お見合い結婚が嫌なので子作り始めました。

天野 奏

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79.ただ名前を呼ばれるだけで

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「……結奈」

「……あ……」

 扉が開く音にも、気付かなかった。

 ずっと壁にうなだれて、泣いていたから。
 もう既に涙は枯れて、そんな必要も無かったのだけど。

 体調への鈍感さはピカイチだったはずなのに、気持ち悪さが勝って。
 少しでも動いたら、吐いてしまいそうで。

 ずっと、動けずにいた。

 声のいる方へようやく顔を上げる。
 廊下の明かりが、彼を照らす。
 それでも顔は、見られなかった。

 肩の辺りまで視線を上げるので、精一杯だった。

「シン……っ」

 言葉を紡いだら、枯れたと思っていた涙が溢れて来た。
 そこに嗚咽も混じって、あっという間に視界がぐしゃぐしゃになった。

 私はあなたの言いつけすら守れなかった。
 私自身を守る事も、出来なかった。

 凄く、悔しい。
 自業自得なのに、悲しい。
 
 何度となく溢れた雫が、湿った床にまた点々と雨を降らせる。
 なんと情けない雨だろう。
 早く止めねばならないのに。

 これでは彼に誤解されてしまう。

 この教室にいることを知っていたという事は、きっとあの人に会ったのだろう。
 同じサークルなのだから、きっと遅れてきたあの人に気付いたはずだ。

 そして…この教室で会うという事は、何をする事を指すのかも。
 あの人との関係は私自身が望んだ事であると、彼は知っている。

 それなのに泣いているなんて、おかしな話ではないか。
 
 事を防げなかったにしても、してしまった事実は変えられないのだから。

 きっと彼は、この場で何をしたのかは分かっている。
 私があの人に酷いことをされたと思われたら…例えプライベートに干渉しないと決めている彼でも、不審に思うはずだ。

 彼にとってもし、利用価値のない存在だと認識されてしまったら…
 行為で泣くような奴はいらないと、思われてしまうような事があれば。

 そうしてもし契約でさえも切られてしまったらプライベートで関わりがない私はきっと、彼とはもう……

 急にそんな不安が、押し寄せる。
 泣いてはダメだと、焦る。
 身体も心も、棘が刺さるように痛い。
 痛くて痛くて、苦しい。
 
 どうしてこんなに目紛しい感情に流されているんだろう?
 息ができなくなりそうだ。
 
 胸元にギュッと拳を押し付け目を閉じると、肩にふと、手のひらが乗った。

 ビクッと、思わず身体が震えた。

「結奈……」

 彼から発せられたのは、とても優しい声音だった。
 頭をそっと引き寄せられて、彼の肩に乗せられた。

 それがまたなんだか胸を締め付けて、涙がたくさん溢れてくる。

「シン……うぅっ……」

 手を伸ばす事も出来ないまま。
 私はシンの腕の中で泣いた。

 シンはその後ずっと無言で、特に会話も無かった。
 事情を聞く事もなかった。

 ただ、優しいと感じた。

 甘えてはいけないのに、離れなきゃいけないのに。
 私は今悲しんでいないと、辛くはないと、ただ少し感傷に浸っていただけだと、そう伝えねばならないのに。
 
 全てわかっていると言われているようで、ただそれだけの言葉、それだけの温もりに、涙が止まらなかった。

 ただ名前を呼ばれただけ。
 ただ抱き寄せられただけなのに。

 その声音に、体温に、ここまでの安堵を貰えるなんて。
 何もかも大丈夫だと、言って貰えてるように解釈してしまうなんて。
 この安らぎが欲しかったと、気付かされるなんて。

 ああ…やっぱり私は……シンが好きなんだ。

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