってたじゃない……」
「子供が出来たら夜泣きがうるさいし、父親としての世話も増える。これ以上俺の仕事を増やすな。何度も言ってるだろう」
「こ、子育てが大変なのは分かってるわ。でも、侍女に乳母をやってもらえばいいじゃない? 教育は使用人に任せればいいし、あなたの負担はそんなにないと思うの……」
「いい加減にしろっ!」
──ダンっ!!
突然大きな声を出されて、たまらず怯んだ。
ロレンスは激しく机を叩いて立ち上がる。
「ようやく仕事を終わらせて帰ってきたらくだらないことをぐちぐち言って! ちょっとは俺の疲れのことも考えないのか? 自分だけよければそれでいいのか?」
「そんな……そんなつもりで言ったんじゃないわ」
「だったら黙っていることだな。家でくらい大人しく飯を食わせてくれ」
ロレンスは溜息を吐いて座った。
「子供が欲しいなら、養子でも取ればいいだろう」
(そんなの出来るわけないでしょう!?)
私は思わず叫びだしてしまいたくなった。
ロレンスは軽く考えているけれど、建国当初から存在しているアルマーニ侯爵家の看板は重い。どこの馬の骨とも知れない養子に財産を渡すことを許すなどあのお義母様が許すはずがない。それに、仮に養子をとったとしてもその子の迎える境遇が悲惨なのは目に見えている。咎めるように目を向けると、ロレンスは咳払いして言った。
「悪い、今のは冗談だ」
「は?」
冗談? この状況で?
……私、真剣な話をしているのよ?
「それともなんだ。急いで行為をしなきゃいけない理由でもあるのか?」
「え?」
「他の男と寝たから、それを誤魔化すためにしたがってるんじゃないのか?」
「……」
私はあまりにもひどい暴言に愕然として何も言えなかった。
私が他の男と寝る?
あなたの気を引くためにどれだけ努力をしているか知らないの?
夫が帰って来ても寒くないように部屋の暖炉を焚かせ、夜遅くに会ってもみっともないようにお化粧を維持し、お義母様に小言を言われながら夕食の時間をずらし、恥ずかしすぎる薄い布を着て部屋に迎え、同じ布団に寝て精一杯アピールしても、何一つ反応しなかったあなたが私の浮気を疑うの?
「……ひどい」
怒りと呆れを通り越して、ただただ悲しかった。
泣いたらどうなるか分かってるのに、瞼が熱くなってどうしようもなかった。
「私は、ずっとあなたを愛しているのよ」
「愛しているなら俺の望み通りにしてくれないか?」
ロレンスは心の底から鬱陶しそうにため息をついた。
「いきなり泣くとか、めんどくさい女だな」
「……じゃあせめて」
私は掠れる声で言った。
「子供はいいから、一緒にパーティーに出てくれない……?」
「パーティー?」
パーティーに出てくれさえすれば、夫も少しは私の境遇を分かってくれるだろう。いつまでも子供が出来ない侯爵夫人に周りがどこまで冷酷になれるのか。そして、お義母様が私をどれだけ悪く言っているのか……。
「パーティーは嫌いだ、面倒くさい」
私は唇を噛んだ。
「パーティーに出席するのは侯爵としての義務よ。お願いだから……」
「家のことはすべて母上に任せてある」
息が止まるかと思った。
「お前はただ、いつもみたいに贅沢して遊んでいればいい。それがそんなに難しいことか?」
母上、母上、母上……。
夫の言葉が脳内をぐるぐる回り、吐き気がこみ上げて来た。
「結局、私よりお義母様のほうが大事ってわけね……」
「は?」
「お義母様が私を守ってくれるわけないじゃない……」
侯爵夫人にも関わらず、私には予算管理権も使用人管理権もない。
すべてお義母様の言いなりで、私はただの操り人形。
この政略結婚だって、私のような田舎の伯爵令嬢なら意のままに操れると思って組まれた縁談に違いない。
贅沢?
遊び?
そんなこと、したことない。
(結婚した頃は……そうじゃなかったのに)
結婚式の時の私を見つめる優しい目つき、少し赤くなった耳。
不器用で照れ屋な人なんだと、結婚した当初は思っていた。
彼が優しくしてくれる時が嬉しかった。
私にだけ向けてくれるおっかなびっくりな手付きが愛おしかった。
まさかここまで関係が冷え込むとは思いもしなかったけど。
それでも希望はあったのだ。
せめて子供が居れば、私も立つ瀬があるのだと──。
「……おやすみなさい。もう寝るわね」
「なんなんだ、感じ悪いぞ、お前」
苛立つ夫の声を無視して、私は足早にその場を後にした。
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