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『ほっと・ちょこれいと逃避行』

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 西園寺さんが帰ってから、お父様は私に頭を何度も下げた。私は曖昧に笑うことしかできず、それを見たお父様は、ふらふらと屋敷を出て行った。

 お父様も、ぎりぎりまで追い詰められているのだろう。青山が止めるのも聞かず、「日付が変わるまでには帰る」と言って、街の方へと向かったようだ。

 私はを脱ぐことすらせずに、自分の部屋の寝台べっどに横になっていた。目を閉じないで、ただ呆然と天井を見上げる。私が居なくなったら、この寝台も服も全て、きっと売り払うのだろう。

 青山は、私の身売りの話を聞いてしまっただろうか。彼もまた、この屋敷にいる理由がなくなって、どこか別の場所で働くかもしれない。そうなったら、もう会えなくなってしまう。

「お嬢様、こちらにいらっしゃいますか?」
「……ええ」

 扉を軽く叩く音の後、青山の声がした。外はもう暗くなっている。そろそろ夕食の時間だけれど、食欲なんてわいてくるはずもない。ゆっくりと体を起こすと、青山が扉から顔を覗かせた。

「本日は、お疲れさまでした」
「……それは、本心で言ってるの?」
「いえ……ですが、他に言葉が思い浮かばなくて」
「そうよね。困らせるようなことを言ってごめんなさい」

 青山の顔を見れば分かる。私が西園寺さんのところへ売られることを、知ってしまったのだろう。戸惑いと、労いと、心配を全てひっくるめたような、複雑な表情をしていた。

 ふと、甘い香りが鼻孔をくすぐる。口にしたことは無いけれど、どこかで匂ったことのあるものだ。香りの元を探すと、それは青山が手にしている西洋風のかっぷだった。

「それ、なあに?」

 沈む気分を追い払うように、青山の手元を指さして聞いた。青山も少し微笑んで、私のいる寝台へと近づいてくる。

「今日はという日だそうで。ご馳走は出せないんですが、代わりに、西洋で冬場に人気の『ほっと・ちょこれいと』というものを作ってみたんです」
「ちょこれいとって、高価なものだって聞いたことがあるけれど」
「はい。ですが、ここ最近は製菓企業が安価で発売しているものがあって。湯煎ゆせんした牛乳と砂糖を混ぜてありますから、甘くておいしいですよ。どうぞ」
「ありがとう。いただくわ」

 受け取った杯は温かかった。茶褐色の液体に口をつけると、今まで食べたどんな菓子や飲み物よりも甘くて、驚いた。

「っ……」
「あ、すみません。もしかして、火傷しましたか?」
「いいえ、大丈夫。こんなにおいしいものがあるなんて、知らなかったわ」
「そうですか。それならよかった」

 不思議と、涙が溢れてきた。青山は、私が落ち込んでいると分かって、これを持ってきてくれたのだろう。それ以外は何も言わない。それが彼なりの優しさだと分かっているけれど、もっと感情的になってくれてもいいのに、なんて思ってしまう。
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